第三章 いばらが護る扉 (4)
エプィヌは必死に壁をつたい、時々、ローブの袖口を棘に引っ掛けながら、鏡で月光を集めた頼りない灯りが、入口に一つあったきりの通路を進んだ。あまりの暗さに足元が覚束ず、つまずきそうになるのが怖いが仕方がない。石造とはいえ、周囲がこれだけ植物に覆われていれば、もし火事となったら一大事だ。ヴィーヴェランの古城も、生活空間を含め常に薄暗かったが、それは、火の気を必要最小限とするためだった。とはいえ、ここまで徹底しているのは、やはり、ここが王宮書庫のゆえだろう。
(わたしはラーギニールさまの許嫁と決まったわけじゃないし、殿下の侍従でもない。ここまで言われたまま木偶みたいに操られてきてしまったけれど……)
耳元で囁いたルチーフェロの言葉が、頭の中に反響して鳴り止まない。ふとした拍子に血の気が引きそうになり、その度に、流されてばかりの不甲斐ない自分を腹立たしく思う気持ちを奮起させて、なんとか立っていた。
(あの人は、わたしを弄んでいるんだわ)
しかし、彼は自らを享楽者と呼んだが、単純にそうなのであれば、あんな弱ったような表情をちらりとでも見せることがあろうか。
(享楽者になりたがっている……そうなのかしら)
こんなことに気を揉んでいる自分が、やはりルチーフェロの術中にはまっているのだと、エプィヌは心の中の悔しさの余燼をかき集めた。
そんなことをあれやこれやと考えていたため、急に頭上の壁が迫ってきて、すんでのところで、数歩先から階段が始まっていることに気が付いた。
踏み外さないよう注意深く足元をまさぐり、一段一段数えながら足を下ろす。そうでもしなければ、自分がどれだけ地上の光から隔てられたのか、どうやって降りて来たのかを、引き返す頃には忘れてしまいそうだった。
今後、ここを無事に抜けるまで余計なことを考えまいと努めたが、突然行く手を壁に阻まれ、エプィヌは途端に呼吸を忘れた。先細って行く暗闇に嫌な予感はしていたものの、まさか進路を断たれるとまでは思わなかった。
(ここまで一本道だったはず……)
そこはかなり鋭利な角が行き止まりになっており、さすがに引き返すしか方法はないようだった。
ため息を吐くと、喉も奥が震えた。強がっていないと心が挫けそうだった。周りに誰もいないからこそ、声をあげて泣き喚いてしまいたい気分だった。
(だいたい殿下は……)
ここまで連れて来ておきながら、一人で行かせなくても良いのにと、つい悪態が過ぎる。
しかし、エプィヌははたと顔を上げた。夜風の唸る微かな音が、急に耳に付いたのだ。入口の門扉を閉ざさず、ルチーフェロはそこで待ってくれているのだろうか。そう思うと、認めたくはなかったが、冷えてきた指先や肌が、じんわりと温まったように感じた。
身を捩るように後方に向き直ったところで、エプィヌはようやく安堵することとなった。階段を降りたすぐ正面にではなく、角を曲がった先に窪みがあり、そこに、背丈と同じくらいの小さな扉を発見したのだ。
(あった……)
この世に、丘の人よりももっともっと小さなーー栗鼠ほどの背丈の種族があったならば、彼らにとっては、エプィヌが驚いた王城の姿と同様に見えるかもしれない。そんな、おおよそ書庫が奥にあるとも思えないような見てくれだったが、それが求めていた場所なのだと、なぜかすとんと胸に落ちた。
黒鉄の扉はぴっちりと石造にはまっており、叩き鐘の音が内側に届くのかどうか怪しかったが、エプィヌは意を決し、力を込めて三度打った。
鈍い反響が消え去るまで、永遠のように長くかかった気がした。扉は不気味に軋みながら細く開き、ぼんやりと揺らめく橙色の光が漏れて足元に伸びた。
