第31話 分類不能
ここまで続いた第一部も、今回で一区切りです。
波多野が隠していたものを自分の言葉で明かし、神務庁もまた、それを正式に受け取ります。
第一部の最後まで、お付き合いいただければうれしいです。
第31話 分類不能
午後二時五分。
波多野承平は、榊礼司と並んで長官室の前に立っていた。
扉の横には、小さな表示灯がある。
在室。
昨日は、旧蓮見台団地三〇七号室に取り込まれた。
今日は、神務庁長官に呼ばれている。
どちらが怖いかと聞かれれば、答えは出なかった。
足元のリュックが、小さく動く。
「静かにしてください」
波多野が小声で言う。
「まだ何も言っておらん」
「先に言っておきました」
「失礼な男じゃ」
榊がリュックへ目を落とした。
「姿を見せるのは、長官から求められてからにしてください」
「聞こえておるぞ」
「それも承知しています」
榊は二度、扉を叩いた。
「INARI運用課、榊です。波多野承平を連れてまいりました」
「どうぞ」
落ち着いた声が返る。
榊が扉を開けた。
長官室は思っていたより質素だった。
大きな机。
壁一面の書棚。
来客用の応接机。
窓から見える霞ヶ関。
ただ一つだけ違うのは、机の上に積まれた書類だった。
旧蓮見台団地。
水上様。
継続照会。
波多野承平。
見覚えのある案件名が並んでいる。
その向こうで、菅野正継が顔を上げた。
「お掛けください」
二人は席に着いた。
波多野はリュックを足元へ置く。
菅野は一枚目の書類を開いた。
「まず確認します」
声は静かだった。
「本日提出された申告内容に、虚偽はありませんか」
「ありません」
「榊課長」
「私の面前で、波多野さん本人と、申告にあった稲荷眷属の双方から確認しました」
「分かりました」
菅野は一枚ずつ紙をめくる。
「花川戸界門案件」
一枚。
「INARIログへの未承認変更」
一枚。
「稲荷の網への接触」
一枚。
「水上様案件」
一枚。
「旧蓮見台団地」
紙を閉じる。
「ずいぶん、ためましたね」
波多野は背筋を伸ばした。
「申し訳ありません」
「花川戸から、およそ三か月」
「はい」
「その間、未登録の存在を庁内へ持ち込み、基幹システムへの干渉を確認し、複数案件へ同行させていた」
淡々と言われるほど、事の重大さが分かる。
「もう少し早い方が助かりました」
「はい」
「もっとも」
菅野は小さく笑った。
「私も、人のことばかり責められる立場ではありません」
波多野が顔を上げる。
「私も昔、一度だけ似たことをしました」
「長官がですか」
「大蔵省へ初めて出勤した日です」
頭上で、小さく紫色の火花が弾けた。
「その時は、大変なことになりました」
それ以上は語らない。
だが、その一言だけで十分だった。
「ですから、申告が遅れたことだけを責めるつもりはありません」
「ありがとうございます」
「ただし」
菅野は苦笑した。
「次からは、もう少し早くお願いします」
「はい」
「同じ種類の次があれば、ですが」
波多野は思わず苦笑した。
菅野は榊へ視線を向ける。
「榊課長」
「はい」
「あなたは、いつから違和感を持っていましたか」
「花川戸の直後です」
「理由は」
「INARIログです」
榊は迷わず答えた。
「その後、木曽谷、水上様、杉沢精機、旧蓮見台と、通常のINARI照会では説明できない所見が重なりました」
「報告を上げなかった理由は」
榊は一度だけ息を吸った。
「計りかねていました」
「何を」
「波多野さんに起きている現象です」
榊は菅野を真っすぐ見る。
「能力なのか、適性なのか、外部からの作用なのか。それが判断できませんでした」
「だから課内で観察した」
「はい」
「有用性も考えました」
少しだけ目を伏せる。
「通常画面で失われる情報を補えるなら、INARI運用上は有益です」
「しかし」
「取得範囲が分からない。再現性もない。本人への負荷も大きい。結果の帰属も整理できない」
「私の権限では判断できませんでした」
菅野は静かにうなずいた。
「慎重なのは結構です」
少しだけ間を置く。
「ですが、慎重であることと、抱え込むことは違います」
「……はい」
「あなたが判断できないものは、私が判断します」
