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第四章 水上舞踏会 (5)

「それにしてもさあ」

 螺鈿細工の下のラーギニールは真顔だ。彼はエプィヌの足元を指差し、ぶっきらぼうに言った。

「何回踏ん付けるの?」

「仕方がないじゃない」

 思わずぴしゃりと言い放った後、エプィヌは慌てて肩をすくめた。

「こんな裾の長い衣なんて普段着ないから、仕方がないでしょう」

 こちらも仮面越しに相棒を見つめる。袖の隙間から露出された腕をさすりつつ、やはり居心地悪さのようなものは拭えないと、つくづく思い直していた。髪と瞳が珍しいのは重々承知だが、今ほどローブが恋しいことはなかった。

 先程から、管弦の奏でる音楽の調子が変わっており、ただ立っているだけでも、足が自然と拍子を刻んでしまいそうな空気の高まりがあった。そのおかげか、ラーギニールと連れ立っているにも関わらず、立て続けに五、六人に声をかけられた。“赤髪のお嬢さん”だとか“翡翠目のお姫さま”と呼ばれるのは正直良い気分ではない。

(どうしてかしら)

 それだけしか自分に魅力がないと感じてしまうからだろうか。けれど、どこぞの子息が入れ替わり立ち替わり現れるたびに、ラーギニールの虫の居どころもどんどん悪くなっているのが目に見えたので、いつしか呆れが上回ってなんでもないことのように思えてきた。

「……もしかして、気にしてくださっているの? でも別に、ラーギニールさまには関わりはないと思いますよ」

「は?」

 あまりにも横柄な返事だった。さすがに気を逆撫でされたが、ここはぐっと堪えてやる。

「たしかに、ことさら容姿のことに触れられると、ちょっとこの場には居にくいと思うけれど、ラーギニールさまにまで変な気分が伝染するのは申し訳なくて」

 本当は遠回しになどせず言いたいのだが、自身が周囲に軽んじられているなどと、誰が聞きたいだろうか。彼の高家としての矜持は、こう見えてなかなかのものがあるのだから。

 葡萄酒は苦手なのか、さっきから口を付けず、ラーギニールはひたすら銀盃を弄んでいたが、しばらく押し黙った後、ようやく手を止めた。

「それは違う。ぼくが誰にも認められていないだけだし、皆、そのあたり織り込み済みでエプィヌさんを誘いに来てるから。ラウル家をどう思っているか、よく分かるよ……。殿下のお考えも。どっちにも義理立てするなんて無茶だ」

「あのお方がどう考えているっていうの」

 彼は開きかけた唇を結び、目線を外した。

(ラーギニールさまが言ったことと言わないことの両方が返事だわ)

 今上の王とラウル家の密接な繋がりの裏では、監政官(ラヴィレス)たちとの乖離がある。変わり者御曹司のラーギニールは王子に可愛がられていて、次世代に渡って面白くない体制が続くのが明白だ。ただ、誰もが見誤っているのは、ラーギニールが、ルチーフェロの方針に従順ではないらしいことだろう。

(ーーわたしと踊るっていうのも、本当のところはそのため?)

 王子の手の付いたものを奪い、言いなりにはならないと意思表示がしたいのだろうか。ルチーフェロは怒らないはずだ。その優男の印象を崩さないだろうし、水面下での攻防など、浅はかな周囲に嗅ぎつけられることもないのに、何かを変えたいと本気で思っているのだろうか。

(そんな人には見えないのに……)

 そこまで考えているとしたら、ユディトの子だということを勘定に入れても末恐ろしい少年だ。

 鏡で集められた夕焼けの残り火や燭の灯りが滝の水飛沫に当たると、ほんのり赤みを帯びて虹色に輝いた。軽快な楽の音の後ろから、微妙にずれた拍を刻む水音が、遠くか細く聴こえる。 

 国の始まりの神話について、真偽はどうであれ、王が民を支配する原初の一歩は時間の支配とも言える。王城はきっと、大きな水時計なのだ。

 えもいわれぬ荘厳さの奥から、人影がゆっくりと、舞台向こうの桟敷の階を降りて来るのが見えた。

 一人、また一人と、その姿を見とめた者は口をつぐみ、動きを止める。水を打ったような静けさが、その者の名を語っていた。

 国王ロヴァルである。

(あの人が……)

 遠目に見ても上背があり、漆黒の長丈の衣装にも関わらず、引き締まった体躯がよく分かる。装飾の類は一つと身に付けていない。客人はもとより、近衛や官と比べ、この場の誰よりも質素と思える格好をしているが、身の内から発せられる気のようなものが全てを捩じ伏せていた。まるで、わざわざ悪王と呼ばれたがっているみたいだ、とエプィヌは考えた。

 光の下に進み出た王の、顔だけが闇に溶けていた。

(あの時の)

