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タカマガハラの神務官 〜神様の力を使うのに必要なのは、祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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第22話 板橋区某所 旧蓮見台団地の件

今回は少し趣向を変えて、神務庁側ではなく、普通の怪談として始まる回です。


旧団地、肝試し、表札、届くはずのない郵便物。


「名前を読んでしまう」タイプの話です。


第22話 板橋区某所 旧蓮見台団地の件




板橋区某所に、かつて蓮見台(はすみだい)団地と呼ばれた集合住宅群があった。


昭和四十年代の後半に造成された、ごく普通の団地である。


三号棟まである中層住宅。集会所。児童公園。小さな商店街。給水塔。


当時の資料には、若い世帯向けの明るい住宅地として紹介されていたらしい。都心まで電車で一本。緑の多い環境。子育てに適した街。そんな言葉が並んでいたという。


実際、かつての蓮見台団地には、人がいた。


朝には子どもがランドセルを背負って階段を駆け下り、夕方にはベランダに洗濯物が揺れた。集会所では自治会の会合があり、夏には小さな団地祭りもあった。


けれど、それも昔の話である。


平成の終わり頃から空き部屋が目立ちはじめ、建て替え計画に伴って退去が進んだ。令和に入る頃には、ほとんどの住人がいなくなった。


再開発は、すぐには始まらなかった。


理由は知らない。


予算なのか、権利関係なのか、周辺計画との兼ね合いなのか。少なくとも、近所の人間が噂するには十分な時間だけ、蓮見台団地はフェンスに囲まれたまま残された。


そのうち、そこは旧蓮見台団地と呼ばれるようになった。


そして、ネットに載った。


夜中に廊下を歩く音がする。


誰もいない部屋でテレビがついている。


三号棟の集合ポストに、一枚だけ名札が残っている。


その名前を読んではいけない。


よくある話だった。


どこの街にも一つはある、行ってはいけない場所。


書き込んだ人間が本当に行ったのかも分からない。写真も、暗い廊下と剥がれた壁紙ばかりで、特別なものは写っていない。


それでも、「板橋区某所」「旧団地」「一枚だけ残った表札」という言葉は、妙に人を引きつけた。


だから、行く者が出る。


たとえば、暇を持て余した若者が三人。


配信者というほどではなかった。登録者数を気にしているわけでもない。ただ、動画を撮って仲間内で回せば、それなりに盛り上がると思っただけだった。


「ここ、マジで入れるの?」


そう言ったのは、真由だった。


大学のサークルで知り合った友人の一人で、三人の中では一番怖がりだった。怖い話が嫌いなわけではない。ただ、実際に行くとなると急に現実的になる。


「フェンス破れてるって書いてあった」


スマホを持っているのは健太だった。


今回の言い出しっぺである。


「それ、不法侵入じゃん」


「だから、ちょっと見るだけだって」


「ちょっと見るだけで済む場所じゃないから心霊スポットなんでしょ」


「正論やめろ」


もう一人、拓海は笑いながら、懐中電灯のアプリをつけた。


三人は、終電にはまだ早い時間に駅を出た。


古い住宅街を抜け、坂を上り、細い道を曲がる。コンビニの明かりが後ろに遠ざかるにつれて、街灯の間隔が広くなった。


旧蓮見台団地は、思っていたよりも大きかった。


フェンスの向こうに、黒い建物が並んでいる。


同じ形の階段室。同じ形のベランダ。同じ形の窓。


明かりは一つもない。


けれど、暗いというより、消灯しているだけに見えた。誰かが「もう寝る時間ですよ」と言って、団地全体の電気を落としたような暗さだった。


「うわ」


拓海が小さく声を出した。


「これ、普通に怖いな」


「だから言ったじゃん」


真由はもう帰りたそうだった。


フェンスの一部は、噂通りめくれていた。


人が通れるだけの隙間がある。そこだけ草が踏まれて、細い道のようになっていた。誰かが何度も出入りしているのは明らかだった。


健太はスマホの録画を始めた。


「はい、旧蓮見台団地に来ました」


「やめろって、声でかい」


「大丈夫だって。誰もいないし」


「そういう問題じゃない」


三人は、フェンスの隙間から中へ入った。


足元の砂利が、思ったより大きな音を立てた。


敷地の中は、外より少し冷えていた。木が伸び放題になっていて、低い枝が通路にかかっている。児童公園だったらしい場所には、鉄棒と、片方の座面がなくなったブランコが残っていた。


