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第四章 水上舞踏会 (4)

 窓辺に降り立った烏は、首に革製の小筒を下げている。ラズワルドからの返信は思ったよりもだいぶと早かった。

 『花狩唄(リィルーグァン)』の歌詞のことを、端的に説明するのは難しい。全てが推測の域を出ないが、埃を全部叩き出さないことには、何も得られないことだけは分かっている。

 本当はすぐにでも王城へ駆けて報告したいくらいだったが、生憎ユディトの目もあってそうはいかないし、ラズワルドの方も、定例の書庫整理のために数日間、王宮書庫ドムン・パディリィフィを閉館すると言っていたので、烏を飛ばすことにした。ラウル家では、ユディトが伝書用に鳩や烏を飼い馴らしているが、もちろん彼女に頼むわけにはいかない。これは、ルチーフェロがエプィヌと文を交わすために遣わしている烏だった。

『王城の各所には伝書用の暗号が割り振られている。例えば、俺のいる棟は“左輪(セザン)”だ。俺の紋章が左向きに咲いたロクセーヌだからな。烏にそう告げれば真っ直ぐ飛んで来る。経由地が必要なら、寄る順番に暗号を告げる。受け取った相手が何も告げずに放っても、こいつはあんたのとこに帰るようしつけてあるからな』

 ルチーフェロは、エプィヌがこういう使い方をすると最初から踏んでいたのだろうか。そう言われていたからというわけではないが、ラズワルドに王宮書庫ドムン・パディリィフィの暗号を尋ねておいたのだ。

「“棘の扉(エプィナー・ガドゥ)”」

 そういう具合で飛び立った烏は、ラズワルドの迅速な対応を受け、ものの数時間(フラー)で蜻蛉返りして来たのだった。

 烏は「かぁ」と胸を張った。どうだ、早かっただろうと言いたげだ。鳩や烏は賢い分、きちんと褒めてやらねばどんどん狡くなるとユディトは言っていた。基本的に都合が良いので、褒め言葉は解するらしい。

「ありがとう、あなたいい子ね」

 少し恐ろしかったが、思い切って手を伸ばし、頭を撫でてやることにした。サロメとヨーカナが心を通じ合わせていた美しい光景が、自然と思い出された。そのように崇高な絆はこれっぽっちもないが、感謝はきちんと伝えねばならない。毛並に沿って、眉間のあたりから後頭部までのほんの小さな丸みを人差し指でなぞると、烏は脚を引っ込めて座り込み、気持ち良さそうに瞳をくるくるさせた。

(こんな風にしてたら可愛らしいんだけど)

 なぜかラーギニールを相手にしているような気分になって、奇妙な心持ちがした。

 ひとしきり羽を伸ばした烏が飛び去ると、いよいよエプィヌは、風雨にやられないよう油紙にしっかり包まれた便箋を解くことにした。

(何これ)

 息を詰めながら取り出したが、内容はたった一言、厳重な見た目にそぐわないものだった。

「ーー舞踏会の夜、王宮書庫ドムン・パディリィフィを開館します。その歌を教えてくれたラウル家のご子息をお連れ下さい」

(って……ラーギニールさまを?)

 小さな灯を頼りに(ペン)を走らせるローブ姿の少年の姿を思い浮かべ、エプィヌは宙を仰いだ。



 ラーギニールに王宮書庫ドムン・パディリィフィに来てもらえないかと打診するのは、簡単なことではない。エプィヌが王宮書庫ドムン・パディリィフィに出入りしていることは、「言わずの誓い」を立てさせられたのもあって内緒だったし、その説明から始めるのは骨が折れる。ことに学問において、彼を差し置いて何かするようなことがあれば、機嫌を損ねるのは目に見えている。どう言おうかと頭を悩ませているうち、あっと言う間に数日が過ぎ、舞踏会当日を迎えてしまった。

「いいわね。ぴったりだわ」

 ユディトはエプィヌの頭のてっぺんから足先までをじっくり眺めた後で、満足げに微笑んだ。その隣で、エポナは一仕事を終えた達成感に浸っているのか、少し鼻の穴を膨らませている。衣装合わせで調整することになった箇所がぴしゃりと上手くはまったようで、几帳面な性格の彼女は、それが何より心地良いらしい。今まで感情の機微を見せなかったゆえ、嬉しがっているのがとても新鮮だった。

 エポナは、エプィヌが思った通り、サガンの妹であるという。

『わたしたち兄妹は、世にも稀な丘の人(ベルグフォルク)との混血ですよ。どうです?』

 他の人が言えば不謹慎に受け取られるだろうが、彼はそんなことはお構いなしだった。ぱっと骨格を見てなんとなくそんな気がしていたくらいだから、今まで不当な差別を受けた経験も当然あるのかもしれないが、サガンの心根はさっぱりしている。色んなことを跳ね除ける強さというよりは、身をかわしていく柔軟さがあるといった印象だ。

『母は屋敷仕えで、主についてヨークから王都に上り、父と出会ったそうです。まあ、わたしたちは父の顔なんて知りませんが。それにしても、もの好きだったんでしょうねぇ。エポナの手先の器用なのは、機織りの名人だった母の血ですよ』

