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第四章 水上舞踏会 (1)

 王立学舎の一日は、城内に住む寮生を中心に回っている。彼らが朝餉や掃除などの当番を終えた後、講堂で朝礼を行うのに合わせて、通いの学徒は馬車の列を作って王城の門をくぐる。学舎は玄関前に大きな庇があるおかげで、奥の講堂まで、雨が降ろうと一つも濡れずに済むようできており、そこには、降車の待機列を整理する者の姿まで見られる。とはいえ、身なりからすると教授見習いか、城勤めの文官か何かなのだろう。そこらの平民ではおいそれと手の届かない、貴重な眼鏡をかけている者までいる。彼らはやっつけ仕事のように小さな旗をぱたぱたさせ、学徒が降りるのを待つか待たないかで次、次と御者に合図を送っていた。

 エプィヌはと言えば、ラーギニールと肩を並べて馬車に揺られ、無言に耐えかねていた。窓の外では幾多の車輪の音、馬のいななきが絡み合って響く。それがだんだんと近くなり、車の進みも動いているかいないかほどにゆっくりになっていく。緊張からそわそわと落ち着かず、エプィヌはさっきからしきりに、ローブの袖の中で掌を結んだり開いたり繰り返している。

「ふんっ」

 無神経な溜息が漏れた。もちろんそんなことをするのは、この空間を共有する唐変木しかいない。

「ーー大勢が集まる場に慣れていなくて。申し訳ございません」

 エプィヌも些かぶっきらぼうに言った。鈍い相手だと分かったら、段々と本音が出てしまうようになった。ラーギニールも、さすがに相手の不機嫌に気付いたようだが、まさか自分の発言のせいだとは思っていない。

 順番が回って来ると、彼はさっさと馬車を降り、申し訳程度に、こちらに手を差し伸べた。ユディトからそうしつけられているのかもしれない。拒否する理由もないので素直に助けを借りるが、この程度の昇降で仰々しいといちいち気恥ずかしさを抱いてしまうのは、やはり生まれの違いなのだろう。リィリィアーナなら、にこやかに受けるはずだ。

 エプィヌが降り立つと、自然に周囲の目線が集まった。姫百合色の髪や翡翠の瞳が珍しいのはもちろんだが、それがローブを纏った女だということが好奇の的になっているのは言うまでもない。三百人ほどいる学徒の中で、女子はほんの数名だという。各学年一人いるかいないか程度の割合だ。せっかく学舎で高等教育を受けても、貴族の娘なら、結婚のためにやむなく中退する場合もあるそうで、それをエプィヌは非常にもったいなく思う。

 ラーギニールは、学徒らが少女を珍しがってあれこれ品定めしているようなのに気付いて、分かりやすく顔をしかめていた。

「殿下が紛れ込んでいる時みたいだ」

 あの王子は、治安維持と称して、ラーギニールやエーフロシュネとつるみにやって来ているのだろう。学区の通りで屋台を楽しむこともあるのかもしれない。特別に着飾っていなくとも目立つものは目立つ。王子がこんなところで何をしているのだろうという勘繰るのは当然だし、将来官を目指す者なら胡麻を()ることもあるはずだ。ラーギニールのように生まれた時から傍にいるわけではないのだから、学徒たちが騒めくのは無理もない。

 ラーギニールは、エプィヌのローブの袖を引っ張りながら、学徒らをどんどん追い越して進んだ。

 学舎はその昔、神殿として建てられようとしていた建物を流用しているという。多くの宗教施設は廃神令によって取り壊されるか荒廃して行ったのに対し、王城内の巨大構造物は、一度も実際の用途で使われなかったことから難を逃れたのだろうか。現在では見られないかつての様式を残す、貴重な生きた資料だ。

 ラーギニールに連れられて来た講堂は二階構造で、八本の円柱、六本の半角柱、四本の角柱が正面部の荘厳な意匠を支える。玄関廊から堂内への入口は五つ、天気が良いからか全て開け放たれており、学徒らは自由に往来していた。

 学年単位の区切りはないに等しい。第一学年がまとまって基礎教養の講義を受ける他は、専攻毎の派閥に属するわけだ。入舎初年度は研究室選びのためにあちこち覗いてみても良いことになっているらしいが、ほとんどの者は、興味や家柄によってすでに学びたい分野を決めているので、それぞれの教授が開く入門講義を受けたりしている。ラーギニールに言わせれば、それはかなり無駄な時間のようで、第二学年に編入となったエプィヌに、恨めしげな半眼を寄越した。

