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第三章 いばらが護る扉 (3)

「まあ心配するなって」

 ルチーフェロが振り返ると、ざっくりと肩に引っ掛けたマントが、身体に沿ってねじれながら翻った。その紺色が背景に溶けて、姿がかき消えてしまいそうなほど、すっかり日が暮れていた。

「ユディトには、おれがあんたを送って帰ると伝えさせてあるし、小言を言われるにしてもおれだよ」

 学舎の区域よりも数段上の階層まで、ずいぶん歩いた気がした。昼間に下から見ていた大階段は使わず、生垣の陰などにひっそりと設けられた通用門を通って辿り着いたのは、延々続く空中庭園のうちの一段、その壁に取り付けられた小さな馬蹄形の扉の前だった。ーーそうは言っても、王城の様々なものの規模と比べると小さく思えるだけで、ゆうに、長身のルチーフェロの背丈の倍以上はありそうだった。

 ここまで至るには、迷路のようないばらの生垣を抜けなければならなかった。その上、伸びた蔦は壁にも門扉にもみっちりと絡み付き、人を寄せつけまいと沈黙しているように見える。何しろ、長い年月を日光に鍛えられ、深い光沢放つようになった黒鉄の扉には、紋様が刻み込まれているが、それを一切覗き見ることができないほど、蔦はその場を支配していたのだ。

王宮書庫ドムン・パディリィフィというのは」

 ルチーフェロは、その前に立ち止まると、やや仰々しい口調で切り出した。

 小さな白い蕾が、ちらほら宵闇に浮かんでいる。王都の気候はヨークよりずいぶんと温暖ではあるが、エプィヌが思うよりも早く、初夏の気配が、そこには宿っていた。

「その名の通り、城内にある書庫。ただ、それだけじゃない」

 エプィヌは、呆気にとられたまま頷いた。

「王国の歴史文化、知識技能の継承のために設けられた書庫(パディリィフィ)だーー出版された全ての書籍に納本義務があり、王宮書庫ドムン・パディリィフィの司書には、それらを収集、検閲、統制し永久的に保存する使命がある」

(検閲、統制……)

 ルチーフェロが語り終えるのを待っていたかのように、門は一人でに動き始めた。エプィヌは驚いて、途端に、考えかけていたことを手放してしまった。ーーしかし、それは魔法などではなかった。上空には、薄闇に乗じていくつかの影が舞っている。一角獣(ユノ・ケローズ)の小部隊だ。その背にはそれぞれ美しい乙女が跨っており、絵画のようだった。誰かがルチーフェロを見とめて指図し、扉を開けさせたのだろう。

 中の一騎が、まるで雪山の斜面を滑り降りるようにじぐざぐと旋回し、速度を緩めながらこちらへと近付いて来る。それに気付いたルチーフェロは、手を差し上げて左右に振った。

 二人の前に降り立ったのは、想像していたよりも大きく、そして硝子細工のように繊細な美しさを放つ生物だった。額の中央には、螺鈿に似た角が様々な色を映して輝き、風にざわめく豊かな巻毛の(たてがみ)は、白い炎のように立ち昇っている。

「ご苦労、サロメ」

 その翼の後ろから、小柄な影が滑り降りた。

「お気遣いに感謝致します、殿下」

 サロメと呼ばれた乙女は、白銀の兜を取り払った。膝を折って敬礼し、風で乱れた短髪をさらりとかき上げながら、さっぱりとした笑顔を見せる。彼女の駆っていた一角獣(ユノ・ケローズ)と同じく、長い睫毛(まつげ)が印象的な、色白の美人だ。

「かしこまらなくても良い」

 これが、二人の常のやりとりなのだろう。ルチーフェロが形式的に許すと、乙女は機敏に立ち上がり、さっそく興味津々というようにエプィヌを見つめた。

「殿下、そちらの、お嬢さまは?」

「ああ」

 彼の手がそっと背を押したので、エプィヌは大きな獣に怖気付いている暇もなく、前へ進み出る形となった。

「この子は、おれが世話になっているラウル家の養女でエプィヌだ。晴れて王立学舎に合格した祝いに、王宮書庫ドムン・パディリィフィへ案内してやろうと思ってな」

 ルチーフェロはそう言い、笑いながらこちらの肩を引き寄せた。普段ならば驚いて身を引くところだが、一角獣(ユノ・ケローズ)の鼻先に額を小突かれてすっかり面食らってしまい、エプィヌはそれどころではなかった。

