第10話 呼水
第10話です。
今回は、波多野が神務庁の正規手順で稲荷系の基礎神威に触れる回です。
派手な事件ではありませんが、INARIネットワークや稲荷の網について、少しだけ奥が見える話になっています。
第10話 呼水
朝、波多野承平がINARI運用課の端末を立ち上げると、未処理一覧の上の方に、まだ木曽谷系統の件名が残っていた。
『長野県南部木曽谷系統における末端情報収集率低下について』
赤ではない。
緊急でもない。
けれど、片付いてもいない。
中継点そのものは正常。
公開祠と協力神社は確認済み。
工事情報の照会結果も戻り始めている。
それでも、山側からの返りは弱いままだった。
波多野は、前回自分が入力した言葉を思い出した。
感覚メモ:完全欠測ではなく、未達に近い。
今読み返しても、かなり危ない書き方だった。
通常画面にないものを、通常画面のメモに書いている。
いや、正確には、通常画面で見える事実と、自分の感覚を分けて書いた。
榊課長にそう言われたからだ。
それでも、危ないものは危ない。
「波多野さん」
背後から声をかけられ、波多野は少しだけ肩を揺らした。
振り向くと、榊課長が立っていた。
いつものように、手にはブラックの缶コーヒーがある。
「はい」
「木曽谷の件、午後の訓練前に、現場メンテチームの中間報告だけ確認しておいてください」
「訓練、ですか」
「はい。午後一時半から、低出力神威訓練場です」
「低出力神威訓練場」
波多野は、思わず聞き返した。
その名前には覚えがある。
入庁時研修で何度か行った場所だった。
「稲荷系基礎神威の確認です。登録済みのものですね。波多野さんの場合は、呼水です」
呼水。
研修資料で見たことはある。
ただし、使った覚えはほとんどなかった。
「あの、僕、研修でやった簡単なのしか使えませんけど」
「だからですよ」
榊課長は即答した。
正論だった。
正論は、いつも逃げ道を閉じるのがうまい。
「INARI運用課は、現場で祠を直す部署ではありません。神威行使を主業務とする部署でもありません」
「はい」
「ですが、稲荷の網を扱う部署です。現場メンテチームの報告に出てくる基礎神威の意味が分からないまま、ログだけ読むのは危険です」
榊課長は、端末画面の木曽谷の件名を見た。
「たとえば今回のように、末端情報収集率が落ちている案件では、現場側で呼水を使うことがあります」
「祠が生きているか見るやつ、でしたっけ」
「ええ。計測器で神気反応は測れます。ただ、それは祠が生きている証拠にはなりません。神気は残りますから」
「ああ」
「長く祀られていた場所なら、祠として機能していなくても反応は出ます。呼水は、そこにごく弱い稲荷系神気を通し、返りを見る神威です」
「返れば、生きている」
「稲荷の網の末端として、まだ応答できる状態にある、ということです」
分かりやすい。
そして少し怖い。
「僕が現場で使うわけではないですよね」
「今日のところは」
「今日のところ」
「言葉の綾です」
榊課長は、表情を変えずに言った。
「訓練担当は、神務施設管理課の三枝主任です。現場メンテチーム側の方ですから、呼水についてはそちらで聞いてください」
「分かりました」
「それと」
榊課長は、少しだけ声を落とした。
「体調に違和感があれば、訓練中でもすぐ申告してください」
「神気酔いですか」
「それも含みます」
前に、浅草の界門対応に行った時も、似たことを言われた。
現場帰りなら珍しくはない。
神気酔いは、慣れていない職員には出る。
榊課長は、あの時からずっと、体調の話として言っている。
体調の話としてなら、こちらも返せる。
「分かりました」
「お願いします」
榊課長はそれだけ言って、自席へ戻った。
波多野は、足元のリュックをちらりと見た。
中で、あぶさんが小さく動いた。
「呼水か」
リュックの中から声がした。
「知ってるんですか」
「稲荷の力を知らん狐がおると思うか」
「じゃあ説明してくれますか」
「眠い」
「便利ですね、それ」
「狐は便利ではない」
波多野は小さく息を吐き、木曽谷の中間報告を開いた。
現場メンテチーム報告。
公開祠、返りあり。
協力神社、返り正常。
山側旧道沿いの一部小祠、確認継続。