「あの……」
隙間に顔を寄せて中の様子を伺ったエプィヌは、途端にぎょっとして呼吸を失った。向こう側から、同じように覗く者があったのだ。
けれどすぐに、それは、石造の壁の所々に埋め込まれた鏡に映った、自分の瞳なのだと分かった。赤っぽく霞んでは見えたものの、緑色の虹彩はそうそう他にある特徴ではなかったからだ。
どうやら、光源となる炎が扉付近の硝子の囲い中に込められており、それを様々な角度から巧みに反射させ、室内を満遍なく明るくしているようだった。
目の端にちらりと影が動き、エプィヌは安堵すると同時につい息を潜めた。相手から返事のないうちに押し入ってしまったようになってしまったことを、急に恥ずかしく思った。しかし過ぎた時は戻らず、これ以上失礼のないよう振る舞うしかない。
「あの、もし……無礼をお許しください。紹介状をいただいて参りました。入室してもよろしいでしょうか?」
緊張のため、普通ならほぼ消え入りそうな声だったと思うが、周りが異常に静かなのと反響のおかげとで、いくらか大きくはっきりと大気を打った。
黒い影がぴくりと反応した。けれど返事はない。相変わらず静かな室内で、相手の息遣いは伝わってくるので、エプィヌは待つしかなかった。
一、二……十秒ほど数えた時になってようやく、すっと息を吸う気配が感じられた。
「ーー許可します」
微かな声は、男性的にも女性的にも捉えられる不思議な中低音だった。芯はあるが、息が多く混じる喋り方で、耳のそばを蝶がかすめ飛んだくらいの心地なので、よくよく注意しないと聞き逃してしまいそうだった。
ともあれ、許しを得たエプィヌは軋む扉を押し開け、ようやく明るみの中に足を踏み入れた。
「……番兵って、あなたですか?」
そんなつもりは全くなく、エプィヌは、つい緊張も忘れて、かなり無礼な物言いをしてしまった。
「え?」
間髪を容れず反応したわりには、あまりにも素っ頓狂な返事だった。さやさやとざわめく中低音は、相手を目の前にして聴くと全く少年の声で、エプィヌはなぜか戸惑った。ーー見た目はどう考えても、自分と同い年ほどの少女だったのだ。背丈はあるようだが、ローブから出た手首は、日の光を浴びていない青白さのせいで、とてもか細く儚げに映る。
ふと見遣ると、扉の傍には、申し訳程度の武具ーー城門の前の聖騎士らが手にするよりも柄が短い手槍と盾が立てかけられていた。白い粉のような埃が薄っすらと全体に降りていて、握られた跡など一切ない。
「これを……入口に番兵がいるので、その者にこれを渡せと言われて来ました」
エプィヌは、やや赤面しながら、小さな紙を両手で捧げ持つようにして差し出した。
「ーーああ、拝見いたします」
少年はそう言い、手にした本を書架に差し込むと、億劫そうにローブの裾を払った。彼は、間違いなくここの番兵のようだ。
エプィヌは、なかなか目を合わさない少年の様子に若干気後れしながらも、相手の方へと一歩踏み出した。
手渡された紹介状を開き、少年は黙って目を通している。
うつむくと顔に垂れかかるまっすぐな濡羽色の髪は、ようやく肩につくくらいの長さに切りそろえてあって、つやつやとした輪がぐるりと頭を巡っていた。硝子の伏籠の内に込められた蝋燭の灯りが睫毛の先に宿り、その隙間からは、瑠璃色の瞳が明るく浮かんで見える。
エプィヌはその面差しを眺めながら、ふと、彼がどことなくエーフロシュネに似ていると考えた。
(なんとなくラーギニールさまにも似ているような。直毛ならばきっとこのような感じだわ)
