第四章 水上舞踏会 (2)
「学舎での学びに、何か目新しいものはありますか」
ラズワルドは目録の整理をしながら言った。新たに何冊か本が入ったらしい。結構な分厚さがあるが、特殊な速読の術を身につけているため、目を通すのにさほど時間はかからない。毎秒一頁、紙に並んだ文字の全体像を目に焼き付けるようにして概要を掴み、違和感のある箇所を拾っていくのだという。その方法が使えれば学問に活かせると思い、エプィヌも真似て挑戦してみたが、内容を版画のように脳裏に写しとるなど、無理な芸当だった。しかも、彼は一度読んだものを忘れない。何がどこに収まるべきかを瞬時に判断し、分類番号を振っていく。王宮司書は並の人間がなれるものではないのが明白だ。
世襲制では求められる能力に見合う者が生まれるかどうか不確実であるからなのか、建国よりずっと、王宮司書は王国全土より志願者を募り、難関試験を潜り抜けたたった一人が後継となることに決まっている。一次、二次、三次の学科選抜を通過した者は最終選抜に臨むが、それは、常人には朝から晩までかけても読破がかなわない本を、定められた時間内に精読。一万字、千字、百字に要約し、分類を与えるという特殊な実技試験だそうだ。もともと知っている本では意味がないため、学舎の教授が新しく著したものや、海向こうから取り寄せた異国の書物の訳本を使う。受験資格があるのは二十歳まで。後継としての教えを受け、次世代となり得る年齢ということなのだろう。ーーそして最も大きな制約は、天涯孤独であることだ。家族のある者は、大志のために縁を全て捨てる。決して叶わないと言っても憚りない夢のためにそこまで打ち捨てられるとは、どれほどの覚悟なのだろう。だから、能力だけでなくその心根においても、並ではないのだ。
エプィヌは、自分の周りにはこういう天才が、なぜかひっきりなしに登場することを苦笑しつつ、かつあまり自分と比べないよう努めつつ、職務に忠実である少年と同様に、古文書に目を落とし続けた。『司書賢人録』の翻刻は一苦労だ。複雑な崩し字のおかげで目がちかちかする。疲れから、内容はほぼ拾うことができず、視線がただ文字の上を滑っているだけになっている。もはや、どちらが先に音を上げるかの我慢比べだった。
「規範に沿った学問にどれだけの意味があるのか、その観察をしている段階ね」
「なかなか辛辣ですね」
「だって……」
エプィヌはついに巻物から顔を上げ、筆でとんとんと自らの頭を叩いた。ラズワルドの集中力に勝てるはずがない。勝手に始めていた勝負に、勝手に負けてしまった。
「良家の坊っちゃんたちは、学舎なんて腰掛だし、規範に捉われている意識すらないんだもの」
ラズワルドは一瞬こちらを見たが、何も言わずに再び本に目を落とした。
「それが普通なので、エプィヌの言うことをすんなり受け入れる人がいる方が驚きですよ」
「でも、それって研究とは言えない。他の学問にも似たような決まりがたくさん……。これでは文明が衰退するわ」
言ってしまった後でひやりとしたが、少年は特に何を指摘するでもなく、淡々と紙を捲り続けている。
「王宮司書としては何も言えないですね。ぼくは、きちんと規範に沿った学問成果かどうかを判断する役割にありますから」
「その検閲にかかった場合はどうするの?」
エプィヌは、ラズワルドの手元にある本を見つめる。その物騒な単語は何度と耳にしたが、いざ規制されるとなればどんな仕打ちが待っているかはまだ知らない。
橙色の灯でふんわりと浮かんで見える少年の細く白い指が、またぺらりと紙を次へ送った。
「もちろん発禁処分」
言葉が途切れる僅かの間に、続いてもう一頁が摘み上げられる。
「著者の出頭を求め尋問する」
形の良い繊細な指先が、質感を確かめるように紙の隅をかさりと擦る。一言発するうちにも、彼の脳は休まず情報を吸収していく。本当に超人的に器用だ。頭の右側と左側で、別々の人が違うことを考えて行動しているのではと思えるほどに。
「以降、定期監察対象。出頭に応じない、思想の訂正を拒否する等、従わなければ禁書処分、著者を捕縛し尋問、場合によれば極刑も免れない」
そう一気に言ってのけた後、ラズワルドはおもむろに顔を上げた。
「俗に言う魔導書ですよ」
「魔導書って……」
目の前に火花が散った。
(ーーここでも、魔法が)
レィダヤと話したことで、なんとなく分かってきたことがある。
(人には、受け入れがたい考え方や現実というものがある)
それだけが魔法の全てではないにしろ、一つの姿であることは確かだろう。
「ーーこれまで、禁書処分に遭った本は?」
いくらか緊張しながら、エプィヌはラズワルドを見つめた。
「ぼくの代になってからは、まだ」
彼はぱたんと本を閉じると、筆を執ってさらさらと目録を書き付けた。内容には問題がなかったようだ。類・綱・目と順に数字を割り振り、検閲を終えた本の山の一番上にぽんと置く。
「大概、人生に一度や二度は発禁処分を下すらしいけれど、多くの著者は刑を恐れてすぐに引くから、本ごと財産を全て燃やしておしまいです。逃亡することもあるけど、それも同じこと。この国の火犬は非常に執念深く、残酷で優秀ですから」