呼水実施箇所、一時的に返り改善。
翌日、収集率再低下。
完全に死んでいるわけではない。
呼べば返る。
けれど、続かない。
それが何を意味するのか。
波多野は、そこまで考えかけて、やめた。
今日は、通常画面で見えることだけを見る。
感じたことをそのまま口に出すと、仕事が増える。
そしてたぶん、疑いも増える。
***
低出力神威訓練場は、庁舎の奥にあった。
学校で言えば、体育館に近い。
高い天井。
広い床。
壁沿いに収納された訓練用具。
床には、白い線でいくつかの区画が引かれている。
ただ、体育館と違うのは、線の一本一本に細い札が埋め込まれていることだった。
神気が外へ漏れないように、区画ごとに低い結界が張られているらしい。
部屋の奥では、別の職員が風を起こす訓練をしていた。
紙垂が揺れる。
担当官の「はい、止めてください」という声が、体育館のように少し響いた。
「波多野承平さんですね」
声をかけてきたのは、作業着姿の男性だった。
四十代くらい。
胸に、神務施設管理課の名札がある。
その下に、小さく「末端保全班」と書かれていた。
「はい。よろしくお願いします」
「三枝です。今日は呼水の確認を担当します」
三枝主任は、手元の端末を見た。
「INARI運用課、文化庁から出向。入庁時測定、甲」
そこで、少しだけ目を上げる。
「甲判定なんですね」
「そうらしいです。前に、そんなことを言われました。」
「らしい?」
「意味をよく知らないので」
三枝主任は、少し笑った。
「知らないくらいでちょうどいいです。知ると、変に力みます」
それは、経験者の言い方だった。
波多野は、その言葉で、文化庁にいた頃のことを思い出した。
***
最初に声をかけてきたのは、白衣の男だった。
場所は文化庁の廊下だった。
波多野は資料を抱えて歩いていた。
その横から、急に言われた。
「君、でかそうだね」
最初、自分に言われたのだと分からなかった。
「はい?」
「所属は?」
「文化庁ですけど」
「名前は」
「波多野承平です」
白衣の男は、波多野を上から下まで見た。
顔ではなく、肩や胸や腕のあたりを見ていた。
健康診断でも、ここまで雑には見られない。
「ちょっと来られる?」
「今ですか」
「今じゃなくてもいいけど、早い方がいいね」
「何の話ですか」
「神務庁。上司にそう言って」
資料を上司に届け、白衣の男のことを伝えた。
神務庁という言葉を聞いた時、文化庁の上司が、少しだけ絶望したような顔をした。
「ああ……そうか」
あの「ああ」は、今でも少し覚えている。
結局、波多野はその日のうちに神務庁へ連れて行かれた。
検査室で、身体測定のようなことをされた。
身長。
体重。
腕の長さ。
胸囲。
肩幅。
首から胸までの長さ。
手首の周り。
健康診断では測らない場所を、やけに丁寧に測られた。しかもメジャーで。
「何を測ってるんですか」
「器だよ」
「器ですか」
「正確には魂器寄りの測定だけど、今説明しても分からないと思う」
「それは、そうですね」
白衣の男は、メジャーを巻き取りながら言った。
「うん。甲。文句なし」
「甲」
「文句なし」
「それは、良いんですか」
「悪くはない」
悪くはない、という言い方が、あまり良さそうではなかった。
最後に、白衣の男は波多野の顔を見た。
「結構マイペースだろ、君」
「性格の話ですか」
「性格にも出る」
「にも」
「まあ、そのうち分かるよ」
そのうちは、まだ来ていない。
少なくとも、波多野にはそう思えていた。
***
「波多野さん」
三枝主任の声で、波多野は訓練場に戻った。
「すみません」
「いえ。緊張しますよね」
「少し」
「では、始めましょう」
三枝主任は、訓練区画の一つへ案内した。
そこには、小さな祠が置かれていた。
模型ではあるが、ただの模型ではない。
木でできた小さな祠の前に、浅い皿がある。
屋根の下には、小さな紙垂が下がっていた。
床には、祠から三枝主任の端末へ向かうように、細い白線が引かれている。
「訓練用の末端祠です」
三枝主任が言った。
「中には、弱い稲荷系神気が通っています。今日は、ここに呼水を入れて、返りを見る訓練をします」
「返りがあると、紙垂が揺れるんですか」
「はい。ただし、揺らそうとしないでください」
