第19話 倉橋千尋の休日
今回は、倉橋千尋の休日回です。
水上様回が長かったので、少し休憩です。
実家、相撲、古本屋、喫茶店、銭湯。
事件は少しお休みして、呪具呪物管理課の職員にもある、普通の一日を描きます。
第19話 倉橋千尋の休日
休日の朝、倉橋千尋は両国にある実家の食卓で味噌汁を飲んでいた。
二十八歳。
呪具呪物管理課の職員で、今も実家で暮らしている。
テレビでは、九月場所前の話題をやっていた。
倉橋は、相撲が好きだった。
とはいえ、誰かに熱弁するほどではない。
贔屓の力士が勝てば少し機嫌がよくなり、負ければ少し黙る。
相撲雑誌を見つけるとたまに買ってしまう。
場所前のニュースが流れていれば、箸を止めて少しだけ見る。
そのくらいの好きだった。
まだ本場所は始まっていない。
けれど、画面の向こうでは、稽古場の土俵と、汗を光らせる力士たちと、少し早口のアナウンサーが、もうすぐ始まる十五日間を告げていた。
父は新聞を読んでいる。
母は卵焼きを皿に移しながら、近所の幼なじみが結婚した話をしていた。
「小さい頃、千尋と一緒に公園で遊んでた子よ」
「覚えてる」
「もう式も済ませたんですって。早いわねえ」
「そうだね」
倉橋は味噌汁を飲んだ。
この流れは、分かりやすい。
次に来る言葉も、だいたい決まっている。
「千尋は、職場にそういう人いないの?」
来た。
母に悪気はない。
それは分かっている。
倉橋にも、結婚願望がまったくないわけではなかった。
誰かと暮らすことを考えたことがないわけでもない。
ただ、仕事の説明が難しい。
呪物を解体して鑑定しています。
中から泣き声のする箱を封緘しました。
札の貼られた古い木片を、一日中見ていました。
そんな話を聞いて、それでも同じ食卓で普通にご飯を食べられる人は、たぶん多くない。
仕事が嫌なわけではない。
辞めたいわけでもない。
ただ、分かってもらうには、少し遠い場所にいる。
そう思うことはあった。
倉橋は椀を置いた。
「はなの散歩に行ってくる」
「まだ食べてる途中でしょう」
「暑くなる前に行かないと」
玄関の方で、はなが尻尾を振る音がした。
犬の健康を持ち出すのは、家庭内では有効なうっちゃりだった。
母は少しだけ呆れた顔をしたが、それ以上は追ってこなかった。
「水、持っていきなさいよ」
「持ってる」
「はなじゃなくて、千尋の分も」
「分かってる」
倉橋は水筒を鞄に入れた。
玄関で待っていたはなは、茶色の大型犬だった。
年齢のわりに落ち着いた目をしているが、散歩の気配には素直に反応する。
「行くよ」
はなは、当然のように先に立とうとした。
「待て」
はなは待った。
「えらい」
倉橋が小さく言うと、はなは尻尾だけを一度振った。
褒められて当然、という顔だった。
倉橋はリードを短く持ち直し、玄関を出た。
九月の朝は、まだ夏を残していた。
日差しは強い。
けれど、八月の逃げ場のない熱とは少し違う。
建物の影に入れば、かろうじて歩ける。
両国の街は、場所前の顔をしていた。
国技館の大きな屋根は静かだったが、駅前の案内も、ちゃんこ屋の看板も、通りに残る相撲の言葉も、もうすぐ始まるものを知っているようだった。
まだ太鼓は鳴っていない。
まだ取組もない。
それでも、街全体が仕切りの姿勢で待っている。
倉橋は、その空気が嫌いではなかった。
はなは日陰を選んで歩く。
その判断は正しい。
犬の方が、九月の道に詳しい。
倉橋は、はなの歩調に合わせて、国技館の方へゆっくり進んだ。
途中で、はなが植え込みの前に立ち止まった。
匂いを嗅いでいる。
長い。
「そこ、そんなに重要?」
はなは答えない。
鼻先を少し動かし、念入りに確認している。
犬は、わからないものをわからないままにする。
それが少しうらやましい時がある。
倉橋は、はなが満足するまで待った。
休日の朝なのだ。
急ぐ理由はない。
はながようやく顔を上げたので、倉橋は歩き出した。
少し先で、浴衣姿の若い力士が二人、ゆっくりと通りを横切っていく。
大きな背中だった。
はなは一瞬だけ見上げ、それから特に興味を示さず、日陰へ戻った。
「そこは見ないんだ」
倉橋は小さく笑った。
はなにとっては、力士より日陰の方が大事らしい。
その判断も、たぶん正しい。
倉橋は、土俵際が好きだった。
出たように見えて、まだ残っている。
崩れたように見えて、まだ負けていない。
最後まで見ないと、分からない。
仕事でも、そういう場面は多かった。
ただ、今日は休日である。
倉橋はそれ以上考えるのをやめた。
散歩を終えて家に戻ると、母はまだ台所にいた。
「早かったわね」
「暑いから」
「お昼は?」
「外で食べる」
「また古本屋?」
「うん」
母はそこで何か言いかけたが、結局、言わなかった。
「夕方までには帰りなさいよ」
「銭湯に寄るから、少し遅くなる」
「ほんと、休日の予定が年寄りみたいね」
「健康的だと思う」
「そういう意味じゃないわよ」
倉橋は、はなの足を拭きながら聞き流した。
はなは、足を拭かれることに慣れている。
前足。
後ろ足。
もう片方の前足。
もう片方の後ろ足。
順番を間違えると、少しだけ不満そうな顔をする。
「はい、おしまい」
はなは確認するように自分の足を見て、それから倉橋を見た。