「まあ」

 乙女は肩をすくめ、おかしそうに笑った。

「このお嬢さまに興味があるのね」

 浮気もの、と呟きながら、愛おしそうに(たてがみ)を撫でる。一角獣(ユノ・ケローズ)は普通の馬と変わらない小さな鼻音を立て、エプィヌから顔を離した。

「申し遅れました」

 乙女もまた、エプィヌの方へと一歩足を進め、胸に手を当てた。

「わたくしはサロメ、そして彼は夫のヨーカナ。東の守護(エリス・フォリア)に任じられております」

東の守護(エリス・フォリア)?」

 耳慣れない名称だった。エプィヌの知る限り、歴史上そのような官職はない。

「おれの私兵さ。彼女は元闘士(ティリス)、命のやりとりを勝ち抜いて来ただけあって腕は確かだ」

「私兵……」

 エプィヌは口の中で呟いた。

「どうした」

 訝しむ表情がつい出てしまっていたようだ。それを見とめたルチーフェロは、ひょいと腰を折って顔を覗き込んできた。

「ええと……」

 エプィヌはしばしためらったが、彼の瞳は最初から何もかもお見通しなのだと悟った。

「近衛とは別に、王子といえど国軍に対して私兵を持つ、といった行動を、国王陛下はお許しになっているのですか?」

 いくらか声を潜めながら、エプィヌは尋ねた。

「大変不遜な質問だとは、重々承知しております。ただ、気になっては放っておけない質で」

「あんたのそういうところは嫌いじゃないさ」

 ルチーフェロはサロメと顔を見合わせ、それから再びこちらに視線をよこすと、からからと笑った。

「国軍なんてのは、今や現国王の私兵に等しい」

「……どういうことでしょう」

「あんた、国軍の成り立ちに関する神話はもちろん知っているんだろう」

 エプィヌは頷いた。ラウル家邸宅の回廊に刻まれた彫刻の神話だ。

 ーーアッティラとドゥリンの子孫たちは、かつてエンドラッドのあった平地に住む草原の人々(ヒャルマール)と、丘陵地や岩場に小さな共同体を作って暮らす丘の人(ベルグフォルク)に分かれ、平地の人々が丘の人々を支配することで世界を構築していた。しかし、雲の峰(スフ・マリス)に暮らしていた(グラード)が火の柱を逃れて現れ、人々を脅かし始めた。(グラード)を倒した者を勇者として讃え新たな王とすると、双方の氏族をまとめる長老が宣言したことにより、多くの若者が(グラード)に戦いを挑んだ。そのなかで王の座を射止めたのは、リーヴという若者だった。彼は、ある時雷に焼かれて消失したエンドラッドの最後の実から生まれた、輝く魔剣を抱いた神の子であった。

 この世で唯一(グラード)の速さにかなうものは、強靭な翼をもって天を駆ける一角獣(ユノ・ケローズ)だけであった。一角獣(ユノ・ケローズ)を操る民の、選び抜かれた乙女らは一角獣(ユノ・ケローズ)の雄とそれぞれ夫婦の契りを結び、心を通わせることができた。リーヴは、草原の人々(ヒャルマール)にも丘の人(ベルグフォルク)にも属さず、人々から異端視されていたその民を従え、乙女の操る一角獣(ユノ・ケローズ)の背に乗って、エンドラッドの実からともに生まれた魔剣を用い、(グラード)の眉間にそれを突き立て倒した。(グラード)の頭を持って凱旋したリーヴは、一角獣(ユノ・ケローズ)の民の功績を讃え、国軍と定め、自らを背に載せて戦った乙女を将軍とした。彼女らは以来、聖騎士(ディヤナ)と呼ばれた……。

「あんたの知っている国軍ーー多くの民はその(いわ)れすら祖先が忘れ去っているだろうが、それは全て、現国王が起こした謀叛によって置き換わった。当時闘技場(ティトーセウム)にいた乙女らを雇い、国軍の称号を与えるという約束のもと、父君が利用したんだ。国軍は戦のない長い年月の中で、すっかりお飾りになっていたから、命のやり取りを常としている闘士(ティリス)たちに敵うわけがない。皆、討伐された」

「そんな……」

 ルチーフェロは淡々としていたが、サロメの前でそれを語るのはあまりに酷だった。

 エプィヌの心中を察したのか、彼女は王子に発言の許可を求めた。

「わたくしを含め闘士(ティリス)から登用された者は皆、国王陛下に感謝しております。氏族の娘たちが、皆聖騎士(ディヤナ)として王宮に仕えることができるわけではありません」