 耳元で夜風の強いざわめきが呼び覚まされた。

「まもなく日が落ちる」

 脳天からぐいっと押さえ付けられるような感じのする、凄みのある声のだった。ロヴァルが左方に手を掲げると、人々の視線が一斉に吸い寄せられる。小部屋の一つ、最後に陽光が差していた空間が薄ら闇に沈み、火が入れられた大きな燭が、鎖に巻き上げられて天井に消えていった。同時に、舞台上の傘がゆっくりと回り高く昇り始める。空が広がったように錯覚を覚えた。

「さあ、今宵は酔い、歌い、踊れ。夏の夜に潜む魔物は、どんな夢を見せてくれるであろうか……」

 王の語尾が消える否や、たちまち銅鑼の音が会場の空気を割った。

 広がった天井はあまりに高かった。素材に含まれた鉱物が光を帯びて、本当の数倍近く広い空間に見える。一角獣(ユノ・ケローズ)が、何頭も飛び回れそうなほどだ。そこには赤茶の染料で、複雑な文字なのか紋様なのかがびっしり描かれているが、所々不規則に浮き出て見える部分があり、目が慣れて来ると、天体図にも似ていると思った。しかし、こうして下から見ると、描かれているものの正体が分からないほどに緻密なので、職人は自らの楽しみのためだけに描いたのかと思うほどだ。

 来客の驚嘆が潮騒となって響く中、エプィヌは無意識のうちにルチーフェロの姿を探して目を動かした。

(ーーいない)

「ほら、殿下の見えないうちに行くよ」

 動き始めた人波の中、立ち尽くしたままだったエプィヌは、ラーギニールに手を取られてあれよあれよという間に舞台に上った。なおも振り仰いでみたが、王の横は空席のままだ。

 失意、というほどではないが胸が寒々としていた。おまけに、あまりの人の多さに圧倒される思いだった。

(うわっ)

 エプィヌは近くに苦手なダグザとディアンを見つけてしまったために、急に喉がからからになった。ラーギニールを引っ張って、なんとか離れた位置を確保する。彼らはそれぞれ、美しい娘と腕を組んでいる。緩んだ頬は優しげというよりはいやらしささえ滲んでいるように見えるが、それはエプィヌが毛嫌いしているゆえなのかもしれなかった。

 監政官(ラヴィレス)の子息として、いわゆる帝王学のために学舎に腰をかけているダグザは、その父親共々、現王に不信感を持っているという。ラウル家の台頭もよく思っていないので、そのついでに、エプィヌを同窓として快く迎える気にもならないようだ。乳兄弟のディアンについては、ただの金魚の糞にしか思えないが、二人とも、ラーギニールの政敵としてこれ以上ない典型、相容れない相手であることは間違いない。よくよく考えてみれば、これから季節毎に王城に招かれるのなら、そんな彼らとも、学舎以外で顔を合わせなければならないのだった。

 一気に憂鬱な気分になってしまったが、ラウル家のためにもそれを顔に出しては駄目だと、エプィヌは自分に言い聞かせた。しかし、ユディトを真似た朗らかな表情など、急に意識したところで作れるはずもないし、妙な使命感を抱いたために、余計に緊張が増してしまった。

 深呼吸をしながら、震える瞼を閉じる。胸の内はざわざわしていたが、何度も念じ、静かに呼吸をくり返すうちに、次第に周囲と自分が、肌に触れている所から馴染んで行くようだった。

 最後に残ったのは、ラーギニールの手の温かさだった。

(落ち着いて、エプィヌ。何度も練習して来たじゃない)

 あいにく踊りの才はないようなので、とりあえず必死にやるしかない。ラーギニールはその辺り身のこなしが上手いので、ついて行けばなんとかなるだろう。

 後方で、風の鳴るような、高く澄んだ笛の音が立ち上がった。導かれるようにして他の管弦が奏でられる。エプィヌは、ぴんと張った空気が緊張と高揚の頂点に達したと感じた瞬間に、意を決して顔を上げた。ラーギニールと目が合った。ここが世界の中心だと錯覚した。

 音律が舞台の空気を変化させ、やがて不思議な静寂が訪れた。エプィヌは、大きく自分をかき抱くような流れに身を任せて足拍子を重ね、ラーギニールが導くままに自分を溶けこませていった。会場の上空ーーちょうど人波の上に、眩しい光がどこからともなく差し、その筋の密度がどんどん濃くなって行く。先に降った光は、次々と誘うかのように糸を引き、絶え間なく時の中に織り込まれた。すると突如、何も見えない白の膜が揺らいだような気がして、その刹那に二人は、白い花吹雪に包まれていた。

 我に返ったとき、そこはあまりにも静かだった。一定の間隔で響く水音と、曲間を繋ぐ笛の調べばかりが虚空を流れている。誰一人として声を上げなかったし、夢から覚めたような、不思議なものを見たような、そんな表情を浮かべていた。

「殿下だ」

 誰かが呟くと、ようやく人々の囁きが生まれ、やがて高まって歓声に変わっていった。

 はっとしてふり返ると、金の笛を奏でながら舞台への階を上がってくる青年と目が合った。どういうつもりなのか、王子は楽人と同じ雑面(ぞうめん)に白い装束、紅の飾り襷を掛けている。どうやら、そういう戯れのつもりらしい。

