第十五話 愛は論理を超えて
ルーファスが熱を出して倒れた翌日。
彼は宣言通り、文字通り一晩で完全に体調を回復させ、いつも通りの涼しい顔で執務机に向かっていた。
彼の基礎体力が規格外なのか、私の看病が効いたのかはわからないが、とにかく彼が元気になったことで、領地の業務は再び圧倒的な速度で回り始めた。
その日の夜。
私たちは夕食を終え、執務室の広いバルコニーに出て、涼しい夜風に当たっていた。
眼下には、ヴァルシュタイン公爵領の中心都市が広がっている。
大運河の着工決定と、赤き蛇のギルドの解体による市場の健全化により、街の灯りは以前よりもさらに明るく、豊かに輝いていた。
「美しい景色ですね」
バルコニーの手すりに寄りかかりながら、ルーファスが静かに口を開いた。
「ええ。私たちの計算通りですわ。この数ヶ月で、領の税収は予想を二割も上回るペースで増加しています。犯罪率も下がり、民の生活水準は確実に上がっている」
私が誇らしげに語ると、彼は優しく微笑み、私の隣に並んで立った。
「エリザベート。あなたはやはり、私が思い描いた通りの最高の女性だ。あなたの論理がこの土地を豊かにし、私の権力がそれを守る。これほど完璧なシステムは他にない」
「ええ。最高の契約結婚ですわね」
私がそう言うと、彼は少しだけ寂しそうに目を細めた。
「契約、ですか。……確かに始まりはそうだったかもしれない」
彼は私の肩に腕を回し、そっと自分の方へ引き寄せた。
夜風は冷たかったが、彼の体温が触れる場所だけが、驚くほど熱を持っていた。
「私は以前、あなたに『感情のやり取りは不要だ』と言いましたね」
「ええ。だからこそ私は、あなたからの提案を受け入れました」
「……訂正させてください」
彼は私の髪にそっと触れ、まるで壊れ物を扱うような手つきで私の頬を撫でた。
「私は、あなたからの愛を強要するつもりはありません…。あなたはこれからも、その美しい頭脳と冷徹な論理で、領地経営に専念してくれればいい。ですが——」
彼の漆黒の瞳が、月明かりを反射して熱を帯びる。
「私からの愛は、受け取ってください。あなたに感情のやり取りは要求しない。私が一人で、二人分の愛を全てあなたに注ぐ。だから……どうか、この執着を許してほしい」
それは、あまりにも不器用で、真摯な告白だった。
彼が私をどれほど深く愛してくれているか。この数ヶ月の過保護な振る舞いで、嫌というほど伝わっていた。
そして、私自身も。
「……ルーファス様」
私は彼の胸にそっと手を当て、彼を見上げた。
「あなたは有能な官僚のくせに、とんでもない計算間違いをしていますわ」
「計算間違い?」
「ええ。契約において、『一方だけが対価を支払い続ける』というシステムは、長期的に見て必ず破綻します。私は経営者として、そのような不公平な取引を見過ごすわけにはいきません」
私がきっぱりと言うと、彼は目を丸くして戸惑った。
「エリザベート、それは……」
「つまり」
私は背伸びをして、彼の首に腕を回した。
そして、少しだけ震える声で、彼に告げた。
「あなたが二人分の愛を注ぐというなら、私も……それに見合うだけの愛情を、あなたにお返ししなければ、契約が成立しないということです」
「……っ!」
ルーファスは大きく息を呑み、目を見開いた。
普段の冷静沈着な彼が、まるで雷に打たれたように固まっている。その隙を突いて、私は彼の唇にそっと、自分から口付けた。
ほんの数秒だけの、軽いキス。
顔が火照って仕方なかったが、私は意地を張って彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「これが、私の論理ですわ。不満がおありですか?」
「…………」
数秒間の沈黙の後。
彼は深く、深く息を吐き出すと、そのまま私を力強く抱きしめた。
骨が軋むほどの強い抱擁。
「……不満なはずがないでしょう。あなたは本当に……恐ろしい女性だ」
今度は彼から、先ほどとは比べ物にならないほど深く、情熱的なキスが降ってきた。
息をする暇も与えられないほどの熱烈なそれに、私の理性はあっさりと溶かされていく。
この時、私たちは間違いなく、世界で一番幸せな夫婦だった。
契約という建前は完全に消え去り、互いへの深い愛と信頼だけがそこにあった。
この完璧な幸福が……世界の狂った『シナリオの強制力』によって、理不尽に引き裂かれようとしていることに、私たちはまだ気づいていなかった。
【続く】