エプィヌは肩を上げ、腕をさすりながら首を捻った。寒いわけでもないのに、少し鳥肌が立っている。
「火犬って、絶滅したと言われている漆黒の獣のことよね?」
雲の峰の奥深い峡谷で捕えられた個体が王に献上された最後の記録は、もう三十年は昔のものだ。
「治安維持のため市井に紛れ込んでいる諜報官というか、表で動く殿下の部隊とは別に、そういうのがあるんです。一応はぼくも彼らを指揮する権限を持っているらしいんですが、接触はありません。定期的に烏を使って報告が届くくらいです。殿下が取り仕切っているのか、それとも独自で動いているのか……」
火犬の外見はオオカミによく似ているらしい。しかし、図体はその倍近くあり、ぬらぬらと光沢の強い毛質が特徴だ。今は黒煙を上げながら眠っている雲の峰の火山活動が活発だった時代、火に強い毛皮を求めた狩猟者に乱獲され、種が絶えたと聞く。
伝承には、獲物を狩る能力の高さや、群の秩序を維持する独特の方法が語られている。彼らは十、二十頭ほどの血統による群を形成しており、その中での序列は厳しく定まっている。下位から中位の個体で獲物を中心とした一帯を包囲し、じわじわと距離を縮め、退路を断つ。上位の強い個体は、仲間が作った円の中に飛び込んで、混乱に陥った獲物に襲いかかって仕留めるのだ。火犬の名の由来には、その毛皮が燃えないという側面が強いが、狩の際に物音を立てず、姿が見えた時には刃が喉元まで迫っているという、野火の如き速さに例えられたとの一説もある。
(ーーそう考えると、とても恐ろしい名だわ)
興味の赴くまま気付かずに、あるいは意図して一線を超えようとする時、その者は、次の瞬間にはもう……。
そのような闇中の刺客集団が存在するなど、文献にはもちろん記載がない。ということは“存在しない”のと同義だ。博士といえど、知っていたかどうか。
(もし知っていて、ないものとして切り捨てるのって、歴史家と言えるのかしら)
伝承は文学だとしてほとんどあてにしない歴史学の典型では、土に這いつくばるような博士のやり方が邪道だと見られるのも無理はない。ーーそんな彼が、見聞きしたことを書き残さないわけがない。
(存在しないものを意図的に作り出すことは歴史家としてあり得ない。そんなことがあったら、史実を操るのと一緒じゃない)
「そんな山羊みたいに……」
呆れた声が聞こえたが、エプィヌは貪るように紙に顔を近付けて離れなかった。ほんの少しは意地になっていた。
(国中の書物を一掃するというのが、アハルテケがターリアから受けた命。天災に端を発し泥沼化した魔狩りを鎮めるには、人心を惑わせ狂わせる魔を排除すれば良い。魔導書を炙り出すよりもっと早く、確実に。ならば全てを燃やせ。そういうことなのね。だけど……)
魔狩りに至ったわけは、やはり人の心に潜む無知ゆえの恐れ、その一点にしかないのだろうか。確かに、不安は伝染するものだ。にしても、レギン王は贅の限りを尽くした悪王と評価されるが、その王を廃してまでターリアが成したかったのは、魔狩りの鎮火だったということなのだろうか。
ーー□□□の遥か奥地、さらにその彼方、とある険しい峡谷に暮らしていた□□の一族は、ある時火の濁流に襲われ、多くの親族と住み処を失った。父を失い、一族の長となったのは、ハテヌという、うら若き娘であった。彼女には、□□□□□□□□□しか残されていなかった。ハテヌは、□□□を率い、かねてより夢見ていた、ふもとに広がるという豊かな国に下ったが、その土地もまた、雲の峰の黒煙の害を受け、窮地に立たされていた。その国の、神の末であるという王ヴィトは若く、ハテヌは美しかった。恋に落ちた二人は手を携えて国を守ろうとし、□□□□□□□□は、□□□□□をし、後の世にわたって末永く□□□□□を□□□□□□と誓ったのだった。
王ヴィトとハテヌの婚姻から二百年の後、□□□□□□□のうち、もっとも若いターリアが、レギンのもとで□□□□□いた。ターリアは王と考えが食い違い、ついに王を殺害し、一角獣の国軍を解散させる法を作った。聖騎士たちは□□□□□□□□□□□に従う者であり、それを受け入れざるを得なかった。ターリアは神の血を引く王族を滅ぼし、自らの名を王国とし、王を名乗った……。
元は国外からやってきたハテヌと十四人の知恵者により、フェンサリルに高度な学問が流入した。不思議な巨大な装置で火山灰を避けたり、水道橋で王都を潤したり、そんな技術を見せられれば、人々は魔法だと思うだろう。恐れつつもありがたがっただろうし、真似をする者も少なからず現れたのではなかろうか。魔狩りに至る歴史は、単純なものではないのかもしれない。
(ーー分からない)
エプィヌはラズワルドの手前、ずっと集中しているように見せていたが、珍妙な文法にぶつかり、全く先に進めずにいた。主語がないので、前後の文章から推測するしかない。意味の拾えない単語が続いているが、これも鍵文字の一種だろうか。これを解読しないことには、何も始まらない。
こんな時に博士が生きていれば、と思わずにはいられなかった。
(ロギ師に相談できたなら……)
エプィヌはつい落胆した。
ロギ師は、非常に規範に忠実な人だ。彼だけでなく、王立学舎で教鞭を執る者なら誰でも。見たこともない文字を前に戸惑い、おまけに、やっていることを知れば必ず咎めるだろう。
