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【第一部完結】タカマガハラの神務官 〜神様の力を使うのに必要なのは、祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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第29話 応答先

旧蓮見台団地編、決着回です。


「返事をする」ということが、救いにも危険にもなる話になりました。


※すみません!読み直したらくどいところや変なとこあったので直しました!


第29話 応答先


四日目の朝、榊礼司は波多野承平の席まで歩いた。


波多野は、通常業務の端末に向かっていた。


旧蓮見台団地の件には、今は触れないでください。


そう指示してから、四日目だった。


榊が近づくと、波多野はすぐに顔を上げた。


待っていたのだろう。


「波多野さん」


「はい」


「会議室へ来てください」


波多野は何も聞かなかった。


端末を閉じ、足元のリュックを持ち上げる。


榊は、その動きを見届けてから先に歩いた。


     ***


小会議室には、常盤と道上がいた。


机の上には、旧蓮見台団地三号棟の平面図と、封鎖開始後の測定記録が広げられている。


常盤の端末には、四階の図面が表示されていた。


四〇一号室の集合ポストに付いた黄色い印は、三日前より濃くなっている。


道上が張った予防封鎖によって、そこから先へ道を伸ばすことは止めていた。


だが、反応そのものは消えていない。


榊が席に着く。


波多野も、その向かいへ座った。


「結論から言います」


榊は、波多野を見た。


「旧蓮見台団地で、応答を実施します」


波多野は小さく息を吸った。


「僕が、確認不能だと返すんですね」


「はい」


机の中央には、古い住宅管理書類の写しが置かれていた。


退去者確認。


転居先照会。


本人所在不明。


確認継続。


最後に、


確認不能による処理終了。


とある。


「この三日間、波多野さんを使わずに済む方法を検討しました」


榊が言った。


「封鎖の強化、住所記録の隔離、三〇七号室周辺の追加閉鎖。いずれも、外へ出る時期を遅らせることはできます」


「終わらせることはできない」


「できません」


四〇一号室を切れば、四〇二号室を探す。


管理人室を切れば、集合ポストを探す。


団地内の住所をすべて塞げば、管理会社の記録や、行政に残る住所へ伸びる可能性がある。


未了の本人確認そのものを終わらせなければ、別の道を探し続ける。


「現地で言う内容は、前回説明したとおりです」


榊は、書面の一文を指さした。


波多野が読み上げる。


「本人所在、確認不能。本件照会は、これをもって終了します」


「ただし、返す相手を間違えないでください」


「本人確認の問いには答えず、手続きそのものに返す」


「はい」


常盤が椅子の背にもたれた。


「それでも向こうが、言葉の中身じゃなく、応えたって事実だけを取る可能性はある」


「僕を三〇七号室の本人にする」


「それだけじゃ済まねえ」


常盤は、端末の画面を切り替えた。


表示されたのは、四人の時計に生じたずれの記録だった。


三〇七号室へ近づくにつれ、同じ場所にいる職員の時刻がばらばらになっている。


その先で、すべての反応が一つの日付へ寄っていた。


平成七年三月二十日。


「三〇七号室は、住所だけを残してるわけじゃねえ」


常盤が言った。


「本人確認が終わらなかった時点も、一緒に抱えてる」


「一九九五年に閉じ込められるということですか」


「本当の一九九五年じゃない」


常盤は首を横に振った。


「当時の日本へ行くわけじゃねえ。三〇七号室が、本人の返事を待っていた状態だけを、今も繰り返してる」


部屋。


廊下。


配達員。


本人確認。


そこに必要なものだけで作られた、終わらない一九九五年。


波多野が本人として取り込まれれば、その中へ入る。


「前回は、取り込まれたあとで戻せる保証はないと言いました」


道上が言った。


「今も、保証はできません」


「でも、戻す手段は考えた」


波多野が常盤を見る。


常盤は、机の上に一枚の神威使用計画書を置いた。


思兼神おもいかねのかみ系中級神威。


『今帰し《いまがえし》』。


神威カタログには載っている。


だが、時相境界班以外が使う機会は、まずない神威だった。


「時間を戻す神威ですか」


「違う」


常盤は即答した。


「思兼神は、時を巻き戻す神じゃねえ。ものを測って、答えを出す神だ」


常盤は、時刻同期機を指で叩いた。