「ここ、昔は普通に子どもいたんだよな」


拓海が言った。


「そりゃ団地だからね」


真由の声は硬い。


健太は、三号棟を探してスマホを向けた。


棟番号は、外壁の高いところにかすれて残っていた。


三号棟。


灰色の外壁に、黒ずんだ雨だれが何本も垂れている。階段室の窓ガラスは割れていない。ただ、内側が真っ暗で、そこに何があるのか分からなかった。


一階の入口には、集合ポストがあった。


しかし、健太はすぐにはそちらへ行かなかった。


「先に中、見ようぜ」


「え、マジで?」


「せっかく来たし」


入口横の鉄扉は、半分開いていた。


誰かがこじ開けたのか、錆びて閉まらなくなったのかは分からない。扉に触れると、きい、と低く鳴った。


中の空気は、古かった。


埃と湿気と、長いあいだ閉じ込められていた紙の匂いがした。


階段の踊り場には、枯葉と、踏み潰された煙草の箱が落ちていた。壁には落書きがある。誰かの名前。日付。下手な幽霊の絵。スマホのライトに照らされると、それらは一瞬だけ新しく見えて、すぐにまた古びた。


二階に上がる。


廊下は外廊下だった。


手すりの向こうに、夜の団地敷地が見える。遠くの道路を車が通る音がした。外の世界は普通に動いている。それなのに、三号棟の廊下だけが、別の時間に残されているようだった。


「部屋、開いてる」


拓海が言った。


廊下の途中、一つだけ玄関扉が少し開いていた。


誰かが入った跡だろう。


健太はスマホを向けた。


「入る?」


「入らない」


真由が即答した。


「いや、ちょっとだけ」


「ちょっとだけって言うやつが一番奥まで行くんだよ」


「じゃあ玄関だけ」


健太は扉を押した。


ぎ、と音がした。


室内は、荒らされていた。


しかし、荒らされているのに、生活の形は残っていた。


台所の流しには、茶色く錆びた缶コーヒーが一本転がっている。ラベルは色褪せて、かろうじて文字が読める程度だった。


六畳間の壁には、平成六年のカレンダーが掛かったままだった。十二月で止まっている。日曜日のところに赤い丸がつけられていたが、何の日なのかは分からない。


押し入れの襖には、色褪せたアニメのシールが貼られていた。


畳の隅には、割れたプラスチックのロボット。


ちゃぶ台の上には、小学生の漢字練習帳が開かれていた。鉛筆の跡は薄く、最後の一行だけが空白だった。


真由が、小さく息を吸った。


「なんで残ってんの、こういうの」


誰も答えなかった。


部屋の奥、窓際には古新聞の束が置かれていた。ひもで縛られているが、湿気を吸って膨らんでいる。


一番上の日付は、平成七年三月だった。


一面には、地下鉄、猛毒、霞ケ関、強制捜査という大きな文字が並んでいる。


その新聞に、近所のスーパーの特売チラシが挟まっていた。


卵十個九十八円。


牛乳一本百三十八円。


健太は、なぜかそこを長く撮った。


あれだけ大きな事件が一面を埋めているのに、その下には、いつもの夕飯の値段が載っていた。


「もう出よう」


真由が言った。


今度は、二人とも逆らわなかった。


部屋を出るとき、健太は振り返った。


スマホのライトが、畳の上を滑る。


その瞬間、さっきまで空白だったはずの漢字練習帳の最後の一行に、何か書いてあるように見えた。


健太は足を止めた。


「どうした?」


「いや」


ライトを戻す。


練習帳は、やはり空白だった。


「何でもない」


三人は階段を下りた。


一階に戻ると、入口脇の集合ポストが目に入った。


横長の金属製ポストが、壁一面に並んでいる。ほとんどの口は開いたままで、中に黄ばんだ紙片が貼りついていた。名札は剥がされている。部屋番号のプレートだけが、ところどころ斜めに残っていた。