「どうしたのですか?」
ラズワルドは、エプィヌが小さく溜息を吐いたのを目ざとく見つけたようだ。
「細かい字を見続けて目が疲れたのですかね」
「それなら、あなたの方が疲れていそうだけど」
観念して天井を仰ぐ。軽口を叩きながらも、本気で笑うことなどできなかった。
(疲れているんだわ……)
「分からない部分があるんだけど、こういう時、誰の教えを請うこともできないのは、あまりに無謀だと思ったのよ。わたし一人で、死ぬまでにやり遂げられるのか? って」
王宮司書の前でそれを言うのは甘えかもしれないが、自分とて孤独だと声を張り上げて嘆きたい気分だった。
「歴史ノ賢人は何かエプィヌに遺しているはずです。それに、何もエプィヌが一代でやりおおせる必要はないし、できるものでもないと思います。知恵が途絶えないよう探究し続けること、継承することが務めなのであって」
同情するでも鼓舞するでもなかったが、ラズワルドのあまりに意外な言葉は、凝り固まった思考にひびを入れるのに十分だった。
エプィヌは思わず首を起こし、彼を見つめた。
「道半ばの結論でもいいの? あなたにとって」
「そういう知恵の血脈は、誰が何を成し遂げるという結果が全てではないと思います」
さも当然、と言うように目を瞬かせた少年は、相手の反応を不思議そうに受けながら、淡々と続ける。
「だけど、それよりもぼくが気になるのは、先代歴史ノ賢人が、継承を途絶えさせても良いと考えるほどの何かです」
エプィヌには、彼が何を言っているのかがいまいち分からない。
(あなたは、何を見ているの?)
彼は本の中身をするりと飲み込む時のように、いつの間にか、深いところまで、物事を見通してしまうのだろう。底光りする瑠璃色の瞳は、灯のおかげで、湖面が月を浮かべたように見える。ーー紺碧の夜の色。冬の澄んだ静寂に氷が張る。世界を映し出す鏡に変わる。それは、一石を投じると割れて粉々になり、鋭利な輝きがどんどん無数に増えていくような、底知れぬもの。エプィヌは少し恐ろしかった。無知は恐怖を生む。自分に見えない何かを見る人は、恐ろしい。それが良く分かる。
卓を挟んで目の前に座るラズワルドが、ずっと遠いところにいるような気がした。
「そんなものがあるのだとしたら、それは直近の未来においてエプィヌに関する何かが起こることを示唆している気がします」
息を吸うと、渇いた喉がひゅっと音を立てた。
「ーー博士は、わたしを弟子と呼んでくれたわ」
「そうですね」
「博士の教え方がまわりくどいだけだったのかもしれないし、積極的に全てを注いでくれたわけでもなかった。でも、わたしが尋ねることについて隠し立てはなかったわ」
「学問に対して敬虔な方だったのでしょう」
年若いのに、老成した落ち着きようだ。ノルドが遠くを見る時と同じ瞳をしている。
『主のもとで、思うことを、存分にやってごらんなさいな』
青い瞳を持つ者たちが、順番に脳裏を駆け巡る。
『そのために、わたくしめの主は、あなたさまをエンドラッドにお呼びになったのですから』
『ペリドットは、類稀なる歴史学者だった。彼の遺したものを、決してそのままにはしておけないわ』
(女史は繋ぎ止めておこうとしたのかしら。博士が手放しかけたものを)
ベールの下に覗く女史の漆黒の髪が風になびく。かと思えば、ラーギニールの造った滝の、清涼な水音がざあと甦った。通り雨のような鮮烈な感情と共に。
『その人は本当に、あんたを歴史学者にしたかったのかな』
王子の言うことは、エプィヌを惑わせるばかりだ。女史の迷いを代弁しているに過ぎないのかもしれないし、翻弄して楽しんでいるだけなのかもしれない。けれど、ここへ連れて来たのは、紛れもなく彼だった。
(そして、今目の前にいるのは、確定的なことを臆せず言う人)
「エプィヌ自身が発見すべき何かがあるような気がしませんか?」
ラズワルドは学徒に問う教授のような口ぶりだ。
「エプィヌが自ら望んで、それだけの力を持ち、見出せたとしたら。その時は運命なのだと考えていたのでは。真実を大切にする歴史ノ賢人としては、突飛な考えかもしれませんが。ただ、エプィヌに養女だからという気負いをさせたくない気持ちや、将来を限定してしまいたくない親心はなんとなく想像がつきます」
「ーーあなたも人の心に思いを馳せたりするのね」
ラズワルドの言うことは、よくよく聞いてもすっと理解できるものではなかったが、博士が弟子として以上にそう思ってくれていたかもしれない可能性は、意外なほどすんなり腑に落ちた。博士が学問に私情を挟む人であるか否かは別として、それは……。
「……それはちょっと失礼ではないですか」
いざとなると言い返せず、もごもごと口ごもってしまう少年は、博士によく似ている。だから、そうかもしれないと思うのだ。
「お世話になっているラウル家の跡取り息子が、あなたに似た性格なんだけど、もうちょっと想像力というか、思いやりみたいなのがあった方が良いと思うのよね。人の心というのは難しいものね……」
見つけなければならないものは多い。
(わたしは中継ぎでも良い、途絶えさせないのが務め?)