「『今帰し』は、時相異常に取り込まれた人間が、本来どの時点に属しているかを測る。測った今へ、そいつを引き戻すための神威だ」


過去を変えることはできない。


好きな時代へ行くこともできない。


一九九五年の人間を、現代へ連れてくることもできない。


対象となる人間が、本来属している現在へ戻す。


そのためだけの神威だった。


「ただし、現代側とのつながりが残っていることが条件だ」


常盤が続けた。


「完全に向こうの人間にされて、こちらとのつながりが切れたら、俺にも今を測れねえ」


「そこで、僕の仕事です」


道上が言った。


「常盤さんの『今帰し』が波多野君を引くと、一九九五年側と現代側の間に、一時的な道ができます」


道上は、神威行使計画書の下へ、自分の書類を重ねた。


猿田彦系標準神威『道通し』。


「その道が閉じないように、波多野君が通り終わるまで保ちます」


「道上さんが、時間を動かすわけではない」


「はい。いつへ戻るかを決めるのは常盤さんです。俺は、できた道を通れるようにするだけです」


常盤が「いつ」を引き戻す。


道上が、そこへ通じる道を保つ。


二つの神威は、どちらも使用計画と決裁を通してあった。


「取り込まれた時、道上さんは先に切らないんですね」


波多野が確認した。


道上は頷いた。


「常盤さんが現代へ引く。俺が、その道を通す。波多野君が戻ったあとで、三〇七号室側を閉じます」


榊が波多野を見る。


「ですが、時間を戻すだけでは足りません」


「誰として戻るか」


「はい」


三〇七号室の本人にされたまま現代へ戻れば、また同じ時空に引かれる可能性がある。


「現代側から、あなたの名前を呼びます」


榊が言った。


「波多野承平。INARI運用課。あなたが今持っている名前と所属です」


「僕は、その呼びかけに返事をする」


「三〇七号室から呼ばれた名前ではなく、こちらから呼ばれた名前にです」


同じ名前でも、呼んでいる相手が違う。


誰の声に応えるか。


どこへ返事を届けるか。


足元のリュックが、わずかに動いた。


「応答先を、間違えるなということですね」


波多野が言った。


榊は頷いた。


「そのとおりです」


会議室が静かになった。


「改めて確認します」


榊が言った。


「参加する意思に、変わりはありませんか」


「ありません」


「危険を理解していますか」


「理解しています」


「理解していても、直前で中止できます」


「はい」


「現場での中止判断は、私が行います」


「分かりました」


榊は、波多野の顔をしばらく見ていた。


それから、書類を閉じた。


「実施します」


     ***


旧蓮見台団地は、以前と変わらない姿でフェンスの向こうに立っていた。


九月の強い日差し。


伸び放題の草。


黒い窓。


敷地へ入ると、外で鳴いていた蝉の声が遠くなった。


道上は、最初に外周封鎖を確認した。


団地の敷地から外へ、怪異が道を伸ばすのを抑えている封鎖だった。


札に破損はない。


杭にも乱れはない。


「外周、保っています」


次に、四階へ上がった。


四〇一号室の郵便受け前には、三日前に道上が張った予防封鎖が残っている。


常盤が端末を開いた。


黄色い印は、消えていない。


「昨日より濃い」


「封鎖は」


道上が測定器を向ける。


「通してはいません。ただ、押され続けています」


このまま長くは保たない。


四人は、三階へ下りた。


三〇七号室を中心に引かれた内側封鎖も、維持されていた。


廊下の床に置かれた札。


階段側へ引かれた封鎖線。


郵便受け前の札。


新しい結界を作る必要はない。


すでに閉じている場所の中へ、作業に必要な分だけ入口を開ける。


常盤は、三〇七号室前の床へ時刻同期機を置いた。


「日付と時刻だけじゃねえ。今ここにいて、俺たちと一緒にいる波多野承平。その状態を基準にする」


「はい」


道上は、郵便受けの前に立てられていた封鎖札へ手を伸ばした。


「ここだけ開けます」


外周封鎖は残す。


四〇一号室の予防封鎖も残す。


三〇七号室の内側封鎖も、ほかの部分は維持する。


返事が通る分だけ、一か所を開ける。


道上が札を外した。


その瞬間。


三〇七号室の奥で、紙を揃える音がした。


とん。


とん。


誰かが、封筒の角を机に当てている。


廊下の奥が、ゆっくりとにじんだ。


帽子。


肩から提げた大きな鞄。


白い手袋。


顔だけが、どうしてもはっきりしない男。


男は、三〇七号室の扉へ封筒を差し出していた。


「こちらで、よろしいですね」


声が、少し遅れて聞こえた。


波多野は答えなかった。


常盤が、時刻同期機を見る。


数字が少しずつずれ始めている。


「波多野」


「はい」


