第二十七話 自称ヒロインと、元・攻略対象たちの末路
ヴァルシュタイン公爵家が王室を「合法的に買収」してから一ヶ月後。
王都の片隅にある、酸っぱい腐臭と泥の匂いが常に漂う貧民街。
その一角にある薄汚れた大衆酒場の裏口で、一人の少女が残飯の入った重い樽を洗わされていた。
「ちょっとあんた!いつまでちんたら洗ってんのよ、さっさと次の鍋を持ってきな!手を止めたら今日のまかないは抜きだからね!」
「ひっ……!ご、ごめんなさい……っ!」
汗と脂で丸々と太った酒場の女将に怒鳴られ、少女——ルミナは、ビクッと肩を跳ねさせて涙目で巨大な鍋を抱え上げた。
かつては「光の聖女候補」として王太子たちからちやほやされ、学園で最も華やかな制服を着飾っていた彼女の見る影は、もうどこにもない。
今の彼女が纏っているのは、継ぎ接ぎだらけで所々が破れたボロ布のような麻のワンピースだけだ。
手入れの行き届いていた美しい金髪は泥と埃で汚れ、白魚のようだった手には無数のあかぎれと水ぶくれができている。
資金が完全に枯渇した教会は、なんの奇跡も起こせない「自称・聖女候補」を真っ先に切り捨てた。
彼女の最大のパトロンであり、彼女を無条件で甘やかしていた王太子レオンハルトたちも、王家が実質的に崩壊したことで姿を消した。
チートも魔法も持たない彼女を助ける者は、王都から一人残らず消え去ったのだ。
「なんで……なんでこんなことになってるのよ……っ!」
ルミナは冷たい水でひび割れた手を擦りながら、恨みがましくブツブツと独り言を呟いた。
「私は正ヒロインなのよ!? 全員から愛されて、悪役令嬢のエリザベートをざまぁして、最後に私が王妃になってハッピーエンドになるはずだったのに…っ! なんで私が、こんな底辺の泥水すするような仕事をしてるのよ! これ絶対何かのバグじゃない!」
彼女は未だに、自分が「ゲームの世界のヒロイン」であるという妄想から抜け出せていなかったらしい。
自分の行動がどれほど身勝手で、どれほど他人の人生を踏みにじり、周囲に迷惑をかけてきたか。
全てを失ってどん底を這いずり回る今になっても、彼女は己の非を一切認めることができず、存在しない『運営』とやらに向かって「バグだ」「修正パッチを当てろ」と叫び続けている。
「おい、新入り!終わったらフロアの掃除だ!吐瀉物の片付けも残ってるんだ、サボってたら本当に夕飯は抜きだからね!」
「い、いやぁぁぁっ!私は聖女なのよ、王妃になるヒロインなのよぉぉっ!! こんな汚い仕事、私がやるはずないじゃない!!」
「意味わからないことばっかりいってるんじゃないよ!さあ仕事仕事!」
女将の容赦ない怒声と飛んできた布巾に顔を打たれ、ルミナは泣き叫びながらモップを握ることしかできなかった。
ご都合主義のチートも、助けてくれるイケメンも存在しない現実世界。
そこでは、何の努力もせず、ただ特別扱いされることだけを望んだ「自称ヒロイン」の居場所など、最初からどこにもなかったのだ。
一方、ルミナの薄っぺらい妄想を盲信して国を傾けた「元・攻略対象」の男たちはどうなったかというと…。
照りつける暴力的な太陽の下、ヴァルシュタイン公爵領の最南端で進められている巨大な運河の建設現場。
泥にまみれ、上半身裸でツルハシを振るっているのは、元・王太子レオンハルト、騎士団長息子のカイル、魔術師団長息子のセリウス、そして大司教息子のノアであった。
王家がヴァルシュタイン公爵家に事実上の降伏をし、国家の全資産を担保として差し出したあの日。
彼ら四人には、国が背負った天文学的な負債を少しでも返済するため、「時給制の単純労働者」として公爵領のインフラ整備に従事するという厳しい処罰が下されたのだ。
もちろん、魔力封じの腕輪を嵌められているため、魔法や身体強化の類は一切使えない。純粋な肉体労働だけが彼らの資本だった。
「ぜぇ、ぜぇ……っ! なんで、私が……次期国王たるこの私が、こんな下賎な土木作業を……っ!」
「殿下、もう諦めてください……。我々は、あの公爵代行に完全に敗北したのです……っ。手を止めれば、今日の水すら配給されませんよ……」
手にできた豆が潰れ、血を流しながらツルハシを握るレオンハルトを、泥まみれのカイルが虚ろな目でなだめる。
自慢の剣術も、精密な魔法陣を描く指も、過酷な日々の肉体労働の前には無力だった。
そんな彼らの前に、馬車から降り立った護衛を伴い、優雅な日傘をさしたエリザベートとルーファスが視察に訪れた。
涼しげなドレスを身に纏い、一切の汗をかいていないエリザベートは、手元の帳簿に冷たい視線を落としながら口を開いた。
「休憩時間でもないのに手を止めるなど、甚だ非効率ですわね。現在のあなた方の労働価値と、日々の食費・水代のコストを相殺して換算すると……借金を完済するまでに、あと約六万三千二百年ほどかかる計算になりますわ。もう少し真面目に働いていただかないと、来世まで借金まみれですわよ?」
冷たく透き通るような事実を突きつけるエリザベートの前では、四人は絶望の表情を浮かべることしかできない。
隣に立つルーファスが一瞥し、少しだけ殺気を込めた魔力を放つと、彼らは圧倒的な重圧に耐えきれず、泥だらけの地面に這いつくばった。
「あなた方のくだらない妄想のせいで、私の愛する妻の計算式が少し狂ったのです。……これでも、随分と温情をかけている方だということをお忘れなく」
冷酷な氷の宰相補佐の言葉に、四人は声を上げることもできず、ただ惨めに震え続けた。
エリザベートにとって、彼らはもはやただの「借金返済のための労働力」でしかない。どこまでも残酷で合理的な現実社会の歯車として、彼らは一生、泥を掘り続けるのだ。
【続く】