(ラーギニールさまは学舎が必要ないくらいに天才だと思うけれど)

 そう思っていることは、本人には内緒だ。

「ぼくは第一学年だから、あっちで列に並ばなきゃならない」

 前髪の影が落ちたその面差しは、ほんの少し、不貞腐れているようにも思える。

(そんなこと言ったって……)

 もともと、ラーギニールとは三歳の差があるのだし、エプィヌとて年齢通りの学年に配置されたわけではないのだから、そんな目で見ないでほしい。それにしても、やたら“第一学年”を強調するので、エプィヌは、ラーギニールにもそういう子供っぽい一面があるのだな、と少しずれたことを考えた。

「わたしは、じゃあ……」

 人集りする講堂の入口に立ち尽くして、エプィヌは急に不安を覚える。ここからは一人で行かねばならない。ラウル家でも驚いたが、その何倍も縦に奥行きのある高い半球形の天井は、エプィヌの心を映し出すように、ぽっかりと白い石材を剥き出しにしている。廃神令がなければ、本来、そこには神話が描かれていたであろう。

(神話……)

 自然と思い出されるのは、ラウル家の彫刻だ。古くからの貴族の家には、ただの装飾として残ってこともあると聞いたが、学問すら雁字搦めにするターリア王政下において、その網を掻い潜ったのは奇跡ではないのか。

(殿下はそれを見て育った)

 この国の王子は、彫刻たちの物語を知っているのだろうか。

「上級の人たちは研究室単位で集まってるよ」

 ラーギニールは、ぼうっとしているエプィヌに痺れを切らしたのか、ほとんど溜息混じりだ。歴史学専攻の者が集う列を探せということなのだろうが、生憎、そんなのは無理だ。唯一の顔見知りであるエーフロシュネを探すしかないが、この人混みでは見つかるかどうか……。

 人見知りのエプィヌが尻込みしていると、彼はつい見かねたのか、ため息を吐いた。

「こっち来て」

 そう言うと、再び先導して歩き出す。これでは、どちらが歳上か分からない。人との関わり合いを求めない性格が、不要な緊張を作らないからか、良家の子息らしく堂々として見える。初対面のおどおどした印象はどこへやら、とエプィヌは思う。

監政官(ラヴィレス)の子息は皆、歴史学研究室だ。現在三名、学舎にいる。ぼくも顔と名くらいは知っている……」

 知っているだけだけど、と彼は小声で付け加えた。

 それでも、かなり意外だった。他人に全く興味がなさそうでいながら、やはり、ラウル家の跡取りとして最低限の努力はしているのだろう。

「そういえば、リィリィアの相手だけど」

 彼はふと、思い出したように言った。

「ソベク家のレィダヤかな」

「どうしてそう思うんですか?」

 エプィヌは目を丸くし、率直に問うた。対してラーギニールは、無表情が常の美しい顔に苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。

「ーーナタン叔父貴は、長いものにとことん巻かれる質だから。それに……」

 なんだかきな臭い。詳しいところはそのうち分かるだろうから、人通りの多いこの場所で聞くのは辞めておこう。貴い身分の人たちは大変だな、とエプィヌは顔をしかめた。

(それなら、女史やバラクどのにも頭が上がらないのではないかしら?)

 ちらっとそんなことも思ったが、当の息子の前では、もちろん口にしない。

(レィダヤ、ね……)

 リィリィアーナの相手となるかもしれない人物とは、どんなものだろう。

「レィダヤだけは少し、面識があるよ」

 エプィヌの表情が興味を物語っていたからだろう。ラーギニールは続けて言った。

「ちょっと前、廊下で話しかけて来た。君の従姉妹はどんな娘かって、急に聞いてくるんだから、おかしいと思ってた」

「……どう答えたのです?」

「うーん……」

 自分から話しを振った割に、詳しいところを聞かれると、途端に面倒くさくなったらしい。辺りを見回し、監政官(ラヴィレス)の子息たちをさっさと見つけようとしている。

「全体的に良い比率をしてる。身内贔屓かもしれないけどって」

「比率?」

 何を言っているのかさっぱり分からず、首を傾げていると、ラーギニールは、なぜ伝わらないのだという目をこちらに向けた。

「たとえば顔で言うなら、顔全体を縦に三等分、横に五等分するでしょ、それぞれの比率が一になっているのが理想的。リィリィアはきっちりそういうものを持っている」

「な、なるほど」

 どこまでも建築馬鹿と言うべきか、来年になって研究室に入ったら、もっと磨きがかかるに違いない。

 やや呆れながらも、ついでにリィリィアーナの愛くるしい顔を思い浮かべる。

(うん、確かに)