 包み隠すことなくつらつらと喋りながらも、彼は一切手を止めることなく作業を続けていた。仕事覚えが早く、おかげでエプィヌの分類作業もどんどんせっつかれるほどだ。

『あ、融通効かないところありますでしょう? それも職人気質ってやつですよ。腕前はわたしが保証しますので、許してやってくださいねぇ』

 その言葉は身内贔屓でなく、紛れもない事実だった。仕上がったブリオーは、エプィヌに“自分が史上最高に輝いている”と思わせた。魔法にかけられたような奇妙な心地だ。

 白い布地はさすがに格調高過ぎると思われたが、リィリィアーナが選んでくれただけあって、エプィヌのほんのり桜色の気のある白い肌によく合っていた。光沢のある糸で細かく巡らされている花の刺繍が、見る角度によって柔らかく輝くのがなんとも綺麗だ。

 ユディトは小籠から白百合と霞草を手に取り、編み込んだエプィヌの赤い髪に挿した。

「ほっほっ、まるで春の妖精ですの」

 子どもらの晴れ姿を見に来たというノルドは、いつかぶりにそう言った。

「春の妖精って、言いたいことは分かるけど、今日は夏の催しに行くんだから」

 ラーギニールは余計なことを口走って、ユディトに頭を小突かれた。ついでに、白い薔薇を巻髪の渦の中に突っ込まれる。

「やめてよ、女の子じゃあるまいし」

 棘はすっかり取ってあるが、ラーギニールはびくびくしながら花弁を摘み、髪から引っこ抜く。

「まったく、この子は」

 ユディトは溜息を吐き、やれやれと眉を下げた。そうしていると、どこにでもいる騒がしい親子だ。

「それにしても、あなたたち」

 ラーギニールが乱れた頭髪を撫で付けているのを眺めて、ユディトは腕を組んだ。何やら思案しているようだ。

「ーーとっても良いけど、これはちょっと、ねえ」

 ふむ、とノルドは同意を示して頷いた。すっかりめかし込んだリィリィアーナとメルセンも寄って来て、鏡越しにエプィヌとラーギニールを見つめる。

「……どうかしたのですか」

 あまりに皆が顔を見合わせているので、エプィヌはやや不安になった。

「えっと、これではお揃いを着ているみたいで」

 何を憚ってなのか小声でそう言い、メルセンは肩をすくめた。

 たしかに、どちらも白を基調とした衣装だ。ラーギニールは月白(げっぱく)の地に青碧(せいへき)の紋が入った長丈のチュニックで、青藍(せいらん)の帯を締めている。差し色が青か緑かの差はあるものの、雰囲気がよく似ていた。

「殿下のお気に障らないと良いな、とね」

 彼は最近になってようやく、エプィヌと王子の関係を嗅ぎつけたようだった。というより、持ち帰った招待状を見て、学舎に出入りしている王子に、幸運にもエプィヌが見初められたのだと勘違いしたのだ。

「そう、ね」

 リィリィアーナは小さく声を立てて笑った。

「でもでも、似合うものを着るのが一番だし、少なくとも……仲良しの姉と弟には見えるかも」

「え……」

 いくらか不満そうな声を漏らし、ラーギニールは口を尖らせた。

「姉は一人で十分過ぎる」

 エステルには一度だけ挨拶したことがある。他家に嫁いだからには滅多とラウル家に顔を出したりしないが、エプィヌを引き取ったことを聞き付けてやって来たのだった。

 ラーギニールが怖がるのは非常によく分かる。ユディトによく似た容貌で、きりりとした目つきが相手を串刺しにする雪豹の如く。性格も、彼女に比べればラーギニールは軟弱で、全く歯が立ちそうにない。

(わたしのことまで、そんなふうに怖がらなくても)

 エプィヌが横目で盗み見ると、気付いたラーギニールはぷいと逆を向いてしまった。

(あーあ、面倒くさい)

 こんな調子で舞踏会を乗り切ることができるのだろうか。王宮書庫ドムン・パディリィフィにも引っ張って行かねばならないが、その話をするためにも、彼の機嫌には細心の注意を払う必要がある。

「そ、それより!」

 ほら見て、とリィリィアーナはくるりと回る。張りのある透かし織りの裾が、花弁のようにふわっと広がる。険悪になりそうな空気を変えようとしてくれているのだろう。

 輪の形に丸めた三つ編みが両耳の上で弾んで揺れ、そこには、ふんわり泡立って見える白と桃色の小さな花の房が飾られている。残りの腰まである髪は、いつもに増してつやつやに櫛が通されており、ユディト手製の薔薇の冠がよく映えた。その上、可愛らしさを存分に活かした化粧なのに、逆に妖艶さが引き出されている。なぜだろうと思ってよくよく観察してみると、衣装は彼女好みのふくらんだ袖と裾が特徴的なのだが、腰のくびれを強調するように飾り帯が太くなっているのだった。本当に上手くできている。

「エポナは毎回期待を超えてくれるわ!」

「恐れ多いお言葉です」

 お針子の少女は、一瞬、誇らしげな表情を浮かべた。それを抑えようと努力しているのは伝わるが、全く隠せていない。頬がぴくついて、紅潮している。

「お嬢さまのお衣装は、大輪の薔薇を思わせる造りです。全て、一枚一枚が、ちょっとした風圧でもふわふわ動くようにしてあります。胸部は丸く、しっかり上がるように……あっ」

