第21話 商売繁盛のあと
今回は、廃業した町工場に残された企業稲荷の話です。
商売繁盛を願われていた場所に、商売が終わったあとの声が残ってしまったら――という回になります。
第21話 商売繁盛のあと
火曜の朝、波多野承平は神務庁の端末を立ち上げた。
昨日の疑問は残っていた。
荒岩課長のこと。
強適合者という言葉。
自分から漏れるものを、あぶさんが抑えているのではないかという考え。
けれど、業務は待ってくれない。
午前九時過ぎ、INARI運用課に外部照会が回ってきた。
廃業した町工場の敷地内にある小さな祠について、現地確認をしてほしいという内容だった。
INARIが検知した案件ではない。
解体前の確認に入った作業員が、敷地奥で立っていられなくなったらしい。同行者にも耳鳴りと圧迫感が出たという。
添付写真には、閉じたシャッターと、敷地奥の赤い祠が写っていた。
小さな鳥居。
狐像。
褪せた供え物台。
資料には、企業稲荷らしき祭祀設備あり、とある。
「波多野さん」
榊課長の声がした。
波多野は顔を上げた。
榊礼司は、既に資料を読み終えている顔をしていた。
「今の照会、見ていますね」
「はい。杉沢精機の件ですよね」
「これはINARI由来の案件ではありません。祭祀設備の存在も、買受人側の資料で確認されたものです」
「はい」
会社の神棚や工場の小社が、そのままINARIの画面に出るわけではない。
この案件は、画面の中から見つかったものではない。
現実の側から、神務庁に持ち込まれたものだった。
「現場保守班が主担当です。私はINARI運用課側の管理者として同行します。波多野さん、あなたも記録補助で来てください」
「僕もですか」
「あなたを試すためではありません」
榊は、先にそう言った。
「稲荷系の祭祀設備があり、現場症状も出ている。確認する理由があります。ただし、あなたが何かを拾うなら、見たこと、考えたこと、やろうとしたことは分けてください」
「はい」
「それと、現場の紙類には触らないこと。あれは神務庁のものではありません」
神様の仕事なのに、ひどく事務的だった。
いや、神務庁なのだから、それでいいのかもしれない。
波多野は足元のリュックを見た。
あぶさんは何も言わなかった。
***
現場は、足立区内の準工業地域にあった。
住宅と駐車場の間に、小さな工場が沈むように建っている。
杉沢精機株式会社。
看板の青いペンキは剥がれ、会社名の一部が白くかすれていた。
シャッターは閉まっている。
郵便受けには封筒が詰まり、壁には貼り紙が残っていた。
連絡してください。
支払ってください。
逃げるな。
それぞれ字の太さが違う。
敷地前では、現場保守班の職員と、買受人側代理人の弁護士、管理会社の担当者が待っていた。
榊課長は、短く挨拶を済ませた。
「本日は、祭祀設備周辺の安全確認に限ります。権利関係の書類は、神務庁では処分しません」
弁護士は、ほっとしたようにうなずいた。
「助かります」
それだけで、必要なことは伝わった。
通用門の鍵が開く。
敷地に入ると、音が一段沈んだ。
事務所の窓は暗く、倉庫の扉は半端に錆びていた。足元には、使い道の分からない金属片がいくつか転がっている。
人がいなくなった仕事場には、独特の重さがある。
使われなくなった機械は、ただ古いだけではなく、誰かが急に息を止めた後のように見えた。
「こちらです」
管理会社の担当者が、敷地奥を指した。
細い通路の先に、小さな赤い鳥居があった。
朱色は褪せているが、壊れてはいない。
狐像も二体そろっている。
祠そのものが荒れているわけではなかった。
問題は、その前だった。
供え物台の上に、封筒や紙が重なっている。
一番上には、大きく書かれていた。
給料を返せ。
その下にも、赤いペンの文字が覗いている。
金を払え。
説明しろ。
逃げるな。
端に押し込まれた紙には、太い字で、死ね、とあった。
波多野は、喉の奥が詰まるのを感じた。
現場保守班の職員が先に動いた。
「触らないでください。まず記録を取ります」
写真が撮られ、立会人が確認する。
必要なものは代理人側で保全し、神気反応のあるものだけを後で分ける。
