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タカマガハラの神務官 〜神の力を使うのに必要なのは祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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第5話 みよ

第5話です。


じゅじゅ課での市松人形鑑定、その続きです。

今回は、呪物を「壊す」のではなく、「ほどく」話になります。

第5話 みよ

 


耳の奥で、紙をこするような音がした。


薄い紙を、乾いた指でそっと撫でたような音だった。


僕は思わず、結界トレーの上の市松人形から目を離した。


「どうしました」


倉橋さんが、神気探針しんきたんしんを止めた。


探針の先端は、人形の黒い髪のすぐ上で、まだ淡く光っている。


「いえ」


言ってから、違うと思った。


いえ、ではない。


聞こえた。


ただ、何が聞こえたのか分からない。


「何かありましたか」


倉橋さんの声は、さっきまでと同じだった。


心配しているというより、測定値の変化を確認する時の声だった。


「紙を、こするような音がしました」


「紙」


倉橋さんは短く復唱した。


それから、端末に何かを入力する。


「測定器には出ていません」

「そうですか」

「ただし、持参者反応として記録します」

「それ、僕のことですか」

「他にいますか」


いなかった。


リュックの中のあぶさんは、相変わらず黙っている。


大人しすぎる。


僕は、少しだけリュックの肩紐を握った。


倉橋さんは、神気探針を髪からゆっくり離した。


「髪。反応あり。ただし、主反応ではありません」


「髪も反応するんですか」


「します。古い人形なので」


「じゃあ、髪が伸びたり」


「今回の症状申告に、髪の伸長はありません」


 即答だった。


「髪に神気反応がありますが、症状として現れる程ではないと判断します。」


症状申告。


鑑定結果。


市松人形だからといって、全部が全部、髪を伸ばすわけではないらしい。


僕は少しだけ安心した。


安心してから、何に安心したのか分からなくなった。


髪が本命ではない。


それはつまり、もっと別の何かがあるということでもあった。


倉橋さんは、作業台の横に置かれていた朱色の札を一枚取った。


夢路札ゆめじふだです」

「夢路札」

「夢干渉の痕跡こんせきを見るための札です」

「人形を寝かせるんですか」

「違います」


即答だった。


「人が眠る時に開く意識の隙間を、低出力で模したものです。おとりに近い」

「囮」

「夢に伸びるものは、こちらにも少し伸びます」


倉橋さんは、朱色の札を簡易結界トレーの端に置いた。


さっき開封の時に左右へ置いた薄い札とは違うらしい。


「あっちの札とは違うんですか」

開封補助札かいふうほじょふだです」

「開封補助」

「開けた瞬間に、反応が左右どちらへ逃げるかを見るための基準点です。ついでに作業台の外へ出にくくします」

「結界じゃないんですか」

「結界補助です」

「違うんですね」

「違います」


短かった。


じゅじゅ課では、札にも役割分担があるらしい。


夢路札の端が、わずかに暗くなった。


濡れたわけではない。


けれど、朱色の紙の端だけが、湿ったように沈んで見えた。


「夢路札。反応あり」

「夢に出るやつですか」

「夢干渉あり」


倉橋さんは、端末に入力しながら続けた。


「型は呼びかけ型。強度低。誘導性なし。侵入性低」

「つまり」

「眠っている人に呼びかけます」

「危ないんですか」

「死にはしません」

「じゃあ」

「眠れなくなります」


それは、それで嫌だった。


死なない。


でも眠れない。


怖い夢を見る。


朝になると、置き場所が変わっている。


近くの神社に持っていっても、家へ戻ってくる。


死ぬわけではない。


けれど、生活が削られていく。


「生活被害型です」


倉橋さんは、僕の考えを読んだように言った。


「危険度は」

「暫定、低から中」

「低なんですか」

「死傷リスクは低いです。自律性も低い。拡散性も低い。ただし、夢干渉と帰還性があります。所有者の生活被害は継続します」


