第23話 転居先確認票
前回の続きです。
旧蓮見台団地の三号棟三〇七号室。
届き始めた封筒は、ただの怪談では終わりませんでした。
今回は、怪談が少しずつ行政案件になっていく回です。
第23話 転居先確認票
配達再開。
赤い判を見たあと、健太はしばらく動けなかった。
封筒の中身は、紙一枚だけだった。
それなのに、部屋の中に何かが増えた気がした。
机。ベッド。カーテン。テレビ。脱ぎっぱなしの服。読みかけの漫画。
いつもの部屋だった。
いつもの部屋のはずだった。
けれど、玄関の方から、古い鉄の匂いがした。
雨の日の外階段みたいな匂い。
湿ったコンクリートと、錆びた金属と、埃を吸った紙の匂い。
健太は振り返った。
玄関には何もない。
靴が二足並んでいるだけだった。昨日と同じ配置。黒いスニーカーと、サンダル。
ただ、玄関扉の内側にある郵便受けの蓋が、わずかに開いていた。
閉めたはずだった。
健太は近づいて、蓋を押した。
かちゃん。
金属の音がした。
自分の部屋の郵便受けなのに、音が違った。
マンションの軽い金属音ではない。
旧蓮見台団地の集合ポストで聞いた、あの乾いた音だった。
健太は後ずさった。
その時、スマホが震えた。
拓海からのメッセージだった。
『大丈夫か』
健太は返事を打とうとした。
指がうまく動かなかった。
画面の上に、地図アプリの通知が出ていた。
現在地の確認。
そんな通知を出した覚えはない。
健太は、反射的に開いた。
青い点が、自宅の場所ではないところにあった。
板橋区某所。
地図上では、何もない空白に近い場所。
そこに青い点が置かれていた。
表示名はなかった。
ただ、検索欄に、勝手に文字が入っていた。
旧蓮見台団地 三号棟三〇七号室
健太はスマホを落とした。
画面が床に当たって、鈍い音を立てる。
部屋の照明が、一瞬だけ暗くなった。
消えたわけではない。
けれど、白い天井灯の明かりが、古い外廊下の蛍光灯みたいに青ざめた。
玄関の向こうで、誰かが歩く音がした。
こつ。
こつ。
こつ。
健太の部屋は、マンションの内廊下に面している。
床は硬いコンクリートではない。
そんな音はしない。
それなのに、その足音は、外廊下を歩いていた。
古い団地の、夜の外廊下を。
健太は、床のスマホを拾った。
画面には地図アプリが開いたままだった。
青い点は、まだ板橋区某所にある。
旧蓮見台団地 三号棟三〇七号室。
健太はアプリを閉じようとした。
その瞬間、画面上の時計が乱れた。
二十三時四十一分。
それが、一瞬だけ別の表示になった。
平成七年三月二十日。
健太は、まばたきをした。
表示はすぐに戻っていた。
見間違いだ。
そう思いたかった。
けれど、玄関の向こうで、低い男の声がした。
今度は、少しだけ聞き取れた。
「……三〇七号室」
健太は息を止めた。
違う。
ここは三〇七号室ではない。
そう言おうとして、声が出なかった。
ドアの下の隙間から、白い封筒が差し込まれた。
郵便受けではない。
床と扉の間から、ゆっくりと押し込まれている。
封筒は、健太の足元まで滑ってきた。
風はない。
誰も押していない。
封筒は、そこで止まった。
表には、健太の名前があった。
住所欄には、旧蓮見台団地三号棟三〇七号室。
その下に、小さく、日付が印字されていた。
平成七年三月二十日。
健太は、拓海に電話をかけた。
呼び出し音が一回鳴っただけで、拓海は出た。
『おい、大丈夫か』
「無理」
自分の声が、思っていたより高かった。
「無理。来てる。部屋が変だ」
『落ち着けって。鍵かけてる?』
「鍵は、かけてる」
『じゃあ出るな。俺、行くから』
「来るな」
健太は即座に言った。
自分でも驚くくらい強い声だった。
「来るな。こっちに来るな」
電話の向こうで、拓海が黙った。
その沈黙のあいだに、玄関の向こうで紙を揃える音がした。
とん、とん。
角を揃える音。
それから、男の声がした。
何を言ったのかは分からなかった。
ただ、声の調子だけは分かった。
確認している。
健太は、もう玄関から出られなかった。
結局、管理会社に電話をし、隣の部屋の住人にも連絡し、騒ぎになった。
駆けつけた管理人が合鍵で玄関を開けたとき、廊下には誰もいなかった。
