第30話 未登録
旧蓮見台団地の一件を経て、波多野が自分から隠していたことを話す回です。
これまで曖昧だった、波多野とあぶさんの関係が、ようやく神務庁の記録に載り始めます。
第30話 未登録
朝の六畳間には、まだ夜の匂いが残っていた。
波多野承平は布団の上で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
窓の外には、九月とは思えないほど強い朝日が差している。
起き上がってカーテンを開けると、光が畳の上に長く伸びた。
本棚の上では、みよがいつもと同じ姿勢で座っていた。
答えない。
問いもしない。
ただ、そこにいる。
波多野はネクタイを結びながら、昨日のことを思い返していた。
旧蓮見台団地。
三〇七号室。
自分の名前が、自分のものではなくなりかけた時間。
遠くから聞こえた、榊課長の声。
常盤の神威。
道上が保った帰り道。
榊は、危険を承知で波多野を現場へ入れた。
そして、取り込まれた波多野を、最後まで現在へ戻そうとした。
それに対して、自分はまだ、一番大きなことを黙っている。
あぶさんのこと。
花川戸で起きたこと。
INARIのログが書き換えられたこと。
稲荷の網を覗いたこと。
水上様の現場で、あぶさんが介入したこと。
これまで自分が聞き、見て、触れたもののうち、どこまでが自分の素質で、どこからがあぶさんの力なのか。
榊は昨日の報告書に、波多野がしたことを書かなければならなかった。
だが、その結果を生んだものが何なのかを、榊は知らない。
知っているのは、波多野だけだった。
黙っている方が楽だった。
報告すれば、何が起きるか分からない。
あぶさんが登録されるのか。
引き離されるのか。
自分がこれまでどおり働けなくなるのか。
考えれば、黙っている理由はいくらでも見つかった。
けれど、理由があることと、正しいことは同じではない。
波多野は鏡を見た。
ネクタイが少し曲がっている。
結び目を直して、もう一度自分の顔を見た。
「今日、話します」
声に出してみると、思っていたよりも静かに言えた。
「何をじゃ」
布団の端から、あぶさんが顔を出した。
「榊課長に、全部話します」
「全部」
「あぶさんのことも」
あぶさんはしばらく波多野を見ていた。
「そうか」
「止めないんですか」
「おぬしが決めることじゃ」
あぶさんは大きくあくびをした。
「ただし、わしのことを話すなら、わしも出る」
「出る?」
「姿も見せずに、勝手に分類されるのは好かん」
「分類される前提なんですね」
「人間の役所であろう。名を聞けば、次は入れる箱を探す」
否定できなかった。
波多野がリュックを開けると、あぶさんは当然のように中へ入った。
「覚悟はできたか」
「そこまで大げさな話では」
「隠すのをやめるのは、たいがい覚悟のいることじゃ」
リュックの中から声がした。
「知られぬ間は、自由でいられるからな」
波多野は本棚の上のみよを見た。
「行ってきます」
みよは答えなかった。
いつもどおりだった。
その静けさが、今朝は少しだけありがたかった。
***
庁舎へ着くと、波多野は自席へ荷物を置く前に、榊の席へ向かった。
「榊課長」
榊礼司は端末から顔を上げた。
「はい」
「お時間をいただけますか」
「旧蓮見台の件ですか」
「それもあります」
波多野は一度、足元のリュックを見た。
「昨日の報告書に関係することで、まだ話していないことがあります」
榊の視線が、波多野の顔からリュックへ移った。
すぐには何も聞かなかった。
「会議室を取ります」
***
小会議室へ入ると、榊は扉を閉めた。
開けていない缶コーヒーを机の端に置き、波多野の向かいへ座る。
「どうぞ」
「はい」
波多野も椅子へ座った。
リュックは膝の上ではなく、隣の椅子に置いた。
榊は端末を伏せた。
記録を始める前に、まず話を聞くつもりらしい。
「六月の、花川戸の界門からです」
波多野は話し始めた。
「あの時、閉じた界門がもう一度開きました」
