第八話 完璧な契約結婚の提案
「では、具体的な条件についてすり合わせを行いましょう」
応接室に移動し、向かい合わせのソファに座るなり、ルーファスは本題を切り出した。
侍女のマリアが淹れてくれた最高級の紅茶には目もくれず、彼は持参した数枚の契約書案をテーブルに並べた。
「まず、私たちが結婚した場合の『ヴァルシュタイン公爵家』側のメリットについてです」
彼は一枚目の書類を指さした。
「一つ。先ほどお見せした大運河の迂回ルート建設および、それに伴う水利権の無償提供。これにより、公爵領の灌漑計画は王室の予算で完遂されます。
二つ。私、ルーファス・エルネストが持つ王宮内の政治的影響力の提供。これにより、公爵領が中央に納める関税の優遇措置や、新たな特許状の取得が極めて容易になります。
三つ。うるさい縁談の完全な排除。私と婚姻を結べば、王太子の派閥や他の貴族たちからの煩わしい見合い話は一切来なくなります。あなたは心置きなく、領地経営に専念できる」
私は並べられた条件に素早く目を通し、小さく頷いた。
「なるほど。我が領地にとっては、破格の好条件ですわね。では、あなた側のメリットは?」
「もちろん、私にも莫大な利益があります」
ルーファスは二枚目の書類を引き寄せた。
「一つ。辺境最大と言われるヴァルシュタイン公爵領の経済力と、豊かな魔石資源のバックアップ。これを私の派閥に取り込むことで、王宮内での私の発言力は決定的なものになります。
二つ。有能な共同経営者の獲得。あなたの領地経営の手腕は、私が王国の内政をコントロールする上で最高の参考モデルになります。
そして、三つ目…」
ルーファスはそこで言葉を区切り、まっすぐに私の目を見た。
「面倒な『感情のやり取り』を必要としない、完璧な妻を得ることです」
「……感情のやり取り、ですか」
「ええ。実のところ私は、女性の機嫌を取ったり、無意味な嫉妬に付き合ったりする時間がこの世で最も無駄だと考えています。しかし、出世のためには身を固めなければならないのも事実」
彼は薄く笑った。
「その点、あなたは素晴らしい。恋愛感情などという不確かなものに振り回されず、常に損得と論理で動いてくれる。私が『愛している』と囁かなくても、領地の利益さえ提供し続ければ、あなたは最高の妻として私をサポートしてくれるでしょう。互いに干渉せず、ただ最大の利益を共有するだけのパートナー……完璧だと思いませんか?」
私は静かに紅茶のカップを持ち上げ、一口飲んだ。
芳醇な香りが口の中に広がる。
確かに、彼の言う通りだ。
貴族の結婚など、所詮は家と家との取引に過ぎない。
そこに「愛」や「恋」といった不確かなものを持ち込むから、ルミナ・アルフェリアのように物語に囚われたり、王太子のように判断を誤ったりするのだ。
「……ルーファス様。あなたの提案は、実に合理的で隙がありません」
私はカップをソーサーに戻し、彼を真っ直ぐに見据えた。
「私にとっても、あなたという政治的な盾と頭脳は非常に魅力的です。これほど無駄のない取引は、他にはないでしょう」
「では——」
「ええ。この契約結婚、お受けいたしますわ」
私がそう宣言すると、ルーファスの瞳の奥で、微かに何かが弾けるような光が灯った。
彼は立ち上がり、私の前まで歩み寄ると、恭しく片膝をついて私の手を取った。
「素晴らしい決断です、エリザベート。私たちの知能が結びつけば、この国に成し遂げられないことは何もないでしょう」
手の甲に落とされた彼の唇は、驚くほど熱かった。
ただの契約。ただの取引。
そのはずなのに、彼が私を見つめるその黒い瞳には、薄暗い執着のような、底知れぬ感情が渦巻いているように思えた。
「誓いましょう。私はあなたの領地を豊かにし、あなたをあらゆる敵から守り抜くと。あなたはただ、私のそばでその美しい頭脳を振るってくれればいい」
彼の甘く低い声が、耳元をくすぐる。
私は少しだけ背筋が震えるのを感じたが、それは気のせいだと自分に言い聞かせた。
これは取引だ。
彼が私を特別扱いするのは、私の頭脳が彼にとって有用だからだ。
そこにそれ以外の感情など存在するはずがない。
「ええ、よろしくお願いいたしますわ、ルーファス様。我が領地と、あなたの野望のために」
私は彼を見下ろし、完璧な微笑みを返した。
こうして、私たちは正式に婚約を結んだ。
感情を一切交えない、純粋な利益のためだけの契約結婚。
それが、どれほど甘く、そして狂気じみた日々への入り口であるかを、この時の私はまだ完全に理解していなかった。
【続く】