手順は淡々としていた。
その淡々とした手順がなければ、祠の前だけが、この場から切り離されてしまいそうだった。
波多野は、供え物台の前に立った。
耳の奥が詰まる。
胸のあたりに、少し圧がかかる。
文字を読んだだけではない。
読んだはずの言葉が、紙の上に収まっていない。
誰かに向けられたはずのものが、どこにも届かず、ここに残っている。
「……聞いてしまっているんだと思います」
榊課長が、こちらを見た。
「続けられますか」
「はい」
波多野は、閉じたシャッターを見た。
「ここは、会社の稲荷です。商売とか、納品とか、お金の流れとか、そういうものを見てきた入口だった」
それから、紙束へ視線を戻す。
「でも、今ここに置かれているのは、祈りじゃない。請求とか、怒りとか、罵倒です」
紙の端が、風もないのにわずかに震えた気がした。
「それでも、稲荷は受けてしまった。でも、届ける相手がもういない」
そこまで言って、波多野は口を閉じた。
会社も、人も、もういない。
なのに、入口だけが残っている。
「神気が溜まっているというより、ほどけていない感じです。行き先をなくしたものに、稲荷系の気配がまとわりついている」
榊課長は、すぐには否定しなかった。
「非ログ所見として扱います。断定形では記録しません」
「はい」
「続けてください」
波多野は、もう一度祠を見た。
白い線があった。
祠の奥から、細い線がいくつも伸びている。
通用門へ。
倉庫へ。
旧搬入口の方へ。
かつて人や物や金が動いていた道筋が、薄く白く残っている。
それが供え物台のあたりで絡まり、固まっていた。
波多野は、一歩、前に出そうになった。
この紙束をどければ。
絡まっているところを、少しだけほどけば。
そう思った瞬間、足元のリュックが強く揺れた。
中から、低く喉を鳴らすような音がした。
白い線が、ふっと薄れる。
波多野は足を止めた。
「波多野さん」
榊課長の声がした。
「今、何をしようとしましたか」
心臓が嫌な音を立てた。
「何も」
と言いかけて、やめた。
「直せそうだと、思いました」
保守班の職員が手を止めた。
代理人弁護士は、意味が分からない顔をしている。
榊課長だけが、表情を変えなかった。
「では、そこまでです」
静かな声だった。
「今の段階で、流れに手を加えることはしません。あなたが見たものと、考えたことと、やろうとしたことは分けて記録してください」
「はい」
見えた。
だから、触れると思った。
触れるなら、直せると思った。
それは危ない。
榊課長が止めなければ。
あぶさんが止めなければ。
自分は、一歩出ていた。
現場処理は、そこから淡々と進んだ。
紙は分けられ、神気反応のあるものには簡易封緘が施された。
祠そのものには触れない。
会社の債務も、未払い給与も、神務庁が解決する問題ではない。
ただ、稲荷が聞き続けてしまっている入口を、一時的に絞る。
供え物台の前に薄い札が立てられると、耳の奥の圧が少し遠くなった。
そこに残ったものは、消えたわけではない。
けれど、祠が全部を抱え続ける必要もない。
商売繁盛のあとに残ったものまで、稲荷が一人で聞き続ける必要はないのだと、波多野は思った。
***
庁舎に戻ったのは、夕方だった。
波多野は自席で、現地記録を入力した。
現場で確認した事実を書き、保守班の対応を書いた。
そこまでは淡々と進んだ。
問題は、その次だった。
非ログ所見欄。
書けば、残る。
でも、書かなければ、なかったことになる。
波多野は、ゆっくり入力した。
『祠前文書類について、祈願ではなく請求・怒り等であるにもかかわらず、稲荷系祭祀設備の入口に残っている印象あり。届け先を失ったものが、祠前でほどけず残っている感覚。』
そこで一度、手を止める。
次。
白い線。
『祠より敷地内各所へ伸びる白い線状の印象あり。文書類集積箇所付近で絡まり、外部へ抜けない感覚あり。』
さらに、一行。
『流れを整える方法が想起されたが、現場での対応は行っていない。』
入力してから、波多野は椅子にもたれた。
神威を使ったわけではない。
何かを祓ったわけでもない。