 興奮のあまり言わなくていいことまで喋ってしまい、エポナは慌てて己の口を手で塞いだ。

「申し訳ございません!」

「い、いいのよ……」

 と言いつつ、リィリィアーナはもじもじと脇を締め、胸の前で腕を組む。メルセンは咳払いをし、ラーギニールは奇妙な表情で固まった。そしてノルドは、上手く気配を消している。

 赤から青に顔色を変えながら、エポナは風呂敷を解きごそごそと何かを取り出した。きらきらと繊細な輝きを放つ薄紅のベールだ。

「お嬢さまの珠のようなお肌を、大衆の好奇の目に晒すなんてあってはなりませんから、ご用意いたしました。安心してください」

(え……わたしはどうなの)

 袖は長く首元も詰まっている一方、そこから肩にかけてが大きく開いており、肌はかなり露わになっている。リィリィアーナとは違って、体型をはっきり打ち出す型ではなく、裾まで自然に布が落ちるように襞が付けられているので、派手さはそれほどないのだが。

(わたしの分はないのね)

 別に、お嬢さまと同じ扱いを受けたいなどと身の程知らずな願望はないが、つい、エポナがそのうちリィリィアーナの婚礼衣装を仕立てる時はどうなるだろうと想像してしまった。

(こう見えて、かなり大騒ぎになりそうだわ……)

「ーーエポナ、ありがとう」

 リィリィアーナはためらいつつも、大人しくベールを被せられた。

「いいえ、これもお嬢さまのために見繕って来たものですから」

 見た目によらず、エポナはかなり押しの強い性格らしい。リィリィアーナに見合い話があるというのは、家人の中でもとうとう噂になってきたので、彼女も例に漏れずそれを聞きつけたと見える。嫁ぐ際は侍女に、と野望を抱いているのだろうととサガンは言っていた。

 多少の問題はありつつも、ラーギニール、メルセン、リィリィアーナ、エプィヌは目一杯着飾って支度を整えた。

 ユディトはなぜか不敵に見える笑みを浮かべ、手を伸べて戸口を示した。

「さあ、行ってらっしゃい、ラウル家の子どもたち」



 そういえば先日、レィダヤに教えられたのだが、貴い人々は、舞踏会に限らず季節の折に触れて、様々な風情を楽しむのだそうだ。今回の舞踏会は水の上に舞台を張り、少し早咲きになるよう気温を調節して育てた蓮を浮かべ、夏の訪れを表現するらしい。

(そういうのが、“風流”というものなのね)

 馬車は学舎の通用門を兼ねる南西の門ではなく、城下の大路と街道に続く北側の大門を潜った。ラーギニールとエプィヌ、メルセンとリィリィアーナは二台に分かれ、目隠しの薄布を張った窓の中の人となっている。門をいくつ潜ったか数え切れない上に、天空に向けて真っ直ぐ貫かれた階段を馬車が走れるわけもないので、斜面を巻いて広い道が造られているのだが、それ以外の地面は宝石のような花の(ほころ)びで埋め尽くされている。

 統一感ある彩りの花木は、今日が盛りになるよう温室で育て、植え替えられたものらしい。そういう技術に関してはユディトが当代随一と名高く、彼女は度々、庭師の指導を行うために王城へ出向いていた。その証拠に、ラーギニールの作業場に咲いていたのと同じ、鞠に似た紫色の花ーー紫陽花(ヴィレアンジュ)というらしい……が門の傍から奥まで垣のように植えられている。少し濡れた花弁が美しく輝いているが、今日は雨が降らなかったので、そのために庭師たちが霧吹を持って水を振りかけて回ったのかと考えると、少し気の毒になった。他にも、本の虫除けでお馴染みの薫衣草(ラヴィオラ)は、青紫色の小さな花を穂状につけ、心地よい香りを辺りに漂わせていたし、日の眠るところ(アッティ・リンズ)の高地で幻とまで言われる青い芥子(コクーリカ)が咲いていることには仰天させられた。まさに、初夏の夜の催しにぴったりな庭園だ。

「秋には王宮の庭園の色付いた木々を囲んで管弦を催したり、冬には雲の峰(スフ・マリス)から樹氷を運んで来て彫像をこしらえて飾ったり……。舞踏会でなくとも王城に顔を出さないといけない機会はたくさんある」

 ここまで来ても、ラーギニールはまだぐずぐずと、気乗りしない様子を見せている。それには取り合わないことにして、エプィヌは馬車の窓に顔を寄せた。

 ユディトや庭師は一年を通して本当に大変だろう。色づいた赤い葉は美しいだろうし、石像ならぬ氷像などたいそう珍しいけれど、それらを愛でるために宴を開くとは、いまいち共感できるものではなかった。ラーギニールは十五になったばかりなので、今回の舞踏会が、こういう場の初参加となるらしいが、季節が変わるごとにこう色々あると、この先の人生が思いやられる。ーー他人事ながら、いちおう心配にはなる。

(ラウル家は高家だから……)

 国史大書(こくしたいしょ)にも貴家系譜雑類要集きけけいふざつるいようしゅうにも名を残し、高家施行細則(こうけせこうさいそく)に記された儀礼を司る家柄だ。こうした行事はターリアの建国と同時に縮小され、高家も権威を失っていった。