「申し訳ありませんでした」
榊は頭を下げた。
「謝罪は受け取ります」
そこで話は終わった。
責めるためではない。
線を引くためだった。
菅野は、ようやく足元のリュックへ視線を向けた。
「では」
少しだけ間を置く。
「申告にあった存在に、姿を見せてもらえますか」
波多野は榊を見る。
榊が小さくうなずいた。
「あぶさん」
「ようやくか」
リュックの口が押し上げられる。
白い狐が机へ飛び乗った。
額の朱色の文様。
金色がかった瞳。
菅野は驚かなかった。
ただ、静かに観察する。
「あぶさん、と申しましたね」
「そうじゃ」
「私は菅野正継です」
「知っておる」
「私もですか」
「承平の近くにおる者は分かる」
「なるほど」
菅野は一つうなずいた。
「稲荷の眷属で間違いありませんか」
「人間の分類ならな」
「稲荷神ではない」
「違う」
「稲荷の網へは触れられる」
「触れられる」
「INARIにも」
「その気になればな」
そこで菅野は質問を止めた。
十分だった。
能力の詳細よりも、届くかどうかが重要だった。
「波多野さん」
「はい」
「簡単な確認をします。見ようとはしないでください」
「はい」
菅野は一枚の書類を裏返した。
「今、この部屋で何か見えますか」
「特には」
「では、これはどうでしょう」
波多野は何気なく書類へ目を向けた。
文字は見えない。
読めるはずもない。
それなのに。
書類と菅野の間へ、一本の紫色の線が伸びていた。
波多野は息を止めた。
線へ触れたつもりはない。
ただ、何がつながっているのかと思っただけだった。
次の瞬間、言葉が流れ込んだ。
認定直接契約者。
道真系。
契約神格、菅原道真公。
接触開始、高校一年。
神務庁捕捉。
大蔵省初出勤時。
そこで、長官室の空気が変わった。
重い。
息ができない。
肩が動かない。
机の上の書類が一斉に浮き上がり、その縁を紫色の火花が走った。
バチン。
乾いた音が部屋を打つ。
あぶさんが四肢を立て、低く身を伏せていた。
朱色の文様が強く浮かび、尾が大きく膨らんでいる。
榊も動かない。
いや。
動けないのだと、波多野は気づいた。
菅野だけが、椅子に座ったまま波多野を見ていた。
その背後に、古い装束の男が立っている。
烏帽子。
古い装束。
冷たい目。
姿が大きいわけではない。
それでも、長官室も、庁舎も、霞ヶ関も、その男の気配の内側に置かれているように感じた。
波多野は、荒御魂が神威を振るう現場を見たことがない。
荒岩が本気で戦う姿も知らない。
それでも、この人より強い者が神務庁にいるとは思えなかった。
理屈ではない。
体が先に、そう理解していた。
菅野正継が振るった力ではない。
菅野正継が、わずかな言葉で抑え込んでいる力だった。
「そこまでです」
菅野が言った。
火花が消えた。
圧力も、一瞬でなくなる。
浮いていた紙が机へ落ちた。
菅野は背後を見なかった。
「事情聴取中です。出ないでください」
古い装束の男は、しばらく菅野を見ていた。
やがて、低く笑った。
その姿が消える。
波多野は、ようやく息を吸った。
「……すみません」
「謝罪ではなく、事実を話してください」
菅野の声は、先ほどまでと同じだった。
「何が見えましたか」
波多野は乾いた喉を鳴らした。
「長官が、道真系の認定直接契約者であること」
「続けてください」
「契約相手が、菅原道真公であること」
菅野の表情は変わらない。
「接触が、高校一年からだったこと」
「それから」
「神務庁に捕捉されたのが、大蔵省へ初めて出勤した日だったことです」
「その情報を、以前に聞いたことは」
「ありません」
「書類の文字は見えましたか」
「見えていません。裏返っていました」
「自分から接続しようとしましたか」
「していません」
「何を考えていましたか」
波多野は、自分の手を見た。
何にも触れていない。
「書類と長官の間に、何があるのかと思いました」
あぶさんが、低く言った。
「縁を借りたのじゃ」
菅野が視線を向ける。
「あなたが見せたのではない」
「違う」
「波多野さん自身が、記録と私の縁をたどった」
「端を読んだだけじゃ」
菅野は、裏返した書類を手元へ引いた。
