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【第一部完結】タカマガハラの神務官 〜神様の力を使うのに必要なのは、祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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第26話 配達再開

第26話です。


旧蓮見台団地の現地確認に入ります。


INARIの通常画面では異常なし。

けれど、波多野の非ログ所見だけが、現地へ近づいていきます。

第26話 配達再開




出発の朝、波多野承平はINARIの通常画面を開いた。


旧蓮見台団地跡地。

相談者宅。

同行者宅。

同行者生活圏。


照会結果は、前回確認時から変わっていない。


『顕著な神気濃度上昇、稲荷系反応上昇、稲荷系接続を示す表示変動は確認されない』


異常なし。


波多野は、その文字をもう一度読んだ。


今日、自分はINARI照合担当として現地入りする。


そう聞いている。


けれど、照合するべき数字は、もう出そろっている。


出そろっていて、そこには何もない。


何もないものを、何と照合するのだろう。


隣の席で、榊が端末を閉じる音がした。


「波多野さん」


「はい」


「準備はいいですか」


「あの」


波多野は、少しだけ迷ってから聞いた。


「僕、今日、何を照合すればいいんでしょうか」


榊は、一瞬だけ手を止めた。


「現地の実態と、先日の照会であなたが残した所見です」


「非ログ所見、ですか」


「はい」


「それは、照合って言うんでしょうか」


榊は、眼鏡の位置を軽く直した。


「言うことにしています」


その答え方が、いつもと少し違う気がした。


聞けば、もう少し何か分かるのだろう。


けれど、聞くのが少し怖かった。


波多野は、それ以上聞かなかった。


リュックを背負い、席を立つ。


足元で、リュックの重みだけが、いつも通りだった。




     ***




旧蓮見台団地は、朝でも暗かった。


フェンスの破れ目から中を見ると、同じ形の棟が三つ、灰色に並んでいる。


窓はどれも黒い。


消灯している、というより、電気の通っていた記憶ごと抜き取られたような黒さだった。


「入口が、ないですね」


波多野は、思わずそう言った。


「入口?」


道上が振り返る。


「杉沢精機の時は、赤い鳥居と、狐像と、供え物台がありました。会社の稲荷が、入口でした」


波多野は、フェンスの向こうを見た。


「ここには、それがありません。祠も、鳥居も、狐もいない。なのに」


「気配だけは、ある」


道上が、後を引き取った。


「そうです」


「嫌な現場ですねー」


道上は、いつもの軽さで言った。


けれど、目は笑っていなかった。




     ***




道上は、フェンスの破れ目から中に入ると、まず導線を引き始めた。


結界杭を打ち、簡易封鎖札を要所に立てる。


「今日、俺が最初にやるのはこれです」


杭を一本打ちながら、道上は言った。


「通っていい道と、入っちゃいけない場所を分ける。三号棟三〇七号室まで、この線の上だけ歩いてください」


「境界対策課の仕事、ですね」


「そうです。閉じる道と、残す道を決める。それ以外は、勝手にしません」


榊が頷いた。


その後ろで、常盤が肩から下ろした鞄を開け、時刻同期機を取り出していた。


地面に置き、電源を入れる。


小さな液晶に、数字が並んだ。


常盤は、それを見て、少しだけ眉を寄せた。


「おい、INARIの兄ちゃん。今、何時だ」


波多野は腕時計を見た。


「九時十八分です」


「俺のは、九時二十四分だ」


道上がスマホを見た。


「俺、九時十五分ですね」


榊が、自分の端末を確認する。


「私の端末では、九時二十分です」


四人とも、違っていた。


同じ場所に立っている。


同じ空の下にいる。


それなのに、時刻だけが揃わない。


常盤は、時刻同期機の液晶を指で軽く叩いた。


「ほらな」


その声は、研究室で聞いた時より、少しだけ低かった。


「ここは、今が一つじゃねえ」




     ***




三号棟の入口を、道上の導線に沿って入る。


一階は、ただの廃墟だった。


踏み潰された空き缶。

剥がれた壁紙。

枯れた葉。

外から入り込んだ土の匂い。


「ここは、普通ですね」


波多野が言うと、常盤が答えた。


「一階はな。上がってみろ」


階段を上がる。


二階の廊下に出た時、波多野は足を止めた。


壁の落書きが、新しく見えた。


誰かの名前。

日付。

下手な絵。


一階で見たものと同じはずなのに、色が濃い。