髪や瞳の色、体格など知っている人物の特徴が凝縮されたような少年は、この不思議な空間の雰囲気も相まって、本の妖精だと言われても疑わないくらいに浮世離れして見えた。
「ーーロギ師のご紹介で、エプィヌさまですね」
彼は、ようやく目を上げた。
「それでは、奥へ……案内をいたします」
少年が踵を返したので、エプィヌは慌てて、その背に呼びかけた。
「あの、そういえば王宮司書はどこにおられるのでしょう。ご挨拶を……」
「……すみません、それはぼくのことです」
口ごもりながらそう言った少年は、おずおずと振り返り、肩をすくめてこちらを見た。
「え……」
こらえきれずに、エプィヌは噴き出した。緊張や恐怖の糸がぷっつり切れたようで、身体が急に軽くなった。
「ごめんなさい。もっとおじいさんを想像していたから……」
一度笑い始めると止まらないのがエプィヌの悪い性分だった。ここが神聖な王宮書庫であることは頭の中にあるものの、あまりに静かで人の気配がないのにすっかり安心して、久しぶりに肩を震わせて笑った。堪えようとすればするほど、理由のよく分からないおかしさが込み上げて来るのだ。
(あのお方ったら……)
先程のことを思い出して再び動悸がしたが、ルチーフェロがただ“番兵”とだけ告げたことを苦々しく思う余裕は生まれていた。ーー足掻くだけ無駄だと思って諦めたのが正しいかもしれないが、少しばかり、思い詰めずにいられる隙を得た気分だった。彼は、このことを抗議したらきっと、ただ驚かせたかっただけだと言うのだろう。思う壺にはまったエプィヌの様子を知って笑うに違いなかった。
その間、王宮司書を名乗る少年は、ただただ呆気にとられた様子で目を丸くし、立ち尽くしていた。
「ーーめったと誰も来ないけれど、あまり大きな声を出されては困ります」
「たいへん失礼をいたしました……」
エプィヌは目の端に浮かんだ涙を拭いながら、呼吸を整えようと努めた。
「わたしは、エプィヌといいます。―――ヨークから来た、ヴィーヴェランのエプィヌです」
ロギ師の研究室に所属すること、ラウル家の養女であり、王子の紹介に預かったこと。それらを簡潔に述べると、少年はすぐに、様々なことを理解したようだった。
「申し遅れました」
彼は一歩引くと、胸に手を当てて正式な礼をした。
「ぼくは、王宮司書のラズワルド、アウルボザのラズワルドです」
「―――アウルボザ?」
「シグマリヨンの麓です」
「シグマリヨン」
聞いたことのない、独特な単語だと思った。エプィヌは、その奇妙な抑揚に興味を覚え、口の中で繰り返した。
ラズワルド、という少年は、ふと何かに気がついたように、ああと言って目を瞬かせた。
「雲の峰のふもとに、アウルボザという丘があります。そこからは、ちょうど山の頂に“東の一角獣の角のもと”という赤い星が、浮かんで見えるんです」
「東の一角獣の角のもと……」
エプィヌは、少年の言葉を絵筆に、頭の中で遥か彼方の風景を思い描いた。岩山の続く風雪地帯に程近く、空は鈍色で天が低い。しかし、雲が割れた夜には星が降り注ぎ、背後に鎮座する雲の峰すら霞ませて眩しくなる。銀に輝く雪は、全てを飲み込んで……。美しく恐ろしい、想像の及ばない土地だ。
瞬きをすると、幻想はすぐに拭われ、よく知った、草木の生えぬ裸地が現れた。
「わたしの故郷は………ずっと西の、異端の碑壁に隔てられた荒れ地です。丘の人の皆が“月の城”と呼ぶ、ヴィーヴェランの丘の古い城に―――父と、二人で暮らしていました。“月の城”というのは、てっぺんが崩れかけた塔に、ちょうど綺麗に月がかかるからで………」