 上空に舞う仲間の小隊を仰ぎながら、サロメは目を細めた。

「子を生むことをさだめとされた娘と、聖騎士(ディヤナ)となるべく育てられる娘とがおり、さらにその中でも、聖騎士(ディヤナ)になれなかった娘が現れる。わたくしどもは一角獣(ユノ・ケローズ)を夫としているため、村に戻ることも、家庭を持つこともできない。そのため、闘技場(ティトーセウム)闘士(ティリス)として稼ぐ道しか残されていなかったのです。仲間同士で傷つけ合う、酷ければ殺し合わねばならないというのは、どんな仕打ちよりも辛いもの。そこから拾い上げて下さったのですから……」

(だとしても……)

 謀叛の折、国軍と闘士(ティリス)が衝突したということは、結局、身内で殺し合っているには変わりないのではないか。

「ーー闘技場(ティトーセウム)闘士(ティリス)の文化が、根絶やしになったというわけではないのですよね?」

 釈然としないあまりに、そぐわぬ問いを口にしてしまったと、すぐに気が付いた。エプィヌは困惑しつつも、自分自身を省みて、心の片隅で苦笑した。何か引っかかることがあれば立ち止まって尋ね、納得してから前に進む。博士と二人きりの暮らしではそれで不自由なかった。学者の頭の中は、常に疑問が支配しているものだし、それが資質でもある。それなのに、いざ世間に放り出されてみれば、こんなにも、自分が面倒な人間に思えてくるなんて、とても皮肉だった。

 サロメの瞳に浮かんでいた小さな月明かりが、心なしか色褪せたように見えた。それを目撃して、エプィヌはいたたまれず唇を噛んだ。  

 しかし、僅かの後には、彼女は俯いたエプィヌを不思議そうに見つめていた。小さく首を傾げ、困ったような笑顔さえ浮かべている。

「わたくしのように、当時は闘士(ティリス)の養成施設におり、戦闘に加われなかった者もおります。訓練を受けさせるのは、わたくしどもを買った貴族や裕福な大商人でありますから、足抜けは許されません。わたくしはその後、十二の歳で闘士(ティリス)となり、王城への足掛かりもなく過ごしていましたが、殿下が主人から買い上げて下さったのです。わたくしの仲間、東の守護(エリス・フォリア)は皆、そのような境遇ばかりです」

 彼女の隣で静かに草を()んでいたヨーカナが、何かに呼ばれたかのように顔を上げた。少し遅れて、サロメも夫が見る夜空の彼方を仰いだ。

「ーー仲間が呼んでいます。挨拶が長くなってしまいました」

 よくよく耳を澄ますと、頭の奥に直接響くような、か細い高い音ーー銀食器同士が擦れ合うのに似た、チリチリとした音が、虫の羽音よりも小さく鳴っているのだった。聴こえたと思えば鳴り止んでおり、鳴っていないと思えばまた、チリチリと響く……。これが何の音かはよく分からなかったが、一人と一頭は、確かにこの音に反応していた。

「それでは、わたくしどもは、これで」

 サロメは敬礼すると、腰につけた銀色の装飾に手をやった。装飾は、渦巻き状になった端から紐が垂れている。彼女はそれをさっと引っ張った。紙と同じくらいに薄く、小指の爪の半分もない幅の金属の帯が、先端に取り付けられた宝石の重みでだらんと垂れ下がり、その途端から、ゆっくりと巻き戻って行く。すると、じじっと部品の軋むがして、先程耳にしたのと同じ小刻みな音が、装飾の内側からチリチリと発せられるのだった。サロメは、装置の表面を時折押しながら、継続する音の音程や拍子を操っているようだった。ヨーカナは、ゆっくりと瞬きをしながら、主と見つめ合っている。ーー会話をしているのだ、とエプィヌは推察した。

 サロメの頭帯にも銀の鈴のような装飾が付いており、ヨーカナは時折、そこに自らの角を当てがった。額と額を触れ合わせ交信する様は、あまりに異様で、そして美しかった。

「ーー珍しい種族よ」

 幻のように飛び去って行く一騎を見送りながら、ルチーフェロは、ほんの少し眉根を寄せて呟いた。

東の守護(エリス・フォリア)を編成する時、あの技を、おれも習得しようとはした。一角獣(ユノ・ケローズ)と通じることができるのは、本当に、彼女らだけなのか。ーー結果は惨敗だ。一角獣(ユノ・ケローズ)の発する音は角の辺りから発せられているのは間違いないが、その僅かな振動を、おれは感じ取ることができない。繊細な耳がなければ羽虫鈴(リウファン)を正しく奏でることもかなわない」

