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【第一部完結】タカマガハラの神務官 〜神様の力を使うのに必要なのは、祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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第28話 三本目の線

今回は、旧蓮見台団地に戻ろうかと思いましたが、菅野長官の視点を入れました。


一件なら偶発。

二件なら傾向。

三件目からは、制度の話になります。


第28話 三本目の線




九月に入っても、長官室の決裁書類は減らなかった。


菅野正継は、そのことに苛立ちを覚えない。


減らないのが当たり前で、減ったら何かがおかしい。


役所というのは、そういう場所だ。


夏の間に積み上がったものが、秋の初めに一斉に返ってくる。


来年度概算要求の庁内調整。


特殊収蔵区画の使用率報告。


国家結界維持費の四半期執行状況。


神威使用に伴う補償案件の集計。


窓の外には、まだ夏の名残のような強い光があった。


だが、朝の空気には、わずかに秋が混じり始めている。


神も、祟りも、呪物も、役所が扱う以上は一枚の書類になる。


書類にするには、名前がいる。


区分がいる。


誰が、何を、どの権限で扱ったのか。


その帰属がいる。


菅野は、それを面倒だとは思わない。


数字にできないものを、数字にできないまま抱え込むことの方が、よほど恐ろしい。


午前の書類束の中に、境界対策課経由の一件があった。


差出元は、危機管理局・境界対策課・時相境界班。


起票者、常盤。


『旧蓮見台団地関連時相境界異常に係る第一次現地対応結果報告』


菅野は、その一枚を手に取った。


時相境界班という部署のことは知っている。


時間のずれや、過去の状態が現在へ重なる事象を扱う、小さな班だ。


最良の仕事をした時ほど、成果は「何も起きなかった」という形でしか残らない。


予算を付けるのが難しい種類の仕事だった。


だが、気づかれないものを見張る人間は、どこかに必要だ。


起票者の常盤についても、断片的に知っている。


出世に興味がなく、書くものは常に事実だけ。


解釈を混ぜない。


分かっていないことを、分かっていないまま書く。


そういう人間の書いた書類は、読みやすい。


信用もできる。


菅野は、頭からゆっくり目を通した。


配達経路の一時封鎖。


配達を担う存在の像および反応の確認。


呪具呪物管理課、INARI運用課との所見整合。


そこまでは、行政文書として何の問題もなかった。


問題は、添付資料の三枚目だった。


『非ログ所見(INARI運用課・波多野承平起票分)』


菅野の指が、そこで止まった。




     ***




波多野承平。


その名前には、覚えがある。


覚えがある、というのは正確ではない。


菅野は、その名前を、自分の手で残していた。


最初は、市松人形の鑑定案件だった。


七月の下旬。


神務庁へ持ち込まれた古い市松人形の反応が、鑑定の途中で消えた。


解除確認。


そう書かれた書類が、菅野のところまで上がってきた。


菅野は、その言葉の軽さが気に入らなかった。


解除されたのか。


消えたのか。


消したのか。


どれも似ているようで、行政的にはまったく違う。


解除なら、誰かが解除した。


消えたなら、自然に消えた。


消したなら、誰かが処理した。


主語が違えば、責任の所在が変わる。


責任の所在が変われば、残すべき記録も変わる。


その書類で、初めて名前を見た。


波多野承平。


文化庁からの出向者。


正式受入なし。

占有移転なし。

処理記録なし。


持参者、波多野承平。


菅野は、書類の余白に記した。


次回関与案件、要記録。


本人には伝えるな。余計な自覚は観測値を歪める。


二度目は、水上様案件だった。


旧水路跡に残された祠状構造物。

現場封緘中に確認された、発生源不明の白い線状反応。

系統未確定。


榊礼司から、正式な報告は上がってこなかった。


だが、神務情報基盤局への照会という形で、痕跡は残った。


その照会者の中に、波多野承平の名があった。


菅野は、その時も記録を残した。


波多野承平。関与案件照会。神務情報基盤局、神務資料管理局、双方確認。


あれから、いくつかの案件を挟んだ。


夏が深まり、盆が過ぎ、九月になった。