ドアの下に挟まっていた封筒もなかった。
郵便受けの中にも、何もない。
管理人は困った顔で言った。
「疲れてるんじゃないですか」
そう言われても仕方がなかった。
健太は、自分でもそう思いたかった。
けれど、拓海が来たとき、健太は玄関に近づけなくなっていた。
「お前、顔やばいぞ」
拓海はそう言って、健太を自分の家へ連れて帰った。
信じている顔ではなかった。
友人として放っておけない、という顔だった。
「とりあえず寝ろ。動画とか郵便とか、明日考えよう」
「寝たら、部屋が変わる」
「変わんねえよ」
「変わるんだよ」
拓海はため息をついた。
「じゃあ、今日はうちにいろ。俺が起きてる」
その言葉で、健太は少しだけ安心した。
安心したのが、間違いだった。
深夜二時過ぎ。
拓海の部屋のインターフォンが鳴った。
二人とも起きていた。
健太は布団の上で固まり、拓海は不機嫌そうに立ち上がった。
「誰だよ、こんな時間に」
「出るな」
「画面見るだけだって」
拓海はインターフォンのモニターをつけた。
誰も映っていなかった。
廊下が映っている。
拓海のマンションの廊下。
白い壁。消火器。非常灯。いつもの景色。
ただ、画面の左上に表示された録画時刻がおかしかった。
二〇二六年ではない。
一九九五年三月二十日。
拓海が、画面に顔を近づけた。
「なんだよ、これ」
その瞬間、画面の奥に映っていた白いマンションの廊下が、ざらついた。
映像が乱れる。
白い壁の向こうに、灰色の外壁が重なった。
手すり。
黒い夜空。
古い蛍光灯。
旧蓮見台団地の外廊下。
健太は叫んだ。
「見るな!」
拓海が振り返るより早く、画面の端に、帽子をかぶった男の肩が映った。
顔は見えない。
ただ、白い手袋だけが、画面の中央に差し出された。
封筒を一通、持っている。
音声は途切れていた。
それなのに、二人には、男が何を言っているのか分かった。
こちらで、よろしいですね。
拓海は、ゆっくりと玄関へ向かった。
「やめろ」
健太が言った。
「見るだけだ」
「やめろって」
拓海は郵便受けを開けた。
中に、紙片が一枚入っていた。
古い掲示物の切れ端だった。
黄ばんだ紙に、黒い文字が残っている。
居所確認中。
その下に、赤い判。
未了。
拓海は、紙を持ったまま立ち尽くした。
その夜、二人はほとんど眠れなかった。
朝になって、拓海が言った。
「神社、行くか」
「神社?」
「お祓いとか、そういうの」
健太はうなずいた。
他に行く場所がなかった。
二人は、拓海の家の近くにある小さな神社へ向かった。
大きな神社ではない。
住宅街の中にある、古い神社だった。鳥居の脇に掲示板があり、境内には手入れされた植木が並んでいる。
朝の光の中では、昨夜のことが全部嘘のように思えた。
社務所にいた神職は、四十代くらいの男性だった。
最初は、困ったように話を聞いていた。
旧団地。
名札。
封筒。
インターフォン。
転居先確認票。
話せば話すほど、自分たちが馬鹿なことを言っているように聞こえた。
それでも神職は、笑わなかった。
「封筒はありますか」
健太は、鞄から厚い封筒を出した。
あの、健太の名前が宛名になっていた封筒だった。
神職は、封筒を見ても、すぐには手を合わせなかった。
白い布の上に置かれた封筒と紙片を、少し離れたところから見ている。
健太は、その沈黙が怖かった。
「……祟り、なんですか」
神職は、ゆっくり首を横に振った。
「これは、祟りではありませんね」
「祟りじゃ、ない?」
「少なくとも、誰かが怒って取り憑いている、というものではないと思います」
神職は、封筒の宛先欄を見た。
板橋区某所。
旧蓮見台団地。
三号棟三〇七号室。
そこに書かれた文字だけが、妙にはっきりしている。
「届いています」
「……何がですか」
「それは、まだ分かりません」
神職は、そこで初めて健太を見た。
「ただ、問題は、何が届いているのかではなく、どこに届くことになっているのかです」
健太は、何も言えなかった。
拓海も黙っている。
神職は、続けた。
「これは、ここで祓って終わるものではありません。神様に返すものでもない」
「じゃあ、どうすれば」
「おそらく、宛先の問題です」
「宛先?」
