第9話 通しません
今回は、境界対策課の道上主任と、第1話に登場した荒御魂対策課の荒岩課長の回です。
派手な界門案件ではありませんが、神務庁の現場職員たちが「何を通し、何を通さないのか」を書きました。
あと、少しだけ麻雀です。
第9話 通しません
境界対策課の仕事は、境界が開いた時に走ることだけではない。
開きそうな場所を、開く前から見て回ることでもある。
その日の危機対応局 境界対策課に、赤いアラートは出ていなかった。
界門発生なし。
神隠し疑いなし。
境界揺らぎの緊急対応なし。
庁内画面には、平穏と呼ぶには少し細かすぎる情報が、いつものように並んでいる。
平穏な日ほど、仕事は地味になる。
道上主任は、巡回記録の確認を終えると、装備棚の前に立った。
結界杭。
しめ縄。
紙垂。
携帯型神威測定器。
簡易封鎖札。
神威行使決裁端末。
一つずつ手に取り、破損がないかを見る。
封鎖札の端が湿気で反っていないか。
結界杭の先端が欠けていないか。
測定器の充電が残っているか。
どれも、現場で初めて気づいたら遅いものばかりだった。
境界は、開いてから騒ぐと面倒になる。
開く前に、少しだけ歪んでいる場所を見つける。
通してはいけないものを通さない。通るべきものだけを通す。
それが、境界対策課の仕事だった。
「道上さん」
背後から声がした。
振り向くと、荒御魂対策課の荒岩鉄平課長が、いつもの少し崩れた姿勢で立っていた。
広島での豪雨対応でも、補償申請書に名前が出ていた人物だ。
がっしりした体格に、庁内服の上着が少し窮屈そうに見える。
「今日、現場なしっすよね」
「今んとこは。荒岩さんとこも落ち着いてるんですか」
「落ち着いてるっす。暇とは言ってないっす」
「まあ、それを暇って言う人もいますね」
「言わないでくださいよ。うち、暇だと逆に不安になる課なんすから」
荒岩は笑った。
荒御魂対策課。
神気が荒れ、怒りや恐れや怨みを巻き込んで暴れ始めた時に、真正面から受け止める部署である。
大きな現場がない日は、それだけで十分にありがたい。
「で、何ですか」
「麻雀行きません?」
「麻雀? いいですねー」
道上は装備棚に封鎖札を戻しながら言った。
「面子、足りてない感じですか」
「危機対応局の若いの二人、もう捕まえてます。あと一人、道上さん」
「なるほど。そういう時だけ声かけてくるんですね」
「そういう言い方しないでくださいよ」
「普段、飲みに誘っても来ないじゃないですか」
「いや、道上さんの飲みは反省会っぽいんすよ」
「実際、反省点が多い人を誘ってますからね」
「やっぱり反省会じゃないっすか」
荒岩が肩をすくめる。
道上は端末の電源を確認し、カバンに入れた。非番に入るとはいえ、危機対応局の職員が装備を完全に手放すことはない。
神務庁の職員は、業務が終わればただの人間になる。
ように、見える。
実際には、呼ばれれば戻る。現認すれば報告する。見なかったことにはできない。
それでも、庁舎を出る時には少しだけ肩の力が抜ける。
霞が関の夕方の空は、ビルの隙間で薄く赤くなっていた。
***
新橋は、東京で働く大人たちが、昼間の肩書きを少しだけ脱ぐ場所だった。
ガード下から焼き鳥の煙が上がり、狭い路地に赤提灯が並ぶ。
スーツ姿の男たちが、今日の愚痴を抱えたまま、明日のために酒と煙へ少しだけ預けていく。
荒岩が選んだ雀荘は、古い雑居ビルの三階にあった。
階段の壁には、黄ばんだ大会ポスターと、禁煙の貼り紙と、公然と守られていないように見える注意書きが並んでいる。
冷たいおしぼりとコーヒーを頼み、半荘が始まった。
普段の業務の時とは違い、荒岩はよく喋った。
「道上さん、固いっすね」
「麻雀ですから」