“父”と言うのに、今日までかかってしまった。エプィヌははっとし、少しうつむくと、こっそり苦笑した。何にも知らない、出会ったばかりの相手だからこそ、そう言うことができたのだった。けれど、誰が何と言おうと、この一歩は自分にとってとても重要なもののような気がするのだ。
「ごめんなさい。長々と」
草木のように静かに、表情を大きく変化させることもなく、ただ全てを受け流すラズワルドは、やや感受性に乏しいとも言える。けれど、その風情が一種の安心感にもなって、エプィヌはついつい饒舌になっていた。
(似ているんだわ、博士と)
相手の言葉を静かに受け取り、無駄を削ぎ落とした返答をするがゆえに、時の流れがゆったりとして感じるのだ。その調子が、慣れ親しんだ人とよく似ていた。
「ーーどうしても、こう遠くまで来ると、故郷の話になってしまうと思いませんか?」
エプィヌは、西ノ市を馬車で駆けながら聞いた、ノルドとユディトの故郷の話を思い出した。
「なぜ?」
「だって、自己紹介というものは、生まれた土地と名を名乗るものだもの。やっぱり、一番の会話のとっかかりになるでしょう?」
「そういえば………そうかもしれませんね」
あまりぴんときていない様子で、ラズワルドは頷いた。しかし、エプィヌは満足だった。話し相手はこれくらいでちょうど良いのだ。
ラズワルドはエプィヌを先導し、書架の配置や分類を簡潔に説明して回った。あまりにも広大なので、実際に案内するのは第一分類の歴史の書架にとどまるということだったが、そこを歩くだけでもどのくらいかかるか……と彼は肩をすくめた。王宮司書はただ一人、誰も手も借りずに生涯を地下で本と向き合い、過ごすという。この自分と年の変わらない少年が、途方もない時間を歩んでいるのだ。エプィヌには、それが少しかわいそうな気もしたし、その分、尊く清らかな存在にも思われた。
歴史・文学・法律・経財・建築土木・水産農学・自然科学・形式科学・薬医術・天文暦学・地誌・諸技芸・哲学・兵法と、十四に分類された学問は、学舎の専攻と同様で、その中でもさらに、二次、三次と詳細に区分がなされている。部屋は奥が闇に塞がって見通せないほど深く長い。ロギ師の研究室ですら書架が収まりきらないくらいだったのに、気が遠くなる広さだった。王城の敷地の一つの階層の内部が、そっくりそのまま書庫になっているのだから、当然だといえば当然だ。しかし、年々増え続ける王国内全ての出版物を収集するとなると、ここだけでは収まりきらないに違いない。それはどう処理しているのだろうか……。
「本はアハルテケ十四進分類法に基づき管理されています。アハルテケはターリアの義弟にあたる人物で、ターリア王政下で学問を整備し、王宮書庫を設立する際に尽力した功績でその名を残した、初代王宮司書です」
人を案内する時はいつも決まった説明をするためか、ラズワルドは極めて滑らかな口調でそう述べた。
「ターリアが再建した王城は特殊な構造で、空洞が多いんです。敷地内に水道を行き渡らせたり、王の住まう本殿には自転する天井もあるくらいで、見えない所に様々な仕掛けが詰まっているので、書庫の範囲は王城ができた当初からだいぶ確保されています。司書の用語で石紙時代ーー文字が石や粘土盤に刻まれていた太古の昔の記録の類は、必要があれば学舎に複製や翻刻を渡していますし、ほぼ使われないため、三つ上層の階にしまってあります。ここと二つ上層までの間に分類されているのは、墨紙時代に至ってからの比較的新しい資料群です」
エプィヌはほぼ上の空で話を聞いた。自転する天井、などと信じられないような言葉も頭のどこかには引っかかったが、それを掘り下げる気も一切起こらなかった。ここでのことは他言無用と念を押され、口を手の甲に付ける「言わずの誓い」を求められ……。こんなに大層なことなのかと混乱したところに、いざ足を踏み入れた一面の書架の路地に圧倒され、相槌を打つ余裕が削がれていた。
