第17話 上げるべきもの
今回は、INARI運用課・榊課長の回です。
波多野本人の知らないところで、少しずつ「上に上げるべきもの」が積み重なっていきます。
第17話 上げるべきもの
夜のINARI運用課は、昼間とは別の部署のように静かだった。
端末の低い駆動音だけが、天井の照明に薄く響いている。全国地図の上には、いつも通り神気濃度の色が重なっていた。いくつかの地域に小さな点は灯っているが、赤く点滅する緊急案件はない。
平常運転。
そう呼んで差し支えない夜だった。
ただ、榊礼司の端末に開かれているファイルだけが、平常ではなかった。
関東北部支部照会案件。
正式な件名はもっと長い。旧水路跡付近で確認された祠状構造物、札状物件、工事現場での異常反応に関する一連の照会。
庁内では、もう水上様案件と呼ばれ始めている。
役所の案件名は、いつも長い。
そして現場の呼び名は、いつも少し早い。
榊は、倉橋から上がってきた共有を読み返した。
封緘作業中、現場職員に向かって細い水筋が伸びた。
その水筋は、直後に現れた白い線状の反応によって、半歩ほど進路を逸らされた。
白い線は、波多野承平、倉橋、小田倉の足元を結ぶように現れた。
発生源は不明。
系統も、確定していない。
現場所見として、狐火のように見えた、という記載がある。
榊はそこで手を止めた。
狐火。
ただの比喩かもしれない。
現場で咄嗟に見えた印象を、倉橋が慎重に残しただけかもしれない。倉橋は断定しない。断定しないが、見たものは落とす。そういう職員だった。
だからこそ、厄介だった。
書かれていることだけを見れば、上げるべき案件である。
発生源不明の反応が現場で起きた。
現場職員に向かっていた水筋が逸れた。
その場に、波多野承平がいた。
本人の関与は未確認。
それだけで十分だった。
上に投げればいい。
そうすれば、案件は榊の手を離れる。安全管理を担当する部署、適合者を扱う部署、監査を見る部署、場合によっては危機管理局。どこかが拾い、どこかが呼び、どこかが分類する。
役所は、そうやって動く。
分類されれば担当が決まり、担当が決まれば様式が決まり、様式が決まれば次に何をするかも決まる。
それは行政の強さだった。
同時に、怖さでもあった。
便利な箱は、時々、中身の形を変える。
榊は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
波多野承平。
文化庁からの出向者。
INARI運用課配属。
通常画面でのログ照合担当。
肩書きだけを見れば、特別な職員ではない。
だが、ここ数週間の記録を追うと、その整理は少しずつ崩れていく。
最初は、花川戸だった。
あの時、榊はINARIの画面に妙な表示を見た気がした。
稲荷系反応。
カタログ照合エラー。
外部神威干渉。
次に確認した時には、表示は整っていた。二次開門は残留神気による自然再展開。処理としては、それで通る。波多野が見た時にも、画面はそうなっていた。
見間違いだったのかもしれない。
そう処理することはできた。
実際、榊はそう処理した。
花川戸のあと、波多野承平には稲荷系の神気が残っていた。
最初は、現場帰りの残留として説明できた。
界門案件に出れば、神気は付く。土地や祠の影響を受けることもある。榊はその場では、現場帰りなら珍しくない、と伝えた。
それは嘘ではない。
あの時点では、業務上もそれで足りた。
だが、その反応はすぐには消えなかった。
現場で外から付いたものなら、時間とともに薄れる。同じ質のまま残り続けるなら、単なる付着とは見にくい。
波多野の側に、稲荷系の回路が通ったのかもしれない。
榊は、そう見ていた。
それ自体は、ただちに問題視する話ではない。
INARI運用課は、稲荷の網を扱う部署である。稲荷系の適性がある職員なら、現場経験をきっかけに通り道ができることはある。
だから、その時点では経過を見ればよかった。
次に引っかかったのは、木曽谷だった。
末端情報収集率の低下。
中継点は緑。
周辺地域は黄色。
赤アラートではない。
通常画面に映るのは、中継点単位の粗い表示までだ。現場の祠や家や道の声が、そのまま画面に出るわけではない。
だからINARIは、絞っている。
まとめている。
削っている。
それが仕事だからだ。
その通常画面を見ながら、波多野は言った。
完全欠測ではなく、未達に近い。
声はある。ただ、届いていない。
通常画面の値ではない。
測定器の数字でもない。
波多野本人の感覚でしかない。
だが、榊が保守用画面を開くと、山側の弱い反応が、確かに途中で落ちていた。
波多野の言葉は、表示されていないはずの傾向と近かった。
榊は、その時点で業務上所見を残した。
花川戸の一時齟齬。
稲荷系神気の残留。
木曽谷での未達所見。
要経過観察。
事実だけを置いた。
解釈は入れなかった。
偶然かもしれない。
疲労かもしれない。
感覚の鋭さかもしれない。
あるいは、何か別のものかもしれない。
分からないものは、分からないまま置いておくしかない。
ただし、消していいものでもない。
その後、榊は波多野に稲荷系基礎神威の確認を入れた。
呼水。
木曽谷での発言があったからこそ、確認しておく必要があった。
波多野の側に稲荷系の回路が通ったのか。
通ったとして、それは神威を出すためのものなのか。
それとも、INARIが拾う前の声を、聞くためのものなのか。
確認結果は、発動あり。
ただし、出力は低い。
回路が通ったにしては、弱い。
