第6話 菅野長官
第6話です。
今回は少し視点を変えて、神務庁の上の方のお話です。
波多野本人はあまり出ませんが、神務庁という役所がどういう理屈で動いているのか、少し見える回になっています。
菅野長官、登場です。
第6話 菅野長官
神務庁長官室の机には、紙が積まれていた。
紙、と呼ぶには量が多すぎた。
来年度概算要求に関する庁内調整資料。
特殊収蔵区画の増設要求。
呪具呪物管理課の保管状況一覧。
財務省向け説明資料案。
与党部会用の概要ペーパー。
国会想定問答。
七月下旬。
神務庁にとって、それは怪異よりも数字が怖くなる季節だった。
神も、祟りも、呪物も、結界も、封緘箱も、すべて予算の上に乗っている。
予算に乗せるためには、理由がいる。
理由には、数字がいる。
数字には、根拠がいる。
根拠のない祈りは、祈りとして扱える。
だが、根拠のない要求は、財務省で落ちる。
長官室には、三人の幹部職員がいた。
総務局長。
神務資料管理局長。
そして、呪具呪物管理課長。
議題は、特殊収蔵区画の増設要求である。
神務庁長官、菅野正継は、机上の資料を一枚めくった。
その頭頂部を、紫がかった細い火花が走った。
バチ、と音がした。
長官室にいた職員は、誰もそれを見なかったことにした。
見えていないわけではない。
見えている。
だが、見たところで何かが改善するわけではなかった。
菅野は五十代後半の男である。
背は高くない。
体格も目立つほどではない。
ただし、椅子に座っているだけで、部屋の温度を少し下げるような圧があった。
髪はほとんどない。
そのため、頭頂部に走る紫電がよく見えた。
菅野本人は、そのことに一切触れない。
周囲も触れない。
神務庁には、触れてよい怪異と、触れてはいけない現実がある。
菅野正継が優秀であることを、神務庁の職員は誰も疑っていなかった。
疑っていないからこそ、長官室に呼ばれるのが嫌だった。
理不尽なら、心の中で反論できる。
現場を知らない上司なら、廊下に出た後で愚痴も言える。
だが、菅野は知っている。
現場の事情も、制度の限界も、財務省が突いてくる箇所も、議員が気にする事故の芽も、国会で燃える言葉も、たいてい先に見えている。
だから、逃げ場がない。
「特殊収蔵区画の使用率、九十一パーセント」
菅野は資料の一行を指で押さえた。
「前年度比八ポイント増。増加要因は、物件数増加、再評価未了物件の滞留、地方返送不能物件の増加。資料にはそう書いてあります」
「はい」
答えたのは、神務資料管理局長だった。
神務資料管理局は、特殊収蔵区画、呪具呪物管理、封緘物件の記録、再評価待ち物件の管理などを束ねる局である。
地下二階の厚い防火扉に掲げられている局名も、そこだった。
「では、聞きます」
菅野は資料を置いた。
「この三つは、同じ原因ですか」
神務資料管理局長は、一瞬、言葉を止めた。
「……同じではありません」
「そうですよね」
菅野の頭頂部を、紫がかった火花が細く走った。
「物件そのものが増えたのか。再評価が遅れているのか。地方へ返せない事情があるのか。それぞれ必要な手当てが違います。棚を増やす理由として一括りにするには、分析が粗い」
長官室が静かになった。
「もっとよく考えてください」
菅野は、資料の端を指先で揃えた。
「私すら納得させられないで、財務省は納得しません」
バチ、と火花が鳴った。
呪具呪物管理課長が、手元の資料をめくった。
「内訳は、別紙に整理しております」
「見ました」
菅野は言った。
「封緘済み物件と再評価未了物件が、同じ欄に入っています。地方返送予定と返送不能物件も混ざっている。現場で同じ棚にあることと、行政上同じ分類で扱えることは、同じですか」
「違います」
「そうですよね」
菅野は資料を一枚戻した。
「再評価未了の最長は」
呪具呪物管理課長が答える。
「四年二か月です」
バチ、と音がした。
今度は少し大きかった。
「再評価予定日は」
「当初は三か月後に設定されていました」
「再評価は」
「未実施です」
「理由は」
「担当者の異動と、類似物件の増加により、優先順位が」
「それは理由になりますか」
呪具呪物管理課長は、言葉を止めた。
菅野は続けた。
「担当者が異動した。類似物件が増えた。優先順位が下がった。そこまでは事情です。私が聞いているのは、三か月後に再評価予定と記録された物件が、なぜ四年二か月そのままになったのかです」
「管理漏れです」
「はい」
菅野は短く頷いた。
「その言葉を最初から使ってください。再評価未了を、収蔵能力不足と言い換えないでください。言い換えると、責任の所在が消えます」
「申し訳ありません」
「謝罪は要求資料に載りません」
菅野は言った。
「封緘は処理ではありません。一時停止です。再評価予定が守られなければ、それは封緘ではなく放置です」
「はい」
「放置を、収蔵能力不足に混ぜないでください。財務省には説明できませんし、国会でも答えられません」
総務局長が、静かにメモを取った。
「財務省は金を見ます。議員は事故を見ます。国会は責任を見ます。同じ資料で全部説明できると思わないでください」
「はい」
菅野は次の資料を取った。
その動きに、呪具呪物管理課長が一瞬だけ安堵した。
だが、その安堵は早かった。
「棚を増やす要求は、分かりました」
菅野は言った。
「では、棚に入れない方法は検討しましたか」
神務資料管理局長が顔を上げた。
「危険物件の本庁収蔵を減らす、という意味でしょうか」
「それもあります。ただ、今聞いているのは別です」
菅野は資料をめくった。
「照会、鑑定、正式受入、封緘、再評価。その流れのうち、正式受入前に終わるものがどれだけあるかです」
