第三章 いばらが護る扉 (2)
「君の生い立ちだが……」
言いさして、ロギはふと小さく手を挙げた。
「いや、どうしても語りたくないことがあれば、答えずともよいのだが」
「ありがとうございます」
エプィヌは目を伏せた。
(ローブ……)
隠されていた袖口が、持ち上げられた腕と同時に鎌首をもたげる。そこには、乾燥して幾重もの光る筋となった、インクの文字写りがあった。
(博士の書き残したもの……どんな研究をしていたか。師が知りたいことを、わたしはきっと答えられない)
博士のローブの袖も、いつもてかてかと光っていたものだ。書き物ばかりしていた。
『伝承を集めて、どうするのですか』
『なに、様々な角度から光を当てねば同じものしか見えんからな』
顔を上げないまま答える博士の背中は、あまりに卓にかじりついているので、穴熊のように丸まっているのが常だった。
丘の人たちは、ヨークの荒涼とした大地に氏族毎の村を営み、緩やかに結束しながら生活をしている。すでに氏族長を退きながらも、現代の全丘の人の中で最長老のワァヤンは、遠くなった過去の記憶の語り部として、氏族の垣根を超えて皆の尊敬を集めており、博士は彼の元によく出入りしていた。草原の人々を好まないワァヤンは、お世辞にも博士を歓迎しているとは言い難かったが、何らかの同情を持って接している部分はあるようで、知識を求めに来る若輩者をむげに追い返したりはしなかった。
『ここは神代より丘の人の土地。監政官を担う十三家から王が選定した者を派遣し統治する倣いだが、王都からわざわざここへ移り住もうという者はない。定期的に国経省から監西使がやって来るばかりで、いつの世も王政が行き届いているとは言い難い。また、ヨークのわずかの草原の人々も、今は採石によって身を立てているものの、元を辿れば、長い歴史の中で、何らかの理由で王都に居られなくなった者たちの末裔は多いだろうし、丘の人を屋敷仕えとして雇ってはいても、互いに“身分外”には変わりないのだ』
博士はそのように、ワァヤンの心中を理解しているようだった。
(辺境に生きる者の、そこに在る理由……)
それを思うと、生い立ちを大きな声で語るのは憚られる気がした。しかし、口ごもりながらも、エプィヌはこれから自らの師となる人の問いに、十分に答えようと必死になった。それだけでなく、誰もがうやむやにしてしまう何かを、この人は直視して紐解いてくれるのではないかという期待も、ついせずにはいられなかったのだ。
「わたしは、丘の人の土地であるヨークの、ヴィーヴェランの丘で育ちました。皆ほとんどが羊飼いで、そこで営まれる暮らしの輪には、数少ない草原の人々であるわたしたちは、交わることがありませんでした。また、わたしは自分を生んだ両親の顔を知りません。博士が一人で、十八年もの間育ててくれました。博士は、わたしの血縁ではないということだけは、はっきりと語っていました。彼は妻帯しませんでしたから、自らの子もおりません。また、わたしの生みの両親との面識もないと」
「ほう……」
ロギは眉をぴくりと動かした。
「では彼は、どこで赤子の君と出会ったのかな?」
「博士が王都に暮らしていた時の知人で……産婆をしていたという人が、父なし子を身籠った浮浪の女を助け、その者が産褥で亡くなったため育てていたようです。けれど、その産婆もすぐに晶死病で亡くなりました。博士は彼女に頼まれて赤子のわたしを引き取り、病から逃れてヨークに隠棲したと」
晶死病は、今から二十年ほど前に突如として王都を席巻した、非常に致死率の高い病だ。発熱に始まり、すぐに、まるで零下で肺が凍り付いたように胸が冷え……それは、実際にはあまりの痛みをそう表現するしかないのだというが、さらに病が進行すると、肌の色が透き通るように白くなる。皮膚の薄い子供などは、血管がくっきりと見えるほど重症化した例もあると聞く。ーー罹患者はほぼ助からなかったし、あるいは隔離されて郊外の王営施療院に収容されたり、それこそ“王都にいられなくなって”ヨークなどの辺境に移住したりと、エンドラッドにはすでに、病の跡形もない。その記憶はかなり風化していると聞く。