作業を終えたラズワルドは立ち上がり、「閉館」の札を出しに行った。訪れる者がなくとも、掲出しておくのは決まりなのだという。その背を、エプィヌはただただ疲れ果てて眺めていた。
ヨークまで遣いに出ていた家人の若者は、数日前にようやく、六台の荷馬車を引き連れてラウル家に戻って来ていた。
「なんのなんの、ご当主さまから特別な大役を仰せつかっただけで光栄ですのに」
礼を言うと、彼は欠けた前歯をにいっと剥き出して照れたように笑った。ラウル家の家人とあって、口を閉じていれば美形なのだが、大人しくはできない質のようで、だいたいいつも少し歯を覗かせている。ノルドが信用を置いているのはどんな具合なのかは分からないが、何事にも愚直な質は一挙一動から見て取れる。
その家人ーーサガンによると、博士が地下室に遺した本や石盤、粘土盤を全て積み込むだけでも一苦労で、仕方なく付近の丘の人を数人雇ったらしい。ついでに、追加で馬車一台と馬二頭も調達して荷運びの足しにしたものだから、ユディトから与えられたふんだんな路銀を想定外に使い果たしてしまい、ひもじい思いをしたということだった。
異端の碑壁や日の眠るところを越えるのに、春の長雨は邪魔ばかりする。旅は、サガンがその口で語ったよりも遥かに困難を極めたはずだ。
(それにしても……)
ヨークの丘の人の世界では近頃でも物々交換が喜ばれるものだが、おそらくは屋敷仕えの者を雇ったため、主人の草原の人々に法外な金額を提示されたのだろう。古城に行けば、今でもガマとラーダが時々は掃除などをしてくれているはずだ。
(文でも出して手伝いを頼んでおけば良かったわ)
そうすれば、世話になった彼らの生活も少しは潤ったのに、とエプィヌはほぞを噛んだ。
「いやぁ、それにしても、多いですねぇ」
サガンは積み上がった紙の束と背比べをしながら言った。彼の背はそれほど高くない。作業をするならと自ら踏み台を持参したほどだ。
「こんなミミズが這ったみたいな字、全く読めませんねぇ」
エプィヌは休日を利用して少しずつ書物の分類分けや整理に取り組んで来たが、書架に収める段になるとやはり人手が欲しかった。見かねたノルドが命じて、サガンを手伝いに寄越してくれたのだった。
彼は、読み書きは一通りできるが、文字がいくつか並んでいるのを見るだけですぐに頭が痛くなるし、書かれてある内容にも一切興味がないという。助っ人にはもってこいの人材だった。
「ここからここまでが歴史、あとは文学、地誌、民俗です」
「みんぞく?」
耳慣れない言葉に、サガンは奇妙な顔をする。
正式に言うとそのような学問は分類法に存在しないのだが、特に説明をする必要もないので、エプィヌは入口の辺りから部屋の奥までを順番に差し示した。
「背表紙に札を貼ってあります。数字が小さい順に積んでありますので、その通りに左から右に配架して下さい。後は、本の背を棚の端に合わせて、でこぼこしないようにお願いします」
軽く説明し、手近にあった数冊を並べて見せる。ラズワルドから分類のやり方を簡単に教わったので、応用してみたのだ。
さすがに、彼のように全ての内容に目を通し、頭に入れているわけではないが、研究書が主なので、扱っている時代や事柄は、表題や章立てから端的に分かるようになっている。その筆致は博士のものもあれば、異なる誰かの手によるものも多数あった。それらはいずれも紙が古いため、過去の歴史ノ賢人たちの遺した成果物だろうと思われる。
サガンはふむふむと神妙な顔で受け合った。
「深く考える必要がないならできそうです」
すぐに作業に入った彼は、要領よく本を並べて行く。エプィヌは手際に感心しつつ、しばらく様子を見届けていたが、心配はいらないようだと判断して、自らはまだ札を貼っていない本の分類付けに取り掛かった。
博士の研究は歴史に収まらない部分が多分にある。エプィヌが「民俗学」と仮に分類を付けたのは、博士が長年ワァヤンから丘の人の伝承を聞き取り、信仰・儀礼・社会・経済などを包括的に捉えた研究記録だ。さらに、彼らの営みと草原の人々の文化を対称的に考察し、価値観を異にする人々の思考や行動様式に照らしつつ、多方面から王国の歴史を炙り出そうとする試みを窺い知れる資料が残されている。これはまた単純に「民俗学」と名付けて良いものかと迷うところがあり、頭を抱えている。
(これは、ラズワルドに知らせる前にわたしがきちんとしておかないと)
エプィヌの本能が、ひっきりなしに警鐘を鳴らしている。オオカミが来襲した時、ヴィーヴェランの丘の麓で鳴り響いていた、甲高く耳に突き刺さる鐘の音だ。ーー魔導書と呼ばれるだろうか。十四の学問分類からはみ出したものは、どう判断されるだろう。
