第一話 悪役令嬢は平穏な日常を愛する
目を開けた瞬間、見慣れた天蓋付きのベッドが視界に入った。
上質な絹のカーテン、一針一針職人の手で施された金糸の刺繍、そして部屋をほのかに満たす、心を落ち着かせる薔薇の香り。少しだけ頭が重いのは、昨夜遅くまで領地の会計報告と秋の収穫予測の書類を確認していたせいだろう。数字の羅列を追うのは嫌いではないが、少し根を詰めすぎたかもしれない。
「お早うございます、エリザベート様」
侍女のマリアが、いつもと変わらぬ穏やかな所作でカーテンを開ける。
眩しい朝日が部屋に差し込み、豪奢な調度品を照らし出した。
私はエリザベート・フォン・ヴァルシュタイン。
建国からの歴史を持つ名門、ヴァルシュタイン公爵家の一人娘として生まれ、十七年を何不自由なく過ごしてきた。両親からの愛情も受け、優秀な家庭教師たちからあらゆる教養を叩き込まれてきた、特に変わったこともない、高位貴族令嬢の日常だ。
「今日は待ちに待った王立学園の入学式ですね。ドレスの準備はすでに整っております」
「ええ。ありがとう、マリア」
私は身支度を整えながら、今日からの学園生活について考える。
王立学園は、この国の貴族の子弟が集う社交場であり、同時に高度な学問の場でもある。
多くの令嬢たちはここで将来の伴侶を見つけること——あわよくば高位の貴族や王族との婚約を取り付けること——を最大の目的としているようだが、私には全く別の、明確な目的がある。
それは、領地経営の実践的な知識を学ぶこと。それ以上でも以下でもない。
ヴァルシュタイン公爵領は広大で豊かだが、だからこそ時代の変化に合わせた細やかな采配が求められる。次期当主として、私には領民の生活を守る義務がある。
鏡に映る自分を見る。
プラチナブロンドのストレートヘア、氷のように冷たいと言われる紫がかった瞳。母譲りの端正な顔立ちだ。
特別、自分の容姿を気に入っているわけではないが、公爵令嬢としての威厳を保つには不満もない造作だった。
「行きましょう」
準備を終え、屋敷の玄関で待つ馬車に乗り込む。
ガタゴトと車輪が石畳を鳴らす音に揺られながら、私は入学に際しての心構えを改めて整理する。
他人とは適度な距離を保つこと。
不要な派閥争いなどのトラブルに関わらないこと。
そして何より、学ぶべきことをしっかりと学ぶこと。
シンプルで、明確だ。
私の学園生活は、ただその三つのルールのためにある。
王立学園の入学式は、厳かで格式高い雰囲気の中、滞りなく終わった。
歴史を感じさせる広大な大講堂には、数百人の新入生が集まっている。
色とりどりのドレスや、仕立ての良い制服に身を包んだ貴族たちが談笑する中で、私はある一人の少女に目が留まった。
蜂蜜色のふわふわとした髪、露草のように澄んだ青い瞳、小柄で華奢な体躯。
彼女の着ている制服は平民のものであり、周囲の貴族たちと比べると明らかに質素だったが、非常に清潔で丁寧に整えられていた。
何より、彼女の持つ特有の柔らかな空気感が、周囲の視線を集めている。
彼女は先ほどの式典の壇上で、特別に紹介されていた。
名前はルミナ・アルフェリア。
数百年ぶりに聖女の素質を見出され、平民でありながら特待生として学園に迎え入れられた、とのことだった。
平民が王立学園に入学するのは極めて珍しいケースだが、聖女候補というのであれば納得できる。
この国において、聖女は身分を超越した神聖な存在として尊重され、王室からも手厚く優遇されるからだ。
式典が終わり、新入生たちが自由に歓談を始めた頃。
私は周囲の貴族令嬢たちと、当たり障りのない挨拶を交わしていた。
「エリザベート様、本日もお美しゅうございますわ。そのドレスの刺繍、王都で流行りの……」
「ありがとう。あなたもとても素敵よ。その髪飾り、瞳の色によく合っていて素晴らしいわ」
社交辞令。必要最低限の礼儀。貴族としての役割。
会話の表面を滑るようなやり取りだが、これで十分だ。深く踏み込む必要はない。
そして——ふと、背後に強い視線を感じた。
悪意というよりは、何かを観察するような、あるいは警戒するような、奇妙な熱を帯びた視線。
振り向くと、先ほど壇上にいた聖女候補、ルミナ・アルフェリアが、少し離れた場所からこちらをじっと見ていた。
彼女の表情は、明らかに怯えていた。
私と目が合った瞬間、彼女は大きく目を見開き、ひっ、と短い息を呑んでわずかに身を引いた。
まるで、恐ろしい捕食者に出くわした小動物のような…。
「……?」
理解できなかった。
私は彼女に何かをしただろうか。
いや、話しかけたわけでもない。
すれ違ったことすらない。これが正真正銘の初対面だ。
私は公爵令嬢としての礼儀に則り、彼女に向けて軽く会釈をした。
初対面の相手への、ごく普通で友好的な挨拶だ。
だが、彼女の反応は私の予想を大きく裏切った。
彼女はさらに後退し、顔を青ざめさせた。そして、近くで他の生徒たちと談笑していた金髪の青年——この国の第一王位継承者である王太子レオンハルト——の背後に、すがりつくようにして隠れたのだ。
まるで、私が今にも彼女に襲いかかるとでも言わんばかりの態度だった。
周囲の生徒たちが、何事かとこちらをちらちらと見始めている。
王太子レオンハルトが、背後に隠れた彼女に何か優しく声をかけているようだった。
彼の傍らには、常に彼を護衛する騎士団長息子のカイルや、冷静な瞳で周囲を観察している宰相補佐のルーファスの姿もあった。
ルミナは王太子の問いかけに小さく頷き、もう一度こちらをちらりと見てから、怯えたように視線を逸らした。
私は小さく首を傾げたが、すぐに気を取り直して視線を戻した。
今日は登校初日だ。
平民である彼女にとって、このきらびやかな貴族の空間は異常なプレッシャーだろうし、初めて見る顔ぶれに過度に緊張しているのだろう。
特に私は公爵家の人間だ、身構えられるのも無理はない。深く考える必要はない。
そう結論づけて、私はその場を離れた。
その時の私は、彼女のあの怯えた視線が、私の平穏な学園生活を大きく狂わせる引き金になることなど、微塵も予想していなかったのだ。
【続く】