「いきなり難しいですね」
「呼水は、揺らす神威ではありません。呼ぶ神威です。返ってきた結果、揺れる」
分かるような、分からないような説明だった。
三枝主任は、祠を指した。
「計測器で神気は測れます。ですが、神気があることと、この祠が稲荷の網に返りを返せることは別です」
「残っているだけかもしれない」
「そうです。人が来なくなった祠でも、長く祀られていれば反応は出ます。だから呼水を入れる。返りがあれば、末端としてはまだ生きている」
波多野はうなずいた。
「返りがあるのに、中継点まで上がらない場合は」
「途中の道を疑います。木曽谷の件は、そこが問題ですね」
木曽谷。
やはり、そこにつながる。
「では、一度見本を見せます」
三枝主任が、祠の前に立った。
特に大きな動作はしなかった。
印を結ぶわけでもない。
祝詞を唱えるわけでもない。
ただ、手を合わせて少し息を吐いた。
その瞬間、紙垂が小さく揺れた。
遅れて、端末に緑色の表示が出る。
返り:あり。
状態:正常。
「これが呼水です」
簡単そうに見えた。
簡単そうに見えるものほど、だいたい難しい。
「では、波多野さん」
「はい」
波多野は祠の前に立った。
リュックは、訓練区画の外に置いてある。
中であぶさんが黙っている。
神務庁内では、本当に黙っていてほしい。
波多野は、祠を見た。
ごく弱い稲荷系神気を通す。
返りを見る。
それだけ。
入庁時研修では、よく分からない神威を使い、豆電球を点けた。
札を貼った。
風鈴を鳴らした。
どれも、できたような、できていなかったような記憶しかない。
でも、今回は記録される。
三枝主任が見ている。
結果は榊課長へ共有される。
変なことは起こさない。
余計なものは見ない。
聞かない。
ただ、呼水を使う。
波多野は、息を吸って手を合わせた。
祠へ向けて、ごく弱く神気を通す。
そう思った。
何も起きなかった。
紙垂は揺れない。
端末にも表示は出ない。
「もう一度」
三枝主任が言った。
責める声ではなかった。
波多野はもう一度息を吸った。
今度は少し強めに意識した。
神気を通す。
返りを見る。
紙垂が、ほんの少し震えた。
だが、揺れたというより、空調の流れを拾ったような動きだった。
三枝主任が端末を見る。
「反応、微弱。発動未満ですね」
「すみません」
「謝ることではありません。もう一度やりましょう」
波多野は頷いた。
額に汗がにじんだ。
甲。
文句なし。
おそらくポテンシャルはあるのだろう。
しかし、その割に、基礎神威ひとつまともに通らない。
三枝主任の顔にも、わずかな意外さがあった。
失望ではない。
ただ、予想していたものと違う結果を見た顔だった。
「神気量はありそうですが、呼水に乗るまでに少し時間がかかっていますね」
「乗るまで」
「はい。基礎神威に慣れていない人は、こういう出方をします。力みすぎたり、出そうとする方向がずれたり」
波多野は、床の白線を見た。
出そうとする方向がずれる。
それは、何となく分かる気がした。
「力みすぎですか」
「それもあるかもしれません。弱くで構いません。もう一度、やってみましょう」
三枝主任は端末に記録を入れた。
区画の外のリュックが、かすかに動いた。
「承平」
小さな声がした。
三枝主任には聞こえないくらいの声。
「何ですか」
波多野も、ほとんど息だけで返した。
「全部使おうとするな」
「全部?」
「余りでよい」
「余りって」
「今、流れておるものの余りじゃ」
「説明が雑です」
「狐の説明は雑でよい」
よくない。
まったくよくない。
ただ、言葉だけは残った。
余り。
全部使おうとするな。
今、流れているものの余り。
波多野は、祠を見た。
祠を揺らそうとしない。
神気を出そうとしない。
何かを起こそうとしない。
ただ、今、自分の中でどこかへ流れているものがあるとして。
それを全部止めるのではなく、少しだけ横へ分ける。
そんな感じ。
波多野は、息を吸った。
今度は、無理に押し出さなかった。
ほんの少しだけ、流す。
祠の紙垂が、小さく揺れた。
今度は、空調ではなかった。
揺れて、戻る。
そのあと、端末に緑色の表示が出た。
返り:あり。
状態:微弱。
「……通りました」
三枝主任が言った。