「完了です」
倉橋が言うと、はなは一度だけ尻尾を振った。
「留守番」
その言葉には、少しだけ不満そうな顔をした。
昼前、倉橋は改めて家を出た。
古本屋は開いていた。
引き戸を開けると、紙と埃と、少しだけ湿った木の匂いがした。
店主は奥で新聞を読んでいる。
倉橋は軽く会釈して、棚の前に立った。
相撲雑誌。
郷土史。
古い怪奇雑誌。
古地図。
怪しいオカルト月刊誌
そういうものを見るのが好きだった。
倉橋は、怪しい話そのものより、怪しい話が残ってしまうことに興味があった。
信じているわけではない。
けれど、人が何を怖がり、何を見たことにしたかったのかは、記録の端に残る。
夜、寝る前に動画サイトで都市伝説の解説を流してしまうこともある。
謎の古代遺跡や消えた集落跡、予言、UMA。
途中で寝落ちして、朝になって履歴を見て、少しだけ複雑な気分になる。
趣味である。
仕事ではない。
少なくとも、倉橋はそういうことにしている。
棚の下段に、古い相撲名鑑があった。
少し迷って、手に取る。
背表紙は焼けているが、中は読めそうだった。
その近くに、表紙の端が折れた怪奇雑誌も一冊あった。
表紙には、古代文明、予言、消えた村、という文字が並んでいる。
倉橋はそれも手に取った。
さらに、墨田区の古い町歩きの冊子を一冊選んだ。
会計を済ませると、店主が紙袋に入れてくれた。
倉橋は礼を言い、外へ出た。
昼の日差しは、朝より強くなっていた。
そのまま通りを少し歩いて、喫茶店に入る。
店内は薄暗く、冷房がよく効いていた。
派手な店ではない。
椅子は重く、テーブルの角は少し丸い。
壁には、いつから貼ってあるのか分からない絵がかかっている。
倉橋は、窓から少し離れた席に座った。
「アイスコーヒーとトーストで」
注文してから、紙袋を膝の横に置く。
スマートフォンを出せば、場所前のニュースも、過去の取組も、いくらでも見られる。
けれど、今日は本を開いた。
古い相撲名鑑のページをめくる。
印刷の小さな文字。
古い写真。
今とは少し違う言い回し。
紙の上に残った名前は、妙に落ち着いている。
トーストが来た。
アイスコーヒーも来た。
倉橋はバターを薄く伸ばし、一口食べた。
それから、小さなポーションの蓋を開け、アイスコーヒーにミルクを垂らした。
白い筋が、黒い液面の中をゆっくり沈んでいく。
細く伸びて、ほどけて、形を変える。
倉橋は、ストローを持ったまま少しだけ止まった。
水上様案件の白い線が、ふと頭に浮かんだ。
細い水筋は、自分に向かっていた。
その進路を、白い線が逸らした。
波多野に神威使用の自覚はない。
発生源も、系統も、まだ確定していない。
だから、波多野が助けた、と書くことはできない。
けれど、倉橋は覚えている。
あの時、白い線は確かに出た。
自分は、その線の内側にいた。
倉橋は、ゆっくりストローでアイスコーヒーを混ぜた。
白い筋は、黒い液体に溶けて見えなくなった。
見えなくなっても、なかったことにはならない。
倉橋は、古い名鑑のページに視線を落とした。
波多野承平。
その名前は、まだ決まり手のついていない記録の中にある。
そう思っただけだった。
それ以上の意味はない。
少なくとも、倉橋はそういうことにした。
倉橋はアイスコーヒーを一口飲んだ。
冷たさで、考えを切る。
断定しない。
けれど、落とさない。
それは仕事でも、たぶん仕事でなくても、倉橋の癖だった。
休日にまで考えることではない。
そう思って、ページをめくった。
午後、喫茶店を出る頃には、日差しが少しだけ傾いていた。
倉橋は古本の紙袋を抱え、いったん家に戻った。
本を机に置く。
はなが寄ってきて、紙袋の匂いを嗅ぐ。
「食べ物じゃない」
はなはもう少し嗅いだ。
「本」
はなは興味を失った。
判断が早い。
夕方、倉橋は銭湯へ行った。
休日の締めは、だいたい湯だった。
銭湯の脱衣所には、古い扇風機が回っていた。
浴室に入ると、湯気と石鹸の匂いがした。
身体を洗い、湯船に入る。
熱い。
最初の一瞬だけ、息が止まる。
それから、肩まで沈む。
明日になれば、また記録を読む。
封緘もする。
分からないものを、分からないまま扱う。
けれど今は、湯の温度だけ分かればよかった。
倉橋は湯船の縁に頭を預け、目を閉じた。
湯に沈んでも、昼に浮かんだ名前だけは、まだ頭の隅に残っていた。
だからといって、今すぐ何かを決める必要はない。
今日のところは、それでいい。
家に戻る頃には、空は暗くなり始めていた。
玄関を開けると、はなが待っていた。
吠えない。
ただ、尻尾を振る。
倉橋はしゃがみ、はなの頭を撫でた。
「ただいま」
はなは、もう一度だけ尻尾を振った。
休日は終わる。
記録しない一日も、終わる。
それでも、忘れないものは残る。
倉橋千尋は玄関の明かりを背に、少しだけ目を閉じた。
お読みいただきありがとうございます。
今回は倉橋千尋の休日回でした。
仕事では冷静な倉橋ですが、実家では母に結婚の話をされ、犬に振り回され、古本屋で怪しい雑誌を手に取ります。
休日ではあっても、水上様案件のことも、完全には忘れられていないようです。
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