表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
タカマガハラの神務官 〜神の力を使うのに必要なのは祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

第7話 白狐、散歩する

第7話です。


今回は少し寄り道のようなお話です。


事件も、戦いも、大きな怪異も出てきません。


ただ、夏の日に歩いて、食べて、昔の声を聞く話です。


葛飾や柴又を知っている方には懐かしく、知らない方にもどこか懐かしく感じていただけたら嬉しいです。

第7話 白狐、散歩する



休日の朝、波多野承平は、自分の部屋の隅を見ないようにしていた。


見ないようにしている時点で、かなり見ている。


部屋の一角、本棚の上には、古い桐箱が置かれていた。


市松人形のみよである。


神務庁に置いて帰ることはできなかった。


正式受入なし。

占有移転なし。

処分なし。

鑑定のみ。


理屈は分かる。


分かるが、休日の朝、自分の部屋に市松人形がいるという事実は、理屈とは別の場所に座っていた。


「気になるなら、外へ出ればよかろう」


足元で、あぶさんが言った。


白い狐は、畳の上で腹ばいになっている。


暑いのか、尻尾がいつもより少し投げやりだった。


「気にしてません」

「では、なぜさっきから数分に一度見ておる」

「見張ってるんです」

「気にしておるではないか」


正論だった。


七月の休日。


窓の外は、腹が立つほど晴れていた。


古いアパートの薄いカーテン越しにも、夏の光が容赦なく差し込んでくる。


エアコンはついている。


だが、窓の向こうにある熱そのものが、部屋の中まで圧をかけてくるようだった。


「外は暑いですよ」

「知っておる」

「じゃあ、なんで出たがるんですか」

「良い天気だからじゃ」

「良い天気だから暑いんですよ」


あぶさんは、まるで聞いていない顔で耳を揺らした。


「散歩へ行くぞ」

「僕の休日なんですけど」

「わしの休日でもある」

「あぶさん、毎日休日でしょう」

「失礼な。使いにも務めはある」

「どんな?」

「油揚げを食う」

「それは務めじゃないでしょう」

「では、今日の務めは散歩じゃ」


会話にならなかった。


波多野はため息をつき、もう一度だけ本棚の上を見た。


桐箱は、朝の光の中で静かに置かれている。


先週までそこになかったものが、今日はそこにある。


それだけのことなのに、部屋の空気が少し変わっていた。


怖い、というのとは少し違う。


気になる。


放っておけない。


それに近かった。


「……まあ、少し歩きますか」


波多野が言うと、あぶさんはすぐに立ち上がった。


「うむ」

「最初からそのつもりでしたよね」

「おぬしが自分で決めるのを待っておった」

「ものは言いようですね」


財布とスマホをポケットに入れ、波多野は玄関へ向かった。


靴を履く。


その時だった。


背中の方で、かすかに声がした気がした。


 「いってらっしゃい。」


波多野は振り返った。


本棚の上には、古い桐箱があるだけだった。


市松人形は、もう夢に出ない。


位置も変えない。


帰ってもこない。


神務庁の鑑定では、反応は消失している。


解除は確認された。少なくともそう記録されている。


「……今、何か言いました?」

「わしではない」


あぶさんは当然のように答えた。


「解除、したんですよね」

「した」

「じゃあ、今のは」

「ただの家の声じゃ」

「家の声?」

「物も、人も、置かれれば家の一部になる」


あぶさんは玄関先で、白い尻尾を揺らした。


「祟りではない。呪いでもない。ただ、そこにあるものが、おぬしを見送っただけじゃ」


波多野はもう一度、本棚の上を見た。


桐箱は、何も言わない。


ただ、そこにある。


しばらく迷ってから、波多野は靴を脱いだ。


「何をしておる」

「いや」


本棚の上から桐箱を下ろす。


蓋に手をかけると、少しだけ躊躇した。


それでも、開けた。


中には、市松人形のみよがいた。


黒い髪。

白い顔。

赤い着物。


この前までは、目が合うだけで少し背筋が冷えた。


けれど今は、不思議とそうでもなかった。