「やってくれたな」

 エプィヌとラーギニールの前まで真っ直ぐ歩んで来た彼は、唇から笛を離し、にっと歯を見せた。人々は三人を遠巻きに観察しているので、そこだけ涼しい風が吹き抜けた。周囲にどう思われているか、頭の中を過らないわけはなかったが、それ以上に、考えを巡らせる余裕がなかった。

「もう少し、おれのことを探してくれるかと期待したんだけどな」

 王子はこちらを見つめていた。返答せねばならないのはエプィヌの方らしい。

「ーー殿下がいらっしゃらなかったので、二人とも踊らないわけにはいかず」

 つっかえつっかえ言葉を押し出すエプィヌの隣で、ラーギニールは無言を続けていた。顔には、そうか言い訳をするんだね、と書いてある。

「おれは、いちおう作法に則った方がいいのか?」

 王子は苦笑しながら言った。

「お好きにどうぞ。てっきり殿下は、ぼくに家の顔を立てる機会を作ってくださったのかと」

 ようやく声を上げたかと思えば、ラーギニールは彼に似合わぬ不敵な微笑を覗かせていた。そんなところは母親そっくりだ。

(何が、平穏にやっていたいだけ、よ……)

「生意気を言うじゃないか……」

 言いながら、ルチーフェロは目にも留まらぬ速さで身を翻す。大きく広がった襷で視界が遮られたその下で、エプィヌの腕をがっちりと掴みながら、彼は勝ち誇った目でラーギニールを見下ろした。


「エプィヌ……!」

 呼び声が聞こえた気がしたが、それはラーギニールのものだったかどうか、定かではない。それほど、全ては一瞬の出来事だった。   

 ルチーフェロは雑踏をぬって飛ぶように駆け続けた。せっかく現れた王子が、突風のように舞踏会を後にすることに堪えられない娘は五万といるだろう。溜息や黄色い悲鳴が、羨望や失望と()い交ぜになって押し寄せて来た。その中を、何度も裾を踏ん付けたり、靴が脱げたりしそうになりながら、エプィヌは必死に着いて行った。

 王子の逃亡に、当然度肝を抜かれた来客の反応をよそに、近衛らは一切、後を追って来ようとしなかった。王その人が黙認したからである。エプィヌが振り仰いだ時、ロヴァルはつまらない余興でも眺めるかのように、冷徹な面持ちでこちらを見下ろしていた。巷の噂では、歴代の王が好んだ娯楽に見向きもせず、闘技場(ティトーセウム)に足を運ぶこともないと聞く。そのような人にとっては、ルチーフェロの突拍子のない行動も、さしたる関心ごとではないということだろうか。誰にも咎められないというのが、余計にエプィヌを(おのの)かせた。何をするか分からないルチーフェロに、一人で太刀打ちせねばならないのはごめんだったし、できることなら、この場から消え失せてしまいたかった。

 舞台を降り、泉をぐるりと半周して渡殿に至ると、人々のざわめきはやや遠くなった。何を言われているか、耳は過敏なほどに物音を捉えてしまうので、その意味を考えないよう念じ続けた。

 それでも、「あれはラウル家の養女だ」という囁きはしつこく耳に付いた。姫百合色の髪と翡翠の瞳のせいだ。一目でどこの誰と知れてしまう。

(こんな大それたこと……)

 本当に自分なのだろうか? 今、必死で走っているのは、誰なのだろう。何のために、こんなに息せき切って、駆け続けているのだろう。ルチーフェロの手を振り解くのは簡単だ。足を止めるのも。しかし、エプィヌはそうしなかった。

(この人が、王子だからだ)

 つくづく思う。この人がそうでなかったならば、あれこれ邪推せずに、素直でいられるのにと。ラーギニールに手を差し伸べられた時、迷いなどしなかったのに。

(ああ、わたしは……)

 ずっと、知らぬ存ぜぬを通そうとしていた。

 つきと胸が痛んだ。この思いはどんな結果にも至らないだろう。気付いていないのはルチーフェロだけだ。

 相手の知らないことを、自分はすでに承知している。それは、ほんの少し勇気になった。人々の冷やかしの目をかいくぐるのに、ちょうど助けになるくらいの。

 渡殿が切れると、硝子の内に込められた数多の松明が、その先の庭園と石畳を煌々と彩っている。光と影が激しく交差してできた長い長い路を外れ、二人は、薔薇の茂みの奥を目掛けて(もつ)れ合うようにして駆け込んだ。ブリオーの裾が棘に引っ掛かり、後ろへと持って行かれるのが分かったが、今少し、足を止めるわけにはいかなかった。美しい布地は、ぷつんと小さな音を立てて破れ、解放された。得意げに小鼻を膨らませていたエポナの顔が、ちらりと目の前の浮かんで流れて行った。