「もっと押しましょうよ」
「押す時は押してますよ」
「じゃあ今っすよ」
「それは荒岩さんが押してほしいだけですね」
他の二人が笑った。
南四局に差し掛かるころ、荒岩はトップ目だった。点棒は三万四千八百点。道上は二万九千八百点。残り二人は、それぞれ二万七百点と一万四千七百点。
点差は五千点。
荒岩は手が高かった。表情にも、捨て牌にも、それが出ている。
道上は黙って牌を切った。
「こっちは張ってるっすよ」
「でしょうね」
「なら、通すっす」
「それはどうですかね」
「男は黙って全ツッパっす」
「課長職の発言としては、だいぶ危ないですね」
「今は業務時間外っす」
「業務時間外でも、課長は課長ですよ」
「道上さん、そういうとこっすよ」
「どういうとこですか」
「婚活でも牽制ばっかしてそうなとこっす」
「婚活の話はしてません」
「押しが弱いんじゃないっすか」
「荒岩さんの押し方を参考にすると、家庭が割れますから」
「そこ、家庭の話に持っていくのは反則っす」
「事例研究ですよ」
「家を割った話と混ぜないでほしいっす」
「混ざってるのは事実じゃないですか?」
「麻雀しましょう」
荒岩は話を切った。
そして、牌を切った。
道上はその牌を見た。
「そこは通しませんっとー」
指先で牌を倒す。
「ロン。タンヤオ、ドラ一。二千六百です」
点棒を数えた荒岩が目を丸くした。
「二千六百でまくられるんすか?」
「直撃なんで」
「ダマでニーロクっすか」
「神威は必要最小限に、って習ったんで」
「今、麻雀の話っすよね」
「だいたい同じです」
道上は淡々と点棒を受け取った。
荒岩、三万二千二百点。道上、三万二千四百点。
二百点差で、道上がトップになった。
「うわ、地味に痛いっすね」
「通さなければよかったんです」
「いや、あれは通ると思うじゃないっすか」
「現場でも、そういう油断が事故になります」
「麻雀を現場教育に使わないでほしいっす」
半荘が終わると、他の二人は早々に席を立った。
「自分、明日朝イチで巡回なんで」
「俺も今日は帰ります。課長、これ以上押すとまた負けますよ」
「言うようになったっすね」
二人は笑いながら階段を下りていった。
荒岩と道上だけが、少し遅れて雀荘を出た。
夜の新橋は、さらに声が増えていた。
店先で呼び込みが声を張り、酔った会社員が肩を組み、どこかの店から拍手が聞こえる。
荒岩はまだ、二千六百点の直撃に納得していない顔をしていた。
「いや、あそこは押す場面だったと思うんすよ」
「結果論としては、押さない場面でしたね」
「道上さん、そういう勝ち方するから地味なんすよ」
「勝てば官軍ですよ」
「じゃあ、反省会行きましょう。軽く一杯」
道上は時計を見た。
「荒岩さんこそ、これから一杯やって大丈夫なんですか」
「大丈夫っすよ。今は家、割らないっす」
「普通の人は一度も割りません」
「あれは若かったんす」
「家を割ったら、家庭が割れたんですよね」
「うまいこと言わないでくださいよ。まあ、事実っすけど」
「否定しないんですね」
「できたら別居してないっす」
荒岩は寂しそうに、軽く笑った。
しかし、その笑いが、不意に止まった。
道上は、その変化に気づいた。
荒岩が一本奥の路地を見ている。
赤提灯の明かりが届ききらない、ビルとビルの隙間のような細い路地だった。
奥に小さな祠がある。商売繁盛の稲荷らしい。白い小さな狐像が、汚れたガラス戸の中に座っていた。
「道上さん」
荒岩の声が低くなった。
「すんません。飲み、また今度で」
「荒御魂ですか」
「まだ、なりかけっす」
「場所は」
「一本奥っす」
荒岩はもう歩き出していた。
道上はカバンから庁給スマホを取り出し、INARIの簡易画面を開いた。