 にしても、レィダヤにその意味がきちんと伝わっているかどうかは甚だ疑問だが、均整のとれた美人だ、と過不足なく情報を読み取れているのなら、相手はリィリィアーナに興味を持ったかもしれない。

(ラーギニールさまも、十分、一枚噛んでいるんじゃない)

 エプィヌの含みのある視線を感じたのか、少年は一旦ぴくりと肩を上げたが、すぐに、何か思案しているように、まじまじとこちらの顔を見つめ返す。

「ーーその点で言えば、エプィヌさんも比率は悪くない。うちに来て萎縮する気持ちも分かるけど、リィリィアや他の親族と並んでも引けを取らない」

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。エプィヌはため息を吐いた。

 一族の人間が美しいのは当たり前とは、恐れ入る。それをいとも簡単に口にしてしまうところも。彼にとっては褒め言葉なのかもしれないが、なんだか複雑な気分だ。

 そうこうしているうちに、ラーギニールは、目的の人物を見つけたようだった。


 その青年は、監政官(ラヴィレス)の子息と聞いて想像していたよりも、意外なほど素朴そうな姿形をしていた。正直に言うと、どんなに高慢な人間が出てくるかと、かなり偏見を持っていたのだ。ルチーフェロが、監政官(ラヴィレス)は阿保ばっかりという発言をしていたせいだ。

 これと言って特徴のない平らな顔、背はエプィヌと同じくらいで、ラーギニールと並ぶと少し低い。上品な光沢を放つ練絹の青いチュニックは、さすがに家柄を示していたが、その輝きすら普通、というありきたりな言葉の陰に身を潜めてしまうほどの、目立たなさがあった。

(うーん……)

 申し訳ないが、少々値踏みをするような感覚で見てしまう。

(なんだか、拍子抜けしちゃう)

 悪い人ではなさそうだが、派手好きのリィリィアーナが気に入りそうだとも思わない。

(目が肥え過ぎているだろうし)

 本人も人形のように可愛らしい見た目をしているが、一族や下僕までとんでもなく美しいときている。ふらっと現れる王子もまた、誰もが平伏する……否、免疫のない者が微笑みかけられでもしたら、卒倒する程の輝かしさだ。

 ラーギニールが側に立つと、相手は驚いたような顔をしつつも、丁寧に会釈を返した。

「そちらはもしかして、編入されるというラウル家のお嬢さまですか」

 よく気が回る性格なのか、レィダヤという青年は、口数少ないラーギニールが視線を送る先を見て水を向ける。

「知っていましたか」

 それに比べて、ラーギニールはやや不遜に思える。人見知りを発揮しているのかもしれなかったが……。

「母の旧友の娘です」

「ーーエプィヌと申します」

 ローブの裾を持ち上げ、挨拶をする。ここへ来る途中、ラーギニールには、“エプィヌ・ディティ・ラウル”と名乗れと言われている。ユディトからの言伝のようだった。しかし、いざとなると尻込みをしてしまう。

 こちらが失礼な目線を向けていたにも関わらず、青年は人の良さそうな笑みを浮かべて頭を下げた。

「レィダヤ・ラ・ソベクです。エーフロシュネ君から名前を聞いているよ。彼と同じ第五学年だ」

 あの優秀な模範学徒は、新入生について抜かりなく根回しをしてくれたらしい。それにしても、身分の割に気さくな喋り方をする人だ。

 立ち話している仲間に気付いたのか、数人が、ちらちらとこちらに視線を寄越していた。その中にエーフロシュネの姿はまだ見えないが、歴史学研究室の面々に間違いないだろう。

「安心して、皆、きみを歓迎しているよ」

 エプィヌが居心地悪そうにしていると、レィダヤは薄い眉を跳ね上げながら言った。

「それじゃ、ぼくは第一学年の方に行くけど」

 ラーギニールは、早く立ち去りたいようだ。

「……くれぐれも、変な虫をつけちゃ駄目だよ」

 耳打ちされた言葉に、エプィヌは眉を(ひそ)める。

「ーーそれ、誰の言葉ですか?」

「そんなの、他に、いないじゃない」

(少なくとも、二人は思い浮かぶんだけど)