 灯りの届かない暗がりは、冬籠りのクマの巣穴に似ていた。笛の音が遥か遠く、耳鳴りかと思うほど微かに、風に運ばれてやって来るので、思ったほど遠くまでは来ていないのだと気が付いた。

 ルチーフェロはエプィヌの両手を取り、しばらく肩で激しく息をしていたが、ややあって口を開いた。

「こんな所まで連れて来てしまって、すまない」

 彼が謝るのは意外だった。さっきまでの豪胆さはどこへ行ったのだろうか。

「殿下とのお約束を違えるつもりはありませんでした。謝らなければならないのはわたしの方です」

 謝罪に対して、はいと答えるのもいいえと言うのも違和感があったので、エプィヌはひとまず、一番に告げねばと思っていたことを口にした。これは本心だ。例えラーギニールにどう嫌味を言われようと、王子に対してとてもすまなく思っているのは確かだった。

 そっと仮面を外され、それから次に、彼のもう片方の手は、頭の上に置かれた。思いがけない温もりが、じんわりと脳天に沁みる。これが彼の誠意なのだと、自然と理解ができた。

 ルチーフェロは、そのままゆっくりと手を背中の方に滑らせ、普段と変わらない仕草でエプィヌをかき抱いた。

「おれは、あんたをあんな風にラギから奪うつもりはなかった。だが、あいつがしようとしていることを、どこかではずっと予感していたんだ」

 腕に力がこもる。くぐもった声が、耳元で囁いた。雑面(ぞうめん)が吐息に従って揺れるので、首筋をくすぐられている感じがして、エプィヌは思わず肩をすくめた。

「おれが、あんたを、ただ都合よくしようと思ってるって、あんたに勘違いさせないかって」

 彼がこんなに余裕のないところを見せるとは、思いもよらなかった。

「殿下ではなく、名で呼んでほしい。おれを一人の男として」

 不安げに曇らせたルチーフェロの顔がすぐそこにあった。始終自信に満ちた表情を崩さなかった彼の、初めて見せる弱気な一面だった。

「ーーそれは、ラーギニールさまへの愛憎とも思えます」

 色んな動揺を悟られまいと、エプィヌは精一杯気丈に振る舞った。

「……殿下、殿下がわたしによくしてくださる色々な理由の中には、ラーギニールさまやラウル家のことがあるのではないですか。でも、ラーギニールさまは自由で頑固だから、そのお気持ちに対して従順とは言えない。だから……」

「おれの言うことを信じられないのか?」

 さらに腕に力が込められ、完全に身体の自由を奪われてしまった。声は優しいが、その言葉には、有無を言わせない響きがあった。

「ーー信じたいのです。ですから、教えてください」

 息が苦しい。目の前に、星がちかちかと瞬いている気がした。赤い薔薇は夜に溶け、周囲の全てを拒絶するかのように、群れて口を閉ざしている。世界中の、生きとし生けるもの全ての耳目が、二人の会話に聞き耳を立てて沈黙しているのだと思った。

「殿下はお優しくしてくださります。分かっています、間違いなく、愛……してくださっているのだと。でも、だからこそ、本当のところを知りたいのです。わたしは、なぜ、殿下に必要なのですか?」

「なんだ、きゅうに」

「お願いです。お答えください……そうしたら、あなたさまの御名を」

 エプィヌは彼の胸に額を押し当てて懇願した。すると、ようやく腕を解かれ、浮いていた踵が地面に落ちた。

 ルチーフェロが口を開くのを、息が意味を為して喉の奥から押し出されるのを、ひたすら待っているのは辛かった。

「姫よ、お許しください……」

 ほとんど嗚咽となった自分の声は、どこか遠くから、違う誰かが語るように聞こえた。

「『姫よお許しください、貴女に与えられるべき祝福は、いつかお返しします。いばらの道であっても必ず扉は開く、どこであっても幸せを掴もうとする人になってください』と、殿下が読めるかと言ったあの文章は、何なのです?」

 いつもなら、困ったように眉尻を下げるのだろうが、雑面(ぞうめん)のおかげで表情は一切分からない。しかし、今回ばかりは、王子もエプィヌの確固とした意志を見て取ったらしい。

「ーーそれは、誰の言葉なのかも、その意味もよく分からない」

 落胆の底から、エプィヌは顔の見えない相手を見上げた。隠し立てをされるのは馴れっこだが、それで全てを飲み込む女だと思われていることが悲しかった。

「でも、おれがあんたを必要とするわけは、おれがあんたを娶ることで、色んなものを守ることができると思ったからだ」

 娶る、という言葉は実際に放たれると重々しいものだったが、ずいぶん空虚なものにも感じられた。

「ーー守るとはどういうことですか?」

「あんたは、もう自分が何者か知っているんだろ」

 風が吹き過ぎると、その一瞬は王子の顔が、眼差しが目の前に現れる。

 今になって初めて問われるのが不思議なくらいだった。エプィヌは頷き、瞳に力を込めた。

「はい。わたしは、博士の……歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤの弟子です」

 そうか、と呟いて、ルチーフェロはゆっくりと天を仰いだ。身体が離れた所が、僅かに汗ばんで、衣装をしっとりと濡らした。

「おれが探していたのが、ほんとはあんたじゃなかったらどれだけ良かっただろう」

「ーーわたしじゃなかったら」

 震える声で後を繰り返すと、その隙に、目の前に虚空が広がった。ルチーフェロはいつの間にかこちらに背を向けて立っている。雑面(ぞうめん)が解けてはらりと落ち、小麦色の髪が靡いた。