(ないものとして扱ってしまえば良い)
そうは思っても、主義に反する。博士は黒塗りになった建国史の再編のため、足りない要素を補う方法を編み出したのだ。
(なら、これを完成させて、“有るもの”にしてしまったら良いの? これが正しい歴史だと、提示できるものがあれば)
歴史家としてあってはならない思いつきだが、何度考えても、避けては通れない。知の探求は袋小路で、崇高な心意気を果たそうとすればするほど、諦め、発見を鎖ざす決断が迫られるのだ。ーー博士はどう折り合いを付けたのだろうか。生涯で出版物を出さなかったのは、そういうことなのだろうか。
「エプィヌさま」
気付かぬうちに、サガンが傍に立っていた。
「ご当主さまが呼んでおられると、下女がやって来ました」
顔を上げた時、眉間に皺が寄ったままだったらしい。彼はそれを指摘して一切の遠慮なく笑った。
「わたしの方は今のところ問題なく作業できそうですから、行ってきてください。分からないことがあったら変なことをせずに手を止めます。あっ、疲れたら勝手に休むかもしれません」
こちらから言いにくいであろう要望を、自ずから察知して申し出てくれた。気が回るのだ。ノルドが重用するのには、こういうわけがあるのかもしれない。
「ありがたいです、本当に」
エプィヌが頭を下げると、サガンは慌てて首を振った。こういうやりとりが多いので、最近は必要以上に遜るのは辞めようとしているが、今回は別だ。
「お願いします」
「ユディトさま、エプィヌさまをお連れ致しました」
下女が声をかけると、内側からゆっくりと扉が開かれた。
「エプィヌ、いらっしゃい」
「失礼致します」
中には、先客がある。所在なさげに佇むラーギニールと、なぜか頬を紅潮させているリィリィアーナ、そしてもう一人はバラクの息子のメルセンだ。彼は二十歳で、十代の頃から幸運にも近衛として王に仕えている。宿直があるので、顔を合わせるのはごく稀だ。
エプィヌは勢揃いしたラウル家に若者らの隣に、少し距離を置いて立った。
「さあ、あなたたちを呼んだのは」
女主人は朗らかに言った。
「今年も舞踏会の招待が来たわ」
(舞踏会……)
そういえば、学舎でもそのような話が聞こえて来たっけ、とエプィヌは他人事のように回想した。レィダヤなど、特に意気込んでいたのだ。『もちろん、リィリィアーナと踊るんだ』と……恋人気取りなことすら口走っていた。
しかし、彼がとても良い人であることをリィリィアーナにそれとなく伝えてみたところ、以外にも、少女は興味をそそられたようだった。決められた相手との結婚になんとなく怒りを覚えたものの、それがどんな人なのかは気になるし、元来深層のお嬢さまで男性との出会いのなかった少女だから、甘い空想ばかり膨らんで仕方がないといったところだろう。
(レィダヤさんと踊る気でいるみたいで良かったわ)
エプィヌは、なぜかほっとした気分になった。
レィダヤの父、オドラムは穏やかでのらりくらりとした性格をしており、取り立てて有能でもないと周囲は評価する。強欲な監政官の中で目立たず、粛々と生きて来た人物だ。ただ、風読みを誤らないおかげで、残り十二人の向きをも変えてしまうことがあるという。それが発揮されたのは王弟の叛乱の折だった。
逆臣を王に戴く決断を誰もが尻込みした時、オドラムは周囲に何の伺いを立てることもなく、ふらりと、あっさり王弟に跪いた。監政官の合議制ーー王の不在を良いことに、王国を恣にできるかもしれないと、他の十二人の頭に過った中で、監政官が阿保でいる決断をした。甘い汁だけを吸い尽くし、美味しいところだけを食べ尽くす寄生虫になる決断を。
『長いもの、っていうのはそういうこと』
ラーギニールは臭いものを前にした時のように、冷めた目で鼻の頭に皺を寄せながら言った。
『ナタン叔父貴は、堅実なバラク叔父貴に対して何か屈折した感情を持ってそうだし、反対の道を選びたがるところがある』
バラクは生真面目ゆえ、葛藤を抱えていそうな男だと、ルチーフェロへの接し方を見ていても感じるが、エプィヌには兄弟のそういうややこしい関係が理解できない。しかし、私情でここまで回ってしまう政を、大丈夫なのかと思う一方、そら恐ろしいものだと背筋を震わせた。
「ねえ、エプィヌ。聞いていたかしら?」
水を向けられ、さらにぴくりと肩が上がる。
「え、あ……」
「聞いてなかったね」
ラーギニールが人の悪い突っ込みを寄越す。
「とにかく、今年は四人で参加。エプィヌ、あなたもラウル家の娘として出るところに出てもらうわよ」
やはり、聞いていなかったも同然だ。驚いて声を失ったエプィヌに、ユディトは息子に劣らず容赦のない言葉を投げかける。その頬に、不敵な笑みがちらりと浮かんだ。