新橋周辺。アラートなし。
「まだ上がってませんね」
「INARIより、こっちのが早い時もあるっす」
荒岩は自分の胸を親指で叩いた。
荒御魂対策課長としての経験か、須佐男系神威への高い適合のせいか。
荒岩は、荒れ始めた神気に敏感だった。
路地に近づくと、空気が変わった。
生ぬるい。
風はないのに、赤提灯が内側から殴られたように揺れている。
立て看板が倒れ、排水溝の蓋が小さく鳴った。
アスファルトには、髪の毛ほどの細い亀裂が走っている。
路地の入口では、酔った二人組が言い争っていた。
「だから、お前がさあ」
「うるせえって言ってんだろ」
ただの口論に見える。
だが、声が荒くなるたびに、祠の奥で何かがざらりと動いた。提灯が揺れ、排水溝が鳴り、路地全体が怒声に反応している。
荒御魂化兆候。
負の神気が流れを失い、周囲の怒りや恐れを巻き込んで荒れ始める状態を、現場ではそう呼ぶ。
完全に荒御魂になれば、風も、火も、水も、人の感情も、まとめて暴れる。
だが、今はまだ兆候だった。
「祠の向きっすかね」
荒岩が言った。
道上も見る。
祠は、以前の位置からわずかに動かされているようだった。近くの店舗の看板が新しくなっている。工事か、看板の付け替えか。
その時に、小さな祠の向きが少し変わったのだろう。
「でも、あれだけじゃ起きないっす。溜まってたんすよ、ここ」
「もともと溜まりやすい場所ですね。工事か看板の付け替えで、流れが曲がった」
道上はスマホで夜間監視卓へ現認報告を入れた。
夜間は、人が少ない。
INARIは二十四時間動いているが、夜間の出動割り振りは原則として監視卓の手作業になる。昼間より、どうしても少し遅れる。
それでも、現認報告があれば案件化は早い。
画面に返信が出た。
低位荒御魂化兆候の疑い。
後続対応班を手動割り振り中。
現認者による初動封鎖を許可。
「初動許可、出ました」
「了解っす」
道上はカバンから神威行使決裁端末を取り出した。
見た目だけなら、居酒屋のレジ横に置いてあるカード決済機と大差ない。
ただし、そこに通すものはクレジットカードではない。
神の力だった。
道上は端末を操作する。
使用者、道上。
使用神威、猿田彦系標準神威『道塞ぎ』。
使用区分、初動封鎖。
対象範囲、新橋三丁目路地内。
出力、低。
端末が短く鳴り、小さな紙片を吐き出した。
道上は簡易封鎖札を二枚取り出し、路地入口の左右に貼る。
祝詞というほどのものではない。
ただ、札に触れ、短く名を呼ぶ。
「猿田彦系標準神威『道塞ぎ』。初動封鎖」
路地の入口に、見えない膜のようなものが張った。
人間は通れる。
ただし、荒れた神気は通さない。
酔客の一人が、舌打ちしながら路地の外へ出ていった。もう一人も、文句を言いながら後を追う。
彼らには、何が起きたのか分からない。ただ、急にそこにいたくなくなったように見えるだけだ。
「一般人、退避確認」
「助かるっす」
荒岩が路地へ入った。
奥の祠の前で、黒いものが膨らんでいた。
煙ではない。
影でもない。
怒声、疲労、愚痴、商売不安、酔い、焦り。
そういったものが、路地の底で固まりかけている。
まだ核にはなっていない。
だから、荒岩は拳を振り上げなかった。
大技はいらない。
「荒れるな」
荒岩は低く言った。
祝詞はなかった。
荒岩ほど須佐男系への適合が高い者は、手順を省いても神威を通せる。ただし、その分、出力が荒くなりやすい。
だから道上は、目を細めた。
「荒岩さん、あまり出力上げないでください。路面いきます」
「分かってるっす」
「補償、増えますよ」
「必要最小限っす」
荒岩が一歩踏み込む。
黒い神気が、反発するように膨らんだ。