 その後ろ姿は、なんだか、ひどく遠く見えた。

「この王国は、十三人の賢人(エクセリーヤ)に、縛られている」

 彼はこちらを見ないまま独り言のように言った。

「王は、兄王から冠を取り上げて、綺麗で、広い国を作りたかった。だが、返り血に染まった王権を、賢人(エクセリーヤ)は認めなかった。王は、頑なな彼らを塔に閉じ込めた。十八年の間に老衰で死んだ者もあるし、病を得て記憶の曖昧な者もある。我に力を貸してくれ、魔法が排除されぬ国の礎を、必ず己の代でこしらえて見せると王は説得したが、断念せざるを得なかった」

(塔に……)

 ユディトに連れられて初めて王城を訪れた時、半円球の円蓋をぐるりと取り囲む巨大な塔に驚いた。ルチーフェロと共に空を飛んだ日には、その間をすり抜けさえした。学舎に通う道中、毎朝毎朝、馬車の窓から見上げ続けているあの塔の中に、博士と使命を同じくした者たちがいるというのか。どこにいるとも分からないという、伝説のような存在が、本当に。

 振り仰げば、すぐそこにそびえているのは知っている。しかし、エプィヌは次々に盛り上がってくる涙を堪えることができずに、そっと顔を伏せた。

 今まで実感のなかったものが、紛れもない現実味を帯びてそこにある。離れ離れになった肉親の無事を知った者は、きっとこんな風に喜ぶだろうかというくらい、胸が切なくて仕方がなかった。しかし……。

(違う)

 エプィヌは濡れて束になった睫毛を上げ、掌を見つめた。

(数は、十四。博士の話にあった魔法使いと同じ、アハルテケ十四進分類法と同じ、十四のはずなのに……)

 頭の中を、十三と十四、二つの数字が目まぐるしく占拠する。博士を除いた人数を言うのならば、あんな表現にはならないはずだ。

(本来十四だったものが、今では十三しかないということ?)

 すでに途絶えてしまった何かがあるのだろうか。それとも、隠されているのか。

(そこにいないのは、博士と、誰だったの)

 しかし、エプィヌは開きかけた口を閉じ、呼吸を飲み下した。

 ルチーフェロはゆっくりと振り返った。

「ーー彼らが忠誠を誓うのは王ではない。知恵という宝と、彼らの強固な矜持なんだと、王は気付いたからだ。学問は王に許し与えられるもの、というのは正しくて間違っている。今に残るターリア王の亡霊がつきまとう……その意思から逃れられない王が、民を道連れにするものだ。火犬(タゥ・ケラナ)の牙は、王を(くび)ることをも厭わないから……」

 記憶の淵から上って来た言葉に打たれて、エプィヌは今度こそ、問いを口にした。

「ーー火犬(タゥ・ケラナ)は暗中で動く諜報官と聞きました。殿下がその采配をしているわけではないということですか?」

「そうだ。番兵から聞いたんだな」

 頷くと、王子は何かを見定めるように目の奥を光らせた。

「いずれにせよ、王は革命をしくじった……いや、放棄したんだ。火犬(タゥ・ケラナ)を恐れて。おれに武力を与え、取り締まりなんかさせて。それが父親としての情だということは、馬鹿にだって分かるだろ。だが、おれを守ろうとしてやってくれたことは全部、結局は誰のためにもなっていない。このままでは、おれも王と同じ道を辿ることになる。ラギを火犬(タゥ・ケラナ)の牙から守るためにあいつの才を潰し、あんたの博士の無念を晴らしてやることもできず、何度も、同じ暗い過去を繰り返す」

「でも、恐れながら……」

 聞けば聞くほど、いくら政に疎いエプィヌにも無謀過ぎると思われた。

「わたしには、殿下のやろうとしていることと、王の断念した革命とやらの違いが分かりません。それこそ、賢人(エクセリーヤ)は二度と戻らず、殿下のお命すら……」

 エプィヌは強情に言い募ったが、すぐさま黙ることになった。

「あんたは、あんたの博士の正体を知ったら、是が非でも後を継ごうとするだろう?」

 図星という他ない。言葉に詰まったエプィヌを強張った表情で見下ろし、王子は少し黙ってから続けた。

「そうしたら、いくら避けようにも、王国のいざこざに巻き込まれてしまう。ユディトからそうと聞いたことはないが、あの人は、あんたの才を伸ばしてやることを望みながらも、迷いがあるはずだ。だから、あんたは結局、ラウル家にいればラギの嫁にして閉じ込められてしまうんじゃないかと、おれは思う」

