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タカマガハラの神務官 〜神の力を使うのに必要なのは祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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18/23

第18話 願いましたか

今回は、波多野と榊課長の確認回です。


神威を使ったのか。

それとも、ただ願ったのか。


水上様案件を受けて、波多野の「非ログ所見」の扱いが少し変わります。


第18話 願いましたか




九時三十分の少し前、波多野承平は課長席の前に立った。


通知に書かれていた件名は、水上様案件に関する確認。


場所は、課長席。


その通りだった。


榊礼司は端末から目を上げると、いつもの調子で言った。


「波多野さん。少しよろしいですか」


「はい」


課長席の前で、そのまま話すのだと思っていた。


けれど榊は、端末を閉じて立ち上がった。


「ここでは少し話しづらいですね。小会議室へ移りましょう」


その一言で、波多野の胃のあたりが重くなった。


叱責ではない。


たぶん、そういう話ではない。


ただ、立ち話で済む確認でもないらしい。


小会議室に入ると、榊は扉を閉めた。


机の上には、紙の資料が数枚置かれている。


水上様案件の共有資料。


現場所見。


小田倉所長からの補足。


そして、波多野自身が非ログ所見として残した短い文。


まだ終わっていません。


榊は椅子に座ると、最初にそう言った。


「まず、水上様案件について確認します」


「はい」


「あなたは、何を聞きましたか」


いきなりそこから来るのか、と思った。


画面の数値でも、ログでも、白い線でもない。


榊はまず、波多野が何を聞いたのかを聞いている。


「水の音です」


波多野は答えた。


「最初は、布の向こうで鳴っているみたいな音でした。近いのに、直接は触れない感じです」


榊は黙って聞いていた。


メモは取る。


けれど、遮らない。


「それから、終わっていない感じがしました」


「終わっていない」


「はい。あそこにまだ残っている、というか。見ている、というか」


自分で言って、変な言い方だと思った。


けれど、それ以外の言葉がなかった。


「誰が、何を見ているんですか」


「分かりません」


波多野は首を振った。


「でも、あの祠を片付ければ終わるとか、札を封緘すれば終わるとか、そういう感じじゃありませんでした」


榊は少しだけ視線を落とした。


「木曽谷の時とは違いますか」


「違います」


今度は、はっきり言えた。


「木曽谷は、届いていない感じでした。声はあるのに、途中で止まっている感じです。水上様は、もっと近かったです。届いていないんじゃなくて、そこに残っている感じでした」