まるで、書かれてからそれほど経っていないように。


「気のせいですか」


「気のせいじゃねえ」


常盤は、廊下の蛍光灯を見上げた。


割れていない蛍光灯が、薄く青ざめて光っている。


「上がるほど、古い方へ寄る。三〇七号室に近づくほど、平成七年に近づく」


三階へ上がる。


外廊下に出ると、空気が変わった。


手すりの向こうに見える景色は、今の街のはずだった。


遠くに建つマンションも、工事用の仮囲いも、令和のものだ。


けれど、廊下の側だけが、別の時間に取り残されている。


湿ったコンクリート。

錆びた鉄の匂い。

生きている蛍光灯。


波多野は、耳の奥に意識を向けた。


声はない。


杉沢精機の時のような、紙に収まりきらない怒りもない。


水上様の時のような、水の詰まる音もない。


ただ、宛先が近い。


近づいている。


そういう感覚だけがあった。


「近いです」


波多野は、小さく言った。


「宛先が、この先にあります」


榊が、波多野の横に並んだ。


「波多野さん」


「はい」


「見て、聞いて、書いてください」


榊の声は、いつもの温度だった。


「触らないこと。応えないこと」


「はい」


倉橋はいない。


榊は管理者として立ち、道上は導線を見ている。


常盤は、時相のずれを計っている。


聞くのは、自分だけだった。


足元のリュックは、静かだった。


あぶさんは、何も言わない。




     ***




三〇七号室の前に、男が立っていた。


帽子をかぶり、肩から大きな鞄を提げている。


白い手袋。


顔は、見えなかった。


暗いのではない。


そこだけ、像がにじんでいる。


まるで、何度も上書きされた録画映像のように、輪郭だけが遅れている。


録画で見た、あの配達員だった。


四人は、足を止めた。


男は、こちらを見なかった。


ただ、三〇七号室の扉に向かって、封筒を一通、差し出していた。


そして、口が動いた。


「こちらで、よろしいですね」


音は、少し遅れて届いた。


波多野は、その声を聞いた。


聞いて、しまった。


こちらで、よろしいですね。


確認されている。


誰が。


自分が。


男の像が、わずかにこちらを向いた気がした。


にじんだ顔の、その奥が、波多野を見ている。


応えなければ、と思った。


いや、違う。


応えたい、と体が思った。


確認されたら、返事をする。


呼ばれたら、応える。


それは、波多野の一番奥にある癖だった。


口が、開きかけた。


「波多野さん」


榊の声が、鋭く飛んだ。


「応えないで」


波多野は、口を閉じた。


開きかけた喉が、行き場をなくして、小さく鳴った。


男は、また扉の方を向いた。


封筒を差し出したまま、動かない。


波多野は、息を吐いた。


背中に、汗をかいていた。


足元のリュックは、動かなかった。


あぶさんは、何も言わない。


まるで、これは自分の網ではない、とでもいうように。




     ***




「あれは、誰を確認してるんだ」


常盤が、波多野に聞いた。


「三〇七号室の、元の住人ですか」


「決めつけるな。聞け」


波多野は、もう一度、耳の奥に意識を向けた。


男の声が、繰り返している。


こちらで、よろしいですね。


その言葉の奥に、何かが揃おうとしている感覚があった。


祟りでも、怒りでもない。


空欄。


チェック欄。


埋まりかけている、本人確認の欄。


「……名前を聞いている感じじゃありません」


波多野は、ゆっくりと言葉にした。


「顔でも、声でもない。ただ、応えたかどうかだけを確認しています」


「応えたかどうか」


「はい。誰であるかは、たぶん、あまり関係ありません。応えれば、それが本人になる」


常盤は、小さく頷いた。


「今のは、確認事項として残す」


それから、波多野を見た。


「もう一つ。今、あんた、応えかけたな」


「……すみません」


「謝ることじゃねえ。仕組みの話だ」


常盤は、男を見たまま言った。


「あれは、化け物として見るより、未了の手続きが人の形を取ったものとして見た方がいい」


「手続きが」


「三十年、本人確認を取りに来てる。ずっと取れずにいる。だから、まだ配達が終わらねえ。終わらねえから、ああやって立ってる」


男は、封筒を差し出したまま、確認を続けていた。


こちらで、よろしいですね。


こちらで、よろしいですね。


同じ言葉を、何度も。


「確認が取れりゃ、あいつは消える。手続きは完了する」


常盤は、そこで一度言葉を切った。


「だが、確認すべき本人は、もうここにはいねえ。三十年前にも確認が取れなかった。そして今、INARIの兄ちゃんが聞いたとおり、あれは誰であるかを見てねえ。応えたかどうかしか見てねえ」