「住所、転居、管理台帳、配達経路。そういうものが、どこかで間違ってつながっています」
神職は、机の上の紙片をもう一度見た。
転居先確認済。
配達再開。
その赤い判だけが、やけに新しく見えた。
「こちらから、区の住宅管理担当へ連絡します。旧団地の管理に関わる話です。あなたたちは、勝手に封筒を捨てたり、燃やしたりしないでください」
「帰っても、いいんですか」
健太が聞くと、神職は少しだけ間を置いた。
「今は、戻らない方がいい」
その言い方で、健太の腹の奥が冷えた。
「戻ったら、どうなるんですか」
「分かりません」
神職は、正直にそう言った。
「分からないから、戻らないでください」
***
区役所の会議室は、思っていたより普通だった。
長机。
パイプ椅子。
壁に貼られた防災ポスター。
ペットボトルの水。
古い団地の怪談を話すには、あまりにも普通の場所だった。
住宅管理担当の職員が二人。
それから、画面越しに神務庁地域連携室の職員が一人。
五十代くらいの女性だった。
眼鏡を首から下げ、手元には付箋だらけのファイルを置いている。
「はい、じゃあ大丈夫ですからね。まず座ってください。お水、あります?」
その声は、拍子抜けするほど普通だった。
健太は、そこで少しだけ泣きそうになった。
怖がられない。
笑われない。
怒鳴られない。
それだけで、張り詰めていたものが少し緩んだ。
「変な話だと思うんですけど」
健太が言うと、画面の中の女性職員は、すぐに首を振った。
「変な話かどうかは、こちらで決めます。あなたが今やることは、見たことを順番に話すことです」
「でも、部屋が」
「はい」
「部屋が、団地みたいになって」
「はい」
「スマホの地図も、そこになって」
「はい。怖かったでしょう」
健太は、そこで言葉に詰まった。
女性職員は、穏やかに言った。
「そこはもう、疑いません。記録にしましょう」
健太と拓海は、順番に話した。
旧蓮見台団地へ入ったこと。
三号棟の集合ポスト。
一枚だけ残っていた名札。
健太がそれを読んだこと。
封筒が届き始めたこと。
健太の部屋が、旧団地の三〇七号室のようになったこと。
拓海の家にも、インターフォンの映像が出たこと。
住宅管理担当の職員は、途中で何度か顔色を変えた。
特に、三号棟三〇七号室という部屋番号が出た時だった。
「台帳、確認します」
一人が席を立った。
画面越しの地域連携室職員は、健太を見た。
「健太さん」
「はい」
「ご自宅には、戻らないでください」
その声が、初めて少し低くなった。
「やっぱり、まずいんですか」
「まずいかもしれません。だから、戻らない。これは脅しではなく、あなたを守るための指示です」
「封筒は」
「捨てない。燃やさない。破かない。追加で撮影しない。動画を人に送らない。SNSにも出さない」
拓海が、少し顔を上げた。
「広がるんですか」
「念のためです。こういうものは、広がることがあります。あなたたちを疑っているんじゃありません。広がる仕組みの方を疑っています」
広がる仕組み。
その言葉が、健太には一番怖かった。
怪物がいるのではない。
幽霊が追ってくるのでもない。
仕組みが、広がる。
自分たちは、その仕組みに触ってしまったのかもしれない。
「封筒と紙片は、こちらで預かります。神務庁の担当部署へ回します」
「担当部署、ですか」
「呪具呪物管理課です。ただし、今の段階で封筒そのものが呪物だと決めるわけではありません。そうかどうかを確認するために、専門部署へ回します」
その言い方は、健太には少し難しかった。
ただ、自分の部屋で起きたことが、ようやく何かの手続きに乗ったのだということだけは分かった。
安心していいのか、怖がればいいのかは、まだ分からなかった。
***
同じ日の夕方。
神務庁本庁、地下二階。
神務資料管理局。
特殊収蔵区画。
呪具呪物管理課。
倉橋千尋は、金属製の作業台の前に立っていた。
作業台の上には、封緘袋が三つ並んでいる。
一つ目は、健太の自宅に届いた白い封筒。
二つ目は、拓海の部屋に入っていた紙片。
三つ目は、神社で白布に包まれた転居先確認票だった。
倉橋は、まず現物には触れなかった。
端末に届いている照会一式を開く。
板橋区住宅管理担当作成の経過報告書。
