第2話 ボロアパートに白狐
第2話です。
第1話で「貸しだぞ」と言った相手が、波多野の部屋まで来ます。
今回は、白狐との出会いと、神務庁の朝の一幕です。
第2話 ボロアパートに白狐
「よし、切り替えた。飲みに行こう、波多野君」
浅草の路地裏で、道上さんは確かにそう言った。
けれど、現場の人間はそのまま飲みに行けるほど自由ではない。
救助者を浅草駅まで送り、現場の封鎖を解き、杭としめ縄と紙垂を回収する。
公用車に機材を積み直し、本庁に戻って車両を地下駐車場へ入れる。
その頃には、もうすっかり日が暮れていた。
「いやあ、全員無事でよかったよかった」
地下駐車場で軽バンを降りた道上さんは、大きく伸びをした。
初デートを界門に潰された人間の顔ではない。
「道上さん、あのあと本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫大丈夫。報告書には“界門の自然再展開により要救助者を回収”って書くから」
「それ、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃない時は、課長が直してくれる」
現場の人間は強い。
機材を返却し、簡単な報告だけ済ませると、道上さんは僕の肩を叩いた。
「さて。飲みに行こう」
「本当に行くんですね」
「行くよ。こういう日は飲んだ方がいい。寝る前に考え込むと、界門の夢を見るぞ」
妙に説得力があった。
僕たちは霞が関を出て、新橋の安い居酒屋に入った。
道上さんは、現場で見た神隠しの話をいくつかしてくれた。
笑い話のように語っていたけれど、途中で何度か、笑えない沈黙があった。
それでも道上さんは最後には笑って、
「まあ、戻ってきた人間が飯食って寝られるなら、それで勝ちよ」
と言った。
居酒屋を出た時には、夜の十時を回っていた。
道上さんと駅で別れ、僕は電車に揺られて自宅へ帰った。
自宅と言っても、築年数だけなら僕よりだいぶ年上の木造アパートだ。
霞が関で神の力を扱っている人間が、帰る場所は六畳一間のボロアパート。
人生は、案外そういうものらしい。
駅から歩き、古い外階段を上がる。
自分の部屋の前まで来たところで、僕は足を止めた。
ドアの前に、白い狐が座っていた。
肩に乗るくらいの、小さな白狐だった。
神社のお稲荷さんを、そのまま生き物にして少しだけ愛嬌を足したような姿をしている。
白い毛並みの上には、額から背にかけて朱の文様が走っていた。
かわいらしい見た目のくせに、目だけは妙に古い。
祠の奥から、人間を見ているような目だった。
白狐は、こちらを見上げて言った。
「遅いぞ」
僕は静かに鍵を取り出し、隣の部屋の番号を確認した。
合っている。
疲れているのだと思った。
今日は色々あった。
界門は開くし、人は取り残されるし、頭の中に声は響くし、道上さんはマチアプの初デートを失った。
幻覚の一匹くらい見てもおかしくない。
僕はできるだけ自然な動作で鍵を差し込んだ。
「おい」
白狐が言った。
「助けてやった相手を無視するな」
鍵を回す手が止まった。
路地裏。
閉じたはずの界門。
頭の中に響いた声。
―――――貸しだぞ。
僕はゆっくりと白狐を見た。
「……あの声、あなたですか」
「そうだ」
白狐は当然のように言った。
「貸しを返してもらいに来た」
その言葉で、酔いが少し醒めた。
神様の貸し。
それは、たぶん人間が軽々しく背負っていいものではない。
「僕に、何をさせるつもりですか」
「油揚げ」
「……はい?」
「油揚げだ。聞こえなかったか」
聞こえていた。
ただ、理解が追いつかなかった。
「油揚げでいいんですか」
「よい」
「神様の貸しが?」
「神ではない」
白狐は尻尾を揺らした。
「使いだ」
「使い?」
「稲荷の使い。まあ、人間にはそのくらいの理解でよい」
「……稲荷神そのものではないんですね」
「本体が、こんなボロアパートの前で人間を待つと思うか」
「それはそうかもしれませんけど、ボロアパートは余計です」
「事実だ」
初対面でなかなか失礼な狐だった。
「それで、貸しの返済が油揚げなんですか」