「はい」
「僕は、取り残された男性を助けてほしいと願いました。その声を、近くにいた稲荷の眷属が聞きました」
榊の表情は変わらなかった。
「その眷属が、界門を開いたということですか」
「はい。本人は、声に応えたあと、勝手に手を貸しただけだと言っています」
「本人」
「その夜、僕のアパートまで来ました」
榊の視線が、もう一度リュックへ動いた。
「僕が名前をつけました。あぶさん、といいます」
「今も一緒にいるんですね」
「はい」
波多野はリュックの口に手をかけた。
「あぶさん」
「うむ」
白い頭が、リュックから現れた。
額から背にかけて走る朱色の文様。
小さな体。
人間を見るには、あまりにも古い目。
あぶさんは前足を椅子へかけ、そのまま机の上へ降りた。
榊は動かなかった。
何秒か、白い狐を見つめていた。
「……見えるんですか」
波多野が聞いた。
「見えます」
榊は、あぶさんから目を離さずに答えた。
「気配は以前からありました。姿を見たのは、今日が初めてです」
「やっぱり、気づいていたんですね」
「何かがいる可能性は考えていました」
花川戸のあとから波多野の周囲に残る、稲荷系の神気。
説明のつかないログの変化。
木曽谷。
水上様。
旧蓮見台。
それぞれを並べれば、波多野一人の適性だけでは説明しきれないものがある。
それでも榊は、波多野が自分の意思でリュックを開けるまで、あぶさんの姿を見ようとはしなかった。
「もう隠れんでよいな」
あぶさんが言った。
「少なくとも、この部屋では」
榊は答えた。
「INARI運用課長の榊です。波多野さんの上司をしています」
「知っておる」
「私のことを?」
「承平の近くにおる人間のことくらいはな」
榊の眉が、ほんの少し動いた。
「どの程度、知っているんですか」
「さてな」
「あぶさん」
波多野が止めると、あぶさんは尾を机の上に巻いた。
「初対面から取り調べか」
「確認です」
「同じじゃ」
「役所では違います」
あぶさんは少しだけ目を細めた。
「律儀な男じゃのう」
「よく言われます」
榊はそこで、ようやく缶コーヒーを開けた。
「続けてください」
***
波多野は、花川戸の翌朝に起きたことを話した。
INARIの画面に表示されていた、稲荷系神威による外部干渉。
カタログ照合エラー。
使用者不明。
それが、あぶさんが画面を見たあと、残留神気による自然再展開へ変わっていたこと。
「あの時のログですね」
榊が言った。
「最初に見た表示を、私は見間違いだったことにしました」
「すみません」
「波多野さんが変更したんですか」
「いえ」
波多野は、あぶさんを見た。
「あぶさんです」
「整えただけじゃ」
「変更したんですね」
榊が確認する。
「人間の記録に、稲荷の側から手を入れた」
「言い方が気に入らん」
「内容は合っていますか」
あぶさんは答えなかった。
否定もしなかった。
榊は缶コーヒーを机へ置いた。
「未登録の神威使用に当たる可能性があります」
「可能性ではなく、そうじゃろうな」
「認めるんですか」
「おぬしらが、そう呼ぶならな」
波多野は、胃のあたりが少し重くなるのを感じた。
榊は怒っているようには見えない。
だが、軽く扱ってもいなかった。
続けて、波多野は稲荷の網の入口を覗いたことを話した。
声が多すぎて、帰宅後に吐いたこと。
水上様の現場で白い線を見たこと。
倉橋へ向かっていた水の流れが外れた時、自分ではなく、あぶさんが何かをしたと思ったこと。
「あの時、倉橋さんを助けたのは、あなたですか」
榊があぶさんへ聞いた。
「承平が、届かせたくないと思った」
「波多野さんが神威使用を指示したわけではありません」
「命じられてはおらん」
「では、あなた自身の判断で介入した」
「そうとも言う」
「他に、どう言うんですか」
「あのままでは、あの女に水が届いた。少し外した。それだけじゃ」
榊は数秒、あぶさんを見た。
「それだけでは済みません」
「人が助かったのであろう」
「結果だけで判断はできません」