(ここへの立ち入りを許されたということは、求められる学問の水準も、もちろん相当のものってことよね)
エプィヌは、改めて、すっかり怖気付いていた。
さっきまで喋り倒していたはずの相手があまりに静かなのを気にしたのか、ラズワルドは、ふと立ち止まってこちらを振り返った。
「賢人の弟子に、そのような説明は不要でしたね」
「……いいえ」
エプィヌは、突如気遣いを見せた無愛想な少年に、少々面食らいながら首を振った。
「初めて耳にすることばかりです。広大さに驚いて言葉が出ないだけで……王宮司書その人の口から色々と聞けて、ありがたいことです」
賢人とは、きっと学問を修めた博士のことを敬ってそう呼んだのだろう。ローブを纏ったこの若者の、学問に対する敬虔な姿勢を、エプィヌは好ましく思った。
「ぼくはこのお役目に預かって三年しか経っていませんが、亡くなった先代について仕事を学んでいた頃、歴史ノ賢人どのの話を聞きました。ペリドットどのもまた、ここへは足繁く通われていたそうで、彼が賢人の運命になければ後継にしたかったくらいだったと、本当の弟子の前で言うんですよ」
「定め?」
エプィヌは目を瞬かせた。聞いたことのない話だ。
「博士には何か決まった将来でもあったんですか?」
「あなたもまた、後継として、早逝したペリドットどのの痕跡を求めてここにいるのでは?」
問いかけに対し、さらに問いかけを返して来たラズワルドは、不思議そうに首を傾げた。それはそっくりそのまま、こちらがそうしたい気分だった。
「あなたの言うことも正しいです。わたしはたしかに、博士の痕跡を追っているのかもしれません。賢人とはどういう意味か、よくわからないですが……」
ラズワルドはエプィヌの言葉を聞いて表情をこわばらせたが、すぐに一転し、どこか不安げに瞳を翳らせた。
「あなたはラウル家の養女と伺いました。ご当主さまは、何も?」
「ええ……」
「殿下は?」
「何も……」
次々と畳み掛けるラズワルドは、囁き声ながら、どこか妙な切なさのようなものを滲ませていた。
「賢人とは、アハルテケと共にここを作り上げ、十四進分類法の基礎となった学問分類をそれぞれ司る者たち、すなわち十四人の賢人のことです。その存在を知るのは、国王と監政官の十三人、そして王宮司書のみ。彼らの所在は誰も知らず、国王ですら、名付け、戴冠、葬儀の儀礼でしか会うことのないという……」
「学問を司る賢人……?」
エプィヌは信じられずに、頭上まで視界を埋め尽くす書架を見上げて後退った。“十四”という数字が、何か不穏に記憶を掻き乱していた。
(そんなの、あまりに御伽話みたいだわ)
賢人とは、魔法使いを指すものなのだろうか。もしそうなのだとすれば、天と地がひっくり返ったとしても、これほど驚くことは他にないだろう。エプィヌとて、魔法が本当にこの世に存在するなどとは思っていない。けれど、欠けたものが合わさって形を成そうとしている今、そこに何らかの真実が含まれていることを認めざるを得なかった。
(ーー今も、魔法使いたちはどこかにいる)
「信じられませんか?」
「だって、博士は確かに天才で、でも……」
エプィヌは答えられなかった。魔法使いの伝説について口にした時のユディトやルチーフェロの厳しい反応を、どうして振り切ることができようか。触れてはならぬ、踏み入れてはならぬ。それが王権なのだと、どこへ行っても叩き込まれたばかりなのだ。もう、何を信じれば良いか分からない。