「そうだ」
「本当に?」
「油揚げに嘘はない」
何の格言だろう。
僕はしばらく白狐を見下ろしたあと、深くため息をついた。
このまま廊下で白い狐と問答していたら、隣の部屋の人に通報される。
神務庁職員が、自宅アパートの前で白狐と会話して警察を呼ばれる。
さすがに報告書の書き方が分からない。
「……とりあえず、入りますか」
「うむ」
白狐は当然のように立ち上がり、僕より先に部屋へ入った。
***
六畳一間。
小さなキッチン。
小さいテレビ
折りたたみ式のちゃぶ台とノートPC
本棚には民俗学の本と、行政法の基本書と、読みかけの漫画。
洗濯物は、かろうじて畳んである。
白狐は部屋の真ん中まで進み、ぐるりと見回した。
「狭いな」
「知ってます」
「古いな」
「知ってます」
「ボロいな」
「そこまで言います?」
白狐は畳の匂いを嗅ぐように鼻を動かし、それから、ちゃぶ台の横にちょこんと座った。
「だが、悪くない」
「何がですか」
「居心地がいい」
築四十年の木造アパートに、稲荷の使いから高評価が出た。
「……どうして僕のところに来たんですか」
僕が聞くと、白狐は尻尾を揺らした。
「呼んだのはお前だ」
「呼んだ覚えはありません」
「祈っただろう」
「あれは、あの人を助けたくて……」
「祈りとは、そういうものだ」
白狐は当然のように言った。
「声を出せば、誰かが聞く。聞いた者が来る。それだけだ」
「でも、来たのはあなたですよね」
「そうだ」
「なぜ、あなたが?」
白狐は油揚げのない皿を見つめた。
「たまたまだ」
「本当ですか」
「たまたま近くにいて、たまたま聞こえて、たまたま暇だった」
「最後だけ嘘っぽいです」
「では、忙しかった」
「もっと嘘っぽいです」
白狐は小さく鼻を鳴らした。
「細かい人間だな」
嘘をつかれた、とは思わなかった。
けれど、全部を話されたわけでもない。
そういう言い方だった。
僕は冷蔵庫を開けた。
幸い、安売りの油揚げが一袋残っていた。
味噌汁に入れるつもりで買っておいたものだ。
小皿に乗せて出すと、白狐はそれを見て、わずかに目を細めた。
「焼かんのか」
「要求が多いですね」
「貸しの返済だぞ」
「分かりましたよ」
フライパンで軽く炙る。
醤油を少し垂らすと、香ばしい匂いが部屋に広がった。
白狐は一口かじり、満足そうに目を細めた。
「悪くない」
「それはどうも」
「貸しは返された」
「本当ですか」
「油揚げに嘘はない」
ともかく、貸しが返せたならそれでいい。
僕は少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、食べ終わったら帰るんですよね」
白狐は二口目を飲み込んでから、こちらを見た。
「帰るつもりだった」
「だった?」
「気が変わった」
嫌な言葉だった。
「なぜですか」
「ここは、居心地がいい」
「築四十年の六畳一間が?」
「広さの話ではない」
白狐は畳の上に尻尾を置いた。
「祈りの押し売りがない」
「祈りの押し売り?」
「助けろ。叶えろ。儲けさせろ。勝たせろ。治せ。祟るな。守れ。人間は、神の前だとよく喋る」
白狐は淡々と言った。
「ここは静かだ」
そう言われると、少し複雑だった。
単に、僕の部屋には人も金も信仰心もないだけではないだろうか。
「つまり、休憩所にちょうどいいと」
「そうとも言う」
「言うんですか」
「それに」
白狐はそこで、ほんの少しだけ言葉を切った。
黒い瞳が、僕の奥を覗くように細くなる。
「お前は、よく聞こえる」
「何がですか」
白狐の耳が、ぴくりと動いた。
「腹の音だ」
「今、絶対違う意味でしたよね」
「油揚げが足りんという意味だ」
「それはあなたの腹の話でしょう」
白狐は答えず、尻尾で畳を叩いた。
その仕草が妙に偉そうで、僕は少しだけ笑ってしまった。
「名前、あるんですか」
「名など、呼ぶ側が勝手につけるものだ」
「じゃあ、何て呼べばいいんですか」
「好きに呼べ」
僕は考えた。
稲荷の使い。白い狐。油揚げを要求する謎の存在。
普通に考えれば、イナリだ。
でも、それは困る。
「イナリ、だと職場のシステムと被るんですよね」