「ここだ」


健太が言った。


「噂のやつ?」


拓海が聞いた。


健太はスマホを向けた。


集合ポストの隅。


三〇七号室。


そこだけ、名札が残っていた。


薄いプラスチック板の内側に、黒い文字で名字が入っている。周りの名札は剥がれているのに、そこだけ妙にきれいだった。


「読むなよ」


真由が言った。


声が、少し震えていた。


「こういうの、読むなって」


「いや、表札だろ」


健太は笑った。


笑って、名札の文字を読んだ。


その瞬間。


どこかで、金属の蓋が閉まる音がした。


かちゃん。


三人とも黙った。


健太のスマホだけが、集合ポストを撮り続けている。


「今の、何?」


拓海が言った。


「ポストじゃない?」


「どこの」


誰も動かなかった。


もう一度、音がするかと思った。


しなかった。


風もない。


人の気配もない。


ただ、三〇七号室の名札だけが、スマホのライトを受けて白く光っていた。


「帰ろう」


真由が言った。


今度は、誰も反対しなかった。


フェンスの隙間から外へ出たとき、三人は同時に息を吐いた。


近くのコンビニまで歩くと、さっきまでのことが急に馬鹿らしくなった。明るい店内。電子音。温かい缶コーヒー。レジ横の肉まん。


健太は動画を見返した。


三号棟の廊下。


開いた部屋。


古新聞。


集合ポスト。


三〇七号室の名札。


そして、健太が名前を読む声。


その直後に、確かに金属音が入っている。


かちゃん。


「入ってるじゃん」


拓海が言った。


「やば」


真由は動画を見ようとしなかった。


「消して」


「え、もったいないじゃん」


「消してって」


健太は笑いながら、画面を閉じた。


「あとで消す」


その夜は、それで終わった。


少なくとも、その時は終わったと思っていた。


翌日の夕方、健太の自宅の郵便受けに封筒が入っていた。


白い封筒だった。


古い紙だった。


表には、昨日読んだ名札の名字が書かれていた。


住所は、健太の家だった。


最初、健太は拓海のいたずらだと思った。


写真を撮って、メッセージを送る。


『お前これやった?』


すぐに返事が来た。


『なにそれ』


続けて、


『いや、普通に怖いんだけど』


真由にも送った。


返事は短かった。


『だから言ったじゃん』


封筒に消印はなかった。


差出人もない。


中には、団地自治会のお知らせが一枚入っていた。


給水設備点検のお知らせ。


日時は、昭和六十一年六月十七日。


三号棟の各戸は午前中断水します、と書かれていた。


健太は笑おうとした。


笑えなかった。


翌日も、封筒は届いた。


今度は、回覧板の写しだった。


団地祭りの準備について。


盆踊りの当番表。


三〇七号室の欄に、昨日読んだ名字があった。


その次の日には、不在連絡票のような紙が入っていた。


宛名は同じ。


住所は健太の家。


品名欄には、何も書かれていない。


ただ、備考欄に、鉛筆で一言だけあった。


ご本人不在。


健太は、郵便受けの内側にスマホを向けて撮影した。


翌朝、動画を確認する。


何も映っていなかった。


郵便受けの口は、一度も開いていない。


それなのに、朝には封筒が入っていた。


四日目、拓海から連絡が来た。


『お前のせいかも』


写真が送られてきた。


古い紙片だった。


団地の掲示板に貼られていたような、黄ばんだお知らせの切れ端。


そこには、三〇七号室という数字だけが残っていた。


『俺んちにも入ってた』


健太は、すぐに電話した。


「お前、名前読んでないだろ」


『読んでないよ。でも、聞いた』


拓海の声は低かった。


『動画、撮ってたじゃん。俺のスマホにも残ってる』


「消せよ」


『消したよ』


「じゃあ」


『戻ってる』


健太は黙った。


『クラウドにもある。消しても戻る。しかも、俺、真由には送ってないのに』


「真由にも?」


『さっき来た。あいつ、動画見てないのに、夢で名前聞いたって』


健太は、スマホを握る手に力が入るのを感じた。


「警察に言う?」


『何て言うんだよ。旧団地で表札読んだら郵便が来ますって?』


何も言えなかった。


その夜から、玄関の外に気配がするようになった。


最初は、気のせいだと思った。


廊下を誰かが歩く音。


紙を揃えるような音。


郵便受けの中で、何かが擦れる音。