ただ、見て、書いただけだ。
それなのに、ひどく疲れていた。
「確認します」
背後から榊課長の声がした。
波多野は椅子を戻した。
榊は画面を読み、しばらくして言った。
「この書き方でいいでしょう」
波多野は、少しだけ息を吐いた。
「ただし、最後の一文は私の管理メモにも残します」
「はい」
「波多野さん。今日のあなたは、聞いただけではありません」
波多野は黙った。
「見た。そして、直せると思った」
「……はい」
「見えることと、触れることは違います。触れることと、動かすことも違います」
「はい」
「今は、その違いを記録してください」
榊課長は、そこで少しだけ声を落とした。
「名前を間違えると、処理も間違えます」
波多野は、画面の中の自分の文章を見た。
届け先を失ったもの。
白い線状の印象。
流れを整える方法が想起された。
自分のことなのに、他人の記録を読んでいるようだった。
***
帰宅してから、波多野はリュックを開けた。
あぶさんは、いつものように中から出て、畳の上に降りた。
何もなかったような顔をしている。
その顔が、少しだけ腹立たしかった。
「あぶさん」
「なんじゃ」
「今日の、見えてましたよね」
「何がじゃ」
「とぼけないでください」
あぶさんは、前足をそろえて座った。
小さな白い体。
油揚げが好きで、偉そうで、勝手で、たまに腹が立つ。
でも今日、祠の前で波多野を止めたのも、たぶんこの白狐だった。
「途中で、薄くしましたよね」
「見すぎておった」
否定しない。
波多野は、喉の奥が詰まるような気がした。
「やっぱり、あれは稲荷の網ですか」
あぶさんは、少しだけ目を細めた。
「端じゃ」
「端」
「網そのものを見たと思うな。おぬしが踏んだのは、端のほつれじゃ」
「ほつれ」
「それでも、見すぎれば吐くでは済まぬ」
波多野は黙った。
吐くでは済まない。
その言い方は、冗談ではなかった。
「直せそうに見えました」
波多野は言った。
あぶさんの耳が、ぴくりと動いた。
「そう思ったか」
「思いました」
「なら、なおさら見るな」
「どうしてですか」
あぶさんは、すぐには答えなかった。
畳の上で、尻尾をゆっくり巻く。
「端は端じゃ」
それだけ言った。
「手をかけるものではない」
「でも、詰まってました」
「詰まったものを、何でもほどけばよいわけではない」
「じゃあ、どうするんですか」
「人の世には、人の世の届け先がある」
波多野は、今日の紙束を思い出した。
祈りではなかった。
でも、稲荷は受けてしまっていた。
神務庁は、それを全部叶えるわけではない。
ただ、聞かなくていい入口を絞り、届けるべきものを人の側へ戻した。
それで終わりなのか。
終わりではないのだろう。
でも、今日できることは、そこまでだった。
「僕は、何を見てるんですか」
あぶさんは答えなかった。
代わりに、畳の上に丸くなった。
答えない。
それも、答えの一つだった。
翌日、榊礼司の管理メモには、一文が追加された。
通常記録外文脈への接触疑い。
白い線状印象、本人視認あり。
流れへの干渉を示唆する発言あり。実施なし。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第21話でした。
今回は、廃業した町工場と、そこに残された企業稲荷の話でした。
作中で競売や買受人側代理人、現地確認などが出てきますが、法的手続きの細かいところはかなり端折っています。
正直、ここを真面目に書き始めると別の話になってしまうので、「まあ神務庁がある世界ではこういう感じで回ったんだな」くらいで読んでいただけると助かります。
大事にしたかったのは、商売繁盛を願われていた稲荷が、商売が終わったあとに残された声まで聞いてしまう、というところです。
神務庁は債務や未払いを解決する役所ではありません。
ただ、聞き続けなくていい入口を、いったん整えることはできます。
波多野が見ているものも、少しずつ危うくなってきました。
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