「己もまたそういう運命にあるとは、とても思えないですか?」
ラズワルドは言い終わらないうちに、もう動いていた。ローブの胸元を軽くはだけると、そこから、小さな鍵を幾つもぶら下げた金の首飾りが覗く。その一つを躊躇なくつまみ取ると、足早にエプィヌの脇を通り抜け、少し戻った先で急にしゃがみ込んだ。書架の下に手を差し込み、身体ごと回転させると、かちりと鍵が音を立てる。書架が僅かにずれて地面に隠し扉のようなものが現れた。
「秘蔵書は、こうやって各分類の書架に特別の場所を設けて、普段は目に触れないようにしてあるんです」
「それを、今わたしの前で開けてしまっても大丈夫なのですか……?」
エプィヌは慄きながら問うた。人が、誰にも知られてはならぬ秘密を口にする時、それを共有し、責任の片棒を負うことになる恐怖はもう充分だった。誰も彼も、なぜ自分をその相手に選ぶのか……。自分が本当に歴史ノ賢人の後継だと、そんな証明はどこにもないはずなのだ。
「ぼくは王宮司書と呼ばれる、知の番人です。誰にどんな知を与えるか、王から委ねられた、何者にも侵し難い権利があります」
ラズワルドは、頷きもせずに言った。
「知を護るということは、そういうことです。有事には武力の行使も厭いません」
「あなたが?」
地面に伏して隠し棚に腕を突っ込んでいる少年は、そうしているとローブにすっかり埋もれて、とてもではないが、勇ましいところを想像することはできなかった。
「武人と刃を交えるというんですか?」
「ここが侵略される時は、王城の守護が全て破られた時。ぼくが槍を振るったところでひとたまりもないでしょう。その時は、ここを照らす灯が武器となります」
起き上がった彼が手にしていたのは、いつの時代の物とも分からぬ厳重で分厚い装丁を施された、紙製の小箱だった。強烈な虫除けの香草の匂いが鼻をつんと刺激する。エプィヌはむせ返りながら、疑問を口にした。
「灯が……?」
「燃やすんです、本を全て」
絶句し、さらに激しく咳き込んだエプィヌを何とも言えないという表情で見遣って、彼は続けた。
「知を敵に明け渡すなどあってはならないこと。だから、番兵なんですよ。さあ……」
彼が小箱を開けると、羊皮紙の紙筒が覗いた。言われるがまま、エプィヌは、その古びた巻物を受け取った。
「これは、『司書賢人録』というアハルテケの手記を、後世の王宮司書が写したものです。言い伝えによれば、ここに王国の興りに何があったのか、彼の記録がまとめられていると。複雑な古語……ですが、あなたが後継としての施しをされているのなら読めるでしょう」
震える手でそっと紙を束ねた紐を解く。のたうつ竜のような、鏡文字……。ルチーフェロに手渡された紙に綴られていたのと同じ、暖炉の奥の文字だ。蟻のように細かな連なりが、集中すればするほど、どんどん視界を歪めてくる。容易く人を寄せ付けまいとする、読むことを想定されていない書物だ。
(でも、分かる)
それは紛れもない事実だった。博士から得たものについて抱く誇りだけは、何を恐れていたとしても挫くことができなかった。息を詰め、一文字一文字を分解して整理していくと、単語のまとまりが見え、意味を拾っていくと、さらに文法が浮かび上がってきた。読める。そのことが、状況の掴めない強い恐怖感の中、自信と安堵になって、一筋の光のようにエプィヌを照らした。
「冒頭、何が書かれていますか?」
ラズワルドはエプィヌを促した。
「ーー国中の書物を一掃するというのが、アハルテケがターリアから受けた命だったと」
いくらか落ち着きを取り戻したエプィヌは、書き出しの一文を要約して伝えた。
(一掃……?)