「ーーユディトさまならば、わたしが歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤになることを止めたりしないと思います」

 ためらいつつも、エプィヌは確信を持って言い切った。女主人のやることなすことは謎に満ちているが、博士の遺したものを決して無駄にはすまいという意思だけは明白だからだ。それに、書籍の出版を許されるために王立学舎の修了は絶対条件だと、食卓でバラクと対立したユディトの肩を持ったのは、どこの誰だったか。

(この人の言動には矛盾しかない)

「でも、あんたに言う気配はないだろ?」

「わたしが博士の研究を世に出したい、だから学びたいと言ったことを、ユディトさまは否定しませんでした。危険から遠ざけようとするならお許しにならないはずだし、そもそも、わたしを王都に招く理由などなかったのではないですか?」

 我ながら無礼な物言いだと思いつつ、それでも口から出したからには戻せない。エプィヌは一歩も引かない決意で両手を握り締めた。

「ユディトの考えは、おれだってよくは分からない。ただ、色々相反することを平然とやってのけたり、あんたの考えを生かさず殺さず、まわりくどいやり方で阻止しようとしたり、諦めるよう仕向けたり、そんなことくらいは朝飯前の女だよ」

 溜息を挟んで、王子は小声で続けた。

「ーーおれは、王とユディトは、あんたの存在に関して何らかの盟約を結んでるんじゃないかと踏んでいる」

「わたしが……博士の弟子だから?」

 エプィヌの指摘に、彼は何かをためらった後、一呼吸おいてから悲しげに告げた。

「父君は十三人の賢人(エクセリーヤ)が集結する時……先王の王女の名付けの儀の前夜を狙って蜂起した。取り逃したのは一名、あんたの博士だ。彼を探して賢人(エクセリーヤ)を再編成する。父君とおれの意志はこの点で合致していた。だが違うのは……おれは、そこにあんたを引き摺り出す。自分に私欲なんてないと思っていたけど、あんたが欲しいと思った。だから、色んな考えを変えたんだ。ーー新しい賢人(エクセリーヤ)。その筆頭に、あんたはなるんだ」

 少しの間、エプィヌは混乱して立ち尽くした。博士が父なし子の自分を引き取り、病から逃れてヨークに帰ったという話との時系列が、一気に分からなくなった。

(博士は素性を隠していたのね、わたしから)

 様々な疑問を無理矢理に嚥下すると、なんとなく、彼の言わんとしていることも掴めて来た気がしたが、それと納得できるかどうかは別だ。しかし、王子とてこちらの解せない表情はすっかり受け止めているようだった。

 彼が舞台から自分を連れ去ったことを、なぜこんなに申し訳なさそうに謝るのか不思議だったが、王の眼前で、あれだけの人々にその行動で宣言してしまったのだから当然だ。

(道を選ぶ余地があると言った、その言葉を摘んだ)

 それは彼の計算尽(けいさんずく)だったのか、ラーギニールの行動が挑発になったのか、思惑がいばらの如く絡み合って真実が見えない。

 相手はこちらに腕を伸ばしたが、エプィヌは初めてそれを避けた。僅かな時のうちに硬化してしまった少女に、王子はなぜとは問わない。それでもなお歩み寄りながら、ただ声を掠れさせた。

「そうすれば、あんたは否が応でも王国のあれこれに飲み込まれてしまうと思う。でも、どうしても全部を手に入れたいんだ。王やユディトを敵にしても。おれは、最初から王になるつもりはない。だからこそ、手に入れたいんだ」

「王にはならない……?」

 心ノ臓が大きく飛び跳ねて、一瞬、目の前が白くなった。大それたことばかりを言うルチーフェロの思い切りの良さは、全てその覚悟があったからなのだ。

「おれが王に立てば、賢人(エクセリーヤ)の心はどんどん離れるばかりだ。おれは妹に綺麗な冠をあげたいんだよ」

 巻毛の下で目を細める彼は、エプィヌの知らない表情をしていた。すぐに、それが兄の顔なのだと思い至った。ラーギニールの言った、自分より大切で、そのために何もかも投げ打ってしまえる存在とは、妹のことなのだろう。

(でも……だとしたら、この人はどうなるの。王にならないとは、臣籍に下るということ? それとも)

 不穏な考えに愕然とした少女を包み込むように、王子は一歩間を詰めた。

「驚かせたな。でも、信じてもらおうというなら、全部打ち明けるしかないだろう。おれは願いを叶えてやったぞ……今度は、あんたが約束を果たしてくれるはずだ」

 エプィヌはそれに答えず、再び睫毛を伏せた。ここまで喋らせた挙句、知りたいが故の方便だったと言って反故にするのはあまりに酷い。けれど、名を呼ぶことで最後の砦が崩れてしまうのは目に見えていた。