(ラーギニールさまにとってはほとんど幸運、少し不運ってところね)

 彼が暮らし向きなどに捉われず研究に打ち込んでいられるのは、他でもない家柄のおかげだ。そして、エプィヌもその恩恵に預かっている。

「……『花狩唄(リィルーグァン)』のこと」

 エプィヌの独り言同然の呟きが、二人きりの空間に響いた。

「『花狩唄(リィルーグァン)』はユディトさまの故郷の歌って、ラーギニールさまは言ったわよね」

 揺れに従って、緩やかな巻毛がラーギニールの睫毛の先をかすめ、行ったり来たりしている。癖が強いので、どれだけ油で撫で付けようが効き目がなかったのだ。

「言ったよ」

 彼は座席の上に片膝を立て、顎を預けた。

「それがどこなのか、ラーギニールさまは知ってる?」

 エプィヌは少年の横顔を根気強く見つめ続け、ようやくその眼差しを捉えた。

「ラーギニールさま、知っているの?」

「国はずれとしか。旧ランスロット領よりも東って」

 明るい方を背にしており、見交わしていてもそうとは分からない。それほど深い色だ。ただの灰色に見えて、遥か奥底に青い鉱脈がある。

「東の果て……」

 彼の瞳を辿れば、そこに行き着くのだろうか。

「博士が寝物語に聞かせてくれた話、幼い頃、眠れない夜に」

 微かな声でエプィヌは続けた。

「ーー険しい雲の峰(スフ・マリス)を越えると、地平も分かたぬ山岳地帯に入る。万年雪に閉ざされた道なき道を、峰伝いに東へ東へと進むと、何処かに岩山に囲まれた小国があり、その民は複雑な風を操る玄妙な術を持つ。王は風を司り、その術を以て民を統べる。これは“魔法使い”の話よ」

 息を一つ吐いて、エプィヌは思い切って言い出した。

「ユディトさま、言っていたわ。故郷は、大昔の雲の峰(スフ・マリス)の噴火の影響で、今も黒煙が流れ落ちてくることがある。風を制御して農耕を行っている。ーーなんで、あえて結び付けようとしなかったのかしら。物語だと思ったから? 何もかも、完全に一致しているのに」

(ハテヌと十四人の知恵者は、ユディトさまの言う故郷……故国の祖、ということ?)

 それならば、王族も賢人(エクセリーヤ)も同じ血脈に連なる者ということになるのだろうか。王宮司書(ドムン・ティディーヤ)のように、知恵の伝承は世襲ではないのかもしれないが、可能性は捨て切れない。

「何を言っているの」

 ラーギニールは神妙な顔付きで訴える。

「よく分からないよ」

「ノルドさんもそう、二人は“魔法使い”に連なる者なの」

 エプィヌは頭の中でするすると繋がって行く点と点に追い付くのに必死で、混乱する彼を顧みる余裕がなかった。

「これを見てほしいの」

 早口で言うと、エプィヌは帯の隙間から折り畳んだ紙を抜き取り、差し出した。

「『花狩唄(リィルーグァン)』に使われている発音と共通する鍵文字を、試しに、ある史料から抜き出してみたの。この原本は、水道橋の完成当初の外観について記されたものなのだけど……」

 もちろん、ラーギニールの気を引きやすそうな内容を選んだのは言うまでもない。その甲斐あってか、彼は探るような目をしながらも、素直に紙を受け取った。

「その中の、鍵文字……って博士が呼んでいたものをさらって読んでみるとね、『王命によって削除、材料、建設経過、玉王元年』って」

「削除? 水道橋の材料と工程を世間に知られちゃまずいってことだよね」

「そう」

「なんで」

 ラーギニールは食い気味に言った。

「『王賜規範(おうしきはん)』の成立と同じ理由だと思うの」

 壊れ物を扱うように、丁寧に言葉を選ばなければならない。エプィヌは手を揉み絞りながら、ゆっくりと息を吸った。

「『王賜規範(おうしきはん)』や図書の分類法は、ある一定の枠を超えて、学問が“魔法”に思えるほど発展してしまうことを防ぐために作られたのではないかしら。この国の歴史と魔狩り(フィキル)は切っても切り離せない関係にあるし、まだわたしの憶測でしかないけれど、そういう暗い過去が学問に影を落としていると思うの。そんな中で、歴史の改竄が行われている。認めたくないけれど、そういう事実があると言わざるを得ない」

 声に出してみると、全てが恐ろしくすとんと腑に落ちた。ラーギニールは何を思っているのか、口を挟むこともなく、押し黙ったままこちらを見つめている。

 エプィヌは、膝の上の衣服の皺を指でなぞり、何をどう伝えるべきかよくよく思案した。会場となる上層までは遠いといえど、早く肝心なことを言わなければ、時間はいくらあっても足りない。

「でも、他の史料でもやってみなきゃ分からないけど、鍵文字は、それを知る者のみに伝えたいことーー史実から削った物事についての、真実に繋がる何かを残すために作られたんじゃないかって思ってるわ」