博士曰く、病は医学や薬学の枠を超えて、歴史そのものに大きな影を落とすものらしい。恐怖と絶望の淵に突き落とされた民は混乱し、更なる蔓延を防ぐため、国は様々な規制を敷く。大抵が隔離や行動制限だが、それによる経世の逼迫は免れない。海洋諸国との交易で潤うエンドラッドにとって、鎖国の数年間は大いに痛手となった。商人によって解雇された貧しい担夫たちが浮浪の身に堕ち、採石夫としてヨークに流入した一部の幸運な者は別として、その中には、旅費さえなく、王都と郊外を仕切る高い石塁を庇にして雨風を凌いだりする者も出た。ここ百有余年の中でも風紀は最も地に落ちたと、博士は評価を下している。
(学問に大きな制限のあるこの国では、こういった疫病にはどうやって対処していくものなのだろう)
“王に許されて”ある一定の規律のもと、治療法の模索が試みられるものなのだろうか。それは、ここで学ぶうちに追々知ることになるのだろう。
エプィヌは、再び口を開いた。
「博士はもともとヨークの出だと聞きます。わたしの知る限り、すでに身寄りはないようですが……」
「いかにも、彼はヨークから出てきた純朴な学徒だった。彼は自らの親族について何か語っていたかな」
エプィヌは首を振った。なんとなく、博士の生い立ちについては触れることを避けて来たのだった。幼心にも、そうした方が良いのだと悟っていた。
(あ……)
しかし、遠い日の記憶が降ったように蘇り、エプィヌは小さく息を呑んだ。
「目の色……」
一度口をついて出てしまった言葉を引っ込めることはできず、エプィヌは、慎重に続けた。
「目の色のことを、一度だけ尋ねたことがありました」
『――その瞳、ペリドット殿ゆずりですな』
王都への馬車の中でノルドにそう言われた時、つきりと胸が痛んだ。博士がワァヤンの元に伴って行ってくれた時、パーバディンの街で新しい衣を買ってくれた時……決まって、人々は「お父さんにそっくりね」と人見知りのエプィヌに笑いかけた。ワァヤンはそのようなことを言う質ではなかったけれど、氏族の女らや商人らは皆、そう口を揃えたものだ。
実際、二人の顔つきは似ていると思えば似ている、というくらいだった。二重で丸いけれども、目尻の粘膜がすっと長い所、筋が通っている割には鼻先が丸い所、顎が細い所。髪の色の違いは明らかだが、博士もまた白金のような珍しい巻き毛の持ち主だったために、人々は異人とはそういうものと思ったのかもしれない。だからエプィヌも、血縁がないと言って譲らない博士の言葉を、完全に真実だと認めているわけではない。
「博士の目は母親譲りで、父親は養子。母親の家系には代々、緑、金の瞳をした者もいたと。もちろん草原の人々らしく灰褐色の人もいたけれど」
「ほう」
呟いたのはルチーフェロだった。
「金の瞳、ねぇ」
「ーー何か、ございましたか」
「そんな瞳の色が、他にあるかと思って驚いただけさ」
エプィヌは王子の言葉選びにどこか引っかかりを感じ、つい眉を動かした。二人は一瞬視線を交わしたが、ルチーフェロは、こともなげに軽く息をついた。
「そんな、かなり目立つ容姿をしていて、彼らはよく静かに暮らして来られたものだな」
「……ローブは、だから役に立っています」
軽口を叩いたつもりはなかったが、冗談と受け止めたのか、ルチーフェロは目を瞬かせた。それを見たロギとエーフロシュネは僅かに声を漏らして笑い、研究室の露台は、一時、夕刻の陽光に見合う明るさを得た。
「違いない」
自らも目立つ風貌のエーフロシュネは、目の端に浮かんだ涙を拭いながら言った。
エプィヌは、エーフロシュネがルチーフェロに全く臆さず、敬意を表しながらも対等のように接している様子に、今さら驚いていた。
「エーフは去年の御前検評会で、学舎を代表して論文を発表したからな。その繋がりで知り合ったのさ」