「だから」


「誰でもいい。応えた奴を、本人にする」


波多野は、喉の奥が冷えた。


さっき、自分が応えかけたこと。


榊が止めたこと。


その意味が、今、つながった。


もし、あの時、返事をしていたら。


自分が、三〇七号室の本人にされていた。


宛先は、ずっとこの部屋のまま。


そこに届く本人だけが、波多野に書き換えられていた。


「……そういうことですか」


「そういうことだ」


常盤は、あっさり言った。


「今の聞き取りがなけりゃ、俺はまだ半分、勘で言ってた。応えたかどうかしか見てねえってのは、あんたが聞いたから分かった話だ」


その言い方は、褒めているようで、褒めていなかった。


確認できた事実を、確認できた事実として置いただけだった。




     ***




「で、どうします」


道上が聞いた。


常盤は、少し考えて言った。


「今は、切る」


「閉じるじゃなくて」


「閉じるのは、持ち帰る」


常盤は、男を見たまま続けた。


「正しい閉じ方が分からねえまま閉じると、間違った本人で完了しちまう。それが一番まずい。今日は、配達を止めるだけだ」


「止めるだけなら」


道上が、封鎖札を一枚、手に取った。


「それは、俺の仕事です」


道上は、男の足元を見ていた。


いや、正確には、男が立っている場所から、廊下の奥へ細く伸びる何かを見ていた。


「見えました」


道上が言った。


「あいつが通ってきた道です」


「見えなかったんじゃ、なかったんですか」


波多野が聞くと、道上は首を振った。


「相談者の家に届く道は、向こうから一方通行で差し込まれてました。末端側からは、掴めない」


「末端」


「配達される側です。受け取る家、受け取る人。そこからは、道の根元までは見えない。でも」


道上は、男を指した。


「今、あいつが立ってるのは、配達の起点です。三〇七号室。ここでなら、道の根元が出てる」


「起点でしか、切れない」


「そういうことです。だから、今日、ここに来る意味があったんです」


道上は、鞄から決裁端末を取り出した。


黒い樹脂のボディに、小さな液晶。


指で操作し、紙片が一枚、吐き出される。


「神威行使決裁、OK」


道上は、封鎖札を廊下の床に貼った。


新橋の路地で置いたのは、通すための札だった。


今日のこれは、逆だった。


「猿田彦系標準神威『道通し』、逆用」


道上の声が、静かに廊下に響いた。


「この配達経路だけ、通しません」


札が、淡く光った。


男の足元から伸びていた細い道が、そこで断たれる。


配達員は、封筒を差し出したまま、動きを止めた。


こちらで、と言いかけた口が、途中で止まる。


そして、像が、ゆっくりと薄れていった。


争いではなかった。


倒したのでもない。


ただ、配達の途中で、道が閉じただけ。


男は、封筒を差し出す姿勢のまま、静かに消えた。


廊下に、四人だけが残った。


生きていた蛍光灯が、一つ、また一つと、本来の暗さに戻っていく。


錆びた鉄の匂いが、薄れていった。


「……終わった、んですか」


波多野が聞くと、道上は封鎖札の様子を確認しながら答えた。


「止まっただけです。閉じてはいません」




     ***




引き上げる前に、常盤が三〇七号室のポストを覗いた。


そして、動きを止めた。


「おい」


その声で、波多野も覗き込んだ。


さっきまで、何もなかったはずのポストの中に。


封筒が、一通、入っていた。


白い封筒だった。


道を切ったばかりなのに。


配達員は、消えたはずなのに。


「言っただろ」


常盤が、静かに言った。


「切っても、未了は残る。残った未了は――今度は、別の本人を探す」


波多野は、封筒に手を伸ばしかけて、やめた。


榊が、先に言った。


「触らないでください」


「はい」


波多野は、覗き込んだまま、封筒の表を見た。


宛名の欄。


そこが。


空いていた。


住所は、印字されている。


板橋区某所。


旧蓮見台団地。


三号棟三〇七号室。


日付も、ある。


平成七年三月二十日。


けれど、宛名の欄だけが、空白だった。