「鍵文字を知る者って? 誰もが知るわけじゃないの?」

 ラーギニールは、エプィヌが何を言いたいのかをすでに分かっていて、答えを教えてくれるのを待っているようだった。膝を抱えて相手の出方を伺っているのは、どこか子供っぽい。

(だから、ラーギニールさまも危ういんだわ)

 なかなか全部を言えないのは、ひとえに、この少年が、あまりに純粋に学問を好きだと知っているからだ。エプィヌに規範の存在を最初に教えたのは彼だが、治安維持を司る王子の前で堂々と否定を口にする性格だ。

『何百年も進歩のない、保守的な様式を踏襲するだけなんて面白くない』

(そうよね、ラーギニールさまはこういう人。わたしが巻き込んでも、きっと気にも留めないわ)

「ーーええ」

 エプィヌは頷き、口を開いた。

「鍵文字を知っているのは、この世でたった一人だけのはずなの」

 それを待っていたように、ラーギニールは問うた。

「それって……もしかして、エプィヌさん?」

「ーーそうよ」

「どうして?」

「博士が、歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤだったからよ」

 馬車が、上層に向かう緩やかな坂を登って行く。がたがたと身体の芯に響く揺れの波紋ばかりが、その場に満ちていた。

歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤ……」

 沈黙を破って、ラーギニールは天井を仰いだ。

「その歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤってよく分からないけど、学問を司っている、みたいな感じなの? それは、母上や殿下は知っているの?」

「殿下は知っているわ。あのお方は、歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤを探していて、それでわたしを引き入れようとしたの。ユディトさまは何も言わないけど、知っているのだと思う……」

 どんなに深く繋がろうと、その真意を聞かないままでいるのはなぜなのだろう、とエプィヌは胸の中で虚しさに似た感情を転がした。

「殿下がわたしを王宮書庫ドムン・パディリィフィに導いてくださったことには意味があると思う。そこで王宮司書(ドムン・ティディーヤ)と協力して、わたしは歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤになる道を探しているの。鍵文字のことを報告したら、王宮司書(ドムン・ティディーヤ)殿は、あなたを連れて来てって、今夜。そう言ってきたの」

「エプィヌさん」

 すっと名を呼ぶその声は、荒野を渡って古城に吹き込んで来る隙間風のようだった。ラーギニールは、曇りのない瞳をこちらに向けていた。

「殿下が、好き?」

 心づもりをしていなかった想定外の問いを差し向けられ、エプィヌは束の間、呼吸を忘れた。

「……今までの話と何か関係があるの? あなたに今夜、王宮書庫ドムン・パディリィフィに一緒に来てほしいって、とても重要なことを言ったのに」

 なんとか息を吸い、狼狽を隠したつもりが、太刀打ちできたとは言い難かった。ラーギニールの方は、こちらの反応などいざ知らずといった風に主張を強める。

「あるよ、殿下が歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤを探していたって、言ったじゃない」

「ーー言ったけど、それがどう関係するのか分からないわ」

「分からないなら考えなくて良いから、今日はぼくと踊ってよ」

「えっ?」

 またまた、予想だにしていなかった提案に、エプィヌはつい大きな声を出してしまい、両手で口を覆った。前方の窓の外で、御者が弾かれたように振り返る影が見えたのだ。

「身内と踊ってどうするのよ」

 エプィヌは声を潜めた。

 こちらの指摘に対し、なんで分からないかなぁ、とでも言いたげに、ラーギニールは身じろぎした。足を下ろして座り直すと今度は腕を組み、片頬を少し膨らませている。

「別に良いじゃない。とにかく、ぼくがちゃんと踊って帰るかどうかが、重要なんでしょ、皆にとって。それを手伝ってくれたら、色々追及したいことも、今日のところは目をつぶってあげる」

 かなりずれているが、なんだそういうことかとも思った。しかし、エプィヌはあえて語気を強めた。しらばっくれたふりをして切り抜けるのは結構だが、ラウル家の次期当主として、本当のところを分かっているかどうかは、きちんと念を押しておくべきだろう。

「でもね、誰と踊るかが重要なのよ。分かっているのでしょうね?」

「分かってるよ。だから言ってるのに」

「え?」

 腰に手を当て、歳上の威厳を行使したエプィヌだったが、ついたじろぎ、声が掠れた。

「よく分からない。考えていることを、もっとちゃんと言ってくれないかしら? それじゃ対応しきれないというか……」

「それはそっちでしょ」

 窓枠に肘を付き、薄布の向こうに流れる花々の影を目で追うようにしながら、ラーギニールは口を尖らせる。何をそんなにあたられなければならないのかと、エプィヌは首を振った。

「エプィヌさんの考えもよく分からないのに、勝手にあれこれできないでしょ。それに、ぼくは、あまり殿下の今の行動には賛成できないんだ。エプィヌさんは、首を突っ込むべきではないと思ってる」

 どきりとして、身体が勝手に身構えた。

「ーー何を知っているの?」

(あのお方が、わたしに賭けると言った意味が未だ分からないのに……)

 何事も腹の底を見せないルチーフェロが、弟同然とはいえ、ラーギニールに何もかも明け透けに喋っているとは思えない。

「確証も何もないよ。でも、殿下は少なくとも、ご自身より大切なものがあって、そのために何もかも投げ打ってしまえる人なんだ」

 胸を突かれる言葉だった。

(それは、きっとわたしじゃない……)