倉橋さんは、探針を人形の胴の近くへ移した。


赤い着物の袖。

小さな手。

胴のあたり。


探針の光は、髪の時よりも弱く、けれど途切れながら残った。


「本体周辺に微弱な位置改変反応」

「動くんですか」

「歩行ではありません。置き場所がずれる程度です」

「ずれる」

「見える場所へ出る。通路側へ寄る。棚の上に移る。過去事例ではその程度が多いです」


過去事例。


倉橋さんは、過去に似たものを見ている。


似た症状を見て、似た反応を測って、分類している。


でも、それはこの人形そのものを知っているということではない。


僕は、結界トレーの上の市松人形を見た。


黒い髪。

白い顔。

赤い着物。

古くて、静かだった。


倉橋さんは、黒い布と銀色のピンセットを使って、人形の角度をわずかに変えた。


「底面を見ます」

「底面」

「帰還性を見るなら、まず底面です」

「箱じゃないんですか」

「違います」


即答だった。


「帰るのは本体です。箱ではありません」


倉橋さんは、人形の足元、台座の裏へ探針を近づけた。

探針の先端が、すっと横へ引かれるように光った。

光が伸びる。

細い糸のように。


「底面。帰還性あり」

「帰ってくるってことですよね」

「はい。志賀氏宅、または当該家屋内の定位置への帰還性と推定」

「定位置」

「かつて置かれていた場所です。現時点では特定不能」


かつて置かれていた場所。


人形には、帰る場所があるらしい。


紙袋の口で、あぶさんが摘まんでいたという細い帰路。


それは、箱から出ているわけではなかった。


人形自身の底に、まだ残っていた。


倉橋さんは次に、人形の顔へ探針を近づけた。


白い顔。

黒い目。

閉じているわけではないのに、どこを見ているのか分からない目。

探針の先端が、髪の時よりはっきり光った。


「目元。反応あり」

「強いんですか」

「髪より強いです」


倉橋さんは探針を少し動かした。


右目。

左目。

目尻。

頬。


探針の光は、目の周りでだけ細く揺れた。


「視線関連。注視系」

「注視系」

「見ている、見られている、見られていない。過去事例ではそのあたりです」

「見てほしい、みたいなことですか」

「そこまでは分かりません」


倉橋さんは、すぐに言った。


「分かるのは、反応の型です。意味ではありません」


意味ではない。


それは、妙に重い言葉だった。


倉橋さんは次に、人形の口元へ探針を移した。


光は弱かった。


ただ、消えない。


細く、途切れながら、何度かまたたいた。


「口元。断続反応」

「それも、呼びかけですか」

「可能性はあります。夢路札の反応とも整合します」

「何て呼びかけてるかは」

「分かりません」


また、即答だった。


「分かるなら、じゅじゅ課の棚はもっと空いています」


僕は、少しだけ事務所の方を思い出した。


分類待ち。

再評価待ち。

地方返送予定。

開封禁止。


整理されているのに、片づいていない廊下。


あれは、つまり、分からないものたちなのだ。


処理できないわけではない。


ただ、解除条件が分からない。


だから、封じて、寝かせて、再評価する。


そういうものが、棚に溜まっていく。


倉橋さんは最後に、空になった桐箱へ探針を向けた。


古い木の箱。


蓋には何も書かれていない。


持ち主の名前も、由来も、日付もない。


箱、由来書なし。


さっき、倉橋さんはそう記録していた。


探針の光は、底面の時とは違った。


伸びるのではない。


沈む。


箱の内側へ、弱い光が吸われるように見えた。


「桐箱にも残留反応あり」

「箱も呪物なんですか」

「不明です」

「不明」

「本体反応の付着か、保管時の残留か、切り分けできません。由来書もありません」


倉橋さんは、箱から探針を離した。


「現時点で言えるのは、箱にも何らかの反応が残っている、ということだけです」

 そこまで。


倉橋さんが分かるのは、そこまでだった。


でも、僕の耳の奥では、また紙をこする音がしていた。


箱の中で、古い薄紙が擦れるような音。


見たことのない紙。


存在するかどうかも分からない紙。