その記録は、波多野の職位では存在していることすら確認できない。
端末も使っていない。
認証もしていない。
閲覧権限も通していない。
それでも、中身へ届いた。
「今、ほかにも見えますか」
「分かりません」
「探せば見つかりそうですか」
波多野は、部屋の中を見ないようにした。
「探したくありません」
「なぜです」
「見ていいものか分からないからです」
菅野は数秒、波多野を見た。
「適切な判断です」
それから榊へ視線を移す。
「これは、INARI運用課で有用性を検討する段階ではありませんね」
榊は頭を下げた。
「おっしゃるとおりです」
菅野は、あぶさんへ向き直った。
「あなたは、波多野さんを選んだ」
「選んだ覚えはない」
「声を聞く素質があることは分かっていた」
「耳がよかった」
「名を与えられ、接続した」
「名をもろうた。それだけじゃ」
「何のためですか」
あぶさんは答えなかった。
「波多野さんを通じて、何をするつもりですか」
「何も」
「神務庁へ干渉する目的は」
「ない」
「INARIへ触れられる存在が、INARI運用課の職員と契約している」
菅野は、淡々と事実を置いた。
「偶然としては、出来すぎています」
「世の中には、そういうこともある」
「気まぐれですか」
「気まぐれじゃ」
「本当に?」
「たまたま近くにいて、たまたま声が聞こえて、たまたま暇だった」
波多野は、初めて会った夜にも同じ答えを聞いた。
「最後だけ、あまり信用できませんね」
「承平にも言われた」
あぶさんは、少しだけ尾を動かした。
菅野は笑わなかった。
「花川戸の界門を開いたのは、あなたですね」
「手を貸した」
「ログを変更した」
「整えた」
「水上様案件で、水の流れを外した」
「少しな」
「波多野さんが命じたのですか」
「命じられてはおらん」
「あなた自身の判断で行った」
「そうとも言う」
菅野は短く記録した。
「今後、波多野さんの意思を、神威使用の指示として扱わないでください」
「無理じゃ」
波多野と榊が同時にあぶさんを見る。
菅野は表情を変えない。
「なぜです」
「承平の声は聞こえる」
「聞こえることと、行動することは別です」
「わしが何をするかは、わしが決める」
菅野はペンを置いた。
「そこが、一番の問題ですね」
部屋が静かになった。
波多野の中に生じた願いを、別の存在が拾う。
命令もない。
決裁もない。
それでも、あぶさんの判断で現実へ介入する。
そして波多野自身は、意図しないまま権限外の情報へ届いた。
菅野は、しばらく黙っていた。
これまでの記録だけなら、波多野の高い適性として扱う余地はあった。
だが、今起きたことは違う。
人間側の閲覧権限を通さず、秘匿された管理記録へ届いた。
しかも、本人に明確な意思すらない。
これは、思っていたよりまずい。
菅野は顔を上げた。
「結論をお伝えします」
波多野が姿勢を正す。
「しばらくの間、INARI関係の業務から外れてください」
「処分でしょうか」
「いいえ。安全措置です」
菅野は、波多野とあぶさんを順に見た。
「能力の全容が分かっていません。お二人の関係も、制度上の位置付けが定まっていません」
「はい」
「通常業務を続けながら確認するには、INARI運用課は近すぎます」
榊が口を開く。
「長官」
「今、あなたを責めているわけではありません」
菅野が静かに止めた。
「波多野さんを、通常業務へ戻せないという判断です」
榊は黙った。
「当面、庁内端末へのアクセスを停止します。庁舎への出入りも、必要な範囲に限ります」
「はい」
「今日から、宿舎へ移ってください。空きがなければ、近隣のホテルを手配します」
「自宅には」
「必要な荷物を取りに戻ることはできます。職員を同行させます」
あぶさんが鼻を鳴らした。
「隔離か」
「そう受け取ってもらって構いません」
「承平は何もしておらん」
「分かっています」
「ならば、なぜ閉じる」
「何もしていないことと、何も起こらないことは別です」
菅野の声は穏やかだった。
「波多野さんを罰するためではありません」
「では、わしを閉じるためか」
「あなたを閉じられるかどうかも、まだ分かっていません」
あぶさんの目が細くなる。