 宜しくお願いします、と保護者のように頭を下げてから、ラーギニールは踵を返した。


 朝礼はそう特別な何かをするでもなく、懐中する『王賜規範(おうしきはん)』の冒頭を全員で唱和し、粛々と終わった。後は伝達事項があったくらいだ。その中で舞踏会という単語が出て来たのは場違いで興味を引かれたが、主には諸技芸ーー歌舞や演劇を専攻する者が、学舎を代表して宮中行事に参加する旨に関する事柄で、詳細までは分からなかった。

 それはそうと、なぜ学徒の中にエーフロシュネを見つけられなかったのかと言えば、彼が監督生として会を取り仕切っていたからで、紫檀の演台の上に立つ彼の姿は、月光下の煌々(きらきら)しい孤樹のようだった。

(時代や生まれが違えば、あんな人が皆を導く存在になるのかしら)

 人前に立つ王子を見たことがないが、少なくともあれを凌ぐ凄みがなければ、国を背負うには力量不足かもしれない。卒舎した貴族の子息は、将来はルチーフェロの元で官職を賜るのだから、優れた監督生に見慣れた者たちを圧倒するだけの何かが必要だ。

(うーん……)

 奔放な彼に振り回されるうちに、その秘密めいた存在そのものが、人心を捉えるのかもしれないとは感じるようになっていた。それは、他の誰にもできないことだろう。

(わたしが心配するところではないわ)

 気を取り直して、居並ぶ学徒らの背中を見る。第五学年を最前に、一列になっている。数えると十三人。エーフロシュネを入れて十四人だ。エプィヌは同学年の少年の後ろについていた。彼もまた、レィダヤがさくっと紹介してくれたところによれば、監政官(ラヴィレス)の子息で、ダグザというらしい。こちらを一瞥(いちべつ)した、冷徹で突き刺すような眼差しは、正直言って恐ろしいと感じた。印象は最悪だ。

(こんな人と、やっていけるかしら……)

 レィダヤのように気さくな常識人が珍しい方だろう。人と関わり合うのが苦手な性格が多いのはもちろん想定内だが、嫌悪感をあからさまに見せられるとは思いもしなかった。憂鬱の種ができてしまい、少し気が重くなる。

 しかし、エプィヌが第一学年と卓を並べるのは、『王賜規範(おうしきはん)』の輪読と、各学問を一巡する概論講義くらいなので、さっそく一限から彼らと行動を共にすることとなった。

 ロギ師の研究室、露台の上に並べた長卓には、それぞれ二、三名ずつが着く。なんとなく学年毎のまとまりはあるようだ。エプィヌは余った後ろの端の席に腰掛けた。隣はまだ名を聞いていない少年だ。日に焼けたにしては少々浅黒い肌、栗色の硬そうな毛髪とがっしりした体型が、異国風情を漂わせている。

「やあ、おれはナッビナーリさぁ」

 話す言葉は流暢で、取り立てた訛りもないが、商人特有の上り語尾が僅かに見られる。大商人の子息が家名に箔をつけるために入舎したというところだろう。

「ーーエプィヌと申します。同学年ですので、宜しくお願い致します」

 座っていてもかなり上背のある少年は、にいっと白い歯を見せて笑ったが、すぐに真面目な顔になった。かなり切り替えが早い。彼は、ロギ師の到着を知らせる鈴の音を耳聡く聞きつけたようだった。

 雑談していた他の面々も、背筋を伸ばす。エプィヌは厳粛な雰囲気に驚きつつ、周囲に合わせて居ずまいを正した。

「皆、おはよう」

 掠れた声が辺りを打つ。ローブに身を包んだ姿は大鴉のようであり、学徒らを前にした老人は、初対面の時にも増して深い威厳を放っていた。

「エプィヌ君、皆に顔と名前を覚えてもらいなさい」

「はいっ」

 開口一番に突然指名され、エプィヌはびくっと肩を上げた。

「ーーエプィヌ・ディティ・ラウルと申します。第二学年に編入しました。宜しくお願い致します」

 つっかえながらも、なんとかラーギニールに言われた通りに名乗る。学徒らは、ある者は歓迎や好奇の表情を浮かべ、ある者は猜疑を含んだ複雑な表情を見せた。

「彼女は古語の素養があるため一年飛び級での編入となった。歳は第三学年に同じ」

 ロギ師は、前の席の者から順に、エプィヌに対して名を名乗るよう指示する。

 先陣に立ったのはエーフロシュネ、その後にレィダヤが続く。もう一人、第五学年がおり、彼はフォドラというらしい。

(第四学年は、ルフタ、ヨトゥン、フェニヤ、スズリ)

