第二話 被害者になりたがる聖女候補
それから一週間が経った。
私の学園生活は、入学前に立てた計画通り、何も問題なく順調に進んでいた。
(本当にここの講義のレベルは高いわね、教授も今まで出会ったことがないくらい専門的な知識を教えてくれる、さすが王立学園といったところね。)
特に王立学園の誇る大図書室には、ヴァルシュタイン公爵家の書庫にすらないような、各地方の古い農地開拓の記録や、最新の治水工事に関する貴重な資料が揃っている。
私は講義以外の時間のほとんどを図書室で過ごし、充実した時間を噛み締めていた。
同年代の令嬢たちが催すお茶会には最低限の顔出しに留め、誰かと深く関わることもなく、静かで平穏な日々だった。
とある日の昼休み。
私はいつものように学園の裏手にある庭園で、一人で紅茶を飲んでいた。
美しく刈り込まれた生垣と、季節の花々が咲き誇るこの場所は、昼時でも人が少なく静かだ。
木陰のベンチに座り、膝の上に広げた領地経営の専門書に目を落とす。
人々の喧騒からは離れ、風の音と小鳥のさえずりだけが聞こえる。
(静かで、心地よいわ。ずっとこうしていたい…)
「あ、あの……エリザベート様」
不意に、後ろから声をかけられた。
振り向くと、そこには見覚えのある蜂蜜色の髪…聖女候補であるルミナ・アルフェリアが立っていた。
彼女は俯き加減で、両手を胸の前でぎゅっと握り締め、どこか震えるような、か細い声を出していた。
「あら、ルミナさん。ご機嫌よう。何かご用かしら」
私は本にしおりを挟み、穏やかに微笑んだ。
入学式の日に奇妙な態度を取られたとはいえ、彼女は王室が保護する聖女候補だ。
もし学園生活で何か困っていることがあり、私に助けを求めてきたのであれば、先輩や教師を紹介する程度の助言ならできるかもしれない。
「あの……先日、入学式の日に……廊下で私とすれ違った時のことなんですけど……」
廊下?
入学式の日は講堂でしか彼女を見ていない。
…いや、言われて思い返せば、式典の後に一度だけ、大廊下で彼女の集団とすれ違ったことがあったような気も…する。
確かにその時も、私は貴族としての礼儀に従い、軽く会釈をしてそのまま通り過ぎた。
特に会話を交わしたわけでもなく、足をとめたわけでもない。何もない出来事だったはずだ。
「ええ、覚えているわ。それがどうかしたの?」
「あの時……私を、ひどく睨んでいらっしゃいましたよね……?」
睨んだ?
私は思わず眉を寄せた。
「……睨んだつもりはないのだけれど」
「でも、あの目つきは……すごく怖くて、私、どうしていいかわからなくて……」
「私の目つきが、あなたにそう見えたのなら申し訳ないわ。でも、睨むつもりは決してなかったの。ただの会釈よ」
私が淡々と事実を告げると、彼女はきつく唇を噛んだ。
その目には涙が潤んでおり、今にもこぼれ落ちそうになっている。
まるで、見た目だけは悪辣な貴族にいじめられている可哀想な平民の少女、そのものの構図だった。
「私……平民ですから……」
ルミナは震える声で言った。
「貴族の方々にとっては、私がこの学園にいること自体が目障りなのだと思います……。だから、あんな風に冷たい目で……」
私は小さく息を吐き、手に持っていた紅茶のカップをソーサーに置いた。
カチャリ、と小さな音が響く。
「ルミナさん」
「は、はい……」
「何度でも言うけれど、私はあなたを睨んでいないし、そう見えたとしても貴方が考えているような感情は持っていないわ。それに、あなたが平民であることと、私があなたをどう思うかは、全く関係がないことよ」
「……」
「あなたは聖女候補として、この学園に招かれた。それは身分の壁を超えた、あなた個人の資質が王室に認められたということ。それは貴方が誇っていいことよ。恥じる必要も、誰かの視線を過剰に気にする必要もないわ」
彼女は目を丸くして見開いた。
私がもっと酷い言葉を投げかけるとでも思っていたのだろうか。
