第九話 計算外の執着
婚約の契約書に互いのサインが書き込まれ、正式にインクが乾いたその瞬間から。
ルーファス・エルネストの態度は、目に見えて変化した。
「エリザベート、今日は特段に冷えますね。肩が冷えてはいけない」
執務室で書類仕事の続きをしようとした私に、彼はどこからかふわりとした上質なショールを取り出し、私の肩に優しく羽織らせる。
「……ありがとうございます。ですが、室内は魔石ストーブで十分に暖かいですよ」
「油断は禁物です。あなたの頭脳はこの国の至宝だ。万が一にも風邪など引かせては、私の損害になりますからね」
彼はそう言いながら、私の肩から首筋にかけて、指先を滑らせるようにしてショールの形を整えた。
その手つきがあまりにも滑らかで、かつ妙に熱を帯びていたため、私は思わず肩をビクッとすくめてしまった。
「ルーファス様。あの…すこし近すぎますわ」
「そうでしょうか?」
彼は微かに笑い、むしろさらに顔を近づけてきた。
彼の整った顔立ちが目の前に迫り、微かな香水の香りが鼻をくすぐる。
「私たちは婚約者になったのですから、これくらいのスキンシップは当然でしょう? 周囲の目もありますし、不仲だと悟られれば王宮の政敵たちに付け入る隙を与えてしまいます」
「それは……確かにそうですが」
私は少し戸惑いながらも、彼の言葉の『論理的な正しさ』には納得せざるを得なかった。
確かに、政略結婚において表向きの円満さをアピールすることは重要だ。「仮面夫婦」であると見抜かれれば、政治的な盾としての効果が半減してしまう。
「わかりました。人前での演技ですね。心得ております」
私が頷くと、彼は一瞬だけ目を細め、やがて優雅に微笑んだ。
「ええ、そうです。演技ですよ。……だから、私があなたに触れることにも、少しずつ慣れてくださいね」
彼は私の髪の毛を一房すくい上げると、それにそっと口付けを落とした。
ぞくりと、背筋に電流のようなものが走る。
「ルーファス様……?」
「髪の一本まで、美しい。あなたの全てが論理的で、無駄がなく、そして……私を魅了してやまない」
彼は私の髪を弄りながら、低く甘い声で囁いた。
その瞳は、獲物を前にした肉食獣のように鋭く、それでいて底なしの沼のように暗く濁っていた。
私は微かに混乱していた。
(本当に、演技なのかしら…)
確かに侍女のマリアが部屋の隅に控えているから、「人前」であることには間違いない。
だが、彼のこの熱のこもった視線や、吐息がかかるほどの距離感は、本当にただの政治的なパフォーマンスなのだろうか。
「……あの、ルーファス様。そろそろ書類の確認に戻りたいのですが」
私が平静を装ってそう告げると、彼は名残惜しそうに私の髪から手を離した。
「おや、仕事の邪魔をしてしまいましたか。それは申し訳ない」
彼はスッと一歩下がり、いつもの理知的な宰相補佐の顔に戻った。
先ほどまでの熱烈な空気は幻だったかのように、彼は冷徹な表情で執務机の上の書類を手に取った。
「では、私もお手伝いしましょう。この領内の税収報告書の精査ですね。……なるほど、西部の関所の徴収率に少し無駄があるようだ。私ならここをこう改善します」
彼は私の隣に立ち、的確なアドバイスを口にし始めた。
その指示は恐ろしいほど正確で、私の考えていた効率化のさらに先を行くものだった。
私は先ほどの戸惑いをすぐに忘れ、彼が提示する完璧な数字の世界に引き込まれていった。
「……素晴らしい。さすがは王宮の頭脳と呼ばれる方ですわ」
「あなたに褒められるのが、一番嬉しいですね」
書類を挟んで交わされる会話は、極めて事務的で論理的だ。
やはり、先ほどの熱を帯びた態度は、婚約者としての「演技」だったのだ。
彼は優秀な官僚であり、優秀な役者でもある。ただそれだけのこと。
私はそう結論づけ、自分を納得させた。
彼が私を特別扱いするのは、私の能力が彼の野望にとって有用だから。
私たちは感情で動くような愚か者ではない。全ては計算通りの、完璧な取引なのだ。
だが、私は気づいていなかった。
私が書類に目を落としている間、彼がずっと、私から視線を外していなかったことに。
その執着が、決して演技などではないということを。
私たちの契約結婚は、最初から「計算外」の感情に支配されていたのだ。
【続く】