 一人、また一人と起立しこちらを振り返るのを、エプィヌは黙礼で返す。

(第三学年……ガウナン、フロル、ユミル、第二学年はダグザ、ディアン、シンドリ、ナッビナーリ)

 努力はするが、こんなに一度に顔と名を覚えるのは無理だ。しかも、フロルとユミルは双子なのか、同じ顔をしている。数ヶ月かけても、彼らを見分けることができるようになる自信がない。

 それからロギ師は、エプィヌを手招いて束にした羊皮紙を渡した。

「史料講読では現在、この『月渡記(バー・ルヴァン・ムス)』を用いている。ターリア王政下で初代監政官(ラヴィレス)の一人となったサーガ・マルナ……ガウナンの先祖にあたる人物の記した日記だ」

 ロギが示す方をちらっと見遣ると、ガウナンも気付いてひょいと眉を上げた。彼はお調子者かもしれないが、親しみやすくはありそうだ。

 皆は予め指示された箇所まで読み下して来ているようだった。今日の発表者は第五学年のフォドラらしい。肩をすぼめた青年は、酷い近眼なのか、必死に羊皮紙にかじりついている。鳥の巣のようなぽわぽわとした髪が、時折、明かり取りから吹き込む風で柔らかそうに揺れていた。

「ええと……玉王(ぎょくおう)ノ六年、四ノ月十一日、水順日、晴れ、参城、此の日議会に王妃の姿有り? 劇場の事に決有り」

「うむ」

 フォドラのあやふやな読み下しに、ロギは肯定を示す。青年の顔にぱっと安堵の表情が浮かんだ。

「そこまでの訳は」

「はい……ええと、玉王(ぎょくおう)ノ六年の四ノ月十一日の水順日は晴れ、参城した、此の日議会に王妃の姿が有った。劇場の事に決が有った」

(うーん)

 エプィヌは首を捻った。

 王にはそれぞれ治世を表す簡易的な別称が付けられる。多くは王の身体的特徴や性格、好む物等をそれに用いる。例えば、現王は目が鋭いことから狼王(ろうおう)。ターリアは玉と言われることから、瞳が翡翠色だったのかもしれない。故に分かりやすく考えるなら、「ターリア治世下六年目」というところだ。

(珍しい瞳の色も、やっぱり稀には顕れるものなのね)

 そんなことを思いながら、角張った翻刻の文字に目を滑らせる。


 ターリア治世下の六年目、四ノ月十一日水順日、天候は晴れ。(サーガ)は城に参じた。この日の議会にはヴァルプルギス妃が姿を見せ、少女歌劇の劇場の建設(あるいは運営、開業)についての方針に決が下された。


 後世の者は歴史を知っている。既知の事実は織り込んで読まねばならない。そうでなければ、読み下しと訳がそっくりそのまま変わらないということになりかねない。ーーフォドラは、どうやらそれが苦手のようだ。卒舎試験として論文の提出と諮問が求められるというが、第五学年の彼は、このような調子で大丈夫なのだろうか。

(わたしが心配したところで、どうにもならないのだけれど……)

 エプィヌ自身、訳の添削を受ける時は非常に苦労した。博士から課題としてもらった史料の崩し字を紐解いて正しく翻刻するのに一月、読み下しと訳にもう一月と、ずいぶん時間がかかったものだ。知らない言葉には辞書、辞典を使うが、収録されていない単語や文法も多く存在する。そういったものは周囲の文から意味を推測した上で、他の資料による裏付けを行う。慣れないうちは補完資料のあたりを付けるのも難しく、どうにも行き詰まって、博士に糸口を教えてもらうこともしばしばだった。

「ここまで『月渡記(バー・ルヴァン・ムス)』を読み進めた中で、出て来た事象を補って考えよ。ヴァルプルギス妃は、この時何のために、女人が議会に参加するという前代未聞の行動を起こしたのだったか」

 ロギは出来については何を言うでもなく、静かに助け舟を出す。

「ーーええと、芸能の保護に強い興味を示していたから?」

「うむ、そうだな。他に、これについて考えのある者は……エプィヌ君、何か思うところは?」

 顔を上げたところ、師と目が合ってしまった。指名されたら答えねばならないが、新入りがどんな回答をするだろうという、学徒らの注目が痛い。

 落ち着くために、まずはすっと息を吸った。師のこういうやり方は、博士にとても良く似ていた。考えを話してみよ、言語化してみろと。

「……では、ヴァルプルギス妃の行動について、あくまで私見を申し上げます。ターリア王政は非常に謹厳だったため、前王が抱えた女官百余名が解雇となり、王都の芝居小屋は、元女官や魔狩り(フィキル)で親族を失った者など、身寄りのない少女らで溢れ返りました。その後、彼女らは、風俗の乱れを助長する存在として粛清されるようになります。これがターリア王政下四、五年までの出来事です」