「ラーギニールのお守りはあなたにしかできないのだし」
全くそんなことはないと否定したい。彼は言うことを聞くどころか、逆に面倒を見ているつもりでいる。
(……だから、かしら)
黙って聞いていたリィリィアーナとメルセンも、我慢ならなかったのか吹き出した。
「ラギを引っ張り出すのは至難の業よね」
「そうだな。わたしたちには役不足だ」
二人は顔を見合わせ、頷く。
「王が貴族の子女をもてなし、親睦を図る会。王子がどこの娘をお手付きにするか、どこの息子と娘が踊るのか、遊びだからと軽く見ちゃ家が傾くからね」
メルセンの口ぶりはレィダヤのように物腰柔らかだ。その父の厳格さが全く受け継がれていない。そして彼は、エプィヌがあからさまに困った笑みを浮かべたことにも気が付いていなかった。
「さあさあ、難しい話は抜きにして」
ユディトが流れを打ち切って手を叩くと、奥にあった衝立の向こうから、彼女の侍女とお針子がきびきびした歩みで現れた。
「お待ちかねの衣装選びよ」
それに歓喜の声を上げたのはリィリィアーナ一人で、ラーギニールとメルセンは即座に、目に見えてうんざりといった表情を浮かべた。
そんな息子の反応をよそに、さっそくユディトは侍女とお針子、数人の下女に手伝わせ、極彩色の布地の詰まった行李を山ほど運んできた。
それに飛び付いたリィリィアーナは、商人が品を吟味する時のような目付きに変わる。着飾るのが好きとは知っていたが、これほどまでとは思っていなかったので、エプィヌは呆気に取られてしまった。
そんな様子に気付いたユディトは、急かすように言った。
「あなたも選ぶのよ」
どれを見せられても、エプィヌは目がちかちかして仕方がなかった。今こそ、貴い身分人たちと自分とのお洒落の基準の違いを教えられたような気がした。どれも高そうな練絹だ。いくら、博士が良いものを着せようとしたとて、ヨークの露店街では王都ほど高価なものには縁もなかったが、そういったものに不案内だとしても、蚕の繭から一本ずつ細糸を紡ぎ、一反の織物に仕上げるのは途方もない労働だと、想像しただけで気が遠くなる。そのおかげもあり、しまいにはげっそりして流れに身を任せることにした。
リィリィアーナは早々に自らの衣装にする布地を決定し、今度はその目をエプィヌに向けてきた。ローブも邪魔だとして外されてしまい、ほとんど着せ替え人形だ。
「ねえ、ラギはどう思う?」
従姉妹に問われたラーギニールは、壁に預けていた肩をぴくりと動かし、億劫そうに瞬きをした。愛想良く女たちに付き合うメルセンとは対照的に、彼はとっくに疲れ果て、眠気と戦っているようだ。
「……良いと思うよ」
焦点の定まらない目でラーギニールが言うと、ユディトとリィリィアーナは満足げに微笑んだ。
「エプィヌも、自分で見てみるといいわ。とっても綺麗よ」
ユディトにうながされ、エプィヌは腕を持ち上げて、肩に掛けた布地を見つめた。青ざめて見えるほど光る白の地に、金糸と何種かの緑系統の糸で花の紋様を織りあげたもので、息をのむほど美しい。
「飾り帯はね、これ! 目の色と同じ翡翠と、あとは、そうね……透明感のある真珠を散りばめたものにして」
リィリィアーナは多くある帯の中から、すぐに一本を選んで指差した。いつの間にか、衣装選びの主導権がユディトからリィリィアーナに移っている。
「エプィヌはもともと綺麗なんだから、惜しみなく自分を磨かなければだめよ!」
ラーギニールはようやく正常な目をとりもどしたと見え、こちらを見て目をまるくした。
「ーーへえ、綺麗じゃない」
「ね、ラギもそう言ってるし」
ぽんと両肩に手をのせられ、エプィヌは少しばかり頬を赤らめた。リィリィアーナは少々持ち上げすぎだ。こんなに短時間で“綺麗”という言葉を連発されたのは初めてだった。しかし、あのラーギニールも同様に褒めたので、完全に嘘というわけではないはずだった。
お針子は非常に優秀な娘だった。最初に歩いて来た姿を見た時のきびきびした動きそのままに、無駄のない手際でさっさと採寸を済ませてしまった。
「あ、これお返し致します」
きっちり畳まれたローブが、ずいっと差し出される。
「あ……りがとう、ございました」
ぺこりとお辞儀をする少女は、目を合わせることもせずさっさと踵を返してしまった。
(ーーあれ)
自室に残して来たサガンを、ふと思い浮かべた。
(彼に、なんだか似てるわ)
小柄でやや肩幅が広い。丘の人ほどではないが、その血を感じる体格だった。雰囲気はだいぶ異なれど、兄妹ということもあるのだろうか。後で彼に聞いてみようと思った。
「次はお坊っちゃま方ですね」
手に持った巻尺を引っ張りながら、少女はラーギニールとメルセンを交互に見上げた。
