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第二章 王からくだされるもの (5)

「スィアチ師は、文学師であらせられると同時に、かつて……太古の昔、神王国時代は儀式典礼を司っていたという伝承の高家出身のお方。大学官長からの信頼も厚く、実質は学舎長のような働きをされている」

 案内役となったのは、スィアチの部屋で金柑(オーラム)の茶を淹れてくれたエーフロシュネだった。彼は学内最優秀の模範学徒であり、人望も厚いようだ。少し歩けば、三限の講義を終えた学徒たちに次々と声をかけられる。エーフロシュネは彼らに簡素な挨拶を返し、語り口調も淡々としているが、特に微笑んでいるわけでもないのに、表情や声質には、不思議と人の心を解きほぐす柔和さがあった。

 彼が様々と学内施設の説明をしたり、各分野の教授について述べるのを聞きながら歩くうちに、強張って右手と右足が同時に出るほどだったエプィヌも、だんだんと、行き交う学徒たちの顔や建物内の景色に目を遣れるようになっていった。

 学舎は広大で、王城にも劣らぬ技巧を凝らした風貌をしている。破風が印象的な周柱廊は、ここへ足を踏み入れた数時間(フラー)前には果てがないように見えていたが、エーフロシュネについて見学するうちに、奥には半円級の大屋根を持つ講堂が控えていることが分かった。

(この人をスィアチ師が気に入っているのも分かるような気がするわ)

 エプィヌは、前を歩く人の紺の清楚なチュニックが揺れるのを、なんとなく目で追った。非常に整った容姿は人を寄せ付けない刃にもなり得るが、エーフロシュネの場合、眉の辺りですっぱり揃えられた前髪の風に揺れる様が、そのひやりと感じさせる何かを水面下に抑えているような気がする。いわゆる絵に描いたような好青年で、しかも話題には常に事欠かない知識の広さを併せ持っているのだから、たとえ相手が最高峰の学者だとしても向かうところ敵なしだ。

「ーーええと、王立学舎は大学官が管理しているので、学舎長、という立場のお方は存在しないという認識で合っていますか?」

 遅れがちになっていたエプィヌは、足を早めつつ、脳内を整理しながら尋ねた。

 エーフロシュネは、ヤナギ葉のような切れ長の瞳をこちらに向けた。

「そういうことだね」

「お恥ずかしながら、わたしはどうやら、王都の現状にかなり疎くて……。博士の口伝や叙事詩、ターリア版『建国史』の、あのわずかな記述が認識の全てなんです」

 先日のルチーフェロとのやりとりを思い返すと、顔から火が出そうだった。国王夫妻の惨劇を知らなかったとは、口が裂けてもこの模範学徒には言えまい。

「ターリア版?」

 しかし、彼は意外にも疑問符を返してきた。

「君の博士がそう扱っていたのかな?」

 ささやき声に近い問いかけに、エプィヌは息を詰まらせた。

「そう……なのかもしれないです」

 廊に反響する自らの声が遠のいていった。

 エプィヌが知るのは、一般に正史と言われる『ターリア建国叙事詩』とその後記に付される『建国史』、そして博士が正史とは区別して“ターリア版”と呼んでいた不完全な記述の三つだ。

「何某版、とかそういう扱いを普通はしないものだけど、ペリドット史はかなり大掛かりな研究をされていたんだね」

 顎に手を遣り、ふっと口を閉ざしたエーフロシュネの瞳は、意識が思考に集中しているためか、景色が映っておらず暗く沈んで見える。

(博士が研究の過程で得たものは、やはり世に出ずじまいなんだわ)

 エーフロシュネの横顔を見上げているうちに、エプィヌは、博士に学び始めた日のことを思い出した。

『これは何?』

 初夏を前に、暖炉に溜まった灰を掻い出していた時のことだった。古城の暖炉は、非常に寒冷なヨークの冬を遣り過ごすため、小部屋とも呼べるくらいの大きさがあり、屋根まですうっと抜けた通気口は、遥か上部に据えられた塔の窓から春の光が差すと、驚くほど室内を明るくしてくれる。だから、暗がりに等しかった冬の暮らしを吹き飛ばすためにも、暖をとる日がなくなると、すぐに手入れをする必要があったのだ。その最中、エプィヌはふと、埃っぽい空間の壁の上方に、他と色の違う石盤のようなものがはめ込まれていることに気が付いた。表面に付着した灰塵を拭うと、不思議な文字の羅列が顕になったのだから驚きだ。何かを発見する驚きや興奮よりも、得体の知れないものとの遭遇がもたらす恐れが勝って呼吸を浅くする。まして十一歳だったエプィヌは、箒をその場に投げ出す勢いで、地下に籠る博士のもとに駆けて行ったのだった。