 分かりやすく端的に話すのは苦手だ。それに、容易く想像を話すなと教えられている。歴史家は空想家ではない。皆がどう思ったか、少し心配だった。的外れなことを言っていないだろうか。

「そして王妃は“崇高な芸能の宝庫”と銘打って、世俗とは隔絶された、王都を臨む岩峰の上に劇場再建を試みます。歌劇の少女らを守るための行動は、同時に、二番目の夫、ターリアへの……」

「そこまでで良いぞ、ありがとう」

 ロギは、急に結論を遮った。

(ターリアへの、抵抗だという見方もできる)

 エプィヌは、ヴァルプルギス妃の行動の裏には、彼女の生い立ちが、少なくとも影響を与えていると思っている。

 かつて、王国の辺境にはいくつかの有力な豪族が存在したが、ヴァルプルギス妃は、その中の一つ、ランスロット領主の娘にして、前王レギンの王妃であった。実兄が滅ぼしたオーベロン領主の娘、アリアンロッドーー後の初代アークトゥルス(劇団の看板俳優)と親交があったかどうか、それは定かではないが、そういった、何か特別な“思い”が働いたとなれば、慣習の壁や非難をものともせず、味方のいない議会に一人乗り込んで行ったほどの意思の固さに納得がいく。

(ーーわたしの悪い癖、空想が先走る)

『おまえは御伽話の作り手が、本当は向いているのかもしれないな』

 博士の声が、今にも耳元でそう語りかけてくるようだ。

『自由な魂はおまえを救いもするし、縛りもするだろう。歴史家の仕事は、おまえにとっては苦しいかもしれんぞ? 有り余る想像の翼を、自ら鉛付けにしてしまうんだから』

 分厚い眼鏡の奥の深い緑色の瞳が、寂しそうに暗く沈む。

『本当におまえは、それで良いのか?』

 博士はきっと見抜いていた。エプィヌ自身が、博士と同じものを見、考えることで、いつまでもそばにいられると信じたかったことを。己の適正とは別の、ない芽を無理に咲かそうとしていることを。ーーそして、卓の引き出しの奥に、エプィヌが歴史を切り貼りして創り出した、空想の世界を閉じ込めていることまでも。

(ごめんなさい、博士)

 それでも、とエプィヌは思う。自分が生きる術は歴史学を修めることだと。事象の点と点を繋ぐ客観的事実に人の思いを混同し、思うままに世界を捉えてしまう癖は、正しいものを歪めてしまう。それでは駄目だと分かっているからだ。

「事実、ヴァルプルギス妃の芸能守護の姿勢はかなり強固であり、政治的に手付かずとも言うべき範疇を作り上げた。ターリア王の手が入らなかった独自の世界だ。その点、『決があった』という一言の裏に潜む意味を汲み取ることは重要だ」

 ロギの評価はまずまずのようだが、エプィヌは結論を言えず、口惜しい思いをした。

(そうか……規範、という観点を据えれば、王妃の働きの大きさが分かる。その目的、ターリアが許容した理由は何だったのかしら?)

 しかし同時に、これを明かしてはまずいのでは、という疑念も急浮上する。ロギは婉曲的に語ったが、率直に「規範」という言葉を使わなかったのは、やはり考慮するところがあったからではないだろうか。

(だから、言わせまいと? 敢えて……)

 もやもやとした霧が、胸の辺りに(けぶ)る。

(この気付きを、わたしだけが持っているとは限らない……。エーフロシュネさんは? レィダヤさんは? 聞いてみたい)

 それはままならないことだ、と分かっているが、成し遂げたいことのためには、どうしても無視しては通れない。そんな気がする。

 王子の面影が目の前にちらついた。

(あの人は許してくれると言った)

 ならば、という思いと、しかし、というためらいがない混ぜになる。

『ぼくが差し出すのは、不可侵の誓いです。ーーあなたが歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤとなるために、もし、何が暴かれようと、黙認します』