波多野はみよをそっと持ち上げ、本棚の上に座らせた。


桐箱は、その横に置いた。


「……箱の中だと、見送れないでしょう」

「律儀なやつじゃのう」


波多野は、あぶさんを無視してもう一度みよを見た。


人形は何も言わない。


ただ、朝の光の中で、静かに座っている。


「……いってきます」


小さく言ってから、波多野はドアを開けた。


夏の光が、廊下にあふれた。




     ***




アパートを出ると、夏の空気がすぐに肌へまとわりついた。


波多野の住む葛飾区は、東京二十三区の東の端にある。


東京と聞いて人が想像する景色とは、少し違う。


高層ビルはほとんどない。


昭和で時が止まったような一戸建てが、令和の顔をした建売住宅の隣に普通に立っている。


古い商店街も残っている。


再開発の話は時々聞くが、だいたい予定通りには進まない。


そんな町だった。


波多野が住んでいるのは、素行の悪い警官で有名な街と、素行の悪いテキ屋で有名な街の間くらいの場所である。


素行は悪くても日本中で愛される人たちだ。


波多野の部屋は、学生時代に家賃の安さで選んだ部屋だった。


ただ、霞が関まで四十分もかからない。


引っ越す理由がないまま、今に至っている。


波多野は外階段を下りながら、足元のあぶさんを見た。


「柴又方面、行きますか」

「柴又」


あぶさんの耳が動いた。


「知ってるんですか」

「当たり前じゃ。稲荷を何だと思っておる」

「油揚げにうるさい狐」

「おぬし、だんだん遠慮がなくなってきたな」

「同居人なので」

「同居狐じゃ」

「そこはこだわるんですね」


青砥の駅を抜ける。


夏の風はぬるかった。それでも、部屋の中にいるよりは少しましだった。


環状七号を越えると、車の音が一段遠くなる。


中川にかかる橋へ上がると、風が変わった。


川面から、少しだけ潮っぽいにおいがした。


海は近くない。


けれど、川はどこかで海へ続いている。


そう思わせる匂いだった。


少し離れた鉄橋を、京成線が走っていく。


車輪の音が、夏の空に細く響いた。


橋の上では、釣竿を持った親子とすれ違った。


父親が竿を肩に担ぎ、子どもが小さなバケツを持っている。


少し後ろから、犬を連れた女性が歩いてきた。


犬はあぶさんの方を見た。


見た、ような気がした。


しかし吠えなかった。


ただ、不思議そうに首をかしげて、そのまま歩いていった。


「あの犬、見えてましたね」

「犬だからな」

「犬だと見えるんですか」

「犬にもよる」

「人間と同じですね」


波多野は欄干に手を置き、少しだけ中川を見た。


水は、きれいとは言いがたい。


それでも、町の真ん中を流れる川としては、妙に落ち着きがあった。


「中川は、町の川って感じがするんですよ」

「ほう」

「江戸川は、空の川です」

「まだ行ってもおらんのに、もう江戸川の話か」

「好きなんですよ」

「中川が拗ねるぞ」

「川って拗ねるんですか」

「拗ねる」

「見たことあるんですか」

「ある」

「どんな感じです」

「氾濫する」

「それは拗ねてるんじゃなくて災害でしょう」

「細かい」


あぶさんは、悪びれもせず尻尾を揺らした。


橋を渡り終えると、町の空気が少し変わった。


川を越えるだけで、町は少しだけ別の顔になる。


しばらく歩くと、踏切が見えてきた。


有名な開かずの踏切だった。


遮断機は、ちょうど下りていた。


「……出た」


波多野は足を止めた。


「何じゃ」

「開かずの踏切です」

「開かず」

「ひどい時は、一時間のうち五十分近く閉まってます」


あぶさんは、遮断機をじっと見た。


「それは踏切ではない」

「何です?」

「結界じゃ」

「踏切です」


波多野は少し考えて、諦めた。


「……もう、それでいいです」


遮断機の向こうを、電車が一本通り過ぎた。


ようやく上がるかと思ったら、すぐに反対側の警報音が鳴る。


遮断機は上がらない。


「強力じゃのう」

「感心するところじゃないです」

「神務庁は動かんのか」

「神務庁は踏切担当じゃないです」

「縦割りじゃな」

「担当外です」


波多野は、夏の日差しの下で、しばらく踏切が開くのを待つことになった。


ようやく遮断機が上がった。


「勝った」

