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第五章 花と喋れぬ神 (1)

 ルチーフェロのように王城内の抜け道など知っているはずもないので、二人は、いちいち来た道を辿って行かねばならない。幸いラーギニールは方向感覚に優れているらしく、渡殿までは迷わずに戻ることができたのだが、問題はここからで、エプィヌがラーギニールを王宮書庫ドムン・パディリィフィまで無事に導けるかどうかは、かなり怪しかった。初めての場所である上に、馬車でやって来た道のりを歩いて下り、またこっそり戻って来ようというのだ。本当に、夜が明け切るまでに成し遂げられるのだろうかと、エプィヌは内心、冷汗をかき始めていた。

(ーーこの調子だと、本当に迷い人になっちゃうわ)

 中空から冷徹に見下ろす満月は、あの王女を思い出させた。さっきの一連がなければ、申し分のない祭の夜だったに違いない。

 ちょうど舞踏会は最高潮に到達しており、音楽は激しさを増していた。相手を得た人々はしだいに王子の不在を忘れ、寄り添い、恋を語り合う。気が付けば、そんな男女の囁き声が、あちこちの木陰から聞こえて来るのだった。

「人に見られな……」

 言いさして、エプィヌは口ごもった。二人はかなり着崩れていたので、誰かと運悪く鉢合わせでもすれば誤解を招きそうだと懸念したのだが、そんなことを言っても、察しの悪いラーギニールは目をぱちくりさせるだけだろう。

 その代わりエプィヌは、心配を目の前の現実に向けることにした。少年の手を引っ張って植え込みの陰に身を潜め、門の方をじっと窺う。夜通しの宴に耐え切れずに帰る者もあると想定してか、ご丁寧に篝火を焚いているので、そこだけがぽっかりと明るくなっていた。門扉には当然の如く(かんぬき)が下りており、槍を手にした門番が二人、その場に根を生やしている。

「……ほら、衛士がいるでしょう?」

 うんざりした気分は変わらないので、特に隠さずに言うと、さすがのラーギニールも、これには理解を示した。

「もしかして、裾がほつれちゃったのを気にしてるの?」

「ーーもういいわ」

 彼のずれた返答に構うつもりのないエプィヌは首を振ったが、当のラーギニールは、ふと神妙な顔付きになって独りごちた。

「でも、できるなら門を通らずに済めば良いんだけど。馬車で下るのは簡単でも、御者に途中で降ろしてもらうなんて、ぼくもどう説明すればいいから分からないよ」

(なんだ、分かっているなら、最初からそう言ってよ)

 半眼になって見つめるこちらの視線には目もくれず、彼は首を捻り続けている。

「下手な動きをすれば、あの近衛に引っ捕らえられそうだし」

 何の用意のなかった自分を心の中で罵りながら、エプィヌもまた、身体の前で腕を組んだ。いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいかないのだが、どうにも良い算段が浮かんで来ない。

 考えごとに夢中になると周囲の気配を察せなくなるのがエプィヌの悪い癖であり、残念ながら、ラーギニールも完全に同類だった。人に見られないよう忍んでいるのは自分たちだけでなく、逢引き中の男女がそこかしこに潜んでいるということも、気の緩みを助長していたのかもしれない。ロヴァル王は非常に厳格と言われるが、祭の夜だけは、太古の昔からの人の性を尊重し、風紀の乱れにも目を瞑っているのだろうか。ふと、そんなことも頭に浮かんだ時、警戒していなかったすぐ傍の植木の影が急に形を変え、左右に身を(よじ)った。

 風が植え込みの葉を揺らしたのかと思ったが、それにしては、他の枝は揺れていない。その違和感を認めた時、全身の毛がざわざわと逆立った。

(人だわ)

 エプィヌはぎょっとして肝を冷やし、すぐさま地に伏せて裾を掻き寄せると、ラーギニールの頭も容赦なく押さえ付けた。

「痛いっ」

 抗議の声が上がったが、しっと唇に指を当てて制する。

(気付かれた……?)