榊は頷いた。


「未達と、残留」


小さくそう言い、資料の端に何かを書き込む。


波多野には、その文字までは見えなかった。


「次に、現場での白い線についてです」


波多野の肩が、わずかに強張った。


「現場所見では、封緘作業中、細い水筋が現場職員へ向かった。その直後、白い線状反応が現れ、水筋の進路が逸れたとあります」


「はい」


「あなたはその場にいましたね」


「いました」


「白い線について、心当たりはありますか」


波多野は、すぐには答えられなかった。


心当たり。


ある。


あるかもしれない。


けれど、それをそのまま言葉にすると、何かが決まってしまう気がした。


自分の中でさえ、まだ整理できていないものがある。


何が起きたのか。


自分が何をしたのか。


自分ではない何かが動いたのか。


それとも、自分が願ったことと、起きたことの境目が曖昧になっているのか。


どこからが自分の責任で、どこからが現象なのか。


波多野には、まだ分からなかった。


分からないまま、名前だけを差し出すことはできなかった。


「……分かりません」


ようやく、それだけを言った。


榊は、波多野の顔を見ていた。


気づいていない顔ではなかった。


けれど、問い詰める顔でもなかった。


「神威を使った自覚はありますか」


「ありません」


「では、止まってほしいとは思いましたか」


その問いは違った。


使ったかどうかではない。


願ったかどうかだった。


波多野は、少しだけ息を止めた。


「……思いました」


小会議室に、短い沈黙が落ちた。


榊は机の端に置いていた缶コーヒーを開け、一口だけ飲んだ。


「私は一度、あなたを稲荷系の強適合者として見ました」


波多野は顔を上げた。


「強適合者、ですか」


「同系統の神気に強く反応する職員です。現場で同じ系統の神気に触れた時、本人の意思や訓練より先に、神気が漏れることがあります」


榊の声は淡々としていた。


「未登録のままなら危険です。本人に悪意がなくても、周囲へ影響を出す可能性があります。通常は、登録、訓練、行動範囲の整理、適合者管理の対象になります」


波多野は黙った。


登録。


訓練。


行動範囲の整理。


適合者管理。


どれも正しい言葉なのだろう。


けれど、自分がどこかへ移される言葉にも聞こえた。


「ただし」


榊は続けた。


「呼水の出力は低かった」


波多野は、あの確認の時のことを思い出した。


稲荷系基礎神威、呼水。


発動はした。


けれど、強いものではなかった。


「強適合者なら、出す方の反応がもっと分かりやすく出てもいい。ですが、あなたの場合、出力よりも、拾う方が先に出ています」


「拾う方」


「木曽谷では、通常画面に出ない未達を拾った。水上様では、封緘前の違和感を拾った。現場では、願いと反応の間が近すぎた」


榊は、そこで言葉を切った。


「あなたを未登録神威行使疑いとして上げることはできます。稲荷系強適合者として上げることもできます」


波多野の喉が鳴った。


「ですが、今の段階では、どちらも正しい名前だとは言い切れません」


榊は、資料を指先で軽く押さえた。


「名前を間違えると、処理も間違えます」


波多野は何も言えなかった。


水上様案件は、上げるに足る。


それは榊にも分かっていた。


発生源不明の白い線状反応。


系統未確定。


反応発生時、現場に波多野承平がいた。


本人に神威使用の自覚はない。


だが、止まってほしいとは思っていた。


このまま上げれば、未登録神威行使疑いとして処理できる。


処理はできる。


問題は、それが正しい処理かどうかだった。


榊は、自分がきれいな理由だけで迷っているわけではないことも分かっていた。


波多野承平が心配だった。


それは本当だ。


出向してきた若手で、現場経験も浅い。自分の身に何が起きているのか、本人もまだ分かっていない。そんな職員を、未登録神威行使疑いとしていきなり上へ投げるのは乱暴だった。


だが、心配だけではない。


放っておけば、周囲に影響が出る。


本人に悪意がなくても、願っただけで何かが動くのなら、次に巻き込まれるのは現場職員かもしれない。


それを見なかったことにはできない。


かといって、自分の課の中だけで抱え続けるのも危うい。


この水上様案件を受けて、榊は今まさに判断している。


即時に上げるのか。


課長権限で一次確認を入れてから上げるのか。


あるいは、別の名前で上げるべきなのか。


後から問われれば、答えなければならない。


なぜ、この段階で未登録神威行使疑いとして上げなかったのか。


なぜ、発生源不明の白い線状反応と波多野承平の関係を、すぐに適合者管理へ回さなかったのか。


なぜ、INARI運用課の中で追加確認を優先したのか。


どの問いにも、榊はまだ胸を張って答えられない。


それでも、すぐに上げたくなかった。


理由は、もう一つある。


波多野承平は、INARIの通常画面に出ないものを拾っているかもしれない。


匿名化され、抽象化され、数値に丸められる前のもの。


稲荷の網の奥で、本来なら末端の稲荷や現場の神職しか触れないはずの、声に近いもの。


もしそうなら、それはINARI運用課にとって、喉から手が出るほど貴重な所見だった。


適合者管理へ渡せば、波多野は危険な職員として扱われるかもしれない。


危機管理へ渡せば、現場リスクとして切り分けられるかもしれない。


長官室へ上げれば、制度の問題になる。


どれも間違いではない。


だが、その前に、INARI運用課として見たい。


この課の知見として掴みたい。


榊は、その欲が自分の中にあることを否定できなかった。


部下を守りたい。


周囲を守らなければならない。


自分の責任も守りたい。


そして、できれば波多野承平を、まだ自分の下に置いておきたい。


どれも本音だった。


だからこそ、判断が重かった。


「波多野さん」


榊は、閉じた端末の上に手を置いた。


「私は、あなたをこのまま上へ投げるつもりはありません」


波多野は息を止めた。


「ですが、見なかったことにするつもりもありません」


その方が、榊らしかった。


優しさだけではない。


庇うだけでもない。


「非ログ所見を残すこと自体は、これまで通りです」


榊は言った。


「ただし、扱いを変えます」


「扱い、ですか」


「はい。これまでは、現場判断の補助でした。通常ログには出ていないが、あなたが違和感を覚えた。だから、非ログ所見として添える。それだけです」


榊は資料の端を指で押さえた。


「今日からは違います。あなたの非ログ所見そのものを、観測対象にします」


「……僕の所見を、ですか」


「ええ」


榊は頷いた。


「何を感じたかだけではなく、いつ感じたか。その前に何を見たか。何を聞いたか。何を願ったか。その直後に何が起きたか。通常ログ、現場所見、あなたの非ログ所見を並べて、私が確認します」