その間、榊はまだ上げてきていない。


あの男なら、気づいていないはずがない。


気づいていて、まだ上げていないのか。


あるいは、上げるための名前を探しているのか。


分類できないものを、そのまま報告するような男ではない。


かといって、見なかったことにする男でもない。


榊礼司について、菅野はそう評価していた。


そして今、三度目が来た。


菅野は、常盤の報告書に添付された、波多野起票の非ログ所見をもう一度読んだ。


『声、祈り、怒り等の主体的反応は現時点で感知せず。ただし、相談者本人ではなく、相談者に対する宛先に関する反応が旧蓮見台団地三号棟三〇七号室へ向いている印象あり』


誰であるかは見ていない。


応えたかどうかだけを見ている。


そう読める書き方だった。


この所見は、通常のINARI照会手順を経て書けるものではない。


菅野には、それが分かった。


INARIの通常画面に表示されるのは、地域中継点単位で集約された反応までだ。


個人の宛先の向き。

問いの対象。

応答の有無。


そうした粒度の情報は、匿名化と抽象化の過程で削られる。


削られて、消えるはずのものだ。


波多野承平は、それを書いている。


一件は、偶発。


二件は、傾向。


三件は、制度の話だ。


菅野は、最初の記録を残した時、そう線を引いた。


その三件目が、今、机の上にあった。




     ***




しかし。


菅野は、そこで一度、自分を止めた。


一枚ずつなら、説明できる。


市松人形の反応消失は、経年による自然な減衰だったのかもしれない。


水上様の白い線は、複数の神威が交錯した現場での、一時的な誤認だったのかもしれない。


旧蓮見台の非ログ所見は、感度の高い適合者が、経験を積んだ結果なのかもしれない。


どれも、それだけなら、行政文書として処理できる。


問題は、並べた時だった。


並べると、嫌な形になる。


菅野は、その言い方を自分でも気に入らなかった。


嫌な形、というのは感覚の言葉だ。


行政文書には向かない。


だが、他に言いようがなかった。


波多野承平という職員は、通常のINARI照会では届かない場所から、情報を持ち帰ってきている。


その情報の出どころが、どこにも記録されていない。


照会ログはない。

権限申請もない。

決裁もない。


ただ、結果だけがある。


菅野の頭頂部で、紫がかった細い火花が、小さく鳴った。


バチ。


結果の帰属が、追えない。


それは、菅野が最も嫌う種類の空白だった。




     ***




なぜ、自分はそれをこれほど嫌うのか。


菅野は一瞬だけ、古い記憶の前に立った。


力と、その力が生んだ結果。


それが自分のものなのか、別の何かのものなのか。


境目が曖昧になる場所に、かつて菅野自身も立ったことがある。


その時、何を選んだのか。


なぜ、その選択をしたのか。


今、開く必要はなかった。


菅野は、記憶の扉から手を離した。


完全に閉じても、疼きだけは残る。


帰属の曖昧さを前にすると、その古い疼きが、背中の方でわずかに動く。


だから、菅野は見落とさない。


責任の所在が消える怖さを、知っている。




     ***




長官室の隅に、いつのまにか男が座っていた。


烏帽子。

古い装束。

整った姿に似合わない、どこか気難しそうな顔。


菅原道真公。


かつて怨霊として恐れられ、のちに天神として祀られた神である。


そして、菅野正継が直接契約を結ぶ神格でもあった。


神務庁では通常、国と神格が結んだ包括契約を通じて、職員が神威を使う。


だが、ごくまれに、神格と個人が直接つながることがある。


その関係を神務庁が審査し、登録した者を、認定直接契約者と呼ぶ。


神務庁の歴史上、数えるほどしかいない。


菅野正継は、天神系の認定直接契約者だった。


だから、道真公が菅野の傍らにいても、庁舎の結界も、庁内の神威監視系も異常として扱わない。


契約者。

契約神格。

認定区分。

神威を行使した際の帰属。


その関係は、すでに記録されている。


道真公は普段、菅野の傍らで気配を消している。


興が乗った時だけ、姿を見せる。


今、その顔に不機嫌さはなかった。


むしろ、面白いものを見つけた顔をしていた。


道真公は、菅野の手元の書類を横から覗き込んだ。


「ほう」


低い声が、少し愉快そうに響いた。


「また一人、名を拾われた者がおるな」


菅野は、顔を上げなかった。


「今は業務中です」


「見ておるだけじゃ」