ようやく順番が回って来た男性陣は、それほど布地の選択に時間をかけなかった。メルセンもさすがに疲れがきていたようだし、ラーギニールなど、一刻も早くこの時間を終わらせたいと思っているのが明白だった。それを逃がさないという覇気が、少女から醸し出されている。
「お疲れのようですから、巻きで行きますね、巻きで」
衣装については、一通り仕立て上がったら修正を行うという。お針子の少女は、どのような型を好むか、細かな装飾はどうするかを聞き取り、紙に書き付けていった。リィリィアーナは饒舌に要望を語り、ついでにこれといった希望のない他の三人の分にも注文を付けてくれる。
「エポナの感性は本当に素晴らしいの」
纏っている濃い桃色のブリオーの膨らんだ袖口を摘みながら、少女はにっと笑みを溢す。薄くて繊細な基布に刺繍が施された小さな襞の装飾が、タンポポの綿毛ように丸く広がっている。これが他所行きでなくて何なのだろう……。エプィヌには、舞踏会で最上に着飾ったリィリィアーナの姿を想像すらできなかった。
「お嬢さまのお褒めに預かり、光栄にございます」
エポナというらしいそのお針子は、舞い上がる様子もなくほとんど無表情だ。
「それでは、次回も宜しくお願い致します」
道具を小箱に片し、小脇に抱えてから、彼女はきりりと礼をする。それに合わせてユディトが手を叩くと、再び下女が数人やって来て、行李が運び出されて行った。
それを見たラーギニールは、ようやく解放されたと溜息を吐いた。
「貴重な休日に、堪らないよ」
かなり不服そうだ。彼の手にはお馴染みの銀の笛がある。今日も飽きずに水風琴の改良に勤しんでいたのだろう。
ユディトはそんな息子に何か言い足りないことがありそうだったが、引き留めてもどうせうわの空だと諦めたのか、退出を許可した。その時にはすでに、ラーギニールは他の三人より半歩早く動き出していた。
「エプィヌ」
彼らの後に続こうとすると、あなたは少し残って、とユディトは丹の唇に優雅な笑みを浮かべた。
「……はい」
「じゃあエプィヌ、また夕餉の席でね」
リィリィアーナは小さく手を振り、小首を傾げながらくるりと方向転換する。その背を見送って、エプィヌは何を言われるのかと身構えた。
ユディトは顔面に微笑みを貼り付けたまま椅子に腰を下ろした。
「あなたは、婚姻に心は必要だと思う?」
思ってもみない問いかけに、エプィヌは心底怯んでしまった。
「ーーリィリィアーナさまのことでしょうか」
しかし、ユディトはそうだとも違うとも言わない。
彼女は、差し込む日光を遮るように置かれた衝立の側に座っていたが、半分折り畳んで、壁際に押しやってしまっていた。その性格上、気取った雰囲気の会話をするつもりがないという意思表示なのかもしれないが、エプィヌには、それが逆にこたえた。
「ーーそれは、ユディトさまが一番よく分かっていらっしゃるのでは」
平静を装いつつ、正対して、なんとか返答する。なぜ、今こんなことを聞かれるのか。舞踏会を前にして。なんとなく想像はつくが、核心に迫られた時にどう切り返すべきか、エプィヌは言葉を途切らせた一瞬に考えた。
「婚姻は一種の手段ではないでしょうか。高貴の方々にとっては、特に。でも、そこに良好な思いやりが生まれ、愛が芽生えることはあると思いますし、そうなれば素敵ですね」
「あなた自身、求められれば手段としての婚姻を受け入れると?」
ユディトは意外そうな声を出した。妖しげな雰囲気はいちどきに溶け、途端に少女のようなあどけなさが覗く。エプィヌは一度床に目を落とし、それから女当主を見つめ返した。
「恩を受けた身ですから、そのつもりです」
そういう物言いは、もしかするとユディトの厚意を逆撫でするかもしれない。分かってはいても、あえて自分自身から気持ちを切り離すようにしなければ、この魔窟から無傷で帰ることはできないだろう。
「良い駒になれる自信はないですが……」
ユディトがため息をつくと、どこからともなく、憂いに誘われたように夕暮れ近くの風が吹いた。
「しがらみが多くて、嫌になるわよね」
(しがらみ……)
思いがけずその言葉が引っ掛かったのは、規範に足を取られて前に進めない自分にくさくさしているからだ。
(それに、遠回しでも分かるわ)
“王子がどこの娘をお手付きにするか”とメルセンが言った時、胸に小針が差し込まれたような気がした。
「わたくしは、こう見えて、色恋があった方が良いと思っているわ。意外でしょう?」
ゆっくりと足を組み、肘掛けに寄りかかりながら、ユディトは顎先を撫でる。
「だからリィリィアには、舞踏会で好きな相手を探して来れば良いと思っていたわ」