「役所じゃのう」
「役所です」
言葉は噛み合っていない。
けれど、二人とも相手の言っていることは理解しているようだった。
波多野は、旧蓮見台で起きたことも話した。
声ではなく、宛先の向きが分かったこと。
三〇七号室に取り込まれたあと、配達員の奥に、返事を待つ空欄そのものが見えたこと。
その未了手続へ、終了を返したこと。
「僕が見たものが、僕自身の能力なのかは分かりません」
波多野は言った。
「あぶさんとつながっているから、見えているのかもしれません」
あぶさんは黙っていた。
榊が聞く。
「波多野さんにできることは、あなたにもできますか」
「できる」
あぶさんは答えた。
「では、あなたにできることを、波多野さんもすべてできる」
「それは違う」
返事は早かった。
「承平は、まだ入口に触れた程度じゃ。網の奥へは入れん。自分で開くこともできん」
「現時点では」
「そうじゃ」
「将来的には」
「知らん」
あぶさんは尾を揺らした。
「人間はすぐ、できるか、できぬかで棚を作る」
「棚を作らないと管理できません」
「だから窮屈なのじゃ」
榊は反論しなかった。
波多野へ視線を戻す。
「名前をつけた時、何が起きましたか」
「朱色の文様が光りました」
「他には」
「呼ぶ名を与えたから、応える先が定まった、と言われました」
榊の目がわずかに細くなった。
「それ以来、あぶさんは、あなたの願いや、言葉になる前の思いを拾うことがある」
「はい」
「波多野さんを通じて、神威が現れることもある」
「僕が使っているのか、あぶさんが使っているのか、分かりません」
「そこが問題です」
榊は静かに言った。
責める口調ではなかった。
「結果の帰属が分かりません」
波多野は、昨日の報告書に残った空欄を思った。
自分が何をしたのか。
神威だったのか。
誰の力だったのか。
榊が書けなかったところ。
命名をきっかけに、継続的な接続が成立している可能性があります」
榊が言った。
「契約、ですか」
「その可能性は高いでしょう」
「直接契約者とは違うんですか」
「相手は神格そのものではなく、稲荷の眷属です」
榊は言葉を選んだ。
「ですが、ただ近くにいるだけでもありません。波多野さんが名を与え、あぶさんがその名に応えた。その後、能力の一部が波多野さんを通じて現れている」
「あぶさんとの契約」
「そう考えるのが自然です」
「制度上は」
「現時点では判断できません」
榊は、はっきり答えた。
「既存の直接契約者制度で扱えるのか。適合者として整理できるのか。未登録神威の使用者を誰とするのか。私の権限で決められることではありません」
波多野はうなずいた。
覚悟していた答えだった。
***
「波多野さん」
一通りの話を聞き終えたところで、榊が尋ねた。
「なぜ、今日、申告したんですか」
波多野は少し考えた。
「昨日、榊課長は僕を現場へ出しました」
「はい」
「危険があることも、戻せる保証がないことも分かっていた。それでも、ほかの方法を探したうえで、最後は僕を使って解決した」
榊は黙って聞いている。
「それが間違っていたとは思いません。僕も、やると決めました」
波多野は机の上のあぶさんを見た。
「でも、榊課長がそこまで考えて判断したのに、僕は、その判断に必要なことを黙ったままでした」
「申告すれば、これまでどおりではいられない可能性があります」
「分かっています」
「波多野さんだけではありません。あぶさんもです」
「それも分かっています」
あぶさんは口を挟まなかった。
波多野は続けた。
「黙っている方が楽でした。でも、楽だから黙るのは違うと思いました」
榊は缶コーヒーを見た。
しばらくして、口を開く。
「分かりました」
「はい」
「申告記録を作成します」
「お願いします」
「昨日の旧蓮見台案件の報告とは、別に記録します。混ぜると、どちらも使えなくなります」
「はい」
榊は端末を開いた。
そこで一度、手を止めた。
「波多野さん」
「はい」
「よく、話してくれました」
