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タカマガハラの神務官 〜神様の力を使うのに必要なのは、祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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10/27

第10話 呼水

第10話です。


今回は、波多野が神務庁の正規手順で稲荷系の基礎神威に触れる回です。

派手な事件ではありませんが、INARIネットワークや稲荷の網について、少しだけ奥が見える話になっています。

第10話 呼水



朝、波多野承平がINARI運用課の端末を立ち上げると、未処理一覧の上の方に、まだ木曽谷系統の件名が残っていた。


『長野県南部木曽谷系統における末端情報収集率低下について』


赤ではない。


緊急でもない。


けれど、片付いてもいない。


中継点そのものは正常。

公開祠と協力神社は確認済み。

工事情報の照会結果も戻り始めている。


それでも、山側からの返りは弱いままだった。


波多野は、前回自分が入力した言葉を思い出した。


感覚メモ:完全欠測ではなく、未達に近い。


今読み返しても、かなり危ない書き方だった。


通常画面にないものを、通常画面のメモに書いている。


いや、正確には、通常画面で見える事実と、自分の感覚を分けて書いた。


さかき課長にそう言われたからだ。


それでも、危ないものは危ない。


「波多野さん」


背後から声をかけられ、波多野は少しだけ肩を揺らした。


振り向くと、榊課長が立っていた。


いつものように、手にはブラックの缶コーヒーがある。


「はい」


「木曽谷の件、午後の訓練前に、現場メンテチームの中間報告だけ確認しておいてください」


「訓練、ですか」


「はい。午後一時半から、低出力神威(しんい)訓練場です」


「低出力神威訓練場」


波多野は、思わず聞き返した。


その名前には覚えがある。


入庁時研修で何度か行った場所だった。


「稲荷系基礎神威の確認です。登録済みのものですね。波多野さんの場合は、呼水よびみずです」


呼水。


研修資料で見たことはある。


ただし、使った覚えはほとんどなかった。


「あの、僕、研修でやった簡単なのしか使えませんけど」


「だからですよ」


榊課長は即答した。


正論だった。


正論は、いつも逃げ道を閉じるのがうまい。


「INARI運用課は、現場で祠を直す部署ではありません。神威行使を主業務とする部署でもありません」


「はい」


「ですが、稲荷の網を扱う部署です。現場メンテチームの報告に出てくる基礎神威の意味が分からないまま、ログだけ読むのは危険です」


榊課長は、端末画面の木曽谷の件名を見た。


「たとえば今回のように、末端情報収集率が落ちている案件では、現場側で呼水を使うことがあります」


「祠が生きているか見るやつ、でしたっけ」


「ええ。計測器で神気反応は測れます。ただ、それは祠が生きている証拠にはなりません。神気は残りますから」


「ああ」


「長く祀られていた場所なら、祠として機能していなくても反応は出ます。呼水は、そこにごく弱い稲荷系神気を通し、返りを見る神威です」


「返れば、生きている」


「稲荷の網の末端として、まだ応答できる状態にある、ということです」


分かりやすい。


そして少し怖い。


「僕が現場で使うわけではないですよね」


「今日のところは」


「今日のところ」


「言葉の綾です」


榊課長は、表情を変えずに言った。


「訓練担当は、神務施設管理課の三枝主任です。現場メンテチーム側の方ですから、呼水についてはそちらで聞いてください」


「分かりました」


「それと」


榊課長は、少しだけ声を落とした。


「体調に違和感があれば、訓練中でもすぐ申告してください」


「神気酔いですか」


「それも含みます」


前に、浅草の界門対応に行った時も、似たことを言われた。


現場帰りなら珍しくはない。

神気酔いは、慣れていない職員には出る。


榊課長は、あの時からずっと、体調の話として言っている。


体調の話としてなら、こちらも返せる。


「分かりました」


「お願いします」


榊課長はそれだけ言って、自席へ戻った。


波多野は、足元のリュックをちらりと見た。


中で、あぶさんが小さく動いた。


「呼水か」


リュックの中から声がした。


「知ってるんですか」


「稲荷の力を知らん狐がおると思うか」


「じゃあ説明してくれますか」


「眠い」