ルチーフェロは、まるでエプィヌの頭の中を覗いたかのようだった。あまりに的確に、知りたいと思ったことを教えてくれたので、その察しの良さに、エプィヌは思わず舌を巻いた。
「恐れ多いことで」
エーフロシュネは笑みを含んだ声で言った。しかし、やはり得心がいかないのか、ルチーフェロは呆れ顔で首を振った。
「にしても、学者というものは、なんでそんなにローブを着たがるんだ」
「それは、学問を非常に大切にした初代の王、ターリア陛下に敬意を表するため、正装の略式のようなものだ」
その疑問に答えたのはロギだった。
「だからわしは、この学舎で教授職に任じられた時から、生涯を王国に捧げる決意でローブを纏った。そして……」
老人の瞳の奥には、鈍い光が点っていた。
「ここへ来た学徒で、ペリドットと君だけだ。すでにローブを身につけて来たのは」
思わぬ指摘に動揺したエプィヌは、それでも、相手がとうとう核心に踏み入れて来た気配を察知した。
(ーーわたしは、博士の遺品を身に付けているだけ。何も知らなかった)
ヴィーヴェランの古城に住んでいた頃のエプィヌは、きっと、そこらの娘となんら変わらなかった。博士は、自らの衣服には無頓着なのに、エプィヌには、貧しさに似合わぬ上等を着せたがった。年頃になってそれに気付いてからは、自分が衣を選びたいと伝えて質素なものを身に付けるようになったが、博士は寂しそうに笑ったものだった。精進の身だから、これくらいがちょうど良いのだと、エプィヌは彼に何度言ったか分からない。ーー博士の弟子ならば、彼の生活に寄り添って、慎ましく、研鑽せねばならない。
「博士がわたしに仕込んだのは、基礎的な史料講読知識、野外調査の手法……あくまで形骸です。師が考慮されているような思想的裏打ちは、それほどあるとは思えません」
エプィヌは息をころしながら言った。
「博士は、巧みに鏡文字を操ります。まるで本当の古の人のように、自在に古語を書き散らすんです。わたしには、どれだけ学ぼうと博士の背中は遠くて……」
「何を書いていたのだ」
その問いかけは鋭かった。耳の中に重い音が鳴って、ロギの声が遠くから聞こえてくるような気がした。
「ーー多くは、ワァヤンという丘の人の長の叙述の記録です。そして、併せて加筆された私見。もちろん、古語ですし特殊に崩されているので、完読できたとは言い切れませんが……」
なぜか、息が苦しかった。それ以上のことを語るのは、良くない。先程のエーフロシュネの反応がそれと示していたのだ。
(師は、どうしてもというなら、語らなくても良いと言った)
これ以上は閉口すべきだと、エプィヌは意を決した。
自らもワァヤンの叙述を記し続けていた。そして、古語の練達と、多くを語らない博士の理解に辿り着くためを目的として、拾い集めるたびに、絡んだ縄のような博士の文章を写し続けていた……。その中で受けた印象は、理論的な博士にしては少しずれた考察、飛躍したお伽話にも思えるものだということだ。ワァヤンの語った神話や昔話も、当然、現実離れした内容であったけれども。
記憶に突き刺さって抜けることのない話がある。
(ーー言葉を捨てた神)
足元から伸びる自分自身の影に目を落として、エプィヌは様々なことを思い出していた。
「ーーそうやって書いたものは、順序もばらばらに、床やそこらに積み上げられて、時々雪崩を起こします。それらをかき集めて、内容を確認しながら、できる限りにまとめておくのがわたしの仕事でした」
「ペリドットも巧妙だな」
その言葉の意味は良く分からなかったが、ロギの表情には、少し寂しそうなところがあった。エプィヌは、意外に思って老人を見つめた。
「そして野外調査とは邪道だが……うむ、充分、特殊な下ごしらえがされていると言ってはばかりない」
エプィヌの無自覚を指摘しつつ、ロギは口の中で呟く。その表情は再び、彫像のように厳格な面持ちとなっていた。