何がおかしいのか、ユディトは目を細め、ますます頬を緩めた。
「あなただって、例外ではないわよ」
(ラーギニールさまやメルセンさまには言及しないのね)
そのあたりには、やはり含みを感じてしまう。こういうことを問うておきながらも、本来は別の狙いがあったのだと。
こくりと唾を飲むと、僅かに顎が上がる。すっと吸い込んだ空気が震える喉の奥を通り抜け、肺を冷たくした。彼女との間に横たわる衝立の影が、何か絶対的なものに感じる。それが、彼の人との距離なのだと突き付けられるようだった。
「好きになさい。想定外だったこちらの落ち度だわ。ラウル家の養女なら、皆、目を瞑るでしょうし。それに、認めなければ、あの子は色々と強行手段に出かねないから。ただ、心に留めておきなさい」
やはり、勘付いていたのだ。分かってはいたけれど、それを直接口にされると動揺が止まらなかった。全身が熱い。心ノ臓がうるさく脈打ってのたうち、恥ずかしさが身も心もを無遠慮に暴き、舐め回す。
耳から首までを真っ赤に染めた自分を、相手はどう見ているだろうと、エプィヌは、唇を引き結んで考えた。
光を背にして、ユディトの瞳は暗く反射がない。足元の絨毯と同じ濃い深い青は、見つめれば見つめるほどまんじりともせず、こちらを追い詰めてくるようだ。
「恋には政を動かす恐ろしい力がある。一度恋を自覚すれば、その日から、乙女は純真のままではいられないわ。実を結んだ恋が泥に塗れ歪に腐っていくのを見届けるか、花弁を萼の中に閉じ込め続けて、美しいまま咲かさずにおくのか、いずれか選ばねばならないのよ」
なぜか、胸にせまる言葉だった。痛いところを突かれたと言ったほうが適切かもしれない。それはとっくに、頭のどこかでは分かっていたことだったのだ。
「恋、なのでしょうか……」
エプィヌは沈んだ面持ちで言った。ゆっくりと掌を結び、どくどくと音を立てる胸に当てる。
「そうではないの?」
「わからないのです」
ユディトの言うことは正しい。彼の人を受け入れた日から、何かが変わってしまったと思う。最後にこの手に何も残らないとしても、触れずにはいられなかったのだ。それが色んな欲と計算に裏打ちされて、突き進んで良いという指標になってしまった。
「心惹かれることは全て恋ですか? ただ一人の人を思うとはどういうことでしょうか。わたしは愛を知らないわけではありません。博士がいましたから。でも、それは家族の愛だから、それ以外の感情の境界が分かりません。それに、わたしに選ぶ権利などないのではと思うんです。拒むことなど思いもよりません。どんな口調だろうと言葉だろうと、命令に他ならないというのが真理ではないでしょうか」
何を言おうが言い訳に他ならない。
「悲しいかな、そうよね」
長く重々しい息を吐いて、ユディトは首を振った。
「あの子といえど、王子だもの」
どこか憐れみを湛えた声色が、ぎゅっと胸の奥底をつねった。
「あの子の母親は、もともと身分のないに等しい家柄だわ。それこそ城内の事情を知る者にたくさん非難されたでしょうけど、国王は全てを捩じ伏せてきた。あの子はそれをずっと見ている……手に入れたいものを、力尽くで奪い取る様子を」
それが叛乱の種であり、王国を揺るがしたのだ。いくらルチーフェロが破天荒だからといって、同じことをしでかすほどの熱量が自分に向いているとは思えない。しかしユディトは、エプィヌのその考えを見抜いているようだった。
「王弟と共に一度没落し、王弟と共に復権したラウル家を、良く思わない臣は少なくないわ。もしも、あなたが王妃になったらどうなるかしら? ルチーフェロの信任が地に落ちるかしら、ラーギニールが敵だらけの将来を送ることになるかしら」
エプィヌは愕然とした。そのことに、自分で驚いていた。
「……あのお方は、そのつもりは、一切ないと思います」
ほとんど心に言い聞かせるように、喉の奥でつかえる言葉を押し出す。ーーあの王子には、荒波をむしろ喜びそうな危うさがある。けれど、ラーギニールにはそれがない。二人の道が、いずれ分つ時が来るのかもしれない。
「ーーあのお方は、ラーギニールさまを弟のように思っておいでです。ラウル家から妃が出れば、それが氏のない下賤の生まれの女だと分かれば、ラウル家の名は地に落ちます。あのお方は、ラーギニールさまを犠牲にはしない」
エプィヌがあまりにも切実に訴えるのを見て、彼女は気を削がれたような表情になった。しかし、すぐに普段の明るい笑顔が浮かぶ。
「そうよね、あなたは賢明な娘のはずですものね、そう……でしょうね」
確信的なことを何一つ言わないのに、この人には屈さずにはいられない。本当に魔女のような人だ、とエプィヌは思った。