「便利ですね、それ」


「狐は便利ではない」


波多野は小さく息を吐き、木曽谷の中間報告を開いた。


現場メンテチーム報告。


公開祠、返りあり。

協力神社、返り正常。

山側旧道沿いの一部小祠、確認継続。

呼水実施箇所、一時的に返り改善。

翌日、収集率再低下。


完全に死んでいるわけではない。


呼べば返る。


けれど、続かない。


それが何を意味するのか。


波多野は、そこまで考えかけて、やめた。


今日は、通常画面で見えることだけを見る。


感じたことをそのまま口に出すと、仕事が増える。


そしてたぶん、疑いも増える。


     ***


低出力神威訓練場は、庁舎の奥にあった。


学校で言えば、体育館に近い。


高い天井。

広い床。

壁沿いに収納された訓練用具。

床には、白い線でいくつかの区画が引かれている。


ただ、体育館と違うのは、線の一本一本に細い札が埋め込まれていることだった。


神気が外へ漏れないように、区画ごとに低い結界が張られているらしい。


部屋の奥では、別の職員が風を起こす訓練をしていた。


紙垂しでが揺れる。


担当官の「はい、止めてください」という声が、体育館のように少し響いた。


「波多野承平さんですね」


声をかけてきたのは、作業着姿の男性だった。


四十代くらい。


胸に、神務施設管理課の名札がある。


その下に、小さく「末端保全班」と書かれていた。


「はい。よろしくお願いします」


三枝さえぐさです。今日は呼水の確認を担当します」


三枝主任は、手元の端末を見た。


「INARI運用課、文化庁から出向。入庁時測定、甲」


そこで、少しだけ目を上げる。


「甲判定なんですね」


「そうらしいです。前に、そんなことを言われました。」


「らしい?」


「意味をよく知らないので」


三枝主任は、少し笑った。


「知らないくらいでちょうどいいです。知ると、変に力みます」


それは、経験者の言い方だった。


波多野は、その言葉で、文化庁にいた頃のことを思い出した。




     ***




最初に声をかけてきたのは、白衣の男だった。


場所は文化庁の廊下だった。


波多野は資料を抱えて歩いていた。


その横から、急に言われた。


「君、でかそうだね」


最初、自分に言われたのだと分からなかった。


「はい?」


「所属は?」


「文化庁ですけど」


「名前は」


「波多野承平です」


白衣の男は、波多野を上から下まで見た。


顔ではなく、肩や胸や腕のあたりを見ていた。


健康診断でも、ここまで雑には見られない。


「ちょっと来られる?」


「今ですか」


「今じゃなくてもいいけど、早い方がいいね」


「何の話ですか」


「神務庁。上司にそう言って」


資料を上司に届け、白衣の男のことを伝えた。


神務庁という言葉を聞いた時、文化庁の上司が、少しだけ絶望したような顔をした。


「ああ……そうか」


あの「ああ」は、今でも少し覚えている。


結局、波多野はその日のうちに神務庁へ連れて行かれた。


検査室で、身体測定のようなことをされた。


身長。

体重。

腕の長さ。

胸囲。

肩幅。

首から胸までの長さ。

手首の周り。


健康診断では測らない場所を、やけに丁寧に測られた。しかもメジャーで。


「何を測ってるんですか」


「器だよ」


「器ですか」


「正確には魂器寄りの測定だけど、今説明しても分からないと思う」


「それは、そうですね」


白衣の男は、メジャーを巻き取りながら言った。


「うん。甲。文句なし」


「甲」


「文句なし」


「それは、良いんですか」


「悪くはない」


悪くはない、という言い方が、あまり良さそうではなかった。


最後に、白衣の男は波多野の顔を見た。


「結構マイペースだろ、君」


「性格の話ですか」


「性格にも出る」


「にも」


「まあ、そのうち分かるよ」


そのうちは、まだ来ていない。


少なくとも、波多野にはそう思えていた。




     ***




「波多野さん」


三枝主任の声で、波多野は訓練場に戻った。


「すみません」


「いえ。緊張しますよね」


「少し」


「では、始めましょう」


三枝主任は、訓練区画の一つへ案内した。


そこには、小さな祠が置かれていた。


模型ではあるが、ただの模型ではない。


木でできた小さな祠の前に、浅い皿がある。


屋根の下には、小さな紙垂が下がっていた。


床には、祠から三枝主任の端末へ向かうように、細い白線が引かれている。


「訓練用の末端祠です」


三枝主任が言った。