 意を決して唇の力を抜いた時だった。砂利を踏んでこちらへ近付く足音が聞こえ、茂みの影を隔てた向こうでぴたりと止まった。

「ずいぶんと派手な真似をしましたね。あの場からいばら姫を連れ去るとは」

 闇を打って響く声に、エプィヌは硬直した。


「今夜は月が綺麗過ぎて、星々が見えにくくなるのが残念と思っていたけれど、憂いは無用だったようね」

 足がすくんで動けないエプィヌは、ルチーフェロの肩越しに、暗がりの、僅かな光の中に佇む声の主を凝視していた。流星の尾を紡いで織ったらこんな色だろうかと思うような、眩さゆえ青ざめた純白の布地に、砂よりもっときめの細かい金粉が撒き散らされた、繊細な衣装。露わになった華奢な肩の上に、金とも銀ともつかない透き通った色の長髪が流れている。それは、どこかで見た気がする、夢のような光景だった。

(ーー星の色の髪)

 刹那、エプィヌは呼吸を忘れた。恐ろしさのあまり足が、それどころか身体が凍り付いて動けなかった。ーー顔がない。そう思ったのは、仮面のせいだ。黒玉。樹木が化石となった、歴史を秘めた静かな石。ロヴァルのそれと同じ闇の色だった。

(違う。この人が、塔の上の、あの人だ……)

 背の高い女性。成熟し切る前の青さや揺らぎを、夜風と共に纏った乙女。

「こうして雲はわたくしの味方をしてくれるし、あなたのような迷い人を連れて来てくれた」

 その姿形を見なければ少年とも思えるくらい、凛と張りのある声だった。

「おいおい、おれがついているんだから迷い人はないだろう?」

 さすがに罰の悪いところを見られたと思ったのか、ルチーフェロは早口に言った。彼が喋ると、僅かな声の高低差はあるものの、芯にある響きはよく似ていた。

「違わないでしょう。心は星空を彷徨っているようなお姫さまなのに」

 乙女はふっと笑みらしき吐息を漏らし、頭を振って髪を靡かせた。

「いばらのお姫さま、わたくしはずっと、あなたに会いたいと思っていたのよ。ーーね、兄さま」

 エプィヌははっと目を見開いた。この乙女が、双子の妹だというラプンツェル王女なのだ。

 会いたかったと言いながら、決して好意的とは受け取り難い口振りだった。それどころか、演劇調の丁寧さの中には、軽蔑にも似た響きがあった。

「ーーお初にお目にかかります。わたくしは、エプィヌ・ディティ・ラウル。この度、ご当主ユディトさまのご厚意で養女となった者にございます」

 思わずむっとしたエプィヌは、悟られぬようさっと跪いた。対して、乙女は長い睫毛を伏せ、僅かに目礼を返した。

「もちろん、存じ上げています。兄が熱心に口説いているお姫さまですから」

 からかっているようで、単純に真実だけを述べているようでもある。なんとも居心地悪く、エプィヌはただ恐縮して首を振った。将来、本当に彼女を王として戴こうというのなら関わり合いにならずにすむ道などないだろうが、この王女は、最初に塔の上で見た時の恐ろしさも相まって、どう向き合って良いか分からない。兄として彼女に心を砕くルチーフェロが、いかに人間らしいかと思わせられる。

 こちらの内心などつゆ知らず、続けて、ラプンツェルは悠然と言った。

「なるほど、なんと愛らしいことよ。兄さまでなくとも、わたくしとて、このような姫君なら側におきたいくらい。きっと楽しませてくれるでしょう」

 白く均された砂利に月の光が差し、群れ咲く薔薇の花影を通して、微かな模様になっている。それは天を占める大河のように、依然、こちらと距離を置く王女との間に横たわっていた。

 エプィヌは一度大きく息を吸ったが、すぐに吐き出した。

「王女さま、お戯れを……。わたしは姫などと呼んでいただけるほど、高貴な者ではありません」

「戯れと申すか」

 ラプンツェルはどこか不服そうな表情を浮かべたが、王女らしく厳かに言った。

「姫を姫と呼んで何が悪い?」

 ばっさりと切って捨てるような、強かな切り返しだ。

「絡みつく棘、無垢で可憐で、だから非情」

 王女は一言発するごとに声を低めた。まるで、語気を荒らげまいとするかのように。そのわけの分からぬ怒りの矛先が、他でもない自分に向けられているのを察して、エプィヌは戸惑った。

「ーー非情、ですか?」

「ええ、そう」

「ラプンツェル」

 ルチーフェロはたしなめるように口を挟んだ。しかし、王女は兄の言うことに耳を貸すつもりはないようで、闇色の仮面の向こうから金の輪のある瞳孔でこちらを見据えていた。ーーオオカミに似た恐ろしい瞳だと思った。博士の母方の家系には代々、緑の他にも金の瞳をした者もいたというが、それはこんな色なのだろうか……。