「今の返事は、俺にしたな」


「常盤さんにしました」


「それでいい。誰に答えたか、自分で分けろ」


波多野は、男ではなく、その後ろに残っているものへ意識を向けた。


誰かの霊ではない。


誰かの怒りでもない。


本人確認が終わるのを待ち続けている、空欄。


波多野は、ゆっくり口を開いた。


「本人所在、確認不能」


男の輪郭が揺れた。


「本件照会は、これをもって終了します」


一秒。


二秒。


三〇七号室の奥で、紙を揃える音が止まった。


時刻同期機の数字が、少しずつ近づいていく。


常盤の端末で、四〇一号室の黄色い印が薄くなった。


郵便受けに差さっていた白い封筒が、ゆっくりと奥へ引かれていく。


半分。


さらに半分。


最後に、蓋が閉じた。


かちゃん。


廊下を満たしていた冷たさが、薄くなる。


波多野は息を吐いた。


「終わったんですか」


その瞬間。


閉じた郵便受けが、内側から大きく震えた。


がたん。


一度。


がたん。


二度。


時刻同期機が、甲高い音を立てる。


「波多野、動くな!」


常盤が叫んだ。


時刻が、一斉に崩れた。


二〇二六年。


数字が逆へ流れていく。


二〇一〇年。


二〇〇〇年。


一九九五年。


三月。


二十日。


郵便受けの蓋が開いた。


白い封筒が勢いよく押し出される。


空欄だった宛名に、黒い線が走った。


波。


最初の一字だった。


「返事の中身を取ってねえ」


常盤が言った。


「応えたって事実だけを拾った!」


「波多野さん、下がってください!」


榊が叫んだ。


波多野は後ろへ下がろうとした。


足は動いた。


だが、周囲の方が先に変わった。


黒ずんでいた壁が、薄いクリーム色へ戻っていく。


手すりから錆が消える。


消えていた蛍光灯が、青白く点いた。


廊下の向こうから、テレビの音が聞こえた。


子どもの声。


食器の触れる音。


玄関扉の閉まる音。


団地に人がいた頃の生活音だった。


しかし、誰の姿もない。


同じ笑い声。


同じ食器の音。


同じ玄関の音。


何度も、同じ順番で繰り返している。


生きた人間の暮らしではない。


本人の帰りを待っていた場所が、待っていた頃の音だけを、際限なく再生している。


本当の一九九五年ではない。


三〇七号室が、本人の返事を待っていた状態だけを再現している場所だった。


「波多野君!」


道上の声が、遠くなる。


白い線が、三〇七号室から波多野の足元へ伸びていた。


道上が、封鎖札へ手を伸ばす。


その手が止まった。


「切れません」


「なぜです!」


榊が聞く。


「もう波多野君が向こう側にいる」


道上は、白い線を見たまま答えた。


「今切ったら、三〇七号室だけじゃない。波多野君まで、こちらから切れます。大丈夫、ここまでは計画通りです。」


道上は封鎖札を置かなかった。


「常盤さん!」


「分かってる!」


常盤は、神威行使決裁端末を操作した。


事前に承認された計画が表示される。


思兼神系中級神威『今帰し』。


使用資格、確認済み。


対象。


波多野承平。


現在時相からの離脱。


固定時点。


平成七年三月二十日。


帰還先。


神威実施時点。


常盤は、端末から吐き出された紙片を、時刻同期機の上へ置いた。


「過去を消すんじゃねえ」


常盤の声が、低く響いた。


「お前がいるべき今を、測るだけだ」


紙片に、現在の日付と時刻が浮かぶ。


「思兼神系中級神威――『今帰し』」


     ***


波多野は、三〇七号室の前に立っていた。


廊下は明るい。


壁はまだ新しい。


玄関扉の横には、きれいな部屋番号が付いている。


三〇七。


その下の名札へ、黒い文字が浮かんでいた。


波多野承平。


男が、波多野の前に立っている。


今度は、こちらを向いていた。


顔は見えない。


白い手袋に、一通の封筒。


宛名には、はっきりと書かれている。


波多野承平様。


旧蓮見台団地。


三号棟三〇七号室。


「波多野承平様ですね」


男が聞いた。


波多野は答えなかった。


「こちらで、よろしいですね」


三〇七号室の扉が、少し開いた。


室内には、古い靴箱がある。


壁に掛けられたカレンダー。


一九九五年三月。


台所から、料理をしているような音が聞こえる。


「お帰りなさい」


誰もいない部屋から、声がした。


三〇七号室が、波多野を待っている。


ずっと住んでいた本人として。


帰ってくるはずだった人間として。


男が封筒を差し出した。


「ご本人で、よろしいですね」


波多野の口が開きかけた。


同じ名前を呼ばれている。


波多野承平。


自分の名前だった。