「中には、弱い稲荷系神気が通っています。今日は、ここに呼水を入れて、返りを見る訓練をします」


「返りがあると、紙垂が揺れるんですか」


「はい。ただし、揺らそうとしないでください」


「いきなり難しいですね」


「呼水は、揺らす神威ではありません。呼ぶ神威です。返ってきた結果、揺れる」


分かるような、分からないような説明だった。


三枝主任は、祠を指した。


「計測器で神気は測れます。ですが、神気があることと、この祠が稲荷の網に返りを返せることは別です」


「残っているだけかもしれない」


「そうです。人が来なくなった祠でも、長く祀られていれば反応は出ます。だから呼水を入れる。返りがあれば、末端としてはまだ生きている」


波多野はうなずいた。


「返りがあるのに、中継点まで上がらない場合は」


「途中の道を疑います。木曽谷の件は、そこが問題ですね」


木曽谷。


やはり、そこにつながる。


「では、一度見本を見せます」


三枝主任が、祠の前に立った。


特に大きな動作はしなかった。


印を結ぶわけでもない。


祝詞を唱えるわけでもない。


ただ、手を合わせて少し息を吐いた。


その瞬間、紙垂が小さく揺れた。


遅れて、端末に緑色の表示が出る。


返り:あり。

状態:正常。


「これが呼水です」


簡単そうに見えた。


簡単そうに見えるものほど、だいたい難しい。


「では、波多野さん」


「はい」


波多野は祠の前に立った。


リュックは、訓練区画の外に置いてある。


中であぶさんが黙っている。


神務庁内では、本当に黙っていてほしい。


波多野は、祠を見た。


ごく弱い稲荷系神気を通す。


返りを見る。


それだけ。


入庁時研修では、よく分からない神威を使い、豆電球を点けた。


札を貼った。


風鈴を鳴らした。


どれも、できたような、できていなかったような記憶しかない。


でも、今回は記録される。


三枝主任が見ている。


結果は榊課長へ共有される。


変なことは起こさない。


余計なものは見ない。


聞かない。


ただ、呼水を使う。


波多野は、息を吸って手を合わせた。


祠へ向けて、ごく弱く神気を通す。


そう思った。


何も起きなかった。


紙垂は揺れない。


端末にも表示は出ない。


「もう一度」


三枝主任が言った。


責める声ではなかった。


波多野はもう一度息を吸った。


今度は少し強めに意識した。


神気を通す。


返りを見る。


紙垂が、ほんの少し震えた。


だが、揺れたというより、空調の流れを拾ったような動きだった。


三枝主任が端末を見る。


「反応、微弱。発動未満ですね」


「すみません」


「謝ることではありません。もう一度やりましょう」


波多野は頷いた。


額に汗がにじんだ。


甲。


文句なし。


おそらくポテンシャルはあるのだろう。


しかし、その割に、基礎神威ひとつまともに通らない。


三枝主任の顔にも、わずかな意外さがあった。


失望ではない。


ただ、予想していたものと違う結果を見た顔だった。


「神気量はありそうですが、呼水に乗るまでに少し時間がかかっていますね」


「乗るまで」


「はい。基礎神威に慣れていない人は、こういう出方をします。力みすぎたり、出そうとする方向がずれたり」


波多野は、床の白線を見た。


出そうとする方向がずれる。


それは、何となく分かる気がした。


「力みすぎですか」


「それもあるかもしれません。弱くで構いません。もう一度、やってみましょう」


三枝主任は端末に記録を入れた。


区画の外のリュックが、かすかに動いた。


「承平」


小さな声がした。


三枝主任には聞こえないくらいの声。


「何ですか」


波多野も、ほとんど息だけで返した。


「全部使おうとするな」


「全部?」


「余りでよい」


「余りって」


「今、流れておるものの余りじゃ」


「説明が雑です」


「狐の説明は雑でよい」


よくない。


まったくよくない。


ただ、言葉だけは残った。


余り。


全部使おうとするな。


今、流れているものの余り。


波多野は、祠を見た。


祠を揺らそうとしない。


神気を出そうとしない。


何かを起こそうとしない。


ただ、今、自分の中でどこかへ流れているものがあるとして。


それを全部止めるのではなく、少しだけ横へ分ける。


そんな感じ。


波多野は、息を吸った。


今度は、無理に押し出さなかった。


ほんの少しだけ、流す。


祠の紙垂が、小さく揺れた。


今度は、空調ではなかった。