 エプィヌは、耳の奥に残るチリチリとした音色を思った。言葉とは、不思議なものだ。鞭打つ以外で獣と意思を通じる方法など、誰が発見し、誰が考えたのだろう。

「彼女たちはどこから来たのでしょう……」

「あんたが突き止めてみたら」

 思ってもみない返答だった。

「王国の真実は、どこにあるのか。人々はどこから来て、これからどこへ向かうのか……」

 いつも何を考えているのか分からない彼だったが、その瞳の奥に、少したぎるものが見え隠れしていることを、エプィヌは初めて見つけた。

「ターリアが捨てたがったものは何だったのか、それは何を得るためだったのか。ここまで静かに続いて来た繁栄は、衰退とも呼べるのではないか」

(そのように表現するの……)

「ーーとても、ラーギニールさまに厳しくなさっているのと同じお方だとは……」

「思えないって?」

 エプィヌは頷いた。あの庭に、奇跡の天才を閉じ込めておこうとするような、数日前に見た彼とは別人だった。

「ラギのような異端者がどんな風に排除されるかを、知っているからさ。それに尽きる」

「異端者……」

 胸がつきと痛んだ。ーー博士が、ひょっとすると、そのように評価されていたとしたら。

(そんなはずは)

 エプィヌは頭を振るった。博士が排除されたのだとすれば、一体誰が、どうやってそれを為せたのか説明がつかない。世間知らずの自分にだって分かる。あんなに人と交わらない生活だったのだ。誰かが訪れたこともなければ、博士がワァヤン以外の者を訪ねることもなかった。そんな具合では、突然の病で倒れたとしか考えられないのだ。

 ルチーフェロは、エプィヌを手招いて、黒々と口を開けた門扉の前に立った。風が吸い込まれて行く……。奇妙な胸騒ぎがした。

「父君が王位を奪って以降、死人のように静かだった王国が、目を覚ましたのは事実だ。おれは、どうすべきか迷っている」

 周囲にあるもの全てに耳目があるような気がして、肌がざわざわとした。目の前の闇こそが、閉じられたターリアの瞳の奥底なのだと言われても、エプィヌは疑いなく信じるだろう。王国は確かに生きている、と思った。

「この王国は、ターリアという逆臣によって始まり、再び王位を奪う逆臣が現れた。飾りものではなく、武力を持った国軍が誕生した、全て今までになかったことだ。父君に、女のため以外でどんな志があったのかは知らないが、父君が勝利し今があるゆえに、その行いを評価する者がない。いずれ、国史大書(こくしたいしょ)に書かれる日を待つばかりか……」

 ルチーフェロは、言葉を途切らせると、唇の端を持ち上げた。

「それは、あんたが書くのかもしれないな」

「エーフロシュネさまかもしれません」

 それを思うと複雑な気持ちになるので、エプィヌはあえて否定も肯定もせず、つい反射的に、優秀な学徒の名を借りた。

「でも、陛下の周囲には政に関わる人がいるでしょうに……」

 ルチーフェロは、ちらとこちらを見やった。

監政官(ラヴィレス)は、特権を奪おうとした前王への不満から、むしろ父君を歓迎したくらいだ。何も考えちゃいない、空っぽの阿呆ばかりさ」

「そんな」

「まあ、城内のことなんか誰も知る由もないし、誰も興味を持たないことだ。ぼけたおめでたい民の目には、何も映っちゃいないってことさ。全部御伽話、この、やたら輝いていやがる宝石箱の中に籠められて、眠らされている御伽話さ」

「ーーそういうことは、わたしが知ってもいいことなのですか?」

 エプィヌは顔をしかめ、口ごもりながら言った。

「王都へ上ってからというもの、様々なことが、巧妙に操作されているのだと感じる体験ばかりです。人々が無知のまま、御伽話の住人であり続けることを、王は望んでおられるということではないのですか?」

 ルチーフェロは唐突に手を伸ばして、エプィヌの頬に触れた。

「あんたはユディトが言ったように、いばらの姫だから」

 全くもって答えになっていない。けれど、何も言い返すことができず、エプィヌはただ立ち尽くして彼を見上げた。

「もう気付いていると思うけど、おれがエーフに指示して、あんたをロギ師の所へ連れて来た。あんたを危険に晒したくないと思ったからだ。だけど……」

 珍しく、ルチーフェロの言には迷いが見えた。

「あんたのために、どうするのが一番良いか分からない。ロギ師に師事すべきだと思ったし、ラギと一緒になるべきだとも思う」

 分からない、と叫び出したかった。

(なぜ、そういう風に呼ぶの)