 暗がりの中の人影は、こちらの立てた物音に反応して、ぴくりと肩を上げた。灯りを持たずに歩いているところを見ると、相手も相手で、こちらに気付いても咎めるつもりはないようだった。

「もしかして、エプィヌ?」

 聞き覚えのある中低音が、闇の帷を隔てて呼びかけた。

 エプィヌは反射的に手で口を覆った。実際に声が出ていたかどうかは分からないが、驚きのあまり、つい叫んでしまっていたとしても不思議ではないからだ。

「……良かった、上手く見つけることができて」

 少年は月明かりの下に出て来ると、目深に被っていたローブを後ろにやり、心底ほっとしたように言った。王城の地下の住人ーーラズワルドがそこにいた。



「ーーわざわざ出向いてくれたの?」

 エプィヌは膝を払って立ち上がると、跳ね上がった反動の落ち着かない胸の辺りを押さえつつ、相当の(ねぎら)いの気持ちを込めて言った。

 渡りに船を得るとはまさにこのことだ。もし人違いだったらどうするつもりだったのだろうかと、余計な疑問も頭にもたげて来ないではなかったが、それを言ってはラーギニールと変わらないので、黙っておくことにした。

「あなたがあそこを出ることなんてないと思ってたわ」

「まあ、よほどのことがなければ……でも、ぼくを監視するような者もいませんし。だって番兵本人ですから」

「たしかにそうね」

 エプィヌが肩をすくめて見せると、彼の方もほんの少し表情を緩めた。

「舞踏会を途中で抜け出すのはなかなか難儀かと思って、迎えに来ました。そちらがラウル家の御子息ですか」

 暗がりの中、瑠璃色の虹彩は恐ろしいほどに沈んで見える。同じような色をした瞳同士が、かちりと一つの線で繋がった。

「ラーギニールさまよ」

 エプィヌは囁きつつ、子山羊のように息を潜めている御曹司を突き出した。他人に興味を持たない質とはいえ、名指しして自分を呼び寄せた相手が気にならないわけはないだろう。彼は、目の前の人物に対して警戒心を隠すことはせず、注意深く観察しているようだった。

 しばらく沈黙が続いた後、ラーギニールは自ら口火を切った。

「……この人が、王宮司書(ドムン・ティディーヤ)? 王国最難関っていう」

「まあ……!」

 開口一番の台詞を聞いて、エプィヌは口をあんぐりとさせた。当のラズワルドは癪に触ったような様子も見せず、あっさりと頷いていたが、エプィヌの感覚では、ラーギニールはかなり失礼なことを言ったと思うのだ。しかしそこは、朴念仁と朴念仁が対面したとあって、幸い、何の摩擦も生じそうになかった。

「あなたも、最初にやってきた時はそんな風に驚いていました。おじいさんかと思っていたと」

 ラズワルドの方が、ラーギニールよりも人の心情に対する考察能力が高いとはいえ、言わなくても良いことの判断は、やはり甘かった。油断していたところに思いもかけない水を向けられて、エプィヌは口を尖らせた。

「それはそうと、せっかく迎えに来てくれたのなら……」

 少年らを再び茂みに押し込んで、声を低める。

「早く肝心のことの話がしたいの。行きましょう」

「そうですね。時間がもったいない」

 ラーギニールはともかく、ラズワルドは、彼らしい順応の早さで受け合うと、そそくさと踵を返した。

 一行は植木の陰を選んで、階層の縁辺りを目指し、塀の際に向かって摺鉢状に低くなった先にある、溝のような通路をひたすらに辿った。

 すでに夜目が効くようになり、通路の際からそそり立つ白い石塀の継目には規則性があることが、エプィヌにも分かってきた。前後左右に噛み合わせて組んだ白亜の石たちは、草一本として生える隙間もできないよう、表面や角を綺麗に削り、さらに四角く整えられている。

「ほら、見て」

 そう言いつつも、ラーギニールは、相手が本当に耳を傾けているかは気にかけていないようだった。一行は、指先の感覚を頼りに、石の継目をなぞりながら歩を進めているのだが、彼はそこから別の興味をそそられてしまったようだ。

「こういう造りの塀は、雨が降った時の排水ができるように、細かく割った石を詰めているんだ。降り注いだ雨水は、その中を通過して底まで流れ落ちる。余分な水を溜め込まず、水圧もかからないから、石垣が安定する」

塩目接(ソドレァジ)、ですね」

 ラズワルドが代わりに相槌を打ってくれたのだが、ラーギニールの取り扱いに関しては、彼の言うことの、肝心なところを奪ってしまうようなやり方は正解ではない。

塩目接ソドレァジ?」

 エプィヌはすかさず口を挟んだ。

「うん。石材の粒が揃っていて塩の結晶を積んだみたいだからそう言う」

 周囲が閉ざされており、声が漏れ聞こえることはそうそうないだろうが、滑らかな石材に反響して、少年の呟きは必要以上に大きく、身に迫って聞こえた。

(あれだけ衛士を警戒していたのを忘れたの?)

