第三章 いばらが護る扉 (1)
その部屋は、エプィヌの知っている“いかにも”と言うべき学者の住処だった。入り口の扉が開くと、左右から覆い被さってくるような、高く奥行のある書架が、一気に視界を支配する。
エーフロシュネは、その迷路に足を踏み入れる前に、一番手前の書架に吊ってある小さな金色の鐘の紐を引き、ちりりと鳴らした。
「こうして入室を知らせ、許可の合図を受ける。でないと、対面から人が来たらすれ違えないんだよ」
奥から、同じようにちりりと音が帰ってくる。エプィヌは肩をすくめて頷いた。その特殊な慣例が面白おかしく、これから対面するロギ師という人物に対する興味が、むくむくと湧いてきたのだ。
古い本の匂い、積み重なった粘土盤の匂い、インクの匂い……。どれもこれも、ヴィーヴェランの古城の、博士が籠る半地下の書斎によく似た懐かしさを含んでいて、ずっとここに居ても良いと思うほどだった。
(国史大書、貴家系譜雑類要集、高家施行細則……)
本の持つ匂いは、紙の繊維やインクとなった植物や糊など、製本当初に含まれたものに由来するのだという。特に、これらの格式高い書物には、補強のためふんだんに膠が使われているが、その動物の皮や骨から来る臭いは、独特のつんとした鈍重な刺激があり、鼻について離れない。経年によりやや甘く変化したそれは、エプィヌにとって、憧憬をかき立てる魔法の薬だった。ーーターリアによる建国以降の王国の歴史全てを、その時代時代に綴り更新し続けられている、代表的な資料群。しかし、赤茶や紺の背表紙がずらりと居並ぶ壮観な様を見て、エプィヌは以前とは違う複雑な感情が胸の奥にすくっていることに気がついた。
国史大書は、王の治世毎にまとめられている。歴史学者たちは、その中の一項目、たった数行で良いから、己の筆で紡ぎ上げた叙述を収めたいと願っているものなのだそうだ。中でも、王の生涯に関する年譜、統治の有り様や評価を執筆できるのは、その代の大書編纂の最高責任者ーー誰の手によるものなのか、名こそ残らないが、歴史を司る者として王に認められた、たった一名にしか許されないという。博士にそのような野心があったかどうか、それは分からない。しかしエプィヌは、たとえ、博士にその役を担うつもりがあろうとなかろうと、彼以外に最高と呼べる学者など、この世に存在するはずがないと信じていた。
(でも……博士が当代の大書に携わる未来など、来ない)
目を上げた先にあるエーフロシュネの背中を見つめながら、エプィヌは、この人もまた、いつかは大書に携わるのだろうかと考えた。
(当然よね)
誰もが口を揃えて優秀だと讃える学徒だ。
『まあ、飯は食えないぜ、間違いなく……』
ルチーフェロの言葉が思い出された。皆、何を目指して研究に打ち込むのだろうか。歴史家など決して稼げるわけでもなく、高名からもほど遠く、自己満足だと言われればそれまでなのに。分からなかった。
(博士の研究が、このまま無かったことになるのは、絶対に嫌だ)
進むにつれ、甘いような本の匂いはより濃くなり、そこに薫衣草と海雫香を混ぜた虫除けの芳香が加わった。どちらも薬草ならではの土っぽい香りが特徴的だが、華やかな中に温かみのある薫衣草と、爽快でみずみずしい海雫香とが合わさって、美しい和音を奏でているようだった。
室内はこれだけ書架を詰め込んでも、湿気を寄せ付けないよう、風通しはきちんと確保されている。おそらくは直射日光を避けるため、壁に直接窓が切られるのではなく、部屋の上部に覆い被せた一重の仕切りの中に窓が据えられており、そこから涼やかな風圧が漏れ出て、書架の間をぬって流れているのだ。スィアチ師の部屋では、祭壇のような珍しい設えにばかり目が行き、建物の内装自体の緻密さに気が付かなかったが、隅々まで計算し尽くされた造りは、とても衝撃的だった。王城の敷地内は、水道のような永久機関といい、学舎の構造といい、どこを切り取っても美しく、機能美に溢れている。
