第二十九話 王冠より重いもの
ある日の夜、夕食を終えて二人でブランデーを傾けていた時のことだった。
グラスの中で氷を揺らしながら、ルーファスがふと、何でもない世間話のように切り出した。
「エリザベート。一つ、提案があるのですが」
「なんですの? また新しい貿易ルートの開拓でしょうか?」
私が尋ねると、彼は薄く笑って首を横に振った。
「いえ。……あなたが望むなら、来月の建国記念祭で、あなたをこの国の『女王』として即位させる準備が整っています。現国王は喜んで王冠を譲るでしょうし、貴族院の承認もすでに裏で取り付けました」
さらりと告げられたその言葉に、私は思わず持っていたグラスを落としそうになった。
「は……? 女王? 私が、ですか?」
「ええ。実質的にこの国を動かしているのはあなたですし、誰もがあなたの能力を認めている。あなたが玉座に座ることは、論理的に見ても最も理にかなった選択です」
ルーファスは本気だった。
彼の瞳には一片の冗談も含まれていない。私という「悪役令嬢」を、かつて私を断罪しようとした王太子のさらに上の地位、すなわち国家の頂点に立たせようというのだ。
それは、今まで私のことを排除しようとしてきた人々への、完全なる勝利の証明でもあるのだろう。
だが、私は小さくため息をつき、グラスをテーブルに置いた。
「…却下ですわ。そんな非効率で面倒な地位、一円の価値もありません」
「……おや。権力の頂点には、興味がありませんか?」
「全くありませんわ」
私はきっぱりと断言した。
「女王になれば、形式的な式典や他国との退屈な社交、無能な貴族たちのお守りに多大な時間を割かれることになります。そんな無駄なことにリソースを割くくらいなら、私は今の『公爵領の領主代行』という立場で、自分の好きなように経済を回し、領民を豊かにする実務に専念したいのです」
名ばかりの王冠など、何の役にも立たない。
本当に国を動かすのは、王宮の玉座ではなく、経済の中心であるこの公爵邸の執務室なのだから。
「それに……」
私は少しだけ言葉を切り、テーブル越しにルーファスの手を取った。
「女王になって忙しくなれば、あなたと一緒に過ごす時間が減ってしまうではありませんか。私にとって、それは何よりも許しがたい『損失』です…から」
私が少しだけ頬を赤くしてそう告げると、ルーファスはパチリと瞬きをした後、耐えきれないというように顔を覆って低く笑い始めた。
「ふ、ふふ……っ。くくくっ……」
「る、ルーファス様? 何がおかしいのですか」
「いえ……あなたという人は、本当に。王冠という世界で最も重い権力よりも、私との時間の方に価値を見出してくれるのですね?」
彼は顔を上げ、深い愛情と歓喜に満ちた瞳で私を見つめた。
「ええ、そうですとも。私は徹底した合理主義者ですから。自分にとって最も価値のあるものを、絶対に手放したりはしませんわ」
「……降参です。私の完璧な計算式も、あなたの前では全く役に立たない」
ルーファスは私の手の甲に恭しくキスを落とし、誓うように言った。
「あなたの望む通りにしましょう、私の愛しいエリザベート。あなたはこれからも、玉座ではなくこの執務室から、世界を支配すればいい。……私はその隣で、一生あなたを愛し、守り抜くと誓いましょう」
王冠などいらない。
ゲームのヒロインが欲しがった「王妃」という地位も、私にはただのガラクタに過ぎない。
私には、この豊かで美しい領地と、私を誰よりも理解し、溺愛してくれる最強の夫がいるのだから。
…これ以上、何を望む必要があるというのだろうか。
【続く】