「職場のシステム?」
「INARIです。全国の稲荷から神気データを集めてる基幹システムで」
白狐の目が、少しだけ細くなった。
「……あれか」
「あれ?」
「いや、何でもない」
今の反応は、何でもなくない。
けれど、白狐はそれ以上言うつもりがないらしい。
僕は無理に聞くのをやめた。
「じゃあ……」
白狐。稲荷。油揚げ。
そこまで考えて、なぜか昔、床屋で読んだ野球漫画の背表紙が頭に浮かんだ。
「……あぶさん?」
白狐が、ぴたりと動きを止めた。
「酒飛沫の男か。良いな」
まさか、その呼び名で通じるとは思わなかった。
「分かるんですか」
「床屋に置いてあった」
「僕も床屋で読みました」
妙なところで通じ合ってしまった。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。
白い毛並みに走る朱の文様が、淡く浮かび上がる。
黒い瞳の奥に、小さな灯がともったように見えた。
「……今のは」
「名だ」
白狐は静かに言った。
さっきまで油揚げを要求していた小さな狐とは、少しだけ声が違っていた。
「呼ぶ名を与えた。ならば、応える先が定まる」
「応える先?」
「呼ばれたら返事をするということだ」
「そのままですね」
「言葉は、そのままが一番よい」
絶対に全部は説明していない。
それは分かった。
「では、そう呼べ」
「……あぶさん?」
「うむ」
目の光は、もう消えていた。
けれど、何かがつながった。
そんな気がした。
貸しは返した。名前はつけた。
そして、稲荷の使いは帰らなかった。
あぶさんは当然のように、ちゃぶ台の下に潜り込む。
白い尻尾だけが、畳の上に残った。
僕はそれを見ながら、深くため息をついた。
どうやら僕は、神務庁に出向して約三か月で、稲荷の使いを自宅に住まわせることになったらしい。
***
翌朝。
目を覚ますと、あぶさんはまだいた。
ちゃぶ台の下で丸くなり、当然のように僕の部屋を占拠している。
「……まだいたんですか」
「いると言っただろう」
「言いましたっけ」
「言ったことにした」
稲荷の使いは、思ったより雑だった。
僕は出勤の準備をしながら、できるだけ冷静に言った。
「僕、仕事に行くんですけど」
「知っている」
「ついて来ないでくださいね」
「行く」
「駄目です」
「なぜだ」
「神務庁だからです」
「なおさら行く」
完全に会話が噛み合っていない。
僕はしばらくあぶさんとにらみ合ったあと、通勤用のカバンを開けた。
「……入ってください」
「使いを荷物扱いする気か」
「徒歩で来られるよりましです」
「ふむ」
あぶさんは少し考えるように目を細めた。
「その理屈は嫌いではない」
そして、当然のようにカバンへ入った。
***
その後、僕は電車で神務庁へ出勤した。
霞が関の官庁街を歩く。
高いビル。
広い道路。
信号待ちをするスーツ姿の人たち。
警備員。
黒塗りの車。
日本の行政の中枢らしい、無機質で、少し息苦しい風景。
その中に、一か所だけ、妙に古い場所がある。
ビルとビルの隙間。
そこに、朱の色がほとんど剥げた小さな鳥居が立っている。
周囲を歩く人たちは、ほとんど気に留めない。
古い祠か、文化財か、都市計画の都合で残った何か。
見たとしてもそんな風に流してしまうだろう。
僕は鳥居の前で足を止めた。
足元のカバンが、かすかに動く。
「ここか」
「静かにしてください」
僕は職員証を取り出し、鳥居の柱に取り付けられた小さな黒い読み取り機にかざした。
ピッ。
場違いなくらい軽い電子音が鳴る。
続けて、鳥居の前で軽く一礼する。
神務庁の内側へ入る職員用登庁口は、認証と作法の両方で開く。
ICカードだけでは入れない。
祈るだけでも入れない。
いかにもこの役所らしい仕組みだった。
鳥居の下、真ん中ではなく左端を通る。
敷石の三枚目で、一度だけ足を止める。
すると、ビルの隙間に見えていた灰色の壁が、ゆっくり奥へずれた。
いや、壁が動いたわけではない。
景色の方が、こちらの認識から一枚剥がれたように見えた。
鳥居の奥に、細い参道が現れる。