 落胆というよりは、やっぱりそうかという気分だった。王子のことを好きだと真っ直ぐ言えないのも、根っこの部分には予感があって、全ては彼に躍らされているに過ぎないと気付くのが怖いからかもしれなかった。

 エプィヌは背もたれに沈み込むほど脱力し、ぽっかり空洞になったような頭で、ラーギニールの提案に対する返答を考えた。

 


 馬車から降りた時には、心労やら何やらですっかりくたびれていた。下界から頂上までゆうに一時間(フラー)近くは揺られていたので、足腰の感覚が鈍くなっている。しかし、ここから先はいよいよ王族の座す空間という最後の門は、どんなに身分の高い者でも、王族以外は徒歩で潜るしかない。その門前に設けられた東屋(あずまや)のような降車場に馬車が停まり、御者によって扉が開かれると、そこに案内の女官が三名、恭しく待ち構えていた。二人は傘を持ち、一人は布を被せた盆を捧げ持っている。

 先に降りたラーギニールがこともなげに手を伸べるので、その手を取って地に足を着ける。考え過ぎて頭がくらくらした。

(なによ……わたしだけばかみたいじゃない)

 ついさっきのやりとりがあったし、ただでさえまだ慣れない行動なので、ひどく意識してしまう。しかし、彼の方はあくまで涼しい顔だ。それがなんだか悔しい気がして、エプィヌは密かに腹を立てた。おかげで、少しばかり気が晴れたのだから皮肉だ。

 女官に差し掛けられた傘の下で、エプィヌとラーギニールが肩を並べたのとほぼ同時に、後ろの馬車からメルセンとリィリィアーナも姿を現した。

「あら、何かあった?」

 軽やかに舞い降りた少女は、敏感に雰囲気を察知して首を傾げる。

「え?」

 ラーギニールに自覚がないのは助かる。エプィヌは胸を撫で下ろし、顔の前で手を振った。

「たいしたことではありません」

 金の鎧を揃え、東屋(あずまや)の外れから門の方へと、等間隔に居並ぶのは近衛だ。瞬きすら目にも留まらぬほど、置物のようにひたすら直立している。手にした金の槍の(きっさき)は、雲を突くかに見える高い場所にあった。

「あーあ、同僚が働いてるのは、やっぱりやりにくいな」

 ここを通り抜けて行かねばならないのかと、メルセンは心底嫌そうに溜息を吐いた。

「まだ嫁取りしていない者は、舞踏会に出られるよう、今日明日の宿直(とのい)から外されているんだ。あんな真面目な顔をしていながら、皆、心の中では見物を楽しんでいる」

「なるほど」

 自らもまた肩をすくめ、エプィヌは頷いた。

(でもこの人、少なくとも十五からは参加しているんじゃないの)

 そんなことも頭を過ったが、隣を歩く少年の横顔が目に入り、思い直した。

(まあ仕事熱心そうだし、ラーギニールさまの従兄弟だし)

 それに、今が花盛りのリィリィアーナとて特定の相手を作って来なかったのだから、身分が高い者ほど、こういう場での出会いは一過性なのかもしれない。

(それなら、ラーギニールさまの相手をしても、殿下は許してくださるわ)

 エプィヌが一人であれこれ考えているうちに、女官から手渡された瑠璃と螺鈿細工の仮面を胡散臭そうに見遣って、ラーギニールはますます足取りを重くしていた。

「ええ……こんなもの着けるの」

 かなり不満そうだ。

 エプィヌの手にも、翡翠を散りばめた緑の仮面がある。照明の灯りのおかげで、湖の底からたった今引き上げられたように輝いていた。仰々しく盆に載せられていたのも頷ける。宝石があまりにふんだんに使われているので、仮面は割と重量があった。

「今夜の舞踏会は、殿下を含め皆様方がそれをお召しになります。殿下たっての思いつきでございます」

 ほんの少し頬を染め、はにかみながらそう言った少女は、また次の来客に仮面を渡しに向かったが、こちらを何度も振り返るあたり、非常に名残惜しそうに見えた。どうやらラーギニールに色目を使っているようだ。

(よくも、まあ……)

 この調子なら、エプィヌが相手にならなくても良いではないかとすら思う。彼に熱い視線を送るのは、仮面を手渡した女官ばかりではないのだ。着飾った令嬢たちがちらちらとラウル家一行を見つめている。ついでに言うと、気品漂う青年たちの注目もずいぶんと集めていた。

(リィリィアーナさま狙いね)

 ユディトから叩き込まれたにわか作りの知識によると、舞踏会では通常、身分の高い者から順にーー王と妃の踊りによって幕を開けるが、今上の王妃は即位以来一度も民衆の前に姿を現していない。それゆえ、こういった催しの際は王が先立って何かをすることがなく、桟敷から見物するのが常だという。意外なことだが、ルチーフェロも舞踏会などは不参加か、顔を見せても父王に倣って傍に控えているらしい。彼が誰と踊るのかというより、今回こそは踊るのかという前提が、まずもって人々の関心ごとではあるが、娘らは希望を捨ててはいない。王子のために着飾るのは当然のこと、そうでなくとも、少しでも良い家柄の子息の目に留まって、ぜひご一緒にと申し出が絶えないことを願っている。