突き当たりまで至り方向転換しても、また同様の景色が奥まで続いていた。エプィヌは、本と本の僅かな隙間から向こうを覗き、障害物がこれほど多くあって、中にどれだけの人数が入れる空間があるのだろうと、こっそり首を傾げたが、その謎は、解けると同時に、さらなる驚きを突き付けてきた。
部屋の中にもう一つ、天井を共有した小さな上層階があったのだ。元はそのような設備はなく、書架が増えた故の後付だったのだろうか。堅牢で格式高い石造の室内に対し、木造の露台のようなものは、やや異質に見える。とはいえ、使用された木材は磨き上げられた黒檀であり、手摺には蔓草模様のような彫刻も施され、かなりの重量がありそうだった。そのようなものを宙に浮かせているのだから、ここにも建築家の技術が存分に光っているわけで、決して粗末なものではない。立派で威圧感があり、エーフロシュネに続いて、階の一段目に足をかけるのをためらってしまうほどだった。
狭い階は傾斜も非常に急で、二周半の螺旋を巻いてくるくると上っている。山育ちで高所には慣れているはずのエプィヌだが、それは天然の岩場や細い崖の道の話で、人工物についてはなぜか、信用が置けないとの先入観があった。踏板が外れたらどうしよう、蹴躓いて隙間に足が落ち込んだら怪我をしてしまうなどと考えると、緊張感が一息に頂点に達して、目の前が暗くなる気がした。
しかも、外では日が翳って来たのか、それとも天井が近過ぎて、かえって光が当たりにくいのかは定かではないが、踏み入れた先は思ったよりも薄暗かった。手元を照らすために置かれた燭は、火を入れた周囲に、鏡のような銀製の笠を被せた特殊な形をしており、反射によって、より煌々と辺りを照らしている。ーーこの研究室の主と思われる者の手元が、そこだけくっきりと浮かび上がって見えた。
エプィヌは、息を詰めたまま、視線をゆっくりと持ち上げた。巨大な長机の向こうに待ち構えた男の顔は、彫像のように険しく見える。
突然、さっと何かを捲るような音が響き、辺りが白んだ。とても目を開けてはいられず、エプィヌの身体は勝手に動き、光の下に引っ張り出された芋虫のように縮こまった。
「おう、すまんな」
その声に、エプィヌははっと顔を上げた。
暗かった室内が、今は打って変わって光に満ちている。天井部分に吊られていた調光の幕が、いっぺんに取り払われたのだった。
腰程の高さの小さな本棚が、手摺の内側に並び、ぐるりと卓を取り囲んでいる。ルチーフェロは、幕を捲り上げる仕掛けの紐を片手にしたまま壁に背を預け、仕切りの内側から吹き寄せるそよ風に、小麦色の髪をふわふわとなびかせていた。
「あんたがここへ来るだろうと思って、待っていたのさ」
「殿下……」
彼と顔を合わせた瞬間、数年来の知り合いに会ったかのような安心感を覚えたことに、エプィヌはやや驚いた。
「おめでとう」
さらりと告げるその声には、素直な賛辞が込められているのだと分かった。
「ーーありがとうございます」
ほんの少しだけ、肩の力が抜けたような気がした。エプィヌはようやく微笑むと、ほっと息をついた。
「こちら、ロギ師だ」
エーフロシュネは、絶え間ない川の流れにそっと竿を差し入れるように、上手く会話の間を突いて切り出した。
「殿下からもすでに聞いておる。ペリドットの教えを受けた弟子とな」
年月を経て乾き切った羊皮紙をさするのに似た、呼吸に混じる微かな摩擦音。にも関わらず、何ものにも揺るがない太い支柱が通った強い響きが、その声の奥には沈殿している。しかし、不思議なことに恐ろしいとは思わない。スィアチのような滲み出る温和さがあるかと言われれば全くそうではないし、親しみとはかけ離れた時代錯誤の口調だ。それでもエプィヌは、ぶっきらぼうが悪人とは限らないことを知っているし、もちろん偏見は激しいだろうが、歴史学者というのはこういうものだと認識している。ーー思考までも翻訳口調になってしまうようなのだ。完璧主義で自分に厳しい人は、他者に要求するものの質についても、無論、厳しくなる。それは周囲に偏屈だと捉えられたり、敬遠される種になり得るが、彼らは諦めることでやり過ごしているのだ。他人に理解されることや他人への期待をすっかり放棄して、どんどん閉じて行く。そうすることで、自らの中の世界を深く広くできると思っているのではなかろうか。