健太の部屋はオートロックのマンションだった。玄関前にはカメラ付きインターフォンがある。録画も残る。


通知は来ていない。


録画もない。


けれど、夜になると、ドアの外に誰かがいる気がした。


一度だけ、覗き穴を見ようとした。


やめた。


覗いた瞬間、向こう側からも覗かれているような気がしたからだ。


翌朝、郵便受けには封筒が三通入っていた。


一通目は、団地自治会からのお知らせ。


二通目は、三号棟全戸宛ての清掃当番表。


三通目は、封筒ではなかった。


転居先確認票。


そう印刷された紙だった。


宛名は、例の名字。


住所は、健太の家。


一番下に、赤い判が押されていた。


確認中。


健太は、その紙を見た瞬間、吐き気に似たものを覚えた。


自分の部屋が、少しずつ別の場所にされている。


そんな気がした。


その日の夜、インターフォンが鳴った。


一回。


健太は動けなかった。


画面を見る。


誰も映っていない。


廊下は空だった。


古い団地ではない。いつものマンションの廊下だ。白い壁。非常灯。隣の部屋の玄関。


何もいない。


二回目が鳴った。


健太は、息を止めた。


画面には誰も映らない。


けれど、ドアの向こうで、紙束を整えるような音がした。


とん、とん。


角を揃える音。


それから、ドアノブが回った。


ガチャ。


健太は後ずさった。


もう一度。


ガチャ、ガチャ。


「誰ですか」


声が震えた。


返事はなかった。


ドアの下の隙間から、白いものが差し込まれた。


封筒だった。


健太は、それを拾えなかった。


スマホが震えた。


拓海からだった。


出ると、向こうも息を荒くしていた。


『今、来てる』


「そっちにも?」


『インターフォン鳴った。誰も映らない。でも、ドアの前にいる』


「開けるなよ」


『開けるわけないだろ』


その時、電話の向こうで音がした。


かちゃん。


金属の蓋が閉まる音だった。


旧蓮見台団地の集合ポストで聞いた音。


拓海が黙った。


健太も黙った。


遠くで、拓海の部屋のインターフォンが鳴る音がした。


翌朝、健太のインターフォンアプリに録画が一件だけ残っていた。


昨夜、リアルタイムでは誰も映っていなかったはずの時間だった。


健太は、布団の上でしばらく画面を見つめた。


再生する。


廊下が映る。


数秒、何も起きない。


それから、画面の端に人影が入った。


古い制服を着た男だった。


帽子をかぶり、肩から大きな鞄を提げている。白い手袋をしていた。顔はよく見えない。暗いのではない。画面の解像度が、そこだけ落ちているようだった。


男は、健太の部屋の前に立った。


手に封筒を持っている。


カメラの方は見ない。


ただ、封筒を少し差し出すようにして、静かに言った。


「こちらで、よろしいですね?」


そのあと、男は初めて顔を上げた。


画面越しに、健太と目が合った。


男の口が、もう一度だけ動いた。


音は入っていなかった。


何を言ったのかは、分からなかった。


動画はそこで終わった。


健太は、しばらく動けなかった。


その日、郵便受けには厚い封筒が入っていた。


宛名は、旧蓮見台団地で読んだ名前ではなかった。


健太の名前だった。


住所欄には、見覚えのない文字が印刷されている。


板橋区某所

旧蓮見台団地 三号棟三〇七号室


健太は、そこに住んでいない。


住んだこともない。


封筒の中には、紙が一枚だけ入っていた。


転居先確認済。


その下に、赤い判が押されていた。


配達再開。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


第22話でした。


今回は、神務庁も波多野も出てこない、ほぼ怪談回です。


旧団地に肝試しに行って、残っていた表札の名前を読んでしまう。

物は何も持ち帰っていないのに、名前だけを持ち帰ってしまった。


そんな話でした。


団地の生活感を書くのが思ったより楽しかったです。

古いカレンダー、新聞、特売チラシ、子どもの練習帳。

そして霞が関駅でも発生したあの毒物事件。

怖い場所というより、かつて普通に人が暮らしていた場所だからこそ、残っているものが怖い、という感じを出したかった回です。


次回からは、この怪談が神務庁案件として扱われていきます。


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