(さっきの女官が言うことを聞いたら、娘たちは目の色を変えるでしょうね……)

 やはり、ルチーフェロはエプィヌを誘った言葉を違えず、舞台に出て来る気なのだ。

「エプィヌ、あたくしたち、ずいぶんもてているかもしれないわ」

 リィリィアーナが、ずいっと肩越しに顔を寄せて来た。紅玉の仮面を扇のように使って口元を隠し、そっと耳打ちする。

「そりゃあ、皆、リィリィアーナさまならこぞってお相手したがると思います」

 エプィヌも真似をして仮面をかざした。

「あら」

 少女は眉を跳ね上げてくすくすと笑った。

「あなたずいぶん見られているわよ」

「あれが噂の養女か、といった値踏みかと」

 謙遜するつもりもさらさらなく、これが真実だろうと思ったが、リィリィアーナは首を横に振る。

「ねえ、ラギもそう思うでしょう?」

 従姉妹の問いかけに、ちらりと視線を投げかけて来た少年は、目が合ったと思った一瞬で、すぐに前に向き直ってしまった。

「ほら、これが証拠よ」

 どういう意味かいまいち分からなかったが、彼がその言葉にむっとしたようなのは、雰囲気から察せられた。

「ラーギニールさまの考えていることは、複雑ですから……」

「あら、いたって単純よ」

 リィリィアーナは片目をつぶって微笑んだが、エプィヌは困り顔しか返せなかった。彼の言動をうっかりまともに受け取ってしまえば、余計に色々こんがらがるだけだ。

 少し汗ばんだおかげで、長い裾が脛の辺りにまとわりつくし、慣れない形状をした浅い履物は、踵が浮きそうになって歩きにくい。エプィヌは緊張やもやもやを振り切るように、足運びに集中しようとした。



 王の住居は黄金宮殿と呼ばれる。特に金箔が貼られているわけでもないが、石に含まれた鉱物が朝焼けに夕焼けに染まり、鮮やかに輝く様があまりに眩いので、そう形容されるということだ。“王の住まう本殿には自転する天井もある”と、前にラズワルドが言っていたが、回転する天井は、深部に足を踏み入れないまでも、会場となる庭園に延びた渡殿、その先の離れを見ただけで、おおよそ真実なのだろうと納得させられた。天井の内側の窪みには金属製の鉤がはめられ、傘のような覆いを引っ掛けてあるのだが、それがいかにも回転しそうに見えたのだ。訪れた者はまずその下の大広間へ通され、立食形式の宴でもてなされた。

「中心に立つと反響がすごいわね」

 リィリィアーナはきょろきょろしながら言った。そんな仕草をしていると街娘と変わらない。何度来てもびっくりするらしいのだ。その様子は、静か静かに興奮しているラーギニールの心情を代弁しているようだが、彼女は彼女でかなり浮き足立っている。その愛らしい目はとある人物を探していた。

「ねえ、例のお方はどこにいるかしら?」

 もちろん、レィダヤのことだ。

「さあ……」

 言いかけて、エプィヌはすぐに口をつぐんだ。探す手間が省かれたからだ。これほど人が集まった場所ですら、平凡な容姿は案外目立つのだった。

「いました」

「えっ!」

 自分から言い出したことなのに、リィリィアーナは赤面し始める。好奇心が先行し過ぎて、心の準備の方はまだまだなのだろう。

 おかしなことに、メルセンまで目の色を変えて背伸びをし始めた。そんなことをせずとも、武人だけあってこの場の誰より背が高いほどなのに、よっぽど興味があるのだろう。

「ほら、葡萄色(えびいろ)のお召し物の、こちらに歩いて来る方です……」

(まさかまさかだけど)

 エプィヌは呆気に取られつつ、しげしげとリィリィアーナの表情を確認した。

(この感じは……)

「やあエプィヌ、似合っているじゃないか」

 葡萄酒の銀盃を持っていない方の左手を軽く挙げ、青年は優雅に会釈した。着飾った人々に溢れ、目がちかちかするような場にあっても、そこだけ発光していないのが彼の個性だろう。しかし、一切の違和感なく完全に溶け込んでいる。卒がないと言うべきか。育ちの良さとはこういうものなのだな、と改めて思わせられる気がした。

「ーー申し遅れました。わたしはレィダヤ、レィダヤ・ラ・ソベクです」

 きざな名乗りをしたかったために、先にエプィヌに声をかけたのだろう。

(見え見えなのよ)

 エプィヌは心の中で苦笑した。

(そんなに構えなくても、良かったのに)

 その証拠に、リィリィアーナはうっとりした顔付きで彼を見つめていた。普通過ぎて逆に珍しかったのか、それとも、人当たりの良い柔和なところに惹かれたのかは判別できないが、これは喜ばしいことに違いなかった。

(まあ、夢に見ていた王子さまだものね……)

 良い話ばかり吹き込み過ぎたと思ったが、もう遅い。エポナは近いうちに婚礼のための花嫁衣装を縫うことになるだろう。

(その前に、ユディトさまがどうお考えになるかだけれど)