(それで寂しいとは感じない者だけが、本当に天才を掴み取る)
エプィヌが知っている人間は博士だけだ。彼があの境地に到達するまでどのように生きてきたのかを知っているわけではないが、自分には到底無理な話だと思う。学問に対してとても真摯で崇高な向き合い方は、その人を高みへと差し上げるかわりに、浮世離れさせてしまう。何かを突き詰めようとすることは、誰もいない虚空で、溺れているのにも気付かず、星々の瞬きを掴まえようとしているのと同じだ。誰も、追いつけやしない。
ロギ師という人物は、周囲を取り残して、一度そういう境地を見た人なのだと感じる。博士と違うのは、そこから自らの意思で戻って来たに違いないところだ。
「はい」
ややあって、エプィヌはしっかりと頷いた。
「ふうむ……」
老人は顔に刻まれた皺をさらに険しくしながら、エプィヌを品定めするかのように、上から下まで素早く視線を動かした。史料を見比べる時の博士と同じような目付きだ。言うなれば、彼は研究の範疇を現実世界の人間にまで拡大したという具合だろう。
ロギは、ひとりでに何かを納得したようで、ゆっくりと瞬きをし、開いていた本をぱたんと閉じた。
「君は師であるペリドットの著したものを読んだことがあるかね」
「え……」
最初の会話としては、あまりに意外な切り口だった。
「ペリドットの研究は出版されていない。すなわち、世に出ていない。それゆえ、わしは、彼が学舎を去ってから後に何を探究していたか、何を見出したのかを知らぬ」
この老人が“虚空から地上に戻って来た”のは、長年、学徒に師と呼ばれ教え導く立場にあり続けたゆえなのだろう。質問の意図を、ここまできちんと説く人物は、そうそういないのではなかろうか。
「それだけではない」
さらに、彼は言葉を継いだ。
「君がペリドットにどのような手解きを受けたか、学術的、思想的影響を受けたのかを知っておきたい。史実というものは、我々がいかなる才を持ち、日々研鑽し術を駆使しても、その者がどのような問題意識によって向き合うか、すなわちどこから光をあてるかによって、影のように異なる相貌を見せるものだ。その者がどのような人間か……育った背景、文化、思想を踏まえねば、偏った史実を偏った視点からしか捉えられず、歪で矮小な成果しか得られない」
エプィヌは目を見開いた。なるほど、と納得すると同時に、ロギ師という人物がいかに優れた学者であるのか、強烈に思い知らされた気がした。
放心しているようなエプィヌを気遣ったのか、エーフロシュネは、師に目配せをして許可をとると、そっと椅子を引き、腰掛けるよう指し示した。
「さて」
エプィヌが居住まいを正すのを待って、ロギは仕切り直すようにそう言う。同じ目線になってよくよく見ると、彫りが深いせいできつく見えるだけであり、老人の顔付きは、言うほど恐ろしげではなかった。
「通常、どんなに優秀な学徒でも、君のように師を持ち、その影響による学問への先入観……強固な裏打ちを持って入舎してくる者はない。わしが君を教え導くためには、まず、君の持つ潜在意識、本質を見極める必要があるのだよ」
「はい……」
導かれるようにして、エプィヌは頷いた。ルチーフェロは、彼には珍しく口を閉じたままだったし、エーフロシュネは、試験の時同様、いつの間にか隅に退き、小さな椅子に腰掛けていた。
天井の仕切りから漏れ出る陽光が、薄っすらと橙色に変化した。
この場にいる人々が、耳目を研ぎ澄まして、師の次の出方を待っているのが分かる。エプィヌもまた、静かに呼吸を整えていた。
「では、一つずつ聞いていこう。君は、どう生きてきたか」




