第十三話 彼が裏で守るもの
執務机に向かい、猛烈な速度で書類を処理していく彼女の横顔を眺めるのが、私は好きだ。
「ルーファス様。南部の新設工場の稼働スケジュールですが、現在の進捗率であればあと三日は前倒しできますわね。ただ、輸送用ゴーレムの魔力充填ステーションの配置が非効率です。これではルートロスが生じますわ」
「ええ、その通りです。ただ、作業員の労働時間が規定を超えないよう、第二シフトの増員を手配しつつ、ステーションの再配置案を私が作成しておきましょう」
「助かりますわ。さすがは私のパートナーです」
私を見ずに書類に目を通したまま、彼女——私の愛する妻、エリザベートはふっと口角を上げた。
流れるような銀糸の髪が肩から滑り落ち、アメジストのような紫の瞳が知的な光を宿して数式の束を追っていく。
ただそれだけの光景を見るだけで、私の胸の奥は甘く痺れるような熱に侵されるのだ。
彼女は冷酷なまでに合理的で、常に損得と論理を天秤にかけて動く。無駄を嫌い、感情論を切り捨てる。
だが、その根底にあるのは「領民の豊かな生活」と「私たちの平穏な日常」を守るという、不器用なほどに純粋な意志だろう。
その高潔な精神と、誰も追いつけないほどの優れた頭脳。
王宮の薄汚い権力闘争と、ドロドロとした感情の化かし合いの中で生きてきた私にとって、彼女の存在はあまりにも眩しく、そして——誰にも触れさせたくない、私だけの絶対的なサンクチュアリ(聖域)だった。
「……さて、私は少し席を外します。王宮からの急ぎの書簡を処理してこなければならないので」
「わかりましたわ。無理はなさらないでくださいね」
彼女の優しい声に見送られながら執務室を出た私は、廊下の角を曲がった瞬間に、顔から「優しい夫」の仮面を剥ぎ取った。
「…報告を」
誰もいないはずの廊下の影から、黒装束の密偵が音もなく現れ、私の足元に片膝をついた。
「はっ。先日壊滅させた『赤き蛇のギルド』の残党ですが、南部の腐敗貴族であるバルマン伯爵と結託し、公爵領の東部国境にある村へならず者や魔物を放って報復しようと画策しております」
「実行の時期と、規模は?」
「本日の深夜かと。彼らは闇市場で手に入れた違法な魔道具を使い、公爵家の国境警備網の隙を突くつもりのようです。動員される傭兵は約百名、さらに調教された魔獣が十数頭……ゲリラ的に村に火を放ち、領主であるエリザベート様の顔に泥を塗るのが最大の目的のようです」
「……なるほど。底なしの愚か者どもめ」
私が低く、氷のように冷たい声を漏らすと、足元に跪く密偵がビクッと肩を震わせた。
無意識のうちに、私から漏れ出した殺気と魔力が、廊下の空気を文字通り氷点下まで凍らせていたのだ。
エリザベートは、あのギルドを「合法的に」経済の力で粉砕した。
彼女はそれで完全に決着がついたと考えているし、彼女の美しい論理の世界では、勝敗が決した時点で物事はそれで終わるべきなのだ。
だが、現実には、負けを認められない愚図共が必ず湧いてくる。
彼女の論理の外側から泥を投げつけようとする、下品な害虫たちが。
「我が妻が築き上げた完璧な領地に、そして彼女が慈しむ領民に、指一本でも触れさせるとでも思っているのか」
私は右手を軽く振り、空間転移の複雑な魔法陣を無詠唱で足元に展開した。
「私が自ら赴き、片付ける。……夜明けまでに、残党のアジトごとこの世から完全に消し去れ。エリザベートの耳には、虫の羽音一つ届かせるなよ」
「御意」
その日の深夜。
公爵領から遠く離れた南部の歓楽街、その裏路地にひっそりと佇む隠れ家の地下室で、バルマン伯爵とギルドの残党たちは祝杯を挙げていた。
「ひひひっ、今頃あの生意気な小娘の領地は火の海だ。これでヴァルシュタインの株も大暴落間違いなし——」
「誰の領地が火の海だと?」
「ひっ!?」
密室だったはずの地下室の中央に、空間の歪みと共に私は降り立った。
突然の侵入者に傭兵たちが一斉に剣を抜こうとするが、遅い。
私が指先を軽く鳴らした瞬間、彼らが握っていた剣や魔道具が、見えない万力で潰されたかのようにひしゃげ、ボロボロと鉄屑になって崩れ落ちた。
「な、なんだお前は!?どこから現れた!?」
「まさかお前は、氷の宰相補佐……ルーファス・フォン・ヴァルシュタイン!?」
バルマン伯爵が椅子から転げ落ち、顔面を蒼白にして後ずさる。
「私の妻は、心優しい女性だ。彼女はあなたがたを経済的に破滅させただけで、命までは取らなかった」
私は靴音を響かせて伯爵に歩み寄り、見下ろした。
「だが、私は違う。彼女の視界に、あなた方のような見苦しいゴミが映ることすら許容できない。……彼女に害をなそうとした罪、その身をもって後悔しながら消えなさい」
絶叫が地下室に響き渡る前に、私は彼らを取り巻く空間ごと、完全にこの世界から「切除」した。
——それから数週間。
私は彼女が眠りについた後の深夜や、彼女が書類仕事に没頭している隙を突いては、領地の内外に潜む「不確定要素」を片っ端から摘み取り続けた。
南部の貴族の不正の証拠を握って物理的に脅し上げ、王都からのつまらない干渉は暗殺すれすれの圧力をかけて黙らせ、領地内に侵入しようとした賊は空間魔法で彼方の山脈へ放り捨てた。
誰にも気づかれないよう、完璧に、徹底的に。
すべては、エリザベートが気持ちよく領地経営に専念できる、無菌室のような美しい箱庭を維持するために。
彼女には、血生臭い裏の仕事など一切似合わないのだから。
「ルーファス様? どうかなさいましたか?」
「いえ……何でもありませんよ、エリザベート」
私は徹夜明けの重い頭を振り、無意識に手についていないはずの血の臭いを拭う仕草をしてから、彼女のために淹れた紅茶をデスクに置いた。
最近、少し魔力を使いすぎたせいか、視界がわずかに揺れる感覚がある。空間転移を短期間で多用しすぎたのが原因だろう。
カップをソーサーに置く際、カチャリと小さな音が鳴ってしまった。私の手が、わずかに震えていたのだ。
「少し、お疲れのようですが」
「ええ、でも…あなたの美しい顔を見ていれば、疲れなど吹き飛びますよ」
私はふざけたように笑い、彼女の頬に触れた。
これくらい何でもない、彼女の完璧な日常を守るためなら、私の命を削るくらい、安いものだ。
……だが、この時の私は、自身の肉体の限界を少しだけ見誤っていたらしい。
【続く】