「ーーあたくしは、リィリィアーナ・ディティ・ラウルですわ」

 いつもは溌剌としている彼女だったが、もじもじとエプィヌの背後に隠れようとする。

「お目にかかりたいと思っておりました。今宵一夜、お相手願えますでしょうか?」

「えっ」

 甲高い声を上げたのはリィリィアーナではなくメルセンだ。

「一夜……」

「いやぁね、お兄さま。レィダヤさまの踊りのお相手、お受けいたしますわ」

 従兄弟が代わりに卒倒してくれたおかげで、リィリィアーナは林檎のように真っ赤になりながらも、少し落ち着いたようだった。

「ありがとうございます」

 にこっと笑みを振り撒くと、レィダヤはリィリィアーナの手を取って歩き出した。

「エプィヌも楽しんでね」

 そう言って片目をつぶる少女は、さっきよりも格段に美しくなっていた。恋とは恐ろしいものだ。その姿を指を咥えて見送る男は数知れず、レィダヤの後になんとか申し込みができないものかと、悔し紛れの囁きが耳に入って来た。

「早く誘わないからですよね」

 エプィヌは、なんとなくメルセンに同意を求めた。

「そうだなぁ。まあ、悪くない縁だよな」

 彼は盃をぐいっと煽り、鼻の頭を染めながら返答する。

(この人も、しょうがないわね)

 お兄さまと呼ばれているからこそ、やすやすと出て行けないのだろう。

「火山灰を水や石灰と混ぜた素材。非常に頑丈。それなのに粒子がきめ細やかだから上品さに欠けない。柱が八つ。天井は、上に行くに従って八角系から丸い半球状になって……」

「にしても、ほんと、上の空だなぁ。おまえは気楽で良いよな」

 うわ言のように分析を繰り返すラーギニールを眺めながら、メルセンは、自分はちゃんと冷静だと言い聞かせているようだった。さっきからしきりに葡萄酒をおかわりし、舞踏会本番に差し掛かるまでに酔ってしまわないか、見ていて心配になるほどだ。

「さて、わたしも……」

 ややふらつきながら、彼は卓に盃を置いた。

「一夜の相手を見つけて来なければな」

 その背中を見送るのは、なんとも言えない気分だったが、しかし、と残されたエプィヌは、ラーギニールの隣で顎が攣りそうになりながら思う。この天才が夢中になるのも無理はない。離れの構造は摩訶不思議で、つい、その美しさの所以を見極めようと上ばかり見てしまうのだった。

 それぞれ半円球の天井を持つ、複数の小部屋のような建物が連なり、その中央に、宴会場と舞台を設えた巨大な八角形の空間がある。小部屋には円形の窓が開き、空が見えるのだが、夕陽が硝子を通して輝きを強め、上部から光線となって差し込んでいた。“水上舞踏会”と銘打つだけあり、小部屋の一つから流れ出した人工の滝が、人の歩く回廊を避けて中央へ注ぎ込み、全体が明瞭な空気で満たされている。

「すごい……」

 自然と声が上がった。泉など、まるっきり自然のものと似通った造形をしているので、ここがどこなのか分からなくなってしまう。こんな地上から離れた場所にあるのだから、人の手で造られたのには違いないのだが。

 肝心の舞台はといえば、白で塗り潰された空間において異彩を放っていた。艶が出るまで丹念に磨かれた木の板は、切り出されてすぐに設えられたからか、まだ僅かに薄赤く、その周りに巡らされた勾欄は、異国の様式を取り入れてなのか朱に塗り上げられている。四隅には蓮を模った装飾があり、どこに目を向けても等しく美しい。

 さすがのエプィヌも、実際の会場を見てしまえば、なんとなく風情を解した気分になって来た。

 今度はきちんと食事を楽しもうと思った矢先、隣に佇んでいたラーギニールが、その手から皿を取り落としそうなのが目に入った。

「危ないじゃない」

 魂が抜けたようになっていた少年は、横から急に伸びて来た手に驚き、正気を取り戻したようだった。

「びっくりするじゃない」

「それはどっちの台詞よ。こんなところで粗相したら、御曹司が聞いて呆れるわよ」

 多少むっとしたのか、ラーギニールは頬を膨らませかけたが、人酔いする質であることを急に思い出したのか、げっそりした影が差して表情を曇らせた。その唇が、微かに動く。

「ーー晶死病(しょうしびょう)の鎖国が終わってこちら、海洋諸国との交流を盛り立てようと色んな文化を取り入れたりしているみたいなんだ。この舞台の有様がそれを示している。王が許せば変わる。今の王は、殿下のお父君は破天荒なところがある人だ。こういう、ほんの少しの動きが積み重なったら、大きいうねりになると思うんだ」

「……そうね」

 エプィヌは驚きをもって相手を見つめた。突然何を言い出すかと思いきや、感心するようなことを口にするのだ。

 それを受けて、ラーギニールはひどく青白いながらも、少しばかり微笑んだ。

(無鉄砲だけど、考えなしでは決してない……)

「あなたは、現状に光を見ているってことね」

「ぼくは、平穏にやってたいだけだよ」

 日が暮れようとしても、数日前に比べて格段に気温が高い。水の匂いから、湿気から、生命力や新しい木材や花の(いき)れが立ち上っていた。宴はまだ序章に過ぎない。

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