それなのに、僕はなぜか、そこに薄紙があった気がした。


倉橋さんは端末を操作した。


分類ラベルの入力欄に、文字が増えていく。


暫定分類ざんていぶんるい。生活被害型。夢干渉、位置改変、帰還性あり。注視系反応あり。呼びかけ型疑い。解除条件不明」

「解除条件不明だと、どうなるんですか」

「通常処理なら封緘保管ふうかんほかんです」

「どれくらい」


倉橋さんは少しだけ考えた。


いや、考えたというより、基準を探していた。


「通常封緘なら、推定二年から三年」

「二、三年」

「推定です。三か月後に再評価。その後、半年ごと」

「この人形、二、三年保管するんですか」

「解除されなければ」

「どこで」

「所有者宅です」

「帰ってくるんですよね」

「帰還性があります」

「詰んでませんか」

「詰んではいません」


倉橋さんは、淡々と言った。


純正封緘箱じゅんせいふうかんばこを使えば、帰還性は抑えられます」

「それでいいじゃないですか」

「高いです」

「どれくらいですか」

「この大きさなら、秋津製作所あきつせいさくしょの現行品で十数万円から。帰還性対応の内張りを入れると、もう少し」

「秋津製作所」

「神務庁登録神威資材事業者とうろくしんいしざいじぎょうしゃです」

「民間企業ですよね」

「登録事業者です」

「箱ですよね」

「封緘資材です」


倉橋さんは訂正しなかった。


「神社じゃないんですか」

「神社は供給側です」

「供給」

「信仰を神気に変換して蓄える場所です。発電所と変電所に近い」

「神社を発電所みたいに言わないでください」

「庁内では普通です」

「普通なんですか」

「普通です」


普通とは何だろう。


僕が神社で思い浮かべるのは、鳥居と賽銭箱とおみくじだ。


倉橋さんが見ているのは、神気の供給設備らしい。


同じ神社のはずなのに、見えているものが違いすぎる。


「神社でもお祓いはしますよね」

「協力神社でも対応はできます。ただし、解除ではなく、抑え込みか強制祓除きょうせいふつじょになることが多いです」

「強制祓除」

「神気出力で焼き切る処理です。分類上は供養くよう処理」

「分類上」

「実態は、雷を落として呪物性ごと焼くのに近いです」


僕は人形を見た。


白い顔。

黒い目。

赤い着物。


「人形は」

「残らない場合があります」

「それ、供養って言っていいんですか」

「言わないと所有者が同意しません」

「言い方」

「強制祓除です」


選択肢は、ある。


でも、どれも嫌だった。


二、三年保管する。


十数万円以上かけて、純正封緘箱に入れる。


協力神社で、抑え込むか、焼き切る。


志賀さんなら、最後の方法を選ぶかもしれない。


戻ってこないなら、それでいい。


怖い夢を見なくて済むなら、それでいい。


人形が残らなくても、困らない。


たぶん、それは正しい。


正しいのに、僕は人形から目を離せなかった。


「所有者が強制祓除を希望すれば、それが処理方針になります」


倉橋さんが言った。


「……ですよね」

「物件は志賀氏の所有物です」

「はい」

「あなたのものではありません」


分かっている。


分かっているのに、結界トレーの上の市松人形から、目を離せなかった。


また、紙をこする音がした。


今度は、少しだけ違った。


紙の音の奥に、咳が混じったように聞こえた。


小さい咳。

布団。

白い手。

縁側の光。

それから、誰かの声。


お願い。

この子の代わりに。


僕は息を止めた。


「……あぶさん」


小声で呼ぶ。


倉橋さんは端末を見ている。


リュックの中で、ほんの少しだけ重さが動いた。


「聞こえてますか」

「聞こえとる」


あぶさんの声も小さかった。


「何ですか、これ」

「声になる前の声じゃ。名残、と言ってもよい」

「名残」

「おぬしにも、聞こえ始めたか」


僕は答えられなかった。


聞こえる、とは言えない。


声ではない。


言葉でもない。


ただ、紙をこする音の奥に、意味のようなものがある。


箱が開いた。

また、会える。

見てくれる。

呼んでくれる。

そう思った。

でも、そこにいたのは知らない人だった。

見てくれない。

呼んでくれない。

怖がっている。

あの子は、どこ。

私の名前は。

 