「勝ち負けなんですか」

「結界を越えた」

「踏切です」


波多野は、半分だけ言い返してから歩き出した。


線路を越えると、町の空気が少しだけ変わった。


古い住宅街の中に、観光客らしい人影がぽつりぽつりと混じり始める。


日傘を差した女性。


カメラを首から下げた年配の男性。


大きなリュックを背負い、スマホの地図を見ながら歩く外国人の二人組。


柴又が近い。


町が、少しだけよそ行きの顔をし始めていた。


その途中で、あぶさんが足を止めた。


「どうしました」

「あれじゃ」


あぶさんが鼻先で示した先に、小さな朱色が見えた。


住宅と住宅の間。


自転車置き場の脇。


見ようとしなければ、通り過ぎてしまうような場所に、小さな稲荷があった。


屋根はきれいな朱色で、木の柱はまだ新しい。


けれど、どこか町に馴染んでいる。


小さな狐の像が二つ並び、その手前には水のペットボトルが置かれていた。


隅には、ワンカップ酒の空き瓶が一本寄せてある。


「……お酒ですか」

「供えたのじゃろう」

「誰が」

「酔っ払いではないか」

「雑ですね」

「酔っ払いの祈りも、祈りは祈りじゃ」


波多野は少しだけ笑った。


誰かが世話をしている。


少なくとも、忘れられてはいない。


狐の像の片方が、わずかに傾いていた。


倒れているわけではない。


ただ、少しだけ斜めになっている。


波多野はしゃがみ込んだ。


「これ、直していいんですかね」

「知らん」

「知らないんですか」

「人間の持ち物じゃ。触るならおぬしが考えろ」

「神様側の意見は」

「傾いておるよりは、真っ直ぐの方がよかろう」

「雑ですね」

「大事なことは大抵雑じゃ」


波多野は少し迷い、狐の像に軽く頭を下げた。


「すみません。ちょっとだけ直します」


両手でそっと持ち、台座の上で向きを整える。


置き直した瞬間、祠のまわりの空気が少しだけ落ち着いたような気がした。


「……気のせいですかね」

「気のせいかもしれん」

「あぶさんが言うと信用できないんですよ」

「信用せんでよい」


あぶさんは小さな稲荷を見上げた。


「ここにも、あぶさんみたいなのがいるんですか」

「おることもある」

「今日は?」

「留守じゃな」

「神様の使いも留守にするんですか」

「人間の交番にも巡回があるじゃろ」

「急に行政っぽいですね」

「稲荷は働き者じゃからな」

「じゃあ、あぶさんは」

「散歩中じゃ」

「職務放棄では」

「視察じゃ」

「便利な言葉ですね」


あぶさんは答えず、尻尾を揺らした。


波多野はもう一度、小さな稲荷を見た。


水のペットボトル。

ワンカップ酒の空き瓶。

真っ直ぐになった狐の像。


正式な祭祀ではない。


けれど、たぶん誰かが、ここを気にしている。


「後で、何か買ってきます」

「油揚げか」

「お供え用ですよ」

「分かっておる」


絶対に分かっていない顔だった。


小さな稲荷を後にして、波多野たちは柴又へ向かった。


道の先から、人の声が少しずつ増えてくる。


団子の甘い匂い。

煎餅の焼ける匂い。


やがて、参道の入口が見えた。


「着きました」

「ふむ」


柴又だ。


あぶさんは、参道の方を見た。


古い店先の声と、新しい観光客の声が、夏の空気の中でゆっくり混ざっている。


「にぎやかじゃな」

「休日ですからね」

「悪くない」

「まだ何も食べてないのに?」

「食べる前から分かることもある」

「ただお腹空いてるだけでしょう」


あぶさんは答えなかった。




***




参道へ入ろうとしたところで、あぶさんがぴたりと足を止めた。


「どうしました」

「匂う」

「何がですか」

「おでんじゃ」


あぶさんは参道ではなく、少し横の道を見ていた。


「参道はこっちですよ」

「おでんはあっちじゃ」

「柴又へ来たんですよね」

「柴又に来たから、おでんを食うのじゃ」

「理屈が雑です」

「大事なことは大抵雑じゃ」

「またそれですか」


結局、波多野はあぶさんに押される形で少し横道へそれた。


店先では、鍋から湯気が上がっている。


大根、玉子、こんにゃく、ちくわ。


そして厚揚げ。


あぶさんの目が、分かりやすく細くなった。


「厚揚げですね」

「うむ」

「お供え用も買いますからね」

