第三話 王太子の誤解と、揺るがぬ事実
事態が目に見える形で変化したのは、その一週間後だった。
「エリザベート・フォン・ヴァルシュタイン」
講義の合間、廊下を歩いていた私の背中に、硬く響く声が投げかけられた。
振り向くと、そこには王太子レオンハルトが立っていた。
金髪碧眼、いかにも王室の人間らしい華やかで整った顔立ちだが、今はその眉間に深いシワが寄り、明らかに怒気をはらんだ目でこちらを睨みつけている。
彼の後ろには、護衛のカイルや、いつも通り冷静な表情を崩さない宰相補佐ルーファスの姿もあった。
「何かご用でしょうか、殿下」
私は立ち止まり、非の打ち所のない完璧なカーテシーをして見せた。
「貴様、ルミナに何をした」
挨拶もなく、単刀直入な質問だった。
そして、私にとっては完全に不当で、意味のわからない質問でもあった。
「何も?」
私は即答した。考えるまでもない事実だからだ。
「嘘をつくな」
レオンハルトは声を荒げた。
「彼女は君にひどく怯えている。毎日のように泣き、君の姿を見るだけで震え上がるほどだ。公爵令嬢である君が、身分の低い彼女を面白半分に虐げているという噂は、俺の耳にも入っているぞ」
「私は嘘をついておりません。事実を述べただけです」
「では、彼女が怯える理由は何だ!なんの理由もなく人があそこまで怯えるわけがないだろう!」
「それは私にはわかりません。殿下が彼女に直接お聞きになったらいかがですか?」
私が涼しい顔でそう返すと、レオンハルトは言葉に詰まった。
「……お前は、本当に何もしていないというのか」
「ええ。そもそも、私が彼女に何かをする理由がありませんでしょう?」
「理由?」
「私は公爵令嬢として、この学園に学問を修めに来ています。聖女候補の彼女と関わる理由も、必要もありません。私の時間は領地の未来のために使うべきものであり、他者をいじめるような無生産な行為に割く暇など一秒たりともありませんわ」
それは紛れもない事実だった。
私には目的がある。領地経営を学び、民を豊かにすること。本心からそれ以外には興味はない。
レオンハルトは悔しそうに顔を歪め、何か言いたげな顔をした。
しかし、私の言葉に矛盾や嘘を見つけることができなかったのだろう。結局何も言わずに、踵を返して立ち去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
(…なんだか面倒なことになりそうな予感)
それから一ヶ月。
状況は、私のあずかり知らぬところで奇妙な方向へ進んでいた。
ルミナ・アルフェリアは、周囲の生徒や教師たちに涙ながらに訴え続けていたらしい。
「エリザベート様に睨まれた!」
「エリザベート様に冷たくされた!」
「エリザベート様に無視された!」
当初は、可憐な聖女候補が泣いている姿に同情し、私を非難する声も少なくなかったようだ。「やはり高位貴族は平民を見下しているのだ」と。
だが…時間が経つにつれ、その告発の全てに「反証」が存在し始めたのだ。
睨まれた、と彼女は言うが、その場にいた他の生徒たちは「いや、エリザベート様はただ会釈をしただけだ」と見たままを証言した。
冷たくされた、と言うが、公共の場で私が発した言葉の中に、冷たい暴言や嫌味は一つもなかった。
というか、そもそも彼女とはあの庭園での会話を除けば、まともに口すら利いていない。
無視された、と言うが、そもそも彼女があの1度を除いて私に話しかけてきた記録がないのだ。
話しかけられていないのだから、無視のしようがない。
私は何もしていない。ただ、普通の日常を過ごしているだけだ。
そして周囲の生徒たちも、冷静に状況を観察し、真実に気づき始めていた。
「おかしいわね……」
図書室の片隅で、他の令嬢たちがヒソヒソと話している声が耳に入った。
「ルミナ様、今日も泣いていらしたわ。エリザベート様にひどいことを言われたって」
「でも、エリザベート様って、本当に何もしていないわよね……?いつも図書室で難しい本を読んでいるか、お茶を飲んでいるかだけで」
「そうなのよ。私、ルミナ様が泣き出した時に近くにいたんだけど、エリザベート様は本当にただ前を通り過ぎただけだったわ」
「じゃあ、ルミナ様のあの訴えは……」
「思い込み……かしら?」
私は本から顔を上げず、ページをめくった。
内心では、状況を正確に理解していた。
彼女は「被害者」になりたがっている。
理由はわからない。だが、彼女の行動には「悲劇のヒロイン」を演じようとする意図が透けて見える。
しかし、加害者がいなければ、被害者は成立しない。
私が徹底して「何もしない」ことで、彼女の作り出した虚構は、自重に耐えきれずに崩壊し始めていたのだ。
だが、思い込みが極まった人間というのは、恐ろしい行動に出るものらしい。
決定的な事件が起きたのは、入学から三ヶ月目のことだった。
「大変です、エリザベート様!」
昼下がり、自室でくつろいでいた私の元へ、侍女のマリアが血相を変えて駆け込んできた。
「どうしたの、マリア。そんなに慌てて」
「ル、ルミナ様が……ルミナ様が、レオンハルト殿下の目の前で倒れられたそうで…!」
私は読んでいた本から顔を上げた。
「倒れた?それは心配ね。貧血かしら。医師は呼ばれたの?」
「それが……その……」
マリアは言いづらそうに口ごもった。よほど信じがたいことを聞いたのだろう。
「倒れる直前に、『エリザベート様に呪われた』と叫んだそうです……!」
私は数秒、沈黙した。
「……呪われた?」
「は、はい……。『エリザベート様が私を妬んで呪いをかけた』と仰って、それで倒れられたと……今、殿下がエリザベート様に至急部屋に来るようにと使いを出されました!」
私は静かに本を閉じた。
呪い。
それは、「睨まれた」とか「冷たくされた」とは次元が違う、明確な告発だ。
貴族令嬢が他者を呪ったとなれば、それは魔法による傷害罪、場合によっては国家反逆罪にも等しい重罪だ。
もし呪ったことが証明されれば、私は修道院行きか、最悪の場合は処刑される。
だが…逆に言えば。
呪いなどというオカルトが証明されなければ、それは「王族の前での虚偽告発(誣告罪)」として、彼女自身が重い罰を受けることになる。
「……わかったわ」
私は立ち上がった。
私の顔には、焦りも恐怖もなかった。あるのは、ただ静かなる論理の刃だけ。
「殿下のところへ行きましょう。証拠のない告発がどれほど愚かなことか、証明して差し上げますわ」
【続く】