菅野は視線を逸らさない。
「だから、分からないままINARIの隣には置けません」
やがて、波多野が言った。
「分かりました」
榊が波多野を見る。
「長官の判断に従います」
「ご協力ありがとうございます」
菅野は書類を閉じた。
「榊課長」
「はい」
「宿舎またはホテルの手配をお願いします。窓口も、当面はあなたが担当してください」
「承知しました」
「ただし、判断は抱え込まないように」
わずかに嫌味が混じった。
榊は、まっすぐ受け止めた。
「承知しました」
「波多野さん」
「はい」
「自分から申告したことは、適切でした」
波多野は少し驚いた。
「遅くはありましたが」
「はい」
「次に何か気づいた時は、三か月ためずにお願いします」
「分かりました」
「今日は以上です」
榊と波多野が立ち上がる。
あぶさんは机から降り、リュックへ入ろうとした。
「最後に一つ」
菅野が呼び止める。
あぶさんが振り返った。
「波多野さんと一緒にいる理由は、本当に気まぐれですか」
あぶさんは、しばらく菅野を見た。
「今は、それでよい」
「今は」
「先のことまで、役所に申告する義理はない」
菅野は数秒、あぶさんを見返した。
「分かりました」
分かってはいない顔だった。
あぶさんはリュックへ入った。
榊と波多野は一礼し、長官室を出た。
***
廊下を歩きながら、波多野は息を吐いた。
「隔離、されるんですね」
「そうですね」
榊は否定しなかった。
「INARIから外れるのは、少し寂しいです」
「戻れないと決まったわけではありません」
「はい」
リュックの中から声がした。
「窮屈な役所じゃ」
榊が答える。
「あなたがログを書き換えたからです」
「整えただけじゃ」
「その言い方は、もう通りません」
波多野は、少しだけ笑った。
明日からどうなるのかは分からない。
ただ、朝までとは違う。
もう、隠していることはなかった。
***
二人が去ったあと、長官室は静かになった。
菅野は、机の上の書類を重ねた。
波多野承平からの自発的申告。
旧蓮見台団地案件の結末報告。
継続照会の記録。
そして、裏返した管理記録。
机の横に、古い装束の男が姿を現した。
菅原道真公だった。
「面白い男であるな」
「私は、そうは思いません」
菅野は書類の角を揃えた。
「嘘を申すな」
「業務上の評価です」
道真公は、裏返された管理記録へ目を向けた。
「我とのことまで見たか」
「一部だけです」
「一部で済むと思うか」
「済まないでしょうね」
菅野は申告書を閉じた。
神威なら、管理できる。
適合者なら、登録できる。
直接契約者なら、制度がある。
だが、これは違う。
制度の外から、制度の中へ手を伸ばしている。
しかも、本人にその自覚がない。
菅野は椅子から立ち上がった。
机の横の収納を開く。
中には、庁内連絡先一覧とは別に、一枚の古い紙が入っていた。
役職名はない。
所属もない。
名前と電話番号だけ。
前島巌。
菅野は紙を机へ置いた。
受話器を取る。
番号を一つずつ押した。
呼び出し音が鳴る。
一度。
二度。
三度。
相手が出た。
菅野は背筋を伸ばした。
「ご無沙汰しております」
少し間を置く。
「菅野です」
机の上の申告書へ目を落とす。
「ご相談したい案件があります」
電話の向こうで、何か声がした。
菅野は静かに答えた。
「はい」
「未登録です」
この稿をそのまま投稿版として使えます。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『タカマガハラの神務官』第一部は、これにて完結です。
花川戸で出会った白狐と、名もないまま始まった関係は、ついに神務庁という制度の前へ姿を現しました。
波多野とあぶさんが何者なのか。
神務庁は、二人をどう扱うのか。
そして、最後に菅野が電話をかけた相手は誰なのか。
物語は、ここから次の段階へ進みます。
少し間をいただいたのち、第二部を開始する予定です。
ここまで見届けてくださった皆さまに、心から感謝します。
少し休憩を入れてから再開しますので、その間にぜひ評価・ブクマお願いします…。
皆様に読んでいただける喜びがある故続けられておりますので、、、