 それでも、彼を一人で喋らせておくのが一番静かで無害なので、黙っておく。

「今通っているのは、排水用の水路ってとこか。王城自体が、もともとは海に近い平地で、石積みの上に成り立っている人工の山みたいなものだから、全体がそういう構造になっているはずだ。水路を辿っているとしたら、そのうち吸い込み井戸に繋がるはずだけど……」

 そこで、ラーギニールは言葉を途切らせた。

 円形の台座の周囲四分の一ほどと思われる距離を歩いて、ちょうど王族の住居を拝むことのできる位置までやって来ていた。広間は、多くの人に開かれた、言わば玄関の役割を担っているようで、そこから後ろには、遠目に見ても複雑な彫刻の分かる柱が立ち並んでいる。それらは、水飛沫の上がる装置を備えた中庭を巡っており、その先にようやく、真に世界の中心と言うべき建物があった。

 身廊や周歩廊を兼ね備えた主殿は、方形を九等分した対角線上に半球の屋根がそれぞれ据えられており、中央の最も大きな屋根は、半球の上に、さらに小さな半球が乗った壮大な造りになっている。外壁の大理石には異素材をはめ込み、幾何学的な模様がびっしりとあしらわれている。それは、月明かりでしか浮かび上がらない半透明で、白木を虫が喰った跡に樹液が沁み出したような艶やかさがあった。

 三人がいる場所からは、壁に設けられた開口部の丸く窪んだ部分を、葉に見立てたようなたわわな装飾が埋め尽くしているのが見えた。

 後ろを来ていたはずの少年の足が止まったのを察して、エプィヌは、先導するラズワルドを呼び止めた。

(ラーギニールさまに、見惚れるなと言うのは酷ね……)

 偉大な物事に対面したとき、それを創造した者の才能と努力に思いを馳せてしまうのは当然だ。

(初めてあなたたちと会った瞬間、少なくとも私には、そんな余裕すらなかったのだけれど)

 エプィヌは振り返り、少年の名を呼んだ。

「ラーギニールさま」

 早くしろと言う前に、彼は素直に歩き出した。自分の置かれた状況を二の次にできるのは、危うくも羨ましい性格をしている。

「ーーぼくが王国一番の建物を造る機会はどこにあるんだろうって」

 なんとなく言い訳のように言いつつ、少年は、唇の端を少し持ち上げてこちらを見た。

「こんな素晴らしい王城を壊せっていうわけにもいかないしね」

(縁起でもない)

 エプィヌは目を瞬かせ、そうね、とだけ口を動かした。今は考えたくないが、ルチーフェロの語り口に似ているところもあるのが、複雑な気分だった。

 そんな二人を、ラズワルドは少し先で待っていた。不謹慎な会話を、耳になどしていないという風を装っている。

「ここです」

 彼は足元を示しているが、どこが他と違うのかが全く分からない。

「ここって?」

「ほら、反響が違うんです」

 言われるままにその上を通過すると、なるほど、下が空洞になっているらしいのが分かった。

 ラズワルドは、四角を描くように、踵で石材の隅をとんとんと打つ。しばらくは何の変化も見られなかったが、息を詰めて見守るうちに、ぽこっと間抜けな音を立てて、石畳の一部が斜めに外れかかった。

 エプィヌとラーギニールは顔を見合わせ、恐る恐る石室を覗き込む。

「階段になっている」

 ラーギニールはやや興奮気味で、声を上擦らせていた。

「ここから、ちょっとした仕掛けを使って、下層に降りて行きます」

 ラズワルドはローブの端を持ち上げ、背負うように肩に掛けてぎゅっと結ぶ。エプィヌとラーギニールも、それぞれ袖を結んで首に掛けたり、裾を帯に挟んだりしてそれに倣い、足捌きしやすい格好を整えた。

「では、行きましょう。足元によく注意して」

 地下に潜るのだから、もちろんここから先も、灯りは一切ない。ラズワルドはラーギニールを最初に行かせると、エプィヌにも、その足音が間遠にならないうちに着いて行くよう促した。

「ぼくは入口を元に戻してから追って行きます。すぐ下に着きますから、待っていてください」

 言われるまま、石の階に足を掛けたと同時に、白い手がにゅっと目の前に現れた。驚いて声を上げるより早く、ひんやりと夜気に冷えた掌が甲を掴んだ。

 ラーギニールは相手を驚かせた自覚もなく、黙って闇の中へと誘う。その瞳は好奇心をみなぎらせており、迷宮の入口に怯えているエプィヌにとっては、不覚にも心強さとなった。とはいえ、足元は覚束ず、階の幅も狭ければ、一段もかなり大きい。踏み外せば、ヨークの岩山を滑落するのと同等に命取りなのは明白なので、エプィヌは心ノ臓が凍り付きそうな思いがした。谷底に落ちた子山羊の、ぐったり脱力した亡骸が目に浮かぶようだった。