道真公は、それ以上何も言わなかった。


制度の側から見た違和感と、神格の側から見た気配。


別々の場所から、同じ名前を指している。


それは菅野にとって、一枚の書類より重い符合だった。




     ***




菅野は、しばらく机の上の書類を見ていた。


これを、どう扱うか。


選択肢は、いくつかある。


一つ。


今すぐ波多野承平を長官室へ呼び、事情を聴取する。


却下した。


分からないものを、分からないまま呼びつけても、本人を驚かせるだけだ。


波多野自身が、何をどこまで自覚しているのかも分からない。


自覚していない人間を問い詰めれば、観測値が歪む。


二つ。


榊礼司に、正式な報告を求める。


これも、まだ早い。


榊は、報告を怠るような職員ではない。


その男が上げていないのなら、まだ名前を付けられない理由がある。


上から無理に引き出せば、榊が見ているものまで潰す可能性がある。


今は、もう少し見させた方がいい。


三つ。


何もしない。


これは、選択肢にならない。


分類不能を理由にした無期限放置を、菅野は行政として許さない。


封緘は処理ではない。


一時停止だ。


様子見という言葉で、放置を正当化してはならない。


残るのは、一つだった。


観測する。


菅野は端末を開いた。


神務情報基盤局と神務資料管理局に、照会を一件追加する。


波多野承平、関与案件、継続照会。


以前から続けている指示の、更新にすぎない。


次に、境界対策課宛てに、短い一文を送った。


『旧蓮見台団地案件について、対応完了後の結末報告は、通常決裁ルートと並行して、長官室へも直接提出のこと』


異例の指定だった。


だが、権限の範囲内ではある。


最後に、菅野は手元のメモへ三行だけ書き足した。


波多野承平。三件目。


情報の出どころ、記録なし。


本人には、まだ伝えるな。


ペンを置く。




     ***




この符合を、今、共有できる相手はいなかった。


榊は、観測対象を抱える当事者だ。


道真公は、神格であって同僚ではない。


幹部を集めて議題にするには、まだ形になっていない。


形になっていないものを会議にかければ、結論より先に噂だけが歩き始める。


結局、長官という椅子は、最後に一人で決めるためにある。


菅野は、冷めかけた茶を一口飲んだ。


分からないものを、分からないまま処理してはいけない。


同時に、分かってもいないことを、分かったふりで処理してもいけない。


旧蓮見台の結末が出るまで、見る。


今は、それでよかった。


九月の光が、窓から斜めに差し込んでいた。




     ***




同じ頃、庁舎の別の階で。


波多野承平は、通常業務の端末に向かっていた。


旧蓮見台の件には、今は触れないでください。


榊にそう言われて、三日目だった。


触れないでいることが、こんなに難しいとは思わなかった。


健太のことを考える。


拓海のことを考える。


真由のことを考える。


空欄のままの、あの宛名を考える。


足元のリュックが、小さく動いた。


「承平」


あぶさんの声は、いつもより低かった。


「なんですか」


「天神が、こちらを見ておるのう」


波多野は、手を止めた。


「天神」


「うむ」


あぶさんは、それ以上説明しなかった。


波多野には、意味が分からなかった。


天神といえば、学問の神様。


その程度の知識しかない。


なぜ今、そんな言葉が出てくるのか。


あぶさんに聞いても、はぐらかされるだけだと分かっていた。


波多野は、リュックの中の気配に、それ以上触れなかった。


窓の外は、九月の光だった。


長官室のある階とは、フロアが違う。


距離にすれば、大したことはない。


けれど波多野には、そこで何が起きているのか、知る術がなかった。


三本目の線が引かれた時、それはもう、傾向ではなく、制度の話になっていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


菅野正継が天神系の認定直接契約者であることを、今回初めて明かしました。


波多野とあぶさんの関係は、まだ名前も、区分も、責任の所在も定まっていません。

けれど、制度の側はついに、その存在を見始めました。


次回こそ、旧蓮見台団地へ戻ります。


毎日読んでくださってる方、ありがとうございます。

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