現代の王宮司書の役目から言うならば、収集、と言うのが適当なのではないか。
「ぼくが今、どんな奇跡に立ち会ったか分かりますか?」
疑問が頭にもたげていたエプィヌは、ラズワルドの突拍子もない質問に眉を顰めた。
「奇跡って、そんな大それたことが起きましたか?」
「ぼくは、アハルテケ以降の王宮司書の中で、おそらく唯一、『司書賢人録』の内容を知る者となったんです」
「なんですって……」
エプィヌは目を見開いた。
「そんなことってありますか?」
「王宮司書は賢人の存在を知ってはいても、生涯で彼らに出会うことができるかは分かりません。ぼくの師が歴史ノ賢人どのと知り合ったのは、本当に偶然でしかありません。弟子にならないかと持ちかけた返答は『自分にはあなたと同様に、学問を護る尊い運命がある』と。それで、師は全てを察しました。賢人どのの研究にできるだけの力添えをしようと尽くしましたし、司書としての責務の範疇を超える行いは決してしませんでしたから」
「全ての資料に目を通し管理する王宮司書といえど、秘蔵書として触れずに来たのならば、あなたは、この中身を知って、越権だとは思っていないのですか?」
ラズワルドの瞳が揺れるのが分かった。
「ーーぼくには、これは読めません」
ラズワルドは、痛い所を突かれたと思っているようだったが、彼は構わず、噛み締めるように言った。
「もちろん、ぼくの師も、過去のアハルテケ以外の王宮司書たちも。皆がよしとしてきたことを、ぼくはできなかった。確かに在るものをないように扱うことはできない。ーーあなたもそうだと思ったから、だからここへの紹介状を得て来たのだと」
彼の洞察は深く、的確だった。そして、どこかで誰かが言っていたのと同じだと思った。
(わたしと同じ……)
「そして、殿下のお心を察するなど不敬ですが、それを承知で言うならば、きっと、ご自分で何を告げるよりも、あなたがここで、存在の証明を得た方があなたのためだと思ったのではと」
エプィヌが口をつぐんだままなのを見遣りながら、彼はなおも言葉を継いだ。
「これを読める者など、王国には存在しないのです。もしこれが公の書物で、学舎の教授の目にも触れるものだとしても、同様でしょう」
「誰にも、読めない?」
(そんなこと……)
エプィヌは呆然とした。あのロギ師にもできないことを、自分はすでにやってのけたというのか。
「法則性はきちんとありますし、崩し方や語順がかなり飛躍していますが鏡文字だということに気が付けば読めるはずです」
「いいえ」
ラズワルドはきっぱりと首を振った。
「鏡文字だと理解できても、それは無理です。通常は、過去の歴史学者、文学者たちが紐解いてきた崩し方、法則性を基にしているから読めるんです。現代の常用文体ともかけ離れているわけでもないし、変化してきた推移が分かるから、そういうことを踏まえて理解することができるんです。でも、これはそもそも、今伝わっている中には存在しない文字が含まれているし、それが分からなければ周囲の文を読むこともできない手がかりのような文字なので、その意味さえ推測不可能。これが分かるのはあなただけです。それが、歴史ノ賢人の称号を、信じるに値する証明ではないですか?」
「そんな……」
古語特有の“鍵文字”だと博士が教えてくれた非常用文字、その謎が不意に解けた。
(それがないと、読めないということなんだわ)
だとしたら、本当に、博士は歴史ノ賢人なのかもしれない。認めざるを得ないと思った。教授にも触れられない、公の書物ではないものを、博士が持っていたということが驚異だったし、それは、確かにエプィヌがこれまでの人生で直近に接してきたものだった。
(ーーそうか、殿下が探していたのは、”歴史ノ賢人“……)
あんなに魔法という言葉を口にするなと言い放った彼が、どんな目的で歴史ノ賢人を手元に置きたがっているのかを推理する間もなく、エプィヌは咄嗟に、古城に残してきた山のような史料たちを思った。今頃、ノルドが手配した者が取りに走っているだろう。それが、どんなものかも知らないまま。
そのまま、誰も踏み入れない古城に眠らせておいた方が、良いのかもしれない。王都になど運び込まない方が良いのかもしれない。そんな考えが脳裏を駆け巡ったが、もう遅かった。何も知らぬふりをして、与えられた部屋から出さずに匿っておくしかない。生涯、人目に触れさせず……。
ここを照らす灯が武器となる、そう語ったラズワルドの言葉が、ぐわんぐわんと耳元で音を立てて蘇る。
(……燃やしてしまうしか、ない?)