「うむ」

「全部食べないでくださいね」

「善処する」

「食べる気だ」


波多野は厚揚げをいくつか買い、紙袋に入れてもらった。


それから参道へ戻る。


団子屋の店先には、人が並んでいた。


甘いあんこの匂いが、夏の空気に混じっている。


波多野は草団子も買った。


「河川敷で食べますか」

「よい」

「即答ですね」

「食べ物の判断は早い方がよい」


参道を歩く。


店先には、古い映画のポスターが貼られていた。


帽子をかぶった男が、少し照れたような顔で笑っている。


波多野は足を止めた。


「これ、昔の映画なんですけど」

「知っておる」

「知ってるんですか」

「床屋にポスターがあった」

「床屋情報、多いですね」


波多野はポスターを見たまま、少しだけ笑った。


「何年か前にサブスクで一作目を見た時、思ったんですよ」

「何をじゃ」

「江戸川の河川敷、全然変わってないなって」


店も、人も、車も、服装も、もちろん変わっている。


けれど、あの土手と、川と、広い空は、映像の中でも今でもあまり変わらない。


少なくとも、波多野にはそう見えた。


「五十年以上前なのにですよ」

「川じゃからな」

「それで片づけます?」

「片づくものは片づけた方がよい」

「神務庁に聞かせたい言葉ですね」

「やめておけ。余計な資料が増える」


波多野は笑い、参道を進んだ。


帝釈天の境内に入ると、空気が少し変わった。


線香の匂い。

手を合わせる人。

木陰。

石畳。


あぶさんは珍しく、少しだけ黙っていた。


「何かあるんですか」

「ここは、わしの管轄ではない」

「管轄」

「余計なことは言わん」

「賢明ですね」


境内を抜け、土手へ向かう。


階段を上がると、視界が急に開けた。


江戸川だった。


空が広い。


川幅も広い。


風が、町の中とは違う速さで吹いていた。


波多野は土手の上で、少しだけ立ち止まった。


「やっぱり、ここはいいですね」

「江戸川か」

「はい」


中川は、町の中を流れている。


江戸川は、町の外側にある。


ここに立つと、少しだけ東京から外に出たような気がする。


実際には、まだ東京にいる。


それでも、空が広いだけで、人間は案外だまされる。


「単純じゃのう」

「今、心読んでません?」

「顔に出ておる」


波多野は河川敷へ降りた。


野球をしている子どもたちがいる。


犬を散歩させる人がいる。


自転車が土手の上を通っていく。


五十年前の映画の中でも、たぶん誰かが同じように川を見ていた。


そう思うと、少しだけ不思議だった。


河川敷の草の上に腰を下ろし、波多野は紙袋を開けた。


厚揚げの入った包み。

草団子の箱。


それだけで、休日としてはかなり上等だった。


「先に厚揚げですか」

「当然じゃ」


波多野が厚揚げをひとつ取り出すと、あぶさんは満足そうに目を細めた。


「熱くないですか」

「この程度で使いが怯むか」

「舌、ありますよね」

「ある」

「じゃあ気をつけてください」

「母親か」

「同居人です」

「同居狐じゃ」


あぶさんは厚揚げをかじった。


江戸川の風が、紙袋をかさかさと鳴らす。


波多野も団子をひとつ口に入れた。


甘い。

少ししょっぱい。


昔からある味、という気がした。


実際に昔から同じなのかは分からない。


でも、そう思わせる味だった。


しばらく、二人とも黙っていた。


少し川上に、とんがり帽子の取水塔が見える。


土手の上を自転車が通り過ぎる。


野球をしていた子どもたちの声が、風に乗って少し遅れて届く。


「こういうのも、悪くないですね」


「何がじゃ」

「ただ座って、食べて、川を見るだけです」

「悪いはずがない」

「断言しますね」

「飯を食って、風に当たって、空を見る。神も人も、だいたいそれで機嫌が直る」

「神様、意外と単純ですね」

「人間ほど面倒ではない」

「人間も、そんなに面倒じゃないですよ」


あぶさんは、少しだけ波多野を見た。


「そうかのう」

「少なくとも、今日は」


そう言って、波多野は江戸川を見た。


川はゆっくり流れている。


五十年前の映画にも、似たような風が吹いていたのだろうか。


そんなことを考えていると、ふと、耳の奥で声がした。

 