 一見か弱そうだが、あのラズワルドという少年にはかなりの気骨がありそうだった。

王宮司書(ドムン・ティディーヤ)の職責を、あなたには適応しない。ーーこれ以上与えられるものはありません』

 彼と同様の覚悟を示さねば、到底目的は果たせないだろう。

 いつの間にか、フォドラが続きを読み上げていた。少ししゃがれた、蛙の鳴き声のような声が、不安定に震えている。

(少し、やり過ぎたかしら)

 エプィヌはこっそり反省した。ダグザのような者になんとか力を見せつけたいという思いから、発表者の彼には意地悪をしてしまったかもしれない。

(でも、ここは学びの場なのだし)

 自分に気にするなと言い聞かせ、羊皮紙に目を落とす。

 午前の講義は、依然、こうしてのろのろと進んで行った。


 初めて訪れた時は静か過ぎた学区だが、ユディトの話していた通り、なるほど、城下からそのままの景色が続いていると錯覚するほどの賑わいに溢れていた。小さな露店が軒を連ね、暖簾の内側から昼餉の良い匂いが漂っている。ただ、ここが周囲から隔絶されたターリアの瞳の中なのだと思わせられるのは、店を回って材料を(あらた)め、出来上がりの試食をする下級官の存在だ。様々な貴い身分の家の子息たちが摂る食事だから、一応毒味をしているのだろう。レィダヤ曰く、慎重な者は食事を家人に持参させているらしい。

「わたしも入舎当初は、父母がうるさくてそうしていたけどね」

 彼はあっけらかんと笑う。

「皆と同じことをしてみたくて、今ではここで食べるものにやみつきだよ」

 ロギ師門下の一同は、それぞれ食の好みが異なるようで、二、三人毎に分かれて散り散りに歩いて行く。エプィヌはその様子をぽかんとして見送っていたが、レィダヤに誘われて、鍋や焼物を振る舞うその中の一軒に足を踏み入れた。

「ここの料理は美味いんだよ」

 レィダヤはほくほくした顔で店主に注文を飛ばす。エプィヌは知らない料理ばかりだったので、全て彼に任せることにした。それで出て来たのは、山羊の乳を香辛料で味付けし、根菜と一緒に煮た東方由来の都料理だ。そこに、見慣れない丸い物体が浮いている。肉や魚を香草と一緒に叩いて潰し、団子にしたものと見える。噛むとほろほろ崩れ、中から出汁が沁み出て頬が落っこちそうだった。

「美味いだろう」

 レィダヤはなぜか得意げだ。膨れた腹を満足げに撫でながら、簡素な天井を見上げる。

「そういえば」

 無心に口を動かすエプィヌがひと段落したのを見て、彼はゆっくりと切り出した。

「きみは、わたしがリィリィアーナに結婚を申し込もうとしているのを知っているらしいね」

 思わずはっとする。

「ーー分かりましたか」

「そうだね、顔に書いてあった」

 レィダヤは特に気にしている風ではない。エプィヌはいくらか安心して、申し訳程度に愛想笑いを作った。

「変なことを聞くようだけど、きみはそのうちラーギニール君のお嫁さんになるのかな? さっき、変な虫をつけるなと言われていたでしょ」

「お嫁さん……」

(きっと、そんな意味じゃないんだけど)

 ラーギニールはお目付け役を気取っているに過ぎない。母親も、兄同然の貴い人も、どちらも怖いはずだ。

「いやなに、わたしはちょっと、幸せな結婚生活に憧れがあるというか、ね」

 エプィヌは、夢見がちな少女のようなことを言う青年に驚き、目を瞬かせた。

(幸せな結婚生活……?)

 似合わないことを言うな、とは感じたが、なるほど、監政官(ラヴィレス)に生まれついていなかったとしたら、政略結婚などには悩まされず、ただただ誠実で良い夫となったはずだ。そう思うと、少し可哀想だった。

「リィリィアーナさまなら、気立てが良くて、わたしなんかにも優しくしてくれて、何より美人で可愛くて、これ以上のお嫁さんはないと思いますよ」

「そうかい、そうかなぁ」

 照れ臭そうに鼻の頭を掻くレィダヤは、もう完全に話が成立していると信じきっているらしい。

(まずかったかしら)

 ユディトやバラクが勝手な話に激怒した以上、ナタンの目論見は潰されてしまう可能性も、なきにしもあらず。あまり期待させることを言うのは、後々の地獄に繋がってしまうかもしれない。