『それはおそらく、この城の竣工時に、もともとの基礎となる石を定めた場所を示して、建物の存続を祈ったり、縁起を記したりしてあるのだろう』

 博士は書き物をする手を止め、エプィヌを見つめてそう言った。

『不思議な字だったの』

 竜がのたうつようでもあり、縄を編むような複雑さもあり、再現不可能とも思われる紋様について、幼いエプィヌには他に言い表わす術がなかった。しかし、博士は足りない言葉の中からも全てを汲み取ったようで、すぐに書架から小さな巻物を手にし、ほらと差し出した。

『これは、崩して書かれた古語を、現代の生きた文字に写したものだ。初代国王ターリアによる建国史、その草稿にあたるのではないかという粘土盤の文章だよ。おまえは読めるようになりたいか』

 導かれるようにして、エプィヌは頷いた。しかし、受け取った翻刻は、それから七年経った今でも、未だ全てを正しく理解したとは言い切れない。

 ーー□□□の遥か奥地、さらにその彼方、とある険しい峡谷に暮らしていた□□の一族は、ある時火の濁流に襲われ、多くの親族と住み処を失った。父を失い、一族の長となったのは、ハテヌという、うら若き娘であった。彼女には、□□□□□□□□□しか残されていなかった。ハテヌは、□□□を率い、かねてより夢見ていた、ふもとに広がるという豊かな国に下ったが、その土地もまた、雲の峰(スフ・マリス)の黒煙の害を受け、窮地に立たされていた。その国の、神の末であるという王ヴィトは若く、ハテヌは美しかった。恋に落ちた二人は手を携えて国を守ろうとし、□□□□□□□□は、□□□□□をし、後の世にわたって末永く□□□□□を□□□□□□と誓ったのだった。

 王ヴィトとハテヌの婚姻から二百年の後、□□□□□□□のうち、もっとも若いターリアが、レギンのもとで□□□□□いた。ターリアは王と考えが食い違い、ついに王を殺害し、一角獣の国軍を解散させる法を作った。聖騎士たちは□□□□□□□□□□□に従う者であり、それを受け入れざるを得なかった。ターリアは神の血を引く王族を滅ぼし、自らの名を王国とし、王を名乗った……。

 エプィヌが授かったターリア版『建国史』は、所々がインクで黒く塗りつぶされた奇妙な様相をしている。紙のない時代、石や土に文字が刻まれた時代のものとなれば、風化によって刻み跡が読み取れない部分があるのも想像に難くない。博士は欠落部分をそうして表現し、できる限りで翻刻したのだ。様々の関連史料や伝承から空白を推理する作業は、もちろんすでに経られているものの、読解と研究の基礎技量を修めるための素材として、自ら見解をまとめることを、エプィヌには求められた。しかし、古語の綴り、崩し方、文法、今ではすでに使われなくなった単語……。学んだ知識をつなぎあわせることで翻刻することはできても、たった数年の研究で、穴を補って完読に至れるはずがない。今の自分の成果は、全て博士の教えを寄せ集めただけの複製だ。ーー丘の人(ベルグフォルク)の伝承で“王女”と呼ばれるのが、ここで言う“ハテヌ”という娘なのは間違いないだろう。「□□□□を率い」とは文字数の観点から確証は持てないが、十四人の魔法使いのことを指している可能性が高い。一方で、火山灰から民を救った巨大な装置や水道橋のことは、ターリア版では言及されていない。それはなぜなのか?

(ここから先が全く分からない……。私には仮説を立てることすらできない。博士は、何か手がかりを遺してくれたのかしら……)

「ーーターリア、悪王を弑し王制を敷く、十三人をして監政官と為し合議を始む、大学官を設け学問の一切を委任す、二官の下に騎士省、刑部省、国経省の三省を置き政を一新す、ここに神王国終焉す」

 エプィヌは、沈黙をなんとかしたくて、『ターリア建国叙事詩』を誦じた。全ての史料読解の基礎、軸となる文章なので、読みと現代語訳はもちろん、古語の綴り、写本による崩し方の癖まではっきりと頭に入っている。口を突いて自ずと出てくる言葉の流れは、一瞬訪れた静寂を和らげてくれる気がした。

「神は存在せず、悪王は神の名を騙り民を混乱に招く、我ターリア、二度と再びこの世を闇に沈ませぬと誓う、日の光として遍く世を照らし、夜が訪れれば月となり道を標そう……。正史とは、これ以上でも以下でもない唯一の認識ですが、博士は見えないもの、忘れ去られたものを呼び覚まそうとしていたように思います」

 中庭が見えてきた。廊の屋根の向こうから斜めに差し込む陽光を眩しそうに手で遮り、エーフロシュネは、呟くように言った。

「歴史学とは、過去の物事を知ること自体が全てではない。今日まで王国の通ってきた道筋の習熟を通して、現代に潜む様々な問題を見抜く目、解明する力を培うことが本当の目的といえる。我々学徒に要求されるのは、歴史を知恵として還元できるようになること。それこそ監政官を世襲する十三家の子息らはほとんど歴史学を専攻する」