 頭上からは、石を引きずる音が鈍く響いていた。差し込んでいた月明かりが翳り、いよいよ、一切の光が失われる……。

 その時、ぽちゃんと水の跳ねる気配がし、見下ろした先に起きた変化に、エプィヌは息を呑んだ。ーーほの青い光の粒が、一つまた一つと点滅して、波紋の広がりと共に、あちこちで灯り始めたのだ。

「水が満ちている」

 ラーギニールが呟いた時には、青い光を浮かべた水面が、すぐそこにあった。

「さあ、少し足が濡れますが、綺麗な水なので安心してください。光っているのは碧色水性砂虫リュイシャ・ノク・ツィルカです。刺激すると光りだす習性を用いて、地下水路で火の代わりにするんです」

 王宮司書(ドムン・ティディーヤ)の知恵ですよ、と少年は付け加えた。

 碧色水性砂虫リュイシャ・ノク・ツィルカを踏んでしまわないかと心配したが、水面に爪先が触れた途端、光の粒は、磁石同士が反発し合う時のように、さっと距離を作った。

「不思議だ……。これは、誰かが持ち込んだのか、それとも石材に閉じ込められていたところを水で息を吹き返したのか」

 ラーギニールは片手の指先を水に浸し、感心したように唸る。

「さて、驚くのはまだ早いですよ」

 ひたひたと音を立て、青い光の足跡を付けながら、ラズワルドはだだっ広い空間の奥に進んで行く。碧色水性砂虫リュイシャ・ノク・ツィルカのおかげで、水のない中空は余計に暗く沈んで見えるが、水面から天井に向けて高く伸びた、巨大な装置のようなものの存在は、すぐに目に飛び込んで来た。

 井戸のようにくり抜かれた方形の凸があり、そこから、鎖が幾筋も伸びている。壁の内側を通る水流に紛れてはいるが、金属同士がきりきりと軋む音も微かに聞こえた。

 あれは何なのだろうと、率直に湧いた疑問を口にしたエプィヌの隣で、ラズワルドは一人、深く頷いていた。

「城内の水道の力を利用してたくさんの歯車を回し、人手を一切使わずに鎖を巻いているんだ。おそらく、見えている鎖の反対側には(おもり)が付いていて、人の下降、上昇に合わせて逆に運動し、均衡を調整している」

「その通り」

 ラズワルドは天井にうごめく歯車を指差した。

「少しばかり、力仕事が必要です。あの、腕のように折れ曲がった鉄骨が見えますか? あれを逆向きに倒して、歯車を逆回転にします。さあ……」

 ラズワルドが腕まくりをすると、相変わらず細い骨格が、闇に侵食されて折れそうに見えた。ラーギニールとて、箱入りの御曹司で力があるとも思えないので、代わりにエプィヌが手を貸すことにする。

 しかし、垂れ下がった鎖は、二人がかりで引っ張らねばならないほどの重さ固さではなかった。ここまで来るのに、ラズワルドが一人で操作したと考えればその通りなのだが、こくっとした手応えのあまりの軽さには、つい拍子抜けしてしまった。

 しばらく待つと、からから音を立てて鉄籠が上がって来た。

「この中に入るの……?」

 頬をひくつかせたエプィヌに向かって、ラズワルドはもちろんだと頷いた。

「三人なら一気に下れます。さあ、順番に乗り移って」

 鉄籠の底には板が敷いてあり、下が見えないので、恐怖はやや和らいだ。それでも足はすくみ、少しのぐらつきが、背筋に氷柱を突き刺したような寒気となる。おまけに、ラーギニールが天井の構造をよく見ようとして身を乗り出したので、いくら均衡を保とうと踏ん張っても甲斐がない。

「ラーギニールさま、動かしますよ?」

 最後に乗り込んだラズワルドは、呆れ半ばといった具合に微笑んで言い、その手で槓杆(こうかん)を押し倒す。

 一瞬、地面が消えた感覚がして、エプィヌは渾身の叫びを上げた。

「王城の地下世界へようこそ」

 ラズワルドの静かな声が、うんと頭上で聞こえたような気がした。

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