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タカマガハラの神務官 〜神の力を使うのに必要なのは祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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17/22

第17話 上げるべきもの

今回は、INARI運用課・榊課長の回です。


波多野本人の知らないところで、少しずつ「上に上げるべきもの」が積み重なっていきます。


第17話 上げるべきもの




夜のINARI運用課は、昼間とは別の部署のように静かだった。


端末の低い駆動音だけが、天井の照明に薄く響いている。全国地図の上には、いつも通り神気濃度の色が重なっていた。いくつかの地域に小さな点は灯っているが、赤く点滅する緊急案件はない。


平常運転。


そう呼んで差し支えない夜だった。


ただ、榊礼司の端末に開かれているファイルだけが、平常ではなかった。


関東北部支部照会案件。


正式な件名はもっと長い。旧水路跡付近で確認された祠状構造物、札状物件、工事現場での異常反応に関する一連の照会。


庁内では、もう水上様案件と呼ばれ始めている。


役所の案件名は、いつも長い。


そして現場の呼び名は、いつも少し早い。


榊は、倉橋から上がってきた共有を読み返した。


封緘作業中、現場職員に向かって細い水筋が伸びた。


その水筋は、直後に現れた白い線状の反応によって、半歩ほど進路を逸らされた。


白い線は、波多野承平、倉橋、小田倉の足元を結ぶように現れた。


発生源は不明。


系統も、確定していない。


現場所見として、狐火のように見えた、という記載がある。


榊はそこで手を止めた。


狐火。


ただの比喩かもしれない。


現場で咄嗟に見えた印象を、倉橋が慎重に残しただけかもしれない。倉橋は断定しない。断定しないが、見たものは落とす。そういう職員だった。


だからこそ、厄介だった。


書かれていることだけを見れば、上げるべき案件である。


発生源不明の反応が現場で起きた。


現場職員に向かっていた水筋が逸れた。


その場に、波多野承平がいた。


本人の関与は未確認。


それだけで十分だった。


上に投げればいい。


そうすれば、案件は榊の手を離れる。安全管理を担当する部署、適合者を扱う部署、監査を見る部署、場合によっては危機管理局。どこかが拾い、どこかが呼び、どこかが分類する。