揺れて、戻る。


そのあと、端末に緑色の表示が出た。


返り:あり。

状態:微弱。


「……通りました」


三枝主任が言った。


波多野は、肩の力が抜けるのを感じた。


「成功ですか」


「成功です。出力は低いですが、呼水としては成立しています」


「低い」


「低いです」


はっきり言われた。


「ただ、発動は確認しました。もう一度、同じようにやってください。それで終了にしましょう」


波多野は頷いた。


もう一度。


今度も、紙垂は小さく揺れた。


返りはあった。


弱い。


でも、あった。


三枝主任は記録を取り、端末を閉じた。


「お疲れさまでした」


「ありがとうございました」


「継続訓練は必要ですね」


「ですよね」


「甲判定と聞いていたので、もう少しすぐ通るかと思っていました」


「すみません」


「謝ることではありません。甲でも、基礎神威に慣れていない人はいます」


三枝主任は端末に記録を入れた。


「今日の記録は、発動確認、出力低、発動までやや時間を要する。継続訓練推奨、ですね」


「はい」


「異常ではありません」


「それは、よかったです」


「よかったかは分かりません」


どちらなのか。


波多野には分からなかった。




     ***




自席に戻ると、榊課長は特に何も聞かなかった。


ただ、端末に送られてきた訓練記録を読んでいるようだった。


波多野は、通常業務に戻った。


戻ったつもりだった。


木曽谷の件名が、まだ未処理一覧にある。


返り。

中継反応弱。

経路阻害疑い。


言葉が少しだけ分かるようになった。


分かったからといって、何か言えるわけではない。


むしろ、言わない方がいいことが増えた気がした。


午後五時を過ぎる頃、榊課長が缶コーヒーを片付けながら言った。


「波多野さん」


「はい」


「訓練、お疲れさまでした」


「あ、はい。あまりうまくできませんでした」


「発動は確認されています」


「出力低って書かれてませんでした?」


「書かれていました」


隠さない。


「継続訓練で構いません。基礎神威は、使わないと鈍ります」


「分かりました」


榊課長は、少しだけ間を置いた。


「体調に変化があれば報告してください」


「大丈夫です」


「なら、いいです」


それ以上は言われなかった。


波多野は、少しだけ助かった気がした。




     ***




帰宅すると、部屋の空気が少し熱を持っていた。


波多野はエアコンをつけ、リュックを床に下ろした。


あぶさんが中から出てくる。


大きく伸びをして、最初に言った。


「下手じゃったのう」


「帰って最初に言うことですか」


「事実じゃ」


「甲って言われた割に、全然でした」


波多野は床に座り込んだ。


思ったより疲れていた。


呼水は、ほんの少し紙垂を揺らしただけだ。


それなのに、妙に消耗している。


「僕、向いてないんですかね」


「何にじゃ」


「神威です」


「向いとるじゃろ」


「今日の見てました?」


「見ておった」


「じゃあ、向いてないでしょう」


あぶさんは、尻尾を揺らした。


「当然じゃ」


「当然?」


「おぬしは、呼水を出す前に、返りを聞いておる」


波多野は、顔を上げた。


「返り」


「呼水は、弱く流して、返りを見る神威じゃ」


「それは今日聞きました」


「おぬしは、流す前から聞いとる」


「……どういう意味ですか」


あぶさんは、部屋の真ん中に座った。


珍しく、少し真面目な顔をしていた。


「迷った声。届かん声。残った声。そういうものへ、おぬしは勝手に耳を伸ばしておる」


「勝手に」


「うむ」


「それが、呼水の邪魔をしてるんですか」


「邪魔ではない。使っておるのじゃ」


「何を」


「おぬしの中の流れを」


波多野は、訓練場で三枝主任が言った言葉を思い出した。


出そうとする方向がずれる。


力みすぎ。


基礎神威に慣れていない人は、こういう出方をする。


三枝主任は、そう言った。


だが、あぶさんの言い方は違った。


慣れていないのではない。


もう使っている。


「それは、あぶさんとの契約のせいですか」


「わし一匹に、そんなに使うか」


「使わないんですか」


「おぬしの器なら、わしを連れて歩くくらいは大したことではない」


あぶさんは鼻を鳴らした。


「問題は、わしではない。おぬしが聞いておるものじゃ」


「僕が聞いているもの」


「INARIは、稲荷の網に人間が触れるよう薄めたものじゃ。呼水に似たものを流し、返ってくるものを集め、人間が見ても壊れぬように、色にし、数字にし、画面にする」