「わしは文献調査を主とするが、ペリドットは学徒の時分から、わしとは異なる手法を用いた。その頃から野外調査と銘打って、各地へ出かけていたのだ。ーーペリドットは、何事も己が耳にしたままに書き記す。それが、おおよそ事実とは思えないような事柄であっても、荒唐無稽だと切り捨てることはなく、そこに潜む何が人々の心を打ち、そのような逸話となったのだろうかという、見えない事実を重要視した。わしの見方で評価するならば、ペリドットは歴史学者の域にとどまる者ではなかった。地理学や民俗学の視点を取り入れ、全く新たな学問を作る可能性さえあった」
だが、と老人は続ける。
「学問の地平の拡大は、素晴らしいことだ。同時に、恐ろしいことでもある。天才は“天災”にもなり得ると言わざるを得ない」
「それなら、わたしがやってきたことも、同様だということですか……?」
ルチーフェロの方を見ることができなかった。ラーギニールにさえあれほど水風琴のことで釘を刺した彼のことだ。博士の研究が新たな学問となる可能性があるとすれば、見逃しはしないだろう。
空気さえ刃物のように鋭利に感じられる。エプィヌはうつむき、息を詰めて目の前の中空を凝視した。何かに焦点を合わせることが怖く、とても顔を上げてなどいられなかった。
しかし、ルチーフェロは何も口を挟まなかった。そのかわり、ロギは淡々と続けた。
「君には恐らく、自然と、史実と虚偽の間の差異を探そうとする視点が備わっていると感じる」
「史実と、虚偽……?」
言わんとしていることはなんとなく分かる。どんなに骨を折っても、過ぎ去った真実を実現することはできない。学者によって再現されたものは、あくまで虚偽に過ぎないということだ。ーーそれでも彼らは常に、極限まで奮励し肉薄する。紛れもなく、博士の生き方はそうだった。
(そうありたいと、わたしも願っているけれど……)
膝の上でローブの袖を握りしめ、エプィヌは震えをなんとかしようと試みた。自分の芯としてきたものが揺らぐ感覚ーー本当は“存在しないもの”なのだと突き付けられる非情さは、胸を大きく抉った。
「君の話し方、視線の動き。ペリドットによく似ている。きっと思考が似ているのだろう」
エプィヌの動揺を感じ取ったのか、ロギはいくらか柔らかな声で付け足した。
「受け継いだものは、大切にしまっておきなさい。君自身、それに気付くことが、最も重要なのだ」
素直に返事をすることができなかった。ああ、そういうことかと、エプィヌは今まさに悟っていた。
『やはり、君はロギ師の研究室に来るべきだ』
そう語ったエーフロシュネの意図、ルチーフェロが待ち受けていた理由。それら全てが一本の糸で繋がり、すとんと腑に落ちた。
(女史も……わたしがこんな風に囲われるだろうことを予測していたかしら)
老人は、エプィヌの逡巡よそに、傍に置いてあった本をおもむろに差し出した。
「授けよう」
ためらいつつ、エプィヌは手を伸ばし、皮表紙の小さな本を受け取った。親指の腹ほどの厚さだが、それだけ薄紙を重ねているのだと考えると、かなりの重々しさに感じられる。
「『王賜規範』ーーターリア王国建国時に制定されたもの。現代に至るまで、さらに将来に渡って、準拠すべき規律だ。君は戸惑っているに違いないが、エプィヌ。だが、わしは君自身を守るためにこれを渡す。ペリドットにも、わしが育てた他の学徒にもそうしたようにね」
(これが……)
こんなもの一冊に、王国の智慧の全てが牛耳られている。信じられないことだ。
(この透明な檻に、わたしも自ら入っていく……)
表紙に手をかけると、かさりと音を立て、四つ折りにされた紙が飛び出した。
「これはいったい……」
「紹介状だ。殿下たっての取り計らいにより」
はっとして反射的に顔を上げると、唇の端を持ち上げ、不敵に笑うルチーフェロと目が合った。
(殿下が……何をお導きくださるのだろう)
エプィヌはどぎまぎしながら、そっと紙を拾い上げた。そこには、師のものであろう闊達な文字が綴られている。
「王国を守護する王宮司書へ、庶幾はくば、この者の前に門を開けよ」