 ――変わったなあ。


波多野は顔を上げた。


周囲には、誰もいない。


いや、人はいる。


野球をする子どもたち。


犬を連れた人。


土手を歩く夫婦。


けれど、今の声の主は、その誰でもない気がした。


「あぶさん」

「聞こえたか」

「聞こえました」


あぶさんは驚かなかった。


厚揚げの残りを咥えたまま、川の方を見ている。


「最初から聞こえてたんですか」

「少し前からな」

「言ってくださいよ」

「この町は声が多い。全部に返事をしていたら、日が暮れる」

「もう夕方ですよ」

「では、夜が明ける」


波多野は返す言葉をなくした。


声は、もう一度聞こえた。


 ――店も変わった。

 ――人も変わった。

 ――顔も、言葉も、着るものも。


男の声のようでもあり、女の声のようでもあった。


年寄りの声にも聞こえたし、町そのものがため息をついているようにも聞こえた。


助けてくれ、ではない。


恨んでいる、でもない。


ただ、昔の景色を思い出している声だった。


「……昔の方が、よかったんですかね」


波多野は、誰にともなく言った。


声は少し黙った。


それから、ぽつりと答えた。


 ――にぎやかだった。


波多野は、参道を思い出した。


団子屋の列。

煎餅の匂い。

スマホで写真を撮る家族連れ。

外国人の二人組。

古い映画のポスター。


「今日も、結構にぎやかでしたよ」

 ――違う。

「違いますか」

 ――違うなあ。


その声には、怒りはなかった。


だからこそ、少し切なかった。


波多野は草の上に座ったまま、川の向こうを見た。


取水塔が、夕方の光の中に立っている。


とんがり帽子のような屋根。


昔の映画の中でも、似たように立っていた塔。


「まあ、五十年も経てば、違いますよ」


波多野は言った。


「人も、店も、服も、車も」


風が吹いた。


草団子の箱が少し動いた。


「でも、なくなってはいないです」


 ――なくなっていない。


「川はあります」


 ――あるな。


「渡し舟もあります」


 ――ある。


「帝釈天もあります」


 ――あるなあ。


「団子屋もあります」


 ――ある。


「うなぎ屋もあります」


少しだけ間があった。


それから、声がどこか嬉しそうに言った。


 ――あるなあ。


波多野は少し笑った。


「新しい店も増えました」


 ――そうか。


「はい」


 ――そうか。


声は、しばらく黙った。


江戸川の風だけが吹いている。


あぶさんは、何も言わなかった。


波多野は続けた。


「昔と同じじゃないです」


声は聞いていた。


「でも、たぶん、ここを好きな人はまだいます」


土手を、自転車に乗った子どもが走っていく。


その後ろを、父親らしい男がゆっくり追いかけていた。


「今日も誰かがここを歩いて、団子を食べて、写真を撮って、手を合わせて、また来ようって思ってます」


言ってから、少し恥ずかしくなった。


自分でも、少し大げさだと思った。


けれど、声は笑わなかった。


ただ、ゆっくりと、


 ――思ったより、残っているな。


と言った。


「そうですね」


波多野は、川を見た。

「結構、残ってます」


その声は、それきり聞こえなくなった。


消えたのか。


満足したのか。


ただ、もう喋る必要がなくなっただけなのか。


波多野には分からない。


分からないが、江戸川の風は、さっきより少しだけ涼しかった。


「こういうのも、神務庁の仕事なんですかね」


波多野が聞くと、あぶさんは鼻を鳴らした。


「知らん」

「ですよね」

「だが、記録にも残らん。危険度もない。被害もない。予算もつかん」

「言い方が急に役所ですね」

「おぬしらの役所なら、そう言うじゃろう」

「まあ、言いますね」


あぶさんは、最後の厚揚げを見た。


「だが、声はした」

「はい」

「なら、聞いた者が返事をすればよい」