波多野は黙って聞いた。


「じゃが、網そのものは違う」


「違う」


「薄めておらん。丸めておらん。隠しておらん」


「それを、僕が聞いてるんですか」


「ごく少しな」


「ごく少し」


「そうでなければ、今ごろ倒れておる」


あぶさんは、そう言った。


波多野は、少し笑おうとして、笑えなかった。


「稲荷の網って、そんなにすごいんですか」


「見るか」


何でもないことのように、あぶさんが言った。


波多野は、一瞬迷った。


やめた方がいい。


そう思った。


でも、聞いてしまった。


「少しだけなら」


あぶさんは、波多野を見た。


「少しだけじゃ」


「はい」


「中には入らん。覗くだけじゃ」


「分かりました」


本当は、何も分かっていなかった。


あぶさんが、波多野の膝に前足を置いた。


白い毛が、少しだけ光ったように見えた。


次の瞬間。


音が消えた。


いや、違う。


音が多すぎて、消えたように感じた。


最初に来たのは、鈴の音だった。


どこかの小さな祠。

朝の商店街。

油揚げの匂い。

雨に濡れた赤い鳥居。

ビルの屋上にある小さな社。

工場の隅。

古い家の台所。

神棚の水。

埃をかぶった狐の置物。

誰も来なくなった祠。

毎朝来る老婆の手。

小学生のランドセル。

閉店した店の奥。

山の集落の石祠。

道路脇に移された小さな祠。


お願いします。

売れますように。

治りますように。

帰ってきますように。

受かりますように。

守ってください。

忘れないでください。

ここにいます。

ここにいました。

まだ、います。


声だった。


声ではなかった。


言葉になる前のもの。

願いになる前のもの。

祈りになったあとの残り。

もう誰も言っていないのに、まだ残っている形。


それが、一度に来た。


多すぎる。


近い。


遠い。


古い。


新しい。


誰のものか分からない。


けれど、誰かのものだと分かる。


波多野は息を吸おうとした。


吸えなかった。


胃が、ひっくり返った。


喉が勝手に開いた。


「あ」


声を出すより先に、身体が動いた。


波多野は床に手をつき、そのまま吐いた。


昼に食べたものと、胃液と、涙が混じった。


目の奥が熱い。


耳の奥で、まだ鈴が鳴っている。


「承平」


あぶさんの声が、遠かった。


「承平、戻れ」


戻る。


どこへ。


自分の部屋。


エアコンの音。


床。


吐いた匂い。


あぶさんの白い毛。


本棚の上に座る、みよ。


波多野は、ようやく息を吸った。


視界が揺れている。


「……今のが」


声がかすれた。


「稲荷の網ですか」


あぶさんは、少し黙った。


それから言った。


「入口じゃ」


「入口」


「中には入っておらん。覗いただけじゃ」


波多野は、床に伏せたまま笑った。


笑ったつもりだった。


たぶん、うまく笑えていなかった。


「……あれで?」


「うむ」


あぶさんの声は、いつもより少しだけ低かった。


波多野は、もう一度目を閉じた。


まだ、耳の奥に声が残っている。


お願いします。

忘れないで。

ここにいます。


INARIネットワークは、それを人間が扱える形に落としたもの。


色。

数字。

ログ。

報告書。

A4の資料。


神務庁は、たぶん正しい。


正しくなければ、人間はあれを扱えない。


波多野は、床に頬をつけたまま思った。


それでも。


あれは、数字になる前には、声だった。


「承平」


あぶさんが言った。


「今日はもう寝よ」


「……片付けが先です」


「人間は大変じゃのう」


本当にそう思う。


波多野は、震える手でティッシュを取った。


本棚の上で、みよは黙って座っていた。


返事はない。


その静けさが、今だけはありがたかった。


お読みいただきありがとうございます。


今回は「呼水」という稲荷系の基礎神威の話でした。

神気反応があることと、その祠や末端が今も稲荷の網に返りを返せることは別、という整理です。


波多野は甲判定ですが、だからといって何でも簡単にできるわけではありません。

むしろ、別のところにリソースを使っているせいで、普通の基礎神威がうまくいかないこともあります。


次回も神務庁の日常業務を進めつつ、少しずつ波多野の異常性が見えてくる予定です。

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