 髪の色のせいだろうか。いばらの実の色に似てはいるけれど、それだけなら姫百合だって林檎だって良いはずだ。棘があると言いたいのか、蔓に閉ざされるように、何かに捉われていると言いたいのか。

(それとも……)

 彼が今口にしたように、運命(さだめ)に逆らうなと言うことなのだろうか。

 言葉が詰まって何も言えない代わりに、エプィヌは瞳にぐっと力を込めた。

 ルチーフェロはしばらく黙って見つめ返して来たが、そっと手を引っ込めると、掠れた声で続けた。

「おれはそのつもりだった。手を下さず、大切なことを何も言いたがらないユディトに変わって、あの人の願っているだろうことを、良い方へ導いてやりたかった。でも、あんたを知って気が変わった」

 ぬるい風が吹き抜けた。

「あんたは特別だ。ペリドットの思考を継いだあんたにしかできないことがある」

 これを読めるか、とルチーフェロは紙切れを差し出した。古城の暖炉の奥にあったのと似た崩し方だ。心なしか、博士の書きそうな字体にも思えた。難読と言えなくもないが、短文であり、その場で読み上げるのは造作もないことだった。

「ーー何か、戯曲の台詞でしょうか」

 エプィヌは、その意味を深くは考えないままに問うた。

「いいや」

 しかし、彼は再び懐に紙切れをしまいながら首を振った。

「これを読むことができる者を、探していたんだ。父君から職を任された時、同時に賜った、おれの一番大切な使命」

 エプィヌは、痛いほど脈打つ胸を押さえた。

「おれは、あんたに自ら道を選んで欲しい。あんたが何をどうしようと、たとえ……そのために規範を冒そうと、決して敵にはならないよ。何にだって誓う。額に烙印を押してもいい」

 語尾を言い終える前に、彼はエプィヌの手首を掴んで引き寄せた。驚く間もなく、二人は同じ影を踏んだ。

「おれは、近いうちに……」

 エプィヌは目を見開き、凍りついた胸にはっと息を呑んだ。ルチーフェロの肩越しに、夜空を見上げた。かなり高く上がったのか、小隊の姿は星々に混じり、豆粒ほどにしか捉えられなかった。世界にはたった二人しかいないようで、全てに取り残された気がして、恐ろしくもあった。夢ならば、どんなに良かっただろう。震えが込み上げて、耳鳴りがした。

(ーー選んで欲しいと言いながら、ずるい)

 こんなことを聞いてしまっては、それを抱えて歩くしかないではないか。

「殿下は……殿下は、なぜ、わたしにそれを。わたしを守るようなそぶりを見せながら、それでなぜ、ご自分の言葉を裏切られるのですか?」

 耳元から顔を離したルチーフェロは、申し訳なさそうに笑いながら、再び手を伸ばした。エプィヌは、涙を拭われて、自分が泣いていることにようやく気が付いた。

「分からないかな」

「分かりません」

 引き返す道を塞ぎながら、それでも自由にしろと言う人を、どうして信じられよう。

「おれは自他共に認める享楽者だ。そして、手に入れたいもののためなら手段を選ばない。簡単な話さ、ユディトがいよいよラギと(めあわ)せようと言い出す前に、あんたを巻き込んでしまいたかったんだよ」

「ーーわたしにだって意思はあります」

「だから、道を選ぶ余地はある」

 めちゃくちゃだ、と嘆きつつも、抗えないのは、どうしてなのだろう。ーーこの刹那的な危なっかしい人を、盲信できるほど考えなしだったら良かったのだろうか。

「おれは、あんたに賭けようと思っている」

 ルチーフェロは、熱を込めて言う割には、やはり、肝要な所は何一つ教えてくれないのだった。そのようなところは、ユディトにそっくりだった。

「だから、紹介状を用意した。ここは王国の全てが詰まった場所だ。よほど優秀な学徒でも王宮書庫ドムン・パディリィフィへの立ち入りは簡単に許されることではないから、心しておけ。奥の扉を入ったら、案内の番兵にそれを渡せ。いいな」

 ルチーフェロは、やたらと早口に伝えた。おかげで何も言い返せず、それ以上この場にいることもできず、彼の言うまま進むしかなかった。本当は……どうしたいかも分からない。自分の気持ちは何一つ見えない。

 エプィヌは、もう一度ルチーフェロと瞳を見交わすと、意を決して振り返り、門の奥を凝視した。蔓が通路を覆い尽くし、何かを護っているような、口を閉ざした静かな闇を……。

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