役所は、そうやって動く。


分類されれば担当が決まり、担当が決まれば様式が決まり、様式が決まれば次に何をするかも決まる。


それは行政の強さだった。


同時に、怖さでもあった。


便利な箱は、時々、中身の形を変える。


榊は眼鏡を外し、眉間を押さえた。


波多野承平。


文化庁からの出向者。


INARI運用課配属。


通常画面でのログ照合担当。


肩書きだけを見れば、特別な職員ではない。


だが、ここ数週間の記録を追うと、その整理は少しずつ崩れていく。


最初は、花川戸だった。


あの時、榊はINARIの画面に妙な表示を見た気がした。


稲荷系反応。


カタログ照合エラー。


外部神威干渉。


次に確認した時には、表示は整っていた。二次開門は残留神気による自然再展開。処理としては、それで通る。波多野が見た時にも、画面はそうなっていた。


見間違いだったのかもしれない。


そう処理することはできた。


実際、榊はそう処理した。


花川戸のあと、波多野承平には稲荷系の神気が残っていた。


最初は、現場帰りの残留として説明できた。


界門案件に出れば、神気は付く。土地や祠の影響を受けることもある。榊はその場では、現場帰りなら珍しくない、と伝えた。


それは嘘ではない。


あの時点では、業務上もそれで足りた。


だが、その反応はすぐには消えなかった。


現場で外から付いたものなら、時間とともに薄れる。同じ質のまま残り続けるなら、単なる付着とは見にくい。


波多野の側に、稲荷系の回路が通ったのかもしれない。


榊は、そう見ていた。


それ自体は、ただちに問題視する話ではない。


INARI運用課は、稲荷の網を扱う部署である。稲荷系の適性がある職員なら、現場経験をきっかけに通り道ができることはある。


だから、その時点では経過を見ればよかった。


次に引っかかったのは、木曽谷だった。


末端情報収集率の低下。


中継点は緑。


周辺地域は黄色。


赤アラートではない。


通常画面に映るのは、中継点単位の粗い表示までだ。現場の祠や家や道の声が、そのまま画面に出るわけではない。


だからINARIは、絞っている。


まとめている。


削っている。


それが仕事だからだ。


その通常画面を見ながら、波多野は言った。


完全欠測ではなく、未達に近い。


声はある。ただ、届いていない。


通常画面の値ではない。


測定器の数字でもない。


波多野本人の感覚でしかない。


だが、榊が保守用画面を開くと、山側の弱い反応が、確かに途中で落ちていた。


波多野の言葉は、表示されていないはずの傾向と近かった。


榊は、その時点で業務上所見を残した。


花川戸の一時齟齬。


稲荷系神気の残留。


木曽谷での未達所見。


要経過観察。


事実だけを置いた。


解釈は入れなかった。


偶然かもしれない。


疲労かもしれない。


感覚の鋭さかもしれない。


あるいは、何か別のものかもしれない。


分からないものは、分からないまま置いておくしかない。


ただし、消していいものでもない。


その後、榊は波多野に稲荷系基礎神威の確認を入れた。


呼水。


木曽谷での発言があったからこそ、確認しておく必要があった。


波多野の側に稲荷系の回路が通ったのか。


通ったとして、それは神威を出すためのものなのか。


それとも、INARIが拾う前の声を、聞くためのものなのか。


確認結果は、発動あり。


ただし、出力は低い。


回路が通ったにしては、弱い。


榊はそう思った。


だが、それだけで矛盾とは言えなかった。


回路が開いたからといって、すぐにうまく使えるとは限らない。本人の自覚、身体の慣れ、神気の流し方、呼び出す神威との相性。出力が低く出る理由はいくつもある。


それに、木曽谷で見えたものは、そもそも「出す」神威とは少し違う。


聞く方。


拾う方。


INARIが集め、匿名化し、丸めているものの手前で、何かを拾ってしまう通り道。


呼水の出力が低いことと、通常画面にない未達を拾ったことは、同じ稲荷系の中でも、別の方向を向いている可能性がある。


そう考えれば、まだ整理できた。


少なくとも、その時点では。


そして、水上様案件である。


旧水路跡。


祠状構造物。


札状物件。


工事事故。


通常画面には、祠そのものの意味までは出ていない。


地域中継点単位の反応があり、照会があり、現場が動いた。


そこで波多野は、また書いた。


まだ終わっていません。


榊は、それを非ログ所見欄に置いた。


断定ではない。報告でもない。ただ、現場に渡すべき注意事項として残した。


通常画面に出ないものを拾う。


そういう方向で見れば、まだ整理できた。


けれど、その結果として現場が動き、現場で白い線が出た。


そこから先は、少し違う。


榊は小さく息を吐いた。


花川戸で、稲荷系の回路が通ったかもしれない。


木曽谷で、通常画面に出ない未達を拾った。


その後の呼水確認では、発動したが出力は低かった。


水上様案件で、終わっていないと書いた。


現場で、発生源不明の白い線が出た。


ひとつずつなら、まだ説明できる。


だが、並べると嫌な形になる。


「……上げるべきでしょう」


誰もいない執務室で、榊は小さく言った。


その声は、自分で思ったよりも硬かった。


倉橋の所見は、波多野を断定していない。ただ、切ってもいない。


発生源については断定不可。


ただし、波多野承平の位置および当該時点の反応との時間的近接を踏まえ、関係性を否定しきれない。


否定しきれない。


役所の文書で、便利な言葉だった。


何も決めない。


だが、読める者には読める。


小田倉からの共有も、同じだった。


波多野君には、上の人へ自分の口で話すよう助言しました。あれは、現場で終わる話ではないと思います。ただし、私が先に断定する話でもありません。


踏み込まない。


逃げてもいない。


現場の所長として見たものを見たと言い、言うべき相手は本人だと戻している。


だから、今ここに来ている。


榊のところへ。


榊は、ブラックの缶コーヒーを開けた。


苦味だけの液体を一口飲む。冷たさが、胃に落ちた。


普通なら、上げる。


上げなければならない。


発生源不明の反応が現場で起きた。未登録神威行使の疑いもある。結果として助かったとはいえ、現場職員に届きかけた水筋が逸れている。


これを抱える理由はない。


ないはずだった。


だが、このまま上げれば、波多野承平はまず「神威を出した職員」として扱われる。


その分類は、間違っていないかもしれない。


だが、足りないかもしれない。


榊が引っかかっているのは、そこだった。


波多野は、神威を出した職員なのか。


それとも、聞こえないはずのものを拾ってしまう職員なのか。


前者なら、管理と訓練の問題で済む。


後者なら、INARI運用課そのものの問題になる。


通常画面に出ないものを、波多野承平が拾っている。


もしそれが事実なら、危険なだけではない。


INARI運用課にとって、それは喉から手が出るほど欲しい所見だった。


匿名化され、抽象化され、数値に丸められる前のもの。


稲荷の網の奥で、本来なら画面に上がる前に消えていく声。


それを拾える職員が、いま自分の課にいるのかもしれない。


榊は、その考えをすぐに打ち消した。


これは研究ではない。


部下の安全と、現場の安全に関わる話だ。


それでも、打ち消したはずの考えは、端末の画面の奥に薄く残った。


榊は端末に視線を戻した。


報告しない理由を探しているのではない。


報告する時の名前を間違えたくないだけだ。


そう考えて、すぐに自分でその言葉を疑った。


それは、報告を遅らせる人間がよく使う言い訳ではないのか。


整理してから上げます。


事実関係を確認してから報告します。


現場の一次所見を待っていました。


どれも聞いたことがある。どれも、まったく間違いではない。


だが、その言葉の影で、報告されるべきものが遅れた例も、榊は知っている。


確認中。


調整中。


整理中。


見極め中。


役所は、報告の遅れに後から名前をつけることがある。


榊は、その手の言い換えが嫌いだった。


嫌いなはずだった。


それなのに、今、自分がその境目に立っている。


榊は予定表を開いた。


波多野承平。


明日、九時三十分。


空いている。


件名を入力する。


水上様案件に関する確認。


場所は、課長席。


小会議室にするべきか、一瞬迷った。だが、まだ正式な聴取ではない。最初から部屋に呼び出せば、それだけで波多野を構えさせる。まずは課長席で、本人の様子を見る。必要なら、その場で場所を変えればいい。


送信ボタンにカーソルを合わせる。


指が、一瞬だけ止まった。


これは報告の前段階だ。


隠蔽ではない。


まだ、隠蔽ではない。


そう思った時点で、その言葉が少し重くなった。


榊は息を吐き、送信した。


画面に、予定登録済みの表示が出る。


水上様案件に関する確認。


明日、九時三十分。


課長席。


榊はしばらく、その文字を見ていた。


上げるべきものは、上げなければならない。


ただ、上げる時の名前を間違えてはならない。


夜の執務室には、端末の低い駆動音だけが残っている。


榊は眼鏡を外し、机の上に置いた。


手元に残ったファイルが、紙の量以上に重かった。


お読みいただきありがとうございます。


これまで榊課長が波多野のことをどう見ていたか、種明かしの回でした。

管理職は大変です。


次回は、水上様案件について波多野本人への確認が入ります。


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