 エプィヌは、エーフロシュネの後に続いて中庭を横切りながら、そこに集う学徒たちを観察した。第一学年と思しき少年らが、日向で無邪気に笑っている。一様に光沢のない絹の短いチュニックを纏っているので、王都の風俗図鑑で見た知識から言うならば、下流の貴族か裕福な職能階層の出なのだろう。

(よくできている……)

 身分外の丘の人(ベルグフォルク)の世界で生きてきたからなのか、その実態を目にすればするほど、草原の人々(ヒャルマール)の中でも支配者と被支配者の階層が明瞭に区別され、その中で生きる人々は、まるで構造自体に気付いていないかのように……事実として、そういった世界に一点の疑問も持ち合わせていないのだろうが、知識、住居、身につけるもの一切、規範という名の鎖に繋がれているようにしか思えない。

 それでも、決められたそれぞれの庭の区画が綺麗で居心地が良いから、人々は何も考えないでいられるのだろう。草原の人々(ヒャルマール)の平民層だって、もしかしたら国王夫妻の殺害も、王国軍の復活も、雲の上のあれこれとしか捉えていないのかもしれない。

(この中で、わたしは……)

 歴史を探究することは、エーフロシュネの言う通り、王国の網の目の隅々までを観察することになるだろう。ラウル家の養女として、否が応でも、支配者層として周囲の目に映るようになるだろう。様々なことに自覚的にならねばという気付きは、突然降って湧いたかのようだった。

 エーフロシュネもまた、年少の学徒たちの方を見遣りながら、言葉を継いだ。

「そのように国政に関わる学徒はほんの一握り。他の修了生は、運が良ければ王宮司書によって臨時に雇われて地方の史料保存に携わったり、そうでなければ、王立学舎を目指す子らの私塾の教師になるのがほとんどだ」

 彼は的確なことしか言わなかった。エプィヌの心中を必要以上に推し量ろうとはせず、事実をただ述べているだけなのに、冷淡な感じは一切なかった。

「だからペリドット史は、非常に特殊な研究者だったのではないだろうか。丘の人(ベルグフォルク)の文化に興味を持って民話を集めたり、それを出版するような市井の研究者が存在しないこともないが、正史に刃を入れようとする者は……稀だと思う。一つ間違えれば危険な行為だ。入舎した学徒が最初に教え込まれる規範に、少なからず触れてしまうに違いないから」

 黙って頷いていたエプィヌだったが、思わず顔をしかめた。

(あのスィアチ師も……そう言うかしら)

 当然だろう、と自らに暗示をかける。そうでなくては、大学官の信頼など得られようはずがない。エプィヌにはすでに、博士の研究のことは、ルチーフェロはもちろん、学舎の皆に黙っていた方が良いと分かり始めていた。しかし、それはかなり孤独だとも思うのだった。

「考えたことはなかったですけど、博士は自分の興味のために動く人でしたから、触れてはならないと言われるものほど突き詰めずにはいられなかったんだと思います。だから、人と交わらず生きる道を選んだんじゃないでしょうか」

 声を潜めながら、エプィヌは少しばかり反骨の思いを吐露した。

「わたしはまだ規範の内容を知らないですが、疑問に思うことがあるんです。ーーならぬものはならぬと、それを遵守できる研究者がどれだけいるのか」

『何百年も進歩のない、保守的な様式を踏襲するだけなんて面白くない』

 ラーギニールの声が耳元で響いたような気がした。学問とはやはり、その時代時代に合わせて更新されていくものだと思う。誰がそうしようとしなくても、それが自然の摂理ではなかろうか。建国以来、ずっと変わらぬまま、未来永劫存続することなど、不可能に近いのではないだろうか。

「やはり、君はロギ師の研究室に来るべきだ」

「ロギ師……?」

 風が吹き抜けた。エプィヌは頬にかかった姫百合色の髪を払いのけ、数歩先に立っている青年を見つめた。

「そう、ロギ師。歴史学師だ。わたしも師の研究室に所属している」

「それは……わたしも、ここへは歴史学を求めて来ましたが」

 エーフロシュネが何を言わんとしているのか、全く捉えどころがなかった。ただ、初めての場所で、自らが受け入れられるか、優秀な学徒の中で本当にやっていけるのか。何をどうしても不安が募るばかりの中で、来るべきだと言い切ってくれる人がいる心強さは、どんな理由があろうとも背中を押してくれるものだった。

「さあ行こうか。今は、来てみれば分かるとだけ」

 彼は彼なりに、エプィヌを歓迎してそう言っているのかもしれなかった。ほんの少し、冗談混じりのように聞こえるその声は、ついさっきまでの息の詰まるような話題を、刹那、忘れかけさせた。

 エプィヌは片手でローブの襟を緩め、もう片方の手で、内にしまい込んでいたおさげを引っ張り出した。すれ違った学徒があっとこちらを振り返るのが目の端に映ったが、思っていたよりも、その反応をあっさりと受け流す自分がいた。


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