区内神社の神職による所見メモ。
相談者および同行者からの聞き取り票。
インターフォン録画の写し。
旧蓮見台団地三号棟三〇七号室に関する管理台帳照会結果。
倉橋は、神職の所見メモを開いた。
『通常の怨霊・荒御魂反応とは異なる。祓除対象ではなく、宛先・転居・管理関係の異常と判断』
最後に、手書きの一文が添えられていた。
『これは神様に返すものではなく、届け先を直すものと思われる』
倉橋は、その一文で少しだけ手を止めた。
「良い神職ですね」
隣で立会いについていた若い職員が顔を上げた。
「そうなんですか」
「自分の仕事ではないと分かる人は、だいたい信用できます」
倉橋は次に、管理台帳照会結果を開いた。
三号棟三〇七号室。
入居者氏名。
自治会連絡員。
郵便物一時預かり。
転居先確認。
いくつかの項目が並んでいる。
最後の欄には、赤い文字が残っていた。
未了。
倉橋は、しばらくその文字を見ていた。
未了。
行政文書では、よくある言葉だ。
終わっていない。
処理されていない。
確認できていない。
ただ、それだけの言葉。
けれど、長く残った未了は、ただの未了ではなくなることがある。
人の居場所を決める手続きが、終わらないまま残る。
誰かに届けるための処理が、閉じないまま残る。
確認されるはずだった居所が、確認されないまま残る。
それが何になるのか。
倉橋は、まだ断定しなかった。
断定するには、現物を見る必要がある。
「開封前記録」
倉橋は、封緘袋の状態を撮影した。
正面。
背面。
封緘部。
ラベル。
移送記録。
それから、白い封筒の入った袋を作業台中央へ移す。
「外装確認」
封緘を解く。
白い封筒が、作業台の上に置かれた。
古い紙だった。
だが、単純に古紙という感じではない。
湿気を吸っているようで、乾ききっている。
日焼けしているようで、文字だけが新しい。
倉橋は、携帯型神気反応計を封筒の中央へ近づけた。
反応は弱い。
「本体反応、軽微」
若い職員が記録する。
倉橋は、反応計を紙片へ移した。
これも弱い。
「紙片本体も軽微」
次に、赤い判。
配達再開。
ちり、と小さく鳴る。
「印影に微弱反応。ただし、自律性なし。攻撃性なし」
若い職員が顔を上げた。
「封筒そのものは、呪物ではない?」
「少なくとも、封筒単独で人を害する反応ではありません」
倉橋は反応計を置き、神気探針を手に取った。
細い金属製の棒の先端を、封筒の上でゆっくり動かしていく。
封筒中央。
反応はほとんどない。
紙の端。
弱い。
赤い判。
微弱。
そして、宛先欄。
板橋区某所。
旧蓮見台団地。
三号棟三〇七号室。
探針の先が、そこで初めて止まった。
鳴る、というより、引かれる。
倉橋は、探針を少し離した。
「反応点は、宛先欄」
若い職員が記録する。
「封筒全体ではなく、宛先欄ですか」
「はい」
倉橋は作業台の上に、薄い測定札を三枚置いた。
一枚は封筒の上。
一枚は宛先欄の横。
もう一枚は封筒の外側、作業台の端。
数秒、何も起きなかった。
次に、宛先欄の横に置いた札の端、紙の繊維に沿って細い筋が浮いた。
封筒の外側に置いた札も、同じ方向へわずかに傾いた。
若い職員が息を呑む。
「線、ですか」
「線状反応」
倉橋は、短く言った。
「封筒の中ですか」
「違います。宛先欄から外へ出ています」
倉橋は探針を戻した。
反応は、封筒の中央にはない。
紙片そのものにもない。
住所欄にだけ残っている。
「物ではなく、経路です」
倉橋は、測定札の線を見た。
細い。
生活に近い。
住所や移動に関わる。
その点では、屋敷稲荷や商家稲荷を経由した生活圏反応に似ている。
だが、典型的な稲荷系接続とは少し違う。
祠や小社を起点にした反応なら、もう少し反応の起点が見える。
供物、願い、商い、家、道。
そういう生活の手触りが、どこかに残る。
これは、それよりも乾いていた。
住所。
部屋番号。
集合ポスト。
自治会連絡。
郵便物一時預かり。
転居先確認。
本人確認。
人間が、人間の居場所を管理するために作った手続き。
少なくとも、倉橋にはそちらに近い反応に見えた。
「ただし、稲荷系接続とは断定しません」
若い職員が、少し驚いたように顔を上げる。