波多野は、肩の力が抜けるのを感じた。
「成功ですか」
「成功です。出力は低いですが、呼水としては成立しています」
「低い」
「低いです」
はっきり言われた。
「ただ、発動は確認しました。もう一度、同じようにやってください。それで終了にしましょう」
波多野は頷いた。
もう一度。
今度も、紙垂は小さく揺れた。
返りはあった。
弱い。
でも、あった。
三枝主任は記録を取り、端末を閉じた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
「継続訓練は必要ですね」
「ですよね」
「甲判定と聞いていたので、もう少しすぐ通るかと思っていました」
「すみません」
「謝ることではありません。甲でも、基礎神威に慣れていない人はいます」
三枝主任は端末に記録を入れた。
「今日の記録は、発動確認、出力低、発動までやや時間を要する。継続訓練推奨、ですね」
「はい」
「異常ではありません」
「それは、よかったです」
「よかったかは分かりません」
どちらなのか。
波多野には分からなかった。
***
自席に戻ると、榊課長は特に何も聞かなかった。
ただ、端末に送られてきた訓練記録を読んでいるようだった。
波多野は、通常業務に戻った。
戻ったつもりだった。
木曽谷の件名が、まだ未処理一覧にある。
返り。
中継反応弱。
経路阻害疑い。
言葉が少しだけ分かるようになった。
分かったからといって、何か言えるわけではない。
むしろ、言わない方がいいことが増えた気がした。
午後五時を過ぎる頃、榊課長が缶コーヒーを片付けながら言った。
「波多野さん」
「はい」
「訓練、お疲れさまでした」
「あ、はい。あまりうまくできませんでした」
「発動は確認されています」
「出力低って書かれてませんでした?」
「書かれていました」
隠さない。
「継続訓練で構いません。基礎神威は、使わないと鈍ります」
「分かりました」
榊課長は、少しだけ間を置いた。
「体調に変化があれば報告してください」
「大丈夫です」
「なら、いいです」
それ以上は言われなかった。
波多野は、少しだけ助かった気がした。
***
帰宅すると、部屋の空気が少し熱を持っていた。
波多野はエアコンをつけ、リュックを床に下ろした。
あぶさんが中から出てくる。
大きく伸びをして、最初に言った。
「下手じゃったのう」
「帰って最初に言うことですか」
「事実じゃ」
「甲って言われた割に、全然でした」
波多野は床に座り込んだ。
思ったより疲れていた。
呼水は、ほんの少し紙垂を揺らしただけだ。
それなのに、妙に消耗している。
「僕、向いてないんですかね」
「何にじゃ」
「神威です」
「向いとるじゃろ」
「今日の見てました?」
「見ておった」
「じゃあ、向いてないでしょう」
あぶさんは、尻尾を揺らした。
「当然じゃ」
「当然?」
「おぬしは、呼水を出す前に、返りを聞いておる」
波多野は、顔を上げた。
「返り」
「呼水は、弱く流して、返りを見る神威じゃ」
「それは今日聞きました」
「おぬしは、流す前から聞いとる」
「……どういう意味ですか」
あぶさんは、部屋の真ん中に座った。
珍しく、少し真面目な顔をしていた。
「迷った声。届かん声。残った声。そういうものへ、おぬしは勝手に耳を伸ばしておる」
「勝手に」
「うむ」
「それが、呼水の邪魔をしてるんですか」
「邪魔ではない。使っておるのじゃ」
「何を」
「おぬしの中の流れを」
波多野は、訓練場で三枝主任が言った言葉を思い出した。
出そうとする方向がずれる。
力みすぎ。
基礎神威に慣れていない人は、こういう出方をする。
三枝主任は、そう言った。
だが、あぶさんの言い方は違った。
慣れていないのではない。
もう使っている。
「それは、あぶさんとの契約のせいですか」
「わし一匹に、そんなに使うか」
「使わないんですか」
「おぬしの器なら、わしを連れて歩くくらいは大したことではない」
あぶさんは鼻を鳴らした。
「問題は、わしではない。おぬしが聞いておるものじゃ」
「僕が聞いているもの」
「INARIは、稲荷の網に人間が触れるよう薄めたものじゃ。呼水に似たものを流し、返ってくるものを集め、人間が見ても壊れぬように、色にし、数字にし、画面にする」