その先にあるのは、古びた神社ではない。
ガラス張りの低層庁舎だった。
入口の上には、小さくこう刻まれている。
内閣府外局 神務庁。
カバンの中で、あぶさんが小さく鼻を鳴らした。
「ずいぶん人間くさい門だな」
「入れないと思ってました」
「なぜだ」
「稲荷神の使いを持ち込んでるので」
「この結界が弾くのは、穢れや害意だ。名の有無ではない」
「詳しいですね」
「稲荷の網も使っているからな」
それを聞いて、僕は少しだけ嫌な予感がした。
この白狐は、神務庁にとって招かれざる客ではない。
もっと悪い。
仕組みを知っている客だ。
僕はため息をつきながら、神務庁の自動ドアをくぐった。
***
INARI運用課に着くと、僕はいつもより慎重に席へ座った。
足元には通勤用のリュック。
その中には、昨夜から僕の部屋に居座っている白狐が入っている。
神務庁職員として、これはおそらくかなりまずい。
庁舎内に稲荷の使いを持ち込んでいる。
たぶん、本来は届出なり登録なりが必要なやつだ。
詳しい手続は知らない。
知らないまま持ち込んでいる時点で、かなりまずい。
しかも本人、いや本狐は、まったく悪びれていない。
「狭い」
リュックの中から小さな声がした。
「静かにしてください」
「人間は荷物の扱いが雑だ」
「荷物扱いされたくなければ、ついて来なければよかったんです」
「それはできん」
「どうしてですか」
「面白いからだ」
理由が小学生だった。
「波多野さん」
背後から声がして、僕は肩を跳ねさせた。
榊課長だった。
「おはようございます。昨日は現場同行、お疲れさまでした。大変だったようですね。」
「お、お疲れさまでした」
「初めての現場はどうでしたか」
僕は一瞬だけ、足元のリュックを意識した。
迷い込んだ人たち。
白狐。
貸し。
油揚げ。
命名。
そして、ちゃぶ台の下で丸くなっていた白い尻尾。
言えることが多すぎて、言えることが何もない。
「……想像していたより、現場でした」
我ながら、ひどい感想だった。
榊課長は少しだけ笑った。
「それは何よりです。神務は、資料で見るのと現場で見るのとでは違いますから」
「はい」
「道上主任から、昨日の界門事案の報告書が上がっています。あなたも同行者として、ログとの照合をお願いします」
「分かりました」
「報告書上は、二次開門があったようですね。残留神気による自然再展開とされています」
残留神気による自然再展開。
道上さんらしい処理だと思った。
分からないものは、分からない。
ただ、報告書には何かを書かなければならない。
「自然再展開、ですか」
「界門には稀にあります。一度閉じた門が、周囲に残った神気の揺り戻しで短時間だけ開く現象です」
「なるほど」
「ただ、念のためログと照合してください。昨日はあなたも現場にいましたし」
「はい」
榊課長はそう言って、自席に戻っていった。
僕は深く息を吐き、端末を立ち上げた。
道上主任の報告書を開く。
件名。
『2026年6月26日 台東区花川戸界門発生事案 報告書』
概要。
界門発生地点、東京都台東区花川戸。
要救助者五名。
全員救助。
二次開門については、残留神気による自然再展開と推定。
淡々とした文章だった。
昨日のあの破れ目を見ていなければ、そういうものかと思ってしまうくらいには、整っていた。
僕は続けて、イナリのログを開いた。
発生地点、東京都台東区花川戸。
一次開門、境界対策課・道上主任。
使用神威、猿田彦系中級神威『道開き』。
要救助者五名、全員救助。
そこまでは、道上さんの報告書と一致していた。
問題は、その下だ。
二次開門、あり。
検出神威、稲荷系反応。
カタログ照合、エラー。
該当神威、なし。
使用者、不明。
発生要因、外部神威干渉。
決裁番号、N/A。
事後承認、N/A。
僕は固まった。
報告書では、残留神気による自然再展開。
ログでは、稲荷系神威による外部干渉。
しかも、カタログ参照エラーが出ている。
これは、きっとかなりまずい。
「……これ、駄目なやつでは」
「駄目だな」
カバンの口が、少しだけ開いた。
白い耳が、ひょこっと出る。
「出ないでください」