「稲荷系ではないんですか」
「似ています。ですが、典型ではありません」
倉橋は、測定札を記録用の透明板に挟んだ。
「INARI運用課に照合を依頼します。稲荷系かどうかを、ここで決めません」
次に、インターフォン録画データを確認する。
映像そのものは、現在の機器で撮影されている。
ファイルのメタデータも、現在の日付だった。
だが、画面内の時刻表示だけが違う。
一九九五年三月二十日。
平成七年三月二十日。
古い団地の外廊下。
帽子をかぶった配達員らしき男。
肩掛け鞄。
白い手袋。
こちらで、よろしいですね。
音声は不鮮明だが、口の動きはそう読めた。
倉橋は、映像を止めた。
「時相反応の疑いがあります」
若い職員が顔を上げる。
「時間系ですか」
「本格的な時間遡行とは限りません」
倉橋は、慎重に言った。
「ただ、宛先が固定されている時点がある」
「固定されている時点」
「この住所が、今の相談者宅ではなく、旧蓮見台団地三号棟三〇七号室として処理されている時点です」
倉橋は、内部の紙片を確認した。
紙には、印刷された文字が一行。
転居先確認済。
その下に、赤い判。
配達再開。
倉橋は、その判に携帯型神気反応計を近づけた。
ちり。
反応はある。
だが、強くはない。
「判そのものが本体ではありませんね」
次に、測定札を一枚近づける。
札の端が、さきほどと同じ方向へわずかに傾いた。
「やはり、物ではありません」
倉橋は、静かに言った。
「道です」
若い職員は、すぐには返事をしなかった。
倉橋は、端末の所見欄を開いた。
『物件本体の呪物反応は軽微。ただし、宛先欄および住所欄に線状残留神気を確認。反応は物件内部ではなく、外部経路へ接続している可能性あり』
一度、手を止める。
それから、もう一行足した。
『旧蓮見台団地三号棟三〇七号室を起点とする、住所・配達経路型時相境界異常疑い』
さらに、映像記録の所見欄を開く。
『相談者宅のインターフォン映像および同行者宅で確認された表示に、平成七年三月二十日付の時相反応を確認。相談者宅の空間的転位に加え、同時点への時相固定を疑う』
若い職員が、思わず聞いた。
「これ、どこにつながってるんですか」
倉橋は、すぐには答えなかった。
答えられなかった。
少なくとも、呪物単体の話ではない。
場所だけでもない。
住所。
時点。
宛先。
居所。
それらが、同じ線の上に重なっている。
「呪具呪物管理課だけで判断する案件ではありません」
倉橋は、最後の所見を入力した。
『呪具呪物管理課単独での封緘処理は推奨しない。映像内時刻表示および住所欄反応につき、境界対策課時相境界班への照会を要する』
そこで一度、手を止める。
それから、もう一行足した。
『住所・配達経路上の線状反応について、INARI運用課へ地域表示照合および稲荷系接続の有無確認を依頼する』
稲荷系と断定するためではない。
違うと判断するためにも、確認は必要だった。
最後に、倉橋は短く入力した。
『相談者の帰宅を禁ずる』
保存。
画面の右下に、記録番号が表示された。
倉橋は紙束の角を揃えた。
とん、とん。
その音が、作業室に妙に大きく響いた。
封筒は、何も言わない。
ただ、そこに届いていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第23話でした。
今回は、第22話の後日談……というより、怪談がまだ終わっていなかった回です。
郵便物が届くだけではなく、部屋そのものが旧蓮見台団地三号棟三〇七号室へ寄っていく。
しかも、その先が平成七年三月二十日に固定されているかもしれない、という話になりました。
神社、区役所、神務庁地域連携室、呪具呪物管理課と、怪談が少しずつ行政手続きに乗っていく感じを書いています。
倉橋千尋の鑑定としては、封筒そのものが呪物なのではなく、「届く道」の方がおかしい、という見立てです。
解決はまだ先になります。
次回以降、神気解析課、INARI運用課、そして波多野たちがどう関わるかを書いていく予定です。
毎日投稿、少し疲れてきました…。
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