長官室に、わずかな沈黙が落ちた。
「通常は、ほとんどありません」
呪具呪物管理課長が答えた。
「鑑定後、所有者意思の確認を経て、封緘、協力神社への処理案内、または正式受入の検討に進みます」
「ほとんど、ということは、例外がありますね」
菅野は資料から目を上げた。
呪具呪物管理課長は、一度だけ総務局長の方を見た。
総務局長は何も言わなかった。
「最近では、昨日、一件だけ」
「説明してください」
「庁内照会物件として持ち込まれた市松人形です。正式受入なし、占有移転なし。鑑定のみの案件でした」
「鑑定のみ」
「はい」
「続けてください」
「夢干渉、位置改変、帰還性の反応がありました。鑑定中、持参者が対象物件の名称と思われる言葉を呼びかけています。その後、各反応が消失しました」
「処理は」
「していません。鑑定中の反応消失です」
菅野は、しばらく黙った。
頭頂部に、細い紫電が走る。
バチ、バチ、と二度鳴った。
「記録上は、何と」
「担当技官は、解除確認と記録しています」
「庁として確認したのですか」
「していません。担当者の報告です」
「では、解除確認という表現は強いですね」
「はい」
菅野は資料の余白に、赤いペン先を置いた。
「鑑定のみの照会物件です。庁は処理していない。けれど反応は消失している。解除と書けば、処理したように見えます。未処理と書けば、反応消失の事実が落ちます」
菅野は、短く書き込んだ。
庁内照会物件における鑑定中反応消失。
「少なくとも、今回はそう分けて記録してください」
「はい」
「持参者は」
「神務情報基盤局INARI運用課、波多野承平です」
菅野の指が、一瞬だけ止まった。
「若手職員が照会物件を持ち込むこと自体は、珍しくありませんね」
「はい」
「所有者ではない職員が、持参者になることもあります」
「あります」
「問題はそこではありません」
菅野は言った。
「鑑定のみの物件が、持参者の発話後に反応消失している。そこです」
「はい」
「庁舎結界の反応は」
「ありません」
「INARIネットワーク側の異常ログは」
「確認されていません」
「未登録神威の発動記録は」
「ありません」
「では、現時点で本人を呼ぶ理由はありません」
菅野は、そう言って資料を閉じた。
神務資料管理局長が尋ねる。
「記録だけでよろしいですか」
「はい」
菅野は赤いペンを取った。
「一件では偶発です。二件なら傾向です。三件なら制度の話になります」
資料の余白に、短く書き込む。
『次回関与案件、要記録』
「その波多野という職員が次に関与した照会物件、鑑定物件、処理物件を記録してください。本人には伝えなくて結構です。余計な自覚は、観測値を歪めます」
「承知しました」
「それと」
菅野は、もう一度、分類表を見た。
「その市松人形は、正式受入していないのですね」
「はい」
「では、棚は使っていない」
「使っていません」
「よろしい」
よろしい、と言われたにもかかわらず、呪具呪物管理課長の表情は少しも緩まなかった。
その案件は棚を使わなかった。
だが、棚を使わない物件を増やす仕組みは、まだ存在しない。
存在しない仕組みは、予算要求に載らない。
予算要求に載らないものは、人員も、手順も、時間もつかない。
菅野は、そこまで見ていた。
「正式受入前に終わる物件の類型化は、今後検討してください」
「はい」
「ただし、今回の概算要求には載せません。根拠が一件では弱すぎます」
「承知しました」
「次を見ます」
三人の幹部職員が退室した後、長官室には紙の音だけが残った。
菅野は、次の資料に目を落とす。
財務省向け説明資料。
特殊収蔵区画の増設要求。
封緘箱の単価。
地方支部からの要望。
再評価未了物件の一覧。
どれも、神の話には見えない。
どれも、祈りの話には見えない。
だが、神務庁の仕事は、そういうものだった。
祈りを、紙にする。
怪異を、分類にする。
畏れを、予算にする。
そして、予算に載せたものを、責任に変える。
菅野は、それを嫌ってはいなかった。
ただ、整理されていないものが嫌いだった。
存在するなら、分類する。
分類したなら、記録する。
記録したなら、処理方針を決める。
決めたなら、期限を置く。
期限を置いたなら、守る。
神であろうと、祟りであろうと、怨霊であろうと、そこは同じだった。
***
その頃、波多野承平は、神務庁の廊下を歩いていた。
手には、庁内の売店で買った紙パックのコーヒー。
市松人形の件は、ひとまず終わった。
少なくとも、波多野はそう思っていた。
足元で、白狐のあぶさんが、ふと耳を動かした。
「……天神か」
「何が」
波多野は、気の抜けた声で返した。
あぶさんは、すぐには答えなかった。
廊下の奥。
上階へ続く階段の方角。
そこから、音も匂いもない何かが、薄く降りてきている。
「人が拝んで、神になったものじゃ」
「へえ」
「へえ、ではない」
あぶさんは、珍しく波多野を見上げた。
いつもの軽口が、少しだけ消えていた。
「おぬし、妙なものに名を拾われたのう」
「何が」
波多野は、また同じ調子で返した。
あぶさんは、それ以上説明しなかった。
波多野はまだ、自分の名前が長官室の資料に書かれたことを知らない。
ただ、神務庁という役所のどこかで、静かに一行が増えた。
次回関与案件、要記録。
お読みいただきありがとうございます。
今回は菅野長官回でした。
神様や呪物を扱っていても、役所である以上、予算、分類、記録、責任からは逃げられません。
今回は難しい話になったので、次回は少し波多野とあぶさんに戻って、休日を過ごそうと思います。
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