波多野は、喉の奥が少し乾くのを感じた。


「それは、監視ですか」


「業務上は、経過観察です」


榊は否定しなかった。


「ただし、通常の非ログ所見ではありません。あなた自身の反応を見るための記録です」


波多野は、自分の指先を見た。


記録を書くことには慣れてきた。


通常ログにない違和感を、非ログ所見として残すことも、もう初めてではない。


けれど今、榊が言っているのはそれとは違う。


案件を見るための所見ではない。


自分を見るための所見。


その違いが、怖かった。


「それと」


榊は少しだけ声を落とした。


「次にあなたを現場へ出す時は、私が同行します」


「課長が、ですか」


「はい」


「そこまでする話なんですか」


榊はすぐには答えなかった。


缶コーヒーを一口飲み、机に置く。


「そこまでする話かどうかを、私が確認します」


波多野は黙った。


「あなたの所見が、単なる勘なのか。稲荷系の強適合による感応なのか。通常画面に出ないものを拾っているのか。それとも、願ったものに何かが応えているのか。そこを見ないまま上げれば、名前を間違えます」


名前を間違える。


その言葉が、波多野の中で引っかかった。


神務庁が、自分に名前をつけようとしている。


未登録神威行使。


強適合者。


観測対象。


どれも、間違いではないのかもしれない。


でも、どれも怖かった。


「これは処分ではありません。課長管理下の一次確認です」


榊は言った。


「ただし、あなたを守るためでもあります。記録がなければ、後から都合の悪い名前をつけられます。私が見ていれば、少なくとも、あなたが何を見て、何をしていないのかは、私が説明できます」


「何をしていないのか」


「はい」


榊は波多野を見た。


「使っていない神威まで、使ったことにされては困りますから」


その言葉は、思ったよりも波多野に効いた。


疑われている。


それは確かだった。


でも、榊は疑うためだけに聞いているわけではなかった。


「最後に一つ」


榊は言った。


「願う前に、一拍置いてください」


「願う前に」


「はい。あなたの場合、思うことと、起きることの間が近すぎます」


思うことと、起きることの間。


そこには、本来なら手続がある。


申請。


承認。


決裁。


行使。


記録。


神務庁は、その間を管理している。


けれど、自分の周りでは、その間が妙に短い。


思った。


起きた。


それでは、責任の置き場所が分からない。


「一拍置いて、それでも必要なら、声に出してください」


「誰にですか」


「まずは、現場責任者に」


榊は少しだけ間を置いた。


「私がいる時は、私に」


波多野は頷いた。


「分かりました」


小会議室を出て、自席へ戻るまでの数メートルが、妙に長かった。


椅子に座り、端末を開く。


新しいファイルを作る。


件名。


水上様案件 非ログ所見整理。


通常画面に出ていたこと。


自分が聞いたこと。


自分が感じたこと。


自分が願ったこと。


その直後に起きたこと。


波多野は、そこで手を止めた。


願ったこと。


ただ思っただけのものが、記録対象になっている。


その事実が、自分のいる場所を少しだけ変えた気がした。




     ***




その頃、長官室では、菅野正継が一枚の共有資料を読んでいた。


関東北部支部照会案件。


旧水路跡付近で確認された祠状構造物および札状物件に関する現場所見。


呪具呪物管理課から上がったものだった。


市松人形の時とは、物件の性質が違う。


夢干渉でもない。


帰還性でもない。


それでも、菅野の指は、ある行で止まった。


現場封緘中、白い線状反応を確認。


発生源不明。


系統未確定。


反応発生時、付近にいた職員。


倉橋。


小田倉所長。


波多野承平。


菅野は、しばらくその名前を見ていた。


波多野承平。


以前にも見た名だった。


庁内照会物件における鑑定中反応消失。


正式受入なし。


占有移転なし。


処理なし。


持参者、波多野承平。


あの時、菅野は余白に一行を書いた。


次回関与案件、要記録。


その次回が、来ている。


一件では偶発。


二件なら傾向。


三件なら制度の話。


菅野は、以前、自分でそう言った。


では、これは何か。


偶発が二度続いたのか。


それとも、まだ名前のない傾向なのか。


菅野は赤いペンを取った。


資料の余白に、短く書く。


波多野承平。


関与案件照会。


神務情報基盤局、神務資料管理局、双方確認。


そこまで書いて、ペン先が止まった。


榊礼司。


INARI運用課長。


あの男なら、気づいていないはずがない。


気づいていて、まだ上げていないのか。


それとも、上げる名前を探しているのか。


菅野の頭頂部を、紫がかった細い火花が走った。


バチ、と小さな音がした。


長官室には、紙の音だけが残っている。


榊礼司が、まだ上げる時の名前を探していた頃。


菅野正継の机の上では、すでに別の経路で、波多野承平の名前が二度目の線を結んでいた。


お読みいただきありがとうございます。


今回は、波多野本人への確認回でした。


「使いましたか」ではなく、「願いましたか」。

神務庁的には、かなり嫌な問いです。


榊課長も、波多野を守りたいだけではなく、課として見極めたい本音もあります。

そして最後には、別ラインからも波多野の名前が拾われ始めました。


水上様回、ちょっと長くなりましたがこれにて一旦くぎりです。次回はちょっと軽い話にします。


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