声はいつもと変わらなかった。
変わらない声で言うために、少しだけ時間がかかった。
波多野には、そう聞こえた。
***
午前の終わりまでかけて、榊は申告記録を作成した。
波多野承平からの自発的申告。
未登録の稲荷眷属との継続的接触。
命名行為あり。
命名後、相互応答および能力接続が成立した可能性。
花川戸界門案件における外部神威干渉。
INARIログへの未承認変更。
水上様案件における稲荷系反応。
稲荷の網への接触。
旧蓮見台団地案件における非ログ情報の認識および応答。
榊は、事実として確認できるものと、波多野の申告に基づくものを分けた。
あぶさんの発言は、申告者同席時の参考聴取として別欄へ記載した。
契約であるとは断定しなかった。
ただし、
命名を契機とする継続的接続関係の可能性。
と記した。
分類区分。
榊の手が止まった。
直接契約者。
適合者。
随伴神格。
未登録神威使用者。
どれも、そのままでは当てはまらない。
榊は分類欄を空白にした。
その横に理由を書く。
既存区分への該当性について、上位判断を要する。
入力を終えた時、内線が鳴った。
「はい。INARI運用課、榊です」
『長官室です』
榊は、画面に開いた申告記録へ目を落とした。
『波多野承平さんを、本日午後、長官室へお願いします』
「旧蓮見台団地の件でしょうか」
『昨日提出された結末報告、および、これまでの関与案件についてです』
予想していた。
それでも、榊の指が缶コーヒーの上で止まった。
「承知しました」
『榊課長も同席してください』
「私もですか」
『はい』
電話は切れた。
榊は受話器を置いた。
長官は、まだ今日の申告内容を知らない。
あぶさんの姿も。
命名のことも。
それでも、すでに波多野を呼んでいる。
市松人形。
水上様。
旧蓮見台団地。
通常のINARI照会では得られない情報を、波多野は三度持ち帰った。
それだけで、菅野正継は判断した。
榊は、作成したばかりの申告記録を開く。
提出先に、長官室を加えた。
保存。
今度は、提出ボタンを押した。
***
榊は波多野の席へ向かった。
波多野は、通常業務の画面に戻っていた。
足元にはリュックが置かれている。
「波多野さん」
「はい」
波多野が顔を上げる。
「午後、長官室へ行きます」
波多野の手が止まった。
「僕がですか」
「私も同席します」
「今日の申告で」
「いいえ」
榊は首を横に振った。
「呼び出しは、昨日の旧蓮見台案件と、それ以前の記録によるものです」
「じゃあ、長官はもう」
「あなたが通常の手順では得られない情報を持ち帰っていることには、気づいています」
波多野は足元のリュックを見た。
あぶさんは動かなかった。
「今日の申告も、先ほど長官室へ提出しました」
「分かりました」
返事は静かだった。
「行ってきます」
「一緒に行きます」
榊が言った。
波多野は少し驚いたように、榊を見た。
「あなたの申告記録を作成したのは、私です」
榊はいつもの調子で続けた。
「説明する責任があります」
「はい」
「それから」
榊は足元のリュックを見る。
「長官室で、あぶさんを出すかどうかは、私の指示を待ってください」
「わしも行くぞ」
リュックの中から声がした。
「聞こえています」
榊は答えた。
「出るなとは言っていません。順番を守ってください」
「やはり、窮屈な男じゃ」
「役所ですから」
波多野は、少しだけ笑った。
長官室へ呼ばれている。
昨日までなら、胃が重くなっていたと思う。
今も、怖くないわけではない。
ただ、もう隠していることはなかった。
それだけで、足元は昨日より少し確かだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第一部も、いよいよクライマックスです。
波多野とあぶさんの関係が明らかになり、物語は長官室へ進みます。
第一部の終わりまで、もう間もなくです。
最後までお付き合いいただけるとうれしいです。