波多野は、残っていた厚揚げを小さく分けた。


「これ、帰りにさっきのお稲荷さんへ置きましょう」

「全部か」

「全部じゃないです」

「少しならよい」

「供える側の発言じゃないですね」


あぶさんは、何も聞こえないふりをした。


帰り道、波多野は約束どおり、小さな稲荷に厚揚げを少し供えた。


あぶさんは最後まで名残惜しそうに見ていた。


「供え物です」

「分かっておる」

「目が分かってないです」

それだけ言って、二人はまた歩き出した。


開かずの踏切を越え、中川を渡り、アパートへ戻る頃には、空はすっかり夕方の色になっていた。


部屋に入ると、本棚の上で、みよが朝と同じように座っていた。


黒い髪。

白い顔。

赤い着物。

何も動いていない。

何も変わっていない。


けれど、お昼より少しだけ、そこにいることが自然に見えた。

「ただいま」


波多野は小さく言った。


返事はない。


返事はないはずだった。


けれど。


おかえりなさい。


耳の奥で、かすかに声がした気がした。


波多野は、しばらくみよを見た。


「……今のは、家の声ですか」

「かもしれん」


 あぶさんは、ちゃぶ台の下へ入りながら答えた。


「便利ですね、その言い方」

「分からんものを、分からんまま置いておくための言葉じゃ」

「神務庁に提出したら怒られそうです」

「提出するな」


波多野は、買ってきた草団子の箱を開けた。


一つだけ小皿に乗せて、本棚の端に置く。


みよの前だった。


「食べないのは分かってるけど」


そう言いながら、少しだけ照れた。


「まあ、土産です」


みよは何も言わない。


ただ、そこに座っている。


市松人形は、もう夢に出ない。


位置も変えない。


帰ってもこない。


けれど、行ってらっしゃいと言った気がした。


おかえりなさいと言った気もした。


それは呪いではない。


祟りでもない。


ただ、生活の中に残った声だった。


「それ、食わんぞ」


あぶさんが言った。


「分かってます」

「では、わしが」

「駄目です」

「なぜじゃ」

「みよへのお土産なので」

「食わんのに」

「そういうものです」


あぶさんは不満そうに尻尾を揺らした。


波多野は、ちゃぶ台の前に座り、残りの団子を一つ食べた。


外では、どこか遠くから電車の音が聞こえている。


江戸川の風はもうない。


声もない。


それでも、今日聞いたものは、少しだけ部屋に持ち帰られている気がした。


波多野は本棚の上のみよを見た。


「……今度は一緒に行きますか」


返事はない。


けれど、少しだけ。


本当に少しだけ。


赤い着物の袖が、夕方の風に揺れたように見えた。


「窓、閉まってますよね」

「閉まっておる」

「じゃあ、今のは」

「知らん」


あぶさんは団子を見つめたまま言った。


「知らんのですか」

「知っておっても、知らんと言う方がよいこともある」

「便利ですね」

「便利なものは、だいたい正しい」


波多野は笑った。


そして、もう一度だけ、みよに向かって言った。


「ただいま」


今度は、声は聞こえなかった。


それでよかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


神務庁は怪異を管理し、記録し、分類する組織です。


けれど、世の中には記録にも残らず、危険度もなく、予算もつかないものがあります。


今回の話は、そんな「誰かが少しだけ大事にしているもの」の話でした。


実は作者自身、柴又や江戸川の風景が好きで、今回の話にはそんな原風景をたくさん詰め込んでいます。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


次回はまた、神務庁の日常へ戻る予定です。


それでは、また次の話でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