 それはそうと、とレィダヤは話を戻した。

「ラウル家と繋がりを持ちたい貴族は多い。でもラーギニール君は、好きなことにのめり込む性格みたいだし、これまでいくつか話を蹴っているんだよ」

「そうだったのですか?」

「だから、専ら噂だよ。ラウル家に養女が入ったって。ラーギニール君も、さすがにそこまで固められたら断れないだろうなぁ。まあ、学者肌の女の子と来たら、彼だってきっと、興味を引かれないわけはないしね。これ以上の相手はいない」

 レィダヤの話はかなり(もっと)もらしい。ほとほと困った末のユディトの考えそうなことでもあり、エプィヌの身分を気にしないのなら、不幸になる者は一人もいない、最適な選択だろう。

(なんだかんだと言って、それが本当の狙いなのかしら)

「何も言われたことがないので、なんとも言い難いですが、ずっと学者の父と二人暮らしだったもので、当然、学者になるつもりでしたし、誰とも添い遂げることはないだろうと覚悟していました」

「ええ、そうなんだ? もったいない」

 彼は心の底からそう言っているように見えた。

「学者になるつもりなんだなぁ、凄いな。うちは代々監政官(ラヴィレス)だから、それ以外の選択肢もなくてね。わたしは父や祖父もそうして来たように決まったことを学び、決まった道を歩んでいるにすぎないから、きみのような意志のある人に憧れるよ。さっきも、ロギ師が珍しく感心するような考えを述べていたし」

(そんな風には見えなかったけれど……)

 まあ、今日昨日会ったばかりの自分には、あの石像のような老人の、感情の機微を読み取れないのも無理はない。それよりも、だ。

「あの」

 エプィヌは、思い切って口を割った。体感よりもよっぽど思い詰めた表情をしているのか、レィダヤは、何事かと心配そうな様子だ。

「ごめんよ、何か言ってはいけないことを言ってしまったかい?」

「いいえ、ほとんど別件です」

 エプィヌは慌てて訂正する。

「え、ほとんどって?」

「はい。先程の講読で、ヴァルプルギス妃の芸能守護についてありましたが……」

 レィダヤは目をしばしばさせる。

「きみは、本当に勉強が好きなんだなぁ」

 貴重な息抜きの時間くらいそんな話はよしてくれ、とでも言いたそうだ。申し訳ない気もするが、せっかく切り出したからには、後に引くのはもったいない。

「わたしは本当は、王妃の行動は、ターリアその人や、彼の政への抵抗だと結論するつもりでした。それについて師の言ったことを、もっと端的にするならば、妃は、ターリア王政の中で、『規範』による統制のない、不可侵の領域を作り上げた、ということだと思うんです。学問、知識といった無形のものを国の最高の財産とし、『王賜規範(おうしきはん)』を以て民に許し与えるという慎重さのターリア王が……その他、多くの法整備や統制を行った彼が、唯一手を付けなかったのが、妃の築いた劇場です。それは、一体なぜなのか。そこにある違和感、差異には、研究の余地があると思いませんか? そう思っているのはわたしだけではないと思うんですが、レィダヤさんはどのように考えましたか?」

 「規範」と口にするのは、やはり気の進むものではなかった。

 レィダヤは困ったように、眉を八文字に下げた。彼の顔には、情報処理が追い付いていないと書いてある。しかし、エプィヌにも、これ以上噛み砕いて話す能力はない。

「ぼくは凡庸だからそこまで考えてはいなかったけれど」

 青年は、頬杖を付きながら思案している。

「うーん……きみの言っていることはなんとなく分かるけど、それって憶測の域を超えないんじゃないかな? 歴史学は史料に断片的に見えることを拾い集めて、一つの巻物にする学問だろう?」

(なるほど……)

 学問に触れた最初の瞬間から『王賜規範(おうしきはん)』を尊び忠実であった人は、こういうものなのか。

〈史料について厳密な姿勢で臨む可し〉

〈情報、叙述対象の選択は慎重かつ禁欲的に行う可し〉

〈文献史料に残らない事柄の記述は慎む可し〉

これらを逸脱しまいとすれば、事象と事象をつなぎ合わせることで過去を再編、肉薄する作業と化すのだ。それが、レィダヤたちの思う歴史学ということか。

(これは、わたしの知っている学問とは全く違う)

 エプィヌは、匙で掬った肉団子を穴が開くほどじっと見つめた。何かに焦点を合わせていなければ、浮かない顔を見せて、またレィダヤにいらぬ心配をかけてしまうに違いない。その理由を聞かれた時、今はまだ、ちゃんと答えることができない。

(今は、まだ……)

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