僕は人形を見た。


夢干渉。

位置改変。

帰還性。

注視系。

呼びかけ型。

箱の残留反応。


倉橋さんが測ったものが、急に線でつながる。


ただし、それは倉橋さんの端末には出ていない線だった。


この人形は、帰りたいのではない。


少なくとも、それだけではない。


「病気の子の、そばにいたんじゃないですか」


自分の声が、自分のものではないように聞こえた。


倉橋さんの手が止まった。


「何の話ですか」

「この人形です」

「測定上、夢干渉と帰還性はあります」

「帰りたいんじゃなくて、見つけてほしかったんだと思います」

「……なんで、そんなことが分かるんですか」


倉橋さんが、初めて少しだけ眉を寄せた。


僕にも分からなかった。


分からない。


でも、分かる。


矛盾している。


それでも、口は止まらなかった。


「最初に箱に入れた人は、捨てるつもりじゃなかった」


桐箱を見る。


古い木の箱。


名前も由来も書かれていない箱。


「休ませたんだと思います。ありがとうって。もう大丈夫だからって」


紙をこする音が、少しだけ静かになった。


「でも、今は違う」

「違う?」

「今は、気味が悪いからしまう。怖いから処分する。そういう箱になってる」

 倉橋さんは何も言わなかった。


測定器の鈴が、ちり、と小さく鳴った。


「この人形、遊び相手だったんだと思います。病気の子の。たぶん、身代わりでもあった」


小さい咳。

布団のそば。

人形を抱く手。

誰かの祈り。

この子の代わりに。

悪いものを、少しでも。


「名前が」


 喉が詰まった。

 紙の音がする。

 古い薄紙が、箱の中で擦れている。


 み。

 よ。


「……みよ」


口にした瞬間、鑑定作業室の空気が変わった。


重かったものが、少しだけほどける。


倉橋さんが顔を上げた。

「今、何と」

「分かりません」


僕は人形の目を見た。


怖かった。


でも、目を逸らさなかった。


「でも、そう聞こえました」


リュックの中で、あぶさんが小さく息を吐いた。


「名じゃ」


倉橋さんの視線が、僕のリュックへ動きかけた。


けれど、今はそちらを見なかった。


僕は人形に向き直った。


結界トレーの上の市松人形。


古い市松人形。


呪物になる前は、きっと誰かの大事なものだった。


「みよ」


もう一度、呼んだ。


「見てる」


自分でも、何を言っているのか分からなかった。


けれど、それが必要だと思った。


「ずっと、そばにいたんだな」


紙をこする音が、遠くなった。


「あの子は、たぶん、大丈夫だったんだと思う」


小さい咳が、薄れていく。


「あなたが、そばにいたから」


夢路札の縁の暗さが、少しずつ薄くなる。

「だから、もう身代わりをしなくていい」


倉橋さんが、無言で測定器を見た。


「もう、名前を呼ばれないまま戻らなくていい」


桐箱の内側へ沈んでいた光が、ふっと浅くなった。


「もう、怖がられて、閉じ込められなくていい」


神気探針の先に伸びていた細い光が、震えた。


「あの子は、もういないのかもしれない」


言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


でも、言わなければいけない気がした。


「でも、あなたがいたことは、なかったことにならない」


人形の目を見た。


「みよ」


名前を呼ぶ。


「もう、大丈夫だと思う」


神気探針の先の光が、切れた。


切れた、というより。


ほどけた。


紙をこする音が、止まった。


鑑定作業室は静かだった。


空調の音。


測定器の低い駆動音。


遠くの事務所で、誰かがキーボードを叩く音。


それだけになった。


倉橋さんはしばらく測定器を見ていた。


それから、ゆっくりと言った。


「夢干渉、消失」


端末に入力する音がした。


「位置改変反応、消失」


また、入力音。


「帰還性、消失」


倉橋さんは、人形の目元へ探針を戻した。


「目元反応、基準値内」


最後に、桐箱へ探針を向ける。


「箱の残留反応、低下」

 

少しだけ間があった。


「解除、確認」


僕は息を吐いた。


いつの間にか、ずっと息を止めていた。


倉橋さんが、こちらを見た。


「波多野さん」

「はい」

「今のは、何ですか」

 答えられるわけがなかった。

「分かりません」

「分からないのに、やったんですか」

「はい」

「変なことするのやめてください」

「すみません」

「でも、記録します」


倉橋さんはそう言って、端末に向き直った。


淡々としていた。


けれど、さっきまでとは少しだけ違った。


分類するためではない。


理解できないものを、理解できないまま残すために、記録しているように見えた。


結界トレーの上で、市松人形はもう動かなかった。


ただの古い人形の顔で、白い天井を見ていた。


その夜から、波多野の部屋の一角には、古い桐箱が鎮座することになった。


みよは、ひとまず本棚の上に置いた。


あぶさんはそれを見上げて、ひと言だけ言った。


「同居人が増えたのう」


ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、呪具呪物管理課、通称じゅじゅ課の実務と、市松人形の「みよ」の話でした。


じゅじゅ課は、怪異を何でも解決できる部署ではなく、測定し、分類し、記録し、危険度を見て、通常処理に回す部署です。

だからこそ、解除条件が分からないものは封緘され、再評価待ちになり、棚に積まれていきます。


一方で、波多野はその分類の奥にある「声」を聞いてしまう。

それが強みなのか、危うさなのかは、まだ本人にも分かっていません。


次回は、神務庁のもう少し上の方の人が出てくる予定です。

よろしければ引き続きお付き合いください。

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