 そういえば、以前ルチーフェロは、その話を聞いて妙な反応をしていた。

『そんな瞳の色が、他にあるかと思って驚いただけさ』

 それは、王女のことだったのだ。

 生まれながらに伝わっていく血統の特性の知識などエプィヌにはなかったが、王女の瞳の色は、ふいに胸をざわつかせた。フィルレリア王妃はヨークの出であると聞いたからだ。

 叔父のノルドと姪のユディト、息子のラーギニールに黒い頭髪、青い瞳という共通点があるのは、血が繋がっている証と言えよう。一方、エーフロシュネやラズワルドも同様の容姿を持っているが、博士とエプィヌに血縁がないのと同じで、異なった出自でも似た特性が発生することがないとも限らない。

(でも……)

 あらゆる欠片を繋ぎ合わせて考えると、どこかで同じ根っこに行き着くことはあるのかもしれない。

雲の峰(スフ・マリス)のふもとに、アウルボザという丘があります。そこからは、ちょうど山の頂に“東の一角獣の角のもとエリス・ユノ・ソフィカ”という赤い星が、浮かんで見えるんです』

 なぜならラズワルドもまた、東方の民なのだ。『花狩唄(リィルーグァン)』について書き送った文の返答の意外さを思っても……。

(ーーラズワルドが待っている。ラーギニールさまと王宮書庫ドムン・パディリィフィに行かなければ)

 大切な用事を思い出したことが、すっかり怯んでいたエプィヌを、ほんの少しながら奮い立たせた。

 この苛立ちや憂鬱は、ラプンツェルから伝染したもの……否、深い共感であることを、認めざるを得なかった。きっと、自分たちは二人とも、ルチーフェロを間にして互いに睨み合っているのだ。王女という立場にある彼女を真に理解し寄り添うことができるのは、同じ日に同じ腹から生まれたルチーフェロだけなのではなかろうか。互いにとって、互いが特別なのだろう。そんな兄を他の誰かに奪われると思った妹の、寂しさや嫉妬に想像が及ばないほど、エプィヌは、人の心に無頓着ではなかった。

 姫百合色の髪を揺すり、片膝の上に重ねて置いた手に力を込めながら、エプィヌは立ち上がった。

「非情、とはどういう意味ですか? わたくしが何か、道理に反するような行いを……」

「そうね、あなたに罪はない」

 王女は相手からの思わぬ反撃を受け、あっさりと認めた。

「罪があるとすれば……」

「ラプンツェル」

 ルチーフェロは明らかに焦っていた。妹に向けた目は必死で何か訴えかけているようにも見えた。しかし、彼がどうにかする前に、その言葉の続きは王女自身によって打ち切られた。

「ほら、後ろ」

 先程までの緊迫をよそに、ラプンツェルは悪びれる様子もなく、その、爪が透き通るほど細く白い指で、すっとエプィヌの背後を指差した。

(あ……)

 月明かりにかざされた手の様子に、何か違和感を覚えた。彼女の指先を貫いた柔らかい光線が、そのまま肌に含まれて内から輝き、血管すら端々まで見えるようだった。ーー影にならないのだ。

(これは……)

 すぐに、その手は袖の中に引っ込められた。

「王子さまが迎えに来たわよ」

 王女は冷ややかに言った。

 誰のことだろうと思ったが、考えるだけ無駄だった。ラーギニールは、腹を立ててつつも怯えたような妙な表情を浮かべ、唇を引き結んでそこに立っていた。

 薔薇の棘にやられたのか、衣装のあちこちから糸を垂らし、みっともない姿になっているし、息も絶え絶えといった様子だ。庭園を走り回っているうちに邪魔になったのか、例の仮面を手にすらしていない。

(あーあ……ユディトさまに何と言おう)

 エプィヌは刹那、事態を忘れ、溜息を吐きそうになった。それくらい、ラーギニールの登場は色々と鬱屈した空気を吹き飛ばす助け舟だった。

 少年は王子と王女を交互に一瞥し、それからつかつかと歩み寄ると、エプィヌの目の前に来て間近に見つめた。

「ぼくだって務めは果たしたんだから、出て来ても怒らないよね」

「そりゃあ……」

 息を吸い込んだ時、不意に胸のつかえが取れたと気付いた。

 尋ねておきながらこちらの返答を待たず、彼は王女に向かって夜色の瞳を向けた。

「ーーお取り込み中のご無礼をどうかお許しください。ぼくはこの人と、どうしても行かねばならない所があるんです。どうか、ラウル家の大切な姫をお返しください」

 きっぱり言い放った少年の視線を静かに受け止めると、王女は、何も言わないまま、長いブリオーを裾引きながら踵を返した。

 ルチーフェロは案ずるような表情でその背を目で追い、それから真顔に戻ると、ラーギニールの肩に手を置いた。

「おまえの考えはよく分かった、ラギ」

「殿下に悪いとは思っていません」

 ごく僅かのやり取りで、二人は互いの顔も見交わさず、王子はそのまま、妹を追って闇に消えた。

 エプィヌは結局、約束を果たさないままだった。

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