提灯が裂けた。排水溝の蓋が跳ねる。
路地の壁に貼られたメニュー札が一枚、音を立てて落ちた。
荒岩は下がらなかった。
荒れた神気を、真正面から受け止める。
荒御魂対策課の仕事は、祓うことだけではない。
荒れたものを、まず受け止めることだった。
「ここで荒れても、誰も得しないっす」
荒岩の足元で、アスファルトの亀裂が少しだけ広がる。
「須佐男系鎮静神威」
荒岩は、拳を握った。
「荒伏せ」
空気が、重く沈んだ。
暴れようとしていた黒い神気が、上から押さえつけられる。斬るのではない。吹き飛ばすのでもない。荒れたものの勢いを、荒岩自身が受けて鈍らせている。
その時、路地の左側の壁際から、細い黒い筋が逃げた。
荒岩の声が飛ぶ。
「道上、左、抜ける!」
道上は即座に封鎖札を一枚追加した。
「通しません」
札が壁に貼られる。
逃げようとした神気が、見えない境界にぶつかって跳ね返った。
荒岩がそれを受け止める。
「助かったっす」
「緊急時だけ呼び捨てになる癖、直した方がいいですよ」
「今それ言うっすか」
「今だから言ってます」
黒い神気は、次第に小さくなっていった。
完全に消えたわけではない。
荒れが鎮まっただけだ。
道上は祠の向きと、路地の奥にある排水溝、その先の古い水路筋を見た。
「封印はしないんすね」
荒岩が言う。
「核になってません。封じると、また詰まります」
「じゃあ」
「通していい方へ通します」
道上は端末を再び操作した。
使用神威、猿田彦系標準神威『道通し』。
使用区分、仮流路復旧。
出力、低。
紙片が吐き出される。
道上はそれを、祠の横にそっと置いた。
閉じるための札ではない。
通すための札だった。
「猿田彦系標準神威『道通し』」
路地の空気が、わずかに動いた。
人の通る表通りではない。店の裏、排水溝、祠の脇、古い水の気配が残る細い流れ。
そこへ、残った神気がゆっくり抜けていく。
提灯の揺れが止まった。
排水溝の音も消えた。
路地は、ただの新橋の裏路地に戻っていった。
数分後、夜間対応班が到着した。
道上は状況を説明し、スマホで報告を入力する。
低位荒御魂化兆候。
初動鎮静済み。
封印不要。
残留神気、仮流路復旧。
原因推定、祠向き変更および神気滞留。
後続対応、祠位置確認、協力神社による清祓い、三日間監視。
荒岩は破れた提灯と、倒れた看板を見た。
「必要最小限っすね」
「補償申請は必要ですね」
「やっぱりっすか」
「必要最小限でも、壊れたものは壊れてます」
「それ、報告書に書かれるとつらいっす」
「事実です」
荒岩は頭をかいた。
「飲み直し、無理っすね」
「無理ですね」
「二千六百の反省会、持ち越しっす」
「反省する点が多くて何よりです」
「麻雀の話っすよね」
「だいたい同じです」
道上はスマホをしまった。
路地の外では、相変わらず酔客たちが笑い、呼び込みが声を張り、焼き鳥の煙が夜へ流れている。
誰も、自分たちの愚痴や怒声が、ほんの少しだけ何かを荒らしかけたことなど知らない。
知らないままでいい。
知らないまま、明日もここを通れればいい。
それを通すために、通してはいけないものを通さない。
背後では、祠の横に置かれた札が、小さく夜風に揺れていた。
閉じるための札ではない。
通すための札だった。
お読みいただきありがとうございます。
第9話「通しません」でした。
境界対策課は「閉じる」部署というより、「通してはいけないものを通さず、通すべきものを通す」部署として書いています。
荒御魂対策課の荒岩課長も再登場しました。荒れたものを真正面から受け止める人です。
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