「そして……何より、私はあなたに興味がないの。良い意味でも、悪い意味でもね」
「……興味が、ない……?」
「ええ。だから安心してちょうだい。私はあなたに何もしないし、あなたの学園生活を脅かすようなことは絶対にないわ」
それは、紛れもない事実だった。
私には彼女を害する理由が一つもない。
彼女が聖女になろうがなるまいが、ヴァルシュタイン公爵領の経営には何の影響もないのだ。
彼女もまた、私に何かをする理由はないはずだ。
だから、私たちの間に接点が生まれることは、本来あり得ない。
ルミナは数秒間、呆然としたように口を半開きにして立ち尽くしていた。
私の言葉が理解できないのか、それとも予想外の返答に混乱しているのか。
やがて彼女は、何も言わずにくるりと背を向け、小走りでその場を離れていった。
私は彼女の小さくなっていく背中を見送りながら、もう一度小さく首を傾げた。
(なんだか奇妙な子だったわね……被害妄想が強いというか、思い込みが激しいというか。まあいいわ、これで私が彼女に敵意を持っていないことは伝わったはず、誤解は解けたわね。)
私は再び本を開き、領地の治水工事のページに目を落とした。
だが、私のその楽観的な予測は、見事に外れることになる。
誤解は、全く解けていなかったのだ。
それから二週間。
ルミナ・アルフェリアは、ことあるごとに私の周囲に出没するようになった。
私が図書室で勉強していると、背中の方からじっと見つめる視線を感じる。
ぱっと振り向くと、彼女が本棚の陰からこちらを覗き込んでいるのだ。目が合うと、ビクッとして逃げていく。
私が食堂でクラスメイトたちと食事をしていると、彼女がおどおどとした様子で隣のテーブルに座る。
そして、自分の食事には手もつけず、こちらの会話に聞き耳を立てているような素振りを見せる。
私が庭園を散歩していると、偶然を装って向こうから歩いてきて、私の目の前でわざとらしく怯えた顔をして道を譲る。
一つ一つは小さなことだし、全てが「偶然」で片付けられる範囲内の行動だ。
だが、偶然にしては……明らかに頻度が多すぎるし、なにか意図を感じた。
さすがに不気味に思い、私は自室で侍女のマリアに相談した。
「マリア、学園でルミナさんという聖女候補の子がいるのだけれど……最近、あの子がよく私の周りをうろついているの。何か意図があるのかしら…以前勘違いをされていたことがあって、それについては直接お話をして誤解を解いたと思っていたのだけれど…」
マリアは私の髪を梳かしながら、少し考えて口を開いた。
「さあ……もしかしたら、エリザベート様に強い憧れを抱いているのかもしれませんね」
「憧れ? 私に?」
「ええ。彼女は聖女候補とはいえ、元は平民の出身ですから。名門公爵家のご令嬢であり、立ち振る舞いも完璧なエリザベート様の姿を見て、貴族としての作法や振る舞いを学びたいと思っているのではないでしょうか?」
なるほど。それなら一応の筋は通る。
「なら、本棚の陰から覗き見などせずに、直接話しかけてくればいいのに。私から拒絶したことはないのよ?」
「それは……やはり身分の違いから、気後れして恥ずかしいのでは? お優しいエリザベート様ならともかく、他の貴族の方々は平民に厳しい方も多いですから、そういったイメージを持たれていても仕方ないことかもしれませんね」
「う~ん、確かにそうかもしれないわね、今までそういった人とかかわることはなかったから、わからなかったわ」
確かに、平民の少女がいきなり公爵令嬢に気安く話しかけるのは、この学園の雰囲気では勇気がいることだろう。
私はそれ以上、深く考えることをやめた。
彼女が直接何かをしてくるわけではない。ただ遠くから観察しているだけなら、実害はない。私の平穏な学園生活と領地経営の勉強が妨げられないのであれば、放置しておけばいい。
そう思っていた。
だが、事態は私の知らないところで、確実に奇妙な方向へと転がり始めていた。
【続く】