「見せろ」
「見せません」
「もう見た」
「じゃあ出ないでください」
あぶさんは聞いていなかった。
僕の端末画面をじっと見つめる。
その黒い瞳の奥が、昨夜、名前を呼んだ時のように、ほのかに光った。
次の瞬間。
画面の文字が、ひとつずつ変わっていった。
二次開門、あり。
使用神威、該当なし。
使用者、該当なし。
発生要因、残留神気による自然再展開。
決裁番号、不要。
事後承認、不要。
「……え」
僕は、画面とカバンを交互に見た。
「今、何をしました?」
「整えた」
「それを普通は改ざんって言うんです」
「人聞きの悪いことを言うな。お前が困ると思ったから、整えてやった」
「僕は頼んでません」
「頼む前に、願った」
僕は言葉に詰まった。
願った。
確かに、あの表示を見た瞬間、心の底で思った。
これはまずい。
消えてほしい。
どうにかならないか。
けれど、それを願いとして扱われるとは思っていなかった。
「思っただけです」
「使いには、それで十分だ」
「行政手続では、それを申請とは言いません」
「だから人間は遅い」
あぶさんは、悪びれもせず尻尾を揺らした。
応える先が定まる。
昨夜、あぶさんはそう言った。
まさか、こういう意味ではないだろう。
そう思いたかった。
だが、あぶさんは僕の願いを、僕が言葉にする前に拾った。
それは便利というより、怖かった。
「波多野さん」
再び背後から榊課長の声がして、僕は肩を跳ねさせた。
「ログ、確認できましたか」
「は、はい。今、確認中です」
「報告書と齟齬は?」
僕は画面を見た。
二次開門、あり。
使用神威、該当なし。
使用者、該当なし。
発生要因、残留神気による自然再展開。
決裁番号、不要。
事後承認、不要。
きれいに整っている。
整っていることが、逆に怖い。
「……いえ。道上主任の報告書どおり、自然再展開として処理されています」
「そうですか」
榊課長は画面を覗き込み、少しだけ眉を寄せた。
「変ですね」
「え?」
「さっき私が見た時は、エラーが出ていた気がしたんですが」
心臓が、嫌な音を立てた。
足元のカバンの中で、あぶさんが小さく身じろぎする。
僕は反射的に、足でカバンを机の奥へ押し込んだ。
「僕が開いた時には、この表示でした」
嘘ではない。
少なくとも、今この瞬間はそう表示されている。
榊課長はしばらく画面を見ていた。
「……私の見間違いかもしれませんね。」
榊課長の視線が、画面から僕へ移る。
「波多野さん」
「はい」
「昨日、現場で稲荷の祠に近づきましたか」
喉が詰まった。
「え、はい。路地脇にありましたけど」
「少し、稲荷系の神気が残っています」
「神気、ですか」
「ええ。現場帰りなら珍しくはありませんが」
足元のカバンの中で、あぶさんが黙った。
さっきまで余計なことばかり言っていたくせに、こういう時だけ静かになる。
「体調に異変があれば、すぐ報告してください。神気酔いは、慣れていない職員には出ますから」
「はい。ありがとうございます」
榊課長はもう一度だけ僕を見て、それから自席へ戻っていった。
僕は、ようやく息を吐いた。
カバンの中から、小さな声がした。
「下手だな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「お前の胆力の問題だ」
「あなたの存在の問題です」
あぶさんは、くく、と小さく笑った。
僕は画面に残った「決裁番号、不要」の文字を見つめる。
昨日まで、僕はただのイナリ運用課の新人だった。
ログを確認して、申請書と照合して、上司に回付するだけの職員だった。
けれど今、僕の足元には、基幹システムの記録を「整えた」と言い張る白狐がいる。
そしてその白狐は、僕がつけた名前に応えた。
何かが始まっている。
それだけは、僕にも分かった。
お読みいただきありがとうございます。
白狐、居座りました。
油揚げで貸しは返したはずなのに、話はむしろ面倒な方向へ進んでいます。
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次回もよろしくお願いします。