それでは、ルチーフェロとやっていることが同じではないか。その考えは、すぐに打ち消した。
「その……あなたに聞くのはお門違いかもしれませんが」
思い付きが正しいものなのか、どんな結果に至るのか、考える前に動き出すのは危険かもしれなかったが、エプィヌには一つ、ここまで来て悟ったことがあった。
(わたしも、人を操るくらいの気概がないと)
目の前のこの少年は、役に立つ。彼を取り込めば、何かを変えることができる。脳天の辺りで、直感がそう告げていた。
「賢人というものになるには、どうすれば良いのでしょうか……」
「さあ」
予想はしていたものの、覚悟を決めた矢先で、彼の無機質な声と返答を聞くと、かなりがっくりくるものがあった。
「通常は師から弟子へと全ての知が受け継がれ、王に献上するのが習わしかと。王宮司書は王国中から志願者を募るのに対して、賢人の存在を民は知らず、細々と世襲されているのか……その辺りはぼくにも分からないですが、なんとかして王に認められねばならないのは確かです」
「そうですよね」
エプィヌは呟いた。
「博士からの教えを請うことはもうできない、この世から、全き歴史ノ賢人はいなくなるということなのね」
「それは困ります」
やはり掛かった、と思った。
「王宮司書の立場として、それは看過できない問題です。あなたには、何としても繋いでもらわなくては。賢人どのの遺したものの中に求めるしかないでしょう」
彼はすぐそばの書架に並んだ本の背表紙を、順番になぞりながら言った。
「見てください。著者名のないものは全て、過去の賢人が著した本です」
賢人は歴史に名を残さない。そのため知られていないが、『国史大書』の最高責任者を務めるのは必ず彼らであると、ラズワルドは、エプィヌの頭の中を覗いたかのように付け加えた。
(ーーそう、だったんだ……)
博士の死がよけいに悔やまれた。彼にはやはり、しなければならない大仕事があったはずだったのだ。ーー国王夫妻の暗殺、叛乱という前代未聞の出来事に評価を下す、歴史家として最高の機会を得る博士の背中を、エプィヌは誇りに思ったに違いない。
「あなたの師は、唯一、その生涯で出版物を遺していません。つまり王宮司書の検閲にもかかっていない。ぼくとしても、その内容は知っておきたい」
光の加減か、その瞳がかちりと色を変えたのを見て、エプィヌは、自分から仕掛けておきながら身を固くした。治安維持を司る立場としてラーギニールを看過できないと言った、ルチーフェロの厳しい眼差しを思い出したのだ。
(手を差し伸べているのか、それとも……)
ルチーフェロの意図を汲み取って賢人の秘密を明かした機転を思っても、ラズワルドという少年はまず、その言動を穿って見た方が良い気がしていた。その疑いの表情を隠せていないだろうと自覚しつつ、エプィヌは無遠慮に相手を見つめ続けた。
(博士の遺した研究を検閲したいと言っているのだから、敵に回ることも有り得る話だわ。でも……)
もしそんな未来がやって来るのだとしたら、その理由を知らない方が身を滅ぼすことになるのではなかろうか。そして、それより、自分が納得できないに違いない。
(そんな心配をするより、彼を仲間にしてしまう努力をしなさい、エプィヌ)
ローブの中で、そっと拳を握りしめた。ここから運命を動かして行くとすれば、それは自分自身でなければならない。
「わたしが学舎を卒業して出版の権利を得たら、博士の仕事は、いつかわたしの手でまとめて世に出したいと思っていました。それには途方もない時間がかかります」
声が、自分のものではないように思えた。異端の碑壁の巌窟に満ちるという叫び声は、そこを吹き抜ける風のせいだというが、そんな、耳を塞ぎたいくらいの奇妙なさざめきが、狭い書架の間を刹那埋め尽くして僅かに小波が立ち、すぐに消えていった。
「だけど、王宮司書のあなたが……この世で賢人の存在を知る数少ない知恵者であるあなたが、わたしと力を合わせてくれるのなら、全く道が見えないわけでもないような気がしてきました」
エプィヌは岩山で狼に遭った時のように、彼の瑠璃色の深い瞳から目を離さず、慎重に持ちかけた。
「持ち得る手札を出して、互いに欠けた部分を補い合いましょう。わたしは歴史ノ賢人になるために、あなたに博士の研究を差し出します。あなたは何をくれますか」