波多野は黙って聞いた。
「じゃが、網そのものは違う」
「違う」
「薄めておらん。丸めておらん。隠しておらん」
「それを、僕が聞いてるんですか」
「ごく少しな」
「ごく少し」
「そうでなければ、今ごろ倒れておる」
あぶさんは、そう言った。
波多野は、少し笑おうとして、笑えなかった。
「稲荷の網って、そんなにすごいんですか」
「見るか」
何でもないことのように、あぶさんが言った。
波多野は、一瞬迷った。
やめた方がいい。
そう思った。
でも、聞いてしまった。
「少しだけなら」
あぶさんは、波多野を見た。
「少しだけじゃ」
「はい」
「中には入らん。覗くだけじゃ」
「分かりました」
本当は、何も分かっていなかった。
あぶさんが、波多野の膝に前足を置いた。
白い毛が、少しだけ光ったように見えた。
次の瞬間。
音が消えた。
いや、違う。
音が多すぎて、消えたように感じた。
最初に来たのは、鈴の音だった。
どこかの小さな祠。
朝の商店街。
油揚げの匂い。
雨に濡れた赤い鳥居。
ビルの屋上にある小さな社。
工場の隅。
古い家の台所。
神棚の水。
埃をかぶった狐の置物。
誰も来なくなった祠。
毎朝来る老婆の手。
小学生のランドセル。
閉店した店の奥。
山の集落の石祠。
道路脇に移された小さな祠。
お願いします。
売れますように。
治りますように。
帰ってきますように。
受かりますように。
守ってください。
忘れないでください。
ここにいます。
ここにいました。
まだ、います。
声だった。
声ではなかった。
言葉になる前のもの。
願いになる前のもの。
祈りになったあとの残り。
もう誰も言っていないのに、まだ残っている形。
それが、一度に来た。
多すぎる。
近い。
遠い。
古い。
新しい。
誰のものか分からない。
けれど、誰かのものだと分かる。
波多野は息を吸おうとした。
吸えなかった。
胃が、ひっくり返った。
喉が勝手に開いた。
「あ」
声を出すより先に、身体が動いた。
波多野は床に手をつき、そのまま吐いた。
昼に食べたものと、胃液と、涙が混じった。
目の奥が熱い。
耳の奥で、まだ鈴が鳴っている。
「承平」
あぶさんの声が、遠かった。
「承平、戻れ」
戻る。
どこへ。
自分の部屋。
エアコンの音。
床。
吐いた匂い。
あぶさんの白い毛。
本棚の上に座る、みよ。
波多野は、ようやく息を吸った。
視界が揺れている。
「……今のが」
声がかすれた。
「稲荷の網ですか」
あぶさんは、少し黙った。
それから言った。
「入口じゃ」
「入口」
「中には入っておらん。覗いただけじゃ」
波多野は、床に伏せたまま笑った。
笑ったつもりだった。
たぶん、うまく笑えていなかった。
「……あれで?」
「うむ」
あぶさんの声は、いつもより少しだけ低かった。
波多野は、もう一度目を閉じた。
まだ、耳の奥に声が残っている。
お願いします。
忘れないで。
ここにいます。
INARIネットワークは、それを人間が扱える形に落としたもの。
色。
数字。
ログ。
報告書。
A4の資料。
神務庁は、たぶん正しい。
正しくなければ、人間はあれを扱えない。
波多野は、床に頬をつけたまま思った。
それでも。
あれは、数字になる前には、声だった。
「承平」
あぶさんが言った。
「今日はもう寝よ」
「……片付けが先です」
「人間は大変じゃのう」
本当にそう思う。
波多野は、震える手でティッシュを取った。
本棚の上で、みよは黙って座っていた。
返事はない。
その静けさが、今だけはありがたかった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は「呼水」という稲荷系の基礎神威の話でした。
神気反応があることと、その祠や末端が今も稲荷の網に返りを返せることは別、という整理です。
波多野は甲判定ですが、だからといって何でも簡単にできるわけではありません。
むしろ、別のところにリソースを使っているせいで、普通の基礎神威がうまくいかないこともあります。
次回も神務庁の日常業務を進めつつ、少しずつ波多野の異常性が見えてくる予定です。
よければ感想・ブックマークなどいただけると大変嬉しいです!!