自分の名前を否定すれば、自分まで失うような気がした。


その時。


廊下の遠くに、細い光が見えた。


光の向こうに、錆びた手すりがある。


剥がれた壁。


消えた蛍光灯。


令和の三号棟。


現在だった。


常盤の『今帰し』が、波多野のいる場所と、現在をつないでいる。


だが、道は細い。


今にも閉じそうに揺れていた。


「見つけた!」


遠くで常盤が叫んだ。


「道上!」


「はい!」


     ***


道上の決裁端末から、紙片が一枚吐き出された。


道上は、それを常盤の紙片と三〇七号室の間へ置いた。


常盤が作ったのは、波多野の現在へ伸びる細い接続だった。


道上は、その細い接続を、人が通れる道として保つ。


「猿田彦系標準神威『道通し』」


紙片が淡く光る。


閉じるための札ではない。


通していい方へ通すための札だった。


「常盤さんが見つけた今へ、波多野君を通します」


細かった光が、一本の道になる。


「波多野承平!」


榊が呼んだ。


男が、同じ名前を呼ぶ。


「波多野承平様ですね」


「INARI運用課!」


榊の声が続く。


「現在は、二〇二六年九月! 聞こえていますか!」


二つの声が、同じ名前を呼んでいる。


三〇七号室の本人として呼ぶ声。


神務庁の職員として呼ぶ声。


波多野は、光の向こうを見た。


榊がいる。


常盤がいる。


道上がいる。


自分が働いている場所。


自分が戻る時間。


「はい」


波多野は、光の向こうへ返事をした。


「波多野承平です」


細い道が、強く光った。


名札に浮かんでいた波多野の名前が、わずかに揺らぐ。


男が、もう一度封筒を差し出した。


「こちらで、よろしいですね」


波多野は、男を見た。


返事はしない。


男の後ろを見る。


三〇七号室。


その奥に残る、宛名のない空欄。


本人確認の問いを繰り返し続けている、未了の手続き。


最初の返事は、届く相手を分けきれなかった。


言葉は手続きへ向けたつもりだった。


だが、目の前の男に応えたものとして拾われた。


今度は違う。


波多野は、男ではなく、空欄へ向けて言った。


「三〇七号室に係る本人確認手続きへ返します」


男の動きが止まる。


波多野は続けた。


「本人所在、確認不能」


部屋の奥で、紙をめくる音がした。


「本件照会は、これをもって終了します」


しばらく、何も起きなかった。


男の手にある封筒から、波多野の名前が消え始めた。


一字。


また一字。


玄関横の名札からも、文字が薄れていく。


部屋の中から、無数の紙があふれ出した。


転居先確認票。


配達通知。


団地自治会のお知らせ。


回覧板。


宛名のない封筒。


紙は廊下を埋めるほど舞い上がり、やがて一斉に動きを止めた。


どこかで、判を押す音がした。


ばん。


一度。


もう一度。


ばん。


男の手元の書類に、赤い文字が浮かぶ。


本人所在確認不能。


照会終了。


男は、その文字を見下ろした。


それから封筒を鞄へ戻し、白い手袋で蓋を閉じた。


かちゃん。


「承知しました」


初めて、確認ではない言葉を口にした。


男は波多野へ背を向けた。


廊下の奥へ歩いていく。


一歩進むたび、姿が薄くなる。


最後には、帽子も、鞄も、白い手袋も消えた。


三〇七号室の扉が閉じる。


生活音が止まる。


蛍光灯が消える。


壁の色が剥がれ、手すりに錆が戻り始めた。


一九九五年を作り続けていた場所が、終わっていく。


同時に、現在へ続く道も細くなった。


「波多野さん、戻ってください!」


榊の声がする。


波多野は走った。


背後から、壁が崩れるように暗闇が迫ってくる。


一歩。


もう一歩。


光の向こうで、道上が紙片を押さえている。


「まだ通してますよ!」


道上が叫ぶ。


「だから早く帰ってきてください、波多野君!」


常盤の額から汗が落ちた。


『今帰し』が、波多野を現在へ引いている。


道上の『道通し』が、その帰路を閉じないように保っている。


光の向こうから、榊が腕を伸ばした。


「波多野さん!」


波多野も手を伸ばす。


指先が触れた。


榊が手首をつかむ。


道上が、もう片方の腕をつかんだ。


二人で引く。


波多野の体が、現在の廊下へ倒れ込んだ。


「戻りました!」


道上が叫ぶ。


それを確認してから、道上は『道通し』の紙片を引いた。


白い道が閉じる。


続けて、最初に外した封鎖札を郵便受けの前へ戻す。


「ここから先は、通しません」


札が淡く光った。


今度は、波多野を向こうへ残してはいない。


三〇七号室側だけが、封鎖の内側へ戻る。


時刻同期機の数字が止まった。