「なんで、空欄なんですか」


波多野が聞くと、常盤は封筒から目を離さずに答えた。


「道を切った影響だろう」


「切ったから」


「健太への紐づけが、いったん外れたように見える。だが、手続き自体はまだ終わっちゃいねえ。だから、次の宛名を探し始めてる」


これから、誰かが書き込まれる寸前のように。


波多野は、その空白を見ていた。


次に、そこに、誰の名前が入るのか。


考えて、背筋が冷えた。


「回収は、しません」


常盤が言った。


「触ると、宛名が埋まるかもしれん。今日は、このまま置いて、封鎖の中に留める。持ち帰るのは、記録だけだ」


道上が、ポストの前にも封鎖札を立てた。


「ここも、通しません」


四人は、団地を出た。


外に出ると、時刻同期機の数字が、少しずつ揃い始めた。


九時台の、それぞれ違う時刻が、ゆっくりと一つの現在へ戻っていく。


けれど、波多野の頭の中には、まだあの空白が残っていた。


宛名のない封筒。


次の本人を探している、未了。




     ***




その夜、榊礼司は自席で、現地記録をまとめていた。


配達経路に対し、境界対策課による一時封鎖措置を実施。


配達を担う存在の像および配達動作様反応を確認。


呪具呪物管理課の物件所見、時相境界班の時相所見と整合。


そこまでは、淡々と書けた。


問題は、その次だった。


榊は、非ログ所見欄ではなく、自分の管理メモを開いた。


波多野承平。


現場において、対象からの確認に対し、応答一歩手前。


制止により、応答せず。


榊は、そこで手を止めた。


応えかけた。


止めなければ、応えていた。


あの時の波多野の顔を、榊は覚えていた。


叱られた顔ではなかった。


聞こえてはいけないものが、聞こえてしまった顔だった。


榊は、缶コーヒーに手を伸ばした。


開けて、一口飲む。


苦味だけが、喉に落ちた。


波多野を現場に入れる理由は、報告書には「INARI照合担当」と書いた。


それで、間違ってはいない。


通常表示には何も出ない。


だが、波多野の非ログ所見だけが、現地の実態に近づいていた。


だから、現地で照合する必要があった。


ただし、管理者として確認しなければならないことは、それだけではない。


所見に再現性があるのか。


本人に、どの程度の負荷がかかるのか。


対象に引かれた時、どの段階で制止が必要になるのか。


試すためではない。


止めるために、見ていた。


現に今日、波多野の聞き取りがなければ、常盤の見立ては最後まで詰まらなかった。


そして、榊が止めなければ、波多野は応えていた。


波多野承平は、声を聞く。


網を、少し見る。


通常ログには出ないものを拾う。


そこまでは、榊も把握していた。


経過観察として、記録も残していた。


だが、今日のあれは、少し違う。


聞くだけではない。


応えられる。


呼ばれれば、応えてしまう。


そういう相手に、なりかけている。


榊は、管理メモの末尾に、一行だけ足した。


要・接触経路および応答傾向の確認。


旧蓮見台団地案件につき、波多野承平が対象情報へ接触した経路、ならびに対象からの確認行為に対する応答傾向を、次回面談時に確認すること。


保存ボタンの上で、指が一瞬止まった。


まだ、報告する段階ではない。


ただ、忘れていい段階でも、なくなっていた。


榊は、端末を閉じた。


少し離れた席で、波多野承平が帰り支度をしている。


足元のリュックが、かすかに揺れた。


普通の職員なら、疲れているのだろうと思う。


榊も、そう思うことはできた。


できたが、それだけでは、もう足りなかった。


今回は「閉じる」ではなく、まず「切る」回でした。


配達員を倒すのではなく、配達経路を通さない。

ただし、未了の手続きそのものはまだ残っています。


宛名のない封筒。

次にそこへ誰の名前が入るのか。


旧蓮見台団地の件、もう少し続きます。


第一部も大詰め、是非ブクマ・評価・感想お待ちしております。

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