四人の時計。


榊の端末。


道上のスマートフォン。


すべてが、同じ現在時刻を示していた。


     ***


波多野は、廊下に手をついたまま息を吸った。


コンクリートの埃。


古い鉄。


九月の湿った空気。


現在の匂いだった。


「名前」


常盤が言った。


「波多野承平」


「所属」


「INARI運用課」


「今いる場所」


「旧蓮見台団地、三号棟三階」


「今は」


波多野は、時刻同期機を見た。


「二〇二六年九月です」


常盤は、ようやく息を吐いた。


「戻ってる」


榊は、まだ波多野の手首を離していなかった。


「体調は」


「気持ち悪いです」


「立てますか」


「たぶん」


「たぶんでは立たないでください」


榊の声は静かだった。


だが、波多野の手首をつかむ指が、わずかに震えていた。


足元のリュックが動く。


「承平」


あぶさんの声がした。


「はい」


「今の返事は、わしにしたな」


波多野は、少しだけ笑った。


「しました」


「ならよい」


あぶさんは、それ以上何も言わなかった。


     ***


三〇七号室の郵便受けから、白い封筒が一通、床へ落ちた。


誰もすぐには触れなかった。


常盤が、少し離れた位置から確認する。


住所は残っている。


旧蓮見台団地。


三号棟三〇七号室。


日付。


平成七年三月二十日。


宛名は空欄だった。


裏面には、赤い判が二つ押されている。


本人所在確認不能。


照会終了。


常盤は端末を開いた。


四〇一号室の集合ポストに付いていた黄色い印が、消えている。


三〇七号室から伸びていた配達経路も見当たらない。


「閉じた」


常盤が言った。


「今度は、止めただけじゃねえ」


道上は、封筒を回収せず、封鎖の中へ残した。


「今日は外しません」


外周封鎖。


四〇一号室側の予防封鎖。


三〇七号室周辺の内側封鎖。


異常が消えたように見えても、その場ですべて解除はしない。


再発がないことを確認してから、順番に外す。


「経過観察は一週間」


常盤が言った。


「時相ずれと住所反応、両方見る」


榊が頷いた。


「今日は撤収します」


それから波多野を見る。


「波多野さんは、庁舎へ戻り次第、医務室へ行ってください」


「報告書は」


「私が書きます」


「でも、僕が聞いたことは」


「あとで聞きます」


榊は、はっきり言った。


「今は、現在へ帰ることが仕事です」


波多野は何も言えず、うなずいた。


     ***


夜。


榊礼司は、旧蓮見台団地案件の結末報告を開いていた。


使用神威。


思兼神系中級神威『今帰し』。


使用者、常盤。


使用目的、時相境界内へ取り込まれた職員の現在時相への帰還。


結果、成功。


次。


猿田彦系標準神威『道通し』。


使用者、道上。


使用目的、帰還経路の一時維持。


結果、成功。


どちらにも、決裁番号がある。


使用者がいる。


目的がある。


結果がある。


その下に、別の欄があった。


未了手続に対する応答。


実施者、波多野承平。


応答内容。


本人所在確認不能。


本件照会は、これをもって終了。


結果。


住所・配達経路型反応および時相境界異常の停止。


使用神威。


榊は、そこで手を止めた。


波多野は神威を使ったのか。


声を聞いた。


返事を届ける相手を選んだ。


名前を呼ばれ、自分の名前へ戻った。


それだけだった。


だが、それだけで三十年近く終わらなかった手続きが閉じた。


榊は、使用神威欄へ入力した。


該当なし。


続けて、備考欄を開く。


『通常ログ外の情報を認識し、応答先を選択した可能性あり。詳細な作用機序、能力帰属および再現性は未確認』


それ以上は書けなかった。


分からないことを、分かった形にはできない。


だが、なかったことにもできない。


榊は保存ボタンを押した。


画面に、提出先が表示される。


通常決裁ルート。


神務情報基盤局長。


危機管理局。


そして、長官室。


旧蓮見台団地三号棟三〇七号室の宛名欄は、空欄のまま閉じた。


代わりに今度は、波多野承平が何をしたのか。


その欄が、神務庁の中で開いた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


三〇七号室の宛名欄は閉じました。

しかし今度は、波多野が何をしたのか――神務庁の側に、新しい空欄が残りました。


次回、第一部の区切りへ向けて、波多野とあぶさんの関係が正式に問題になります。


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