榊はそう思った。
だが、それだけで矛盾とは言えなかった。
回路が開いたからといって、すぐにうまく使えるとは限らない。本人の自覚、身体の慣れ、神気の流し方、呼び出す神威との相性。出力が低く出る理由はいくつもある。
それに、木曽谷で見えたものは、そもそも「出す」神威とは少し違う。
聞く方。
拾う方。
INARIが集め、匿名化し、丸めているものの手前で、何かを拾ってしまう通り道。
呼水の出力が低いことと、通常画面にない未達を拾ったことは、同じ稲荷系の中でも、別の方向を向いている可能性がある。
そう考えれば、まだ整理できた。
少なくとも、その時点では。
そして、水上様案件である。
旧水路跡。
祠状構造物。
札状物件。
工事事故。
通常画面には、祠そのものの意味までは出ていない。
地域中継点単位の反応があり、照会があり、現場が動いた。
そこで波多野は、また書いた。
まだ終わっていません。
榊は、それを非ログ所見欄に置いた。
断定ではない。報告でもない。ただ、現場に渡すべき注意事項として残した。
通常画面に出ないものを拾う。
そういう方向で見れば、まだ整理できた。
けれど、その結果として現場が動き、現場で白い線が出た。
そこから先は、少し違う。
榊は小さく息を吐いた。
花川戸で、稲荷系の回路が通ったかもしれない。
木曽谷で、通常画面に出ない未達を拾った。
その後の呼水確認では、発動したが出力は低かった。
水上様案件で、終わっていないと書いた。
現場で、発生源不明の白い線が出た。
ひとつずつなら、まだ説明できる。
だが、並べると嫌な形になる。
「……上げるべきでしょう」
誰もいない執務室で、榊は小さく言った。
その声は、自分で思ったよりも硬かった。
倉橋の所見は、波多野を断定していない。ただ、切ってもいない。
発生源については断定不可。
ただし、波多野承平の位置および当該時点の反応との時間的近接を踏まえ、関係性を否定しきれない。
否定しきれない。
役所の文書で、便利な言葉だった。
何も決めない。
だが、読める者には読める。
小田倉からの共有も、同じだった。
波多野君には、上の人へ自分の口で話すよう助言しました。あれは、現場で終わる話ではないと思います。ただし、私が先に断定する話でもありません。
踏み込まない。
逃げてもいない。
現場の所長として見たものを見たと言い、言うべき相手は本人だと戻している。
だから、今ここに来ている。
榊のところへ。
榊は、ブラックの缶コーヒーを開けた。
苦味だけの液体を一口飲む。冷たさが、胃に落ちた。
普通なら、上げる。
上げなければならない。
発生源不明の反応が現場で起きた。未登録神威行使の疑いもある。結果として助かったとはいえ、現場職員に届きかけた水筋が逸れている。
これを抱える理由はない。
ないはずだった。
だが、このまま上げれば、波多野承平はまず「神威を出した職員」として扱われる。
その分類は、間違っていないかもしれない。
だが、足りないかもしれない。
榊が引っかかっているのは、そこだった。
波多野は、神威を出した職員なのか。
それとも、聞こえないはずのものを拾ってしまう職員なのか。
前者なら、管理と訓練の問題で済む。
後者なら、INARI運用課そのものの問題になる。
通常画面に出ないものを、波多野承平が拾っている。
もしそれが事実なら、危険なだけではない。
INARI運用課にとって、それは喉から手が出るほど欲しい所見だった。
匿名化され、抽象化され、数値に丸められる前のもの。
稲荷の網の奥で、本来なら画面に上がる前に消えていく声。
それを拾える職員が、いま自分の課にいるのかもしれない。
榊は、その考えをすぐに打ち消した。
これは研究ではない。
部下の安全と、現場の安全に関わる話だ。
それでも、打ち消したはずの考えは、端末の画面の奥に薄く残った。
榊は端末に視線を戻した。
報告しない理由を探しているのではない。
報告する時の名前を間違えたくないだけだ。
そう考えて、すぐに自分でその言葉を疑った。
それは、報告を遅らせる人間がよく使う言い訳ではないのか。
整理してから上げます。
事実関係を確認してから報告します。
現場の一次所見を待っていました。
どれも聞いたことがある。どれも、まったく間違いではない。
だが、その言葉の影で、報告されるべきものが遅れた例も、榊は知っている。
確認中。
調整中。
整理中。
見極め中。
役所は、報告の遅れに後から名前をつけることがある。
榊は、その手の言い換えが嫌いだった。
嫌いなはずだった。
それなのに、今、自分がその境目に立っている。
榊は予定表を開いた。
波多野承平。
明日、九時三十分。
空いている。
件名を入力する。
水上様案件に関する確認。
場所は、課長席。
小会議室にするべきか、一瞬迷った。だが、まだ正式な聴取ではない。最初から部屋に呼び出せば、それだけで波多野を構えさせる。まずは課長席で、本人の様子を見る。必要なら、その場で場所を変えればいい。
送信ボタンにカーソルを合わせる。
指が、一瞬だけ止まった。
これは報告の前段階だ。
隠蔽ではない。
まだ、隠蔽ではない。
そう思った時点で、その言葉が少し重くなった。
榊は息を吐き、送信した。
画面に、予定登録済みの表示が出る。
水上様案件に関する確認。
明日、九時三十分。
課長席。
榊はしばらく、その文字を見ていた。
上げるべきものは、上げなければならない。
ただ、上げる時の名前を間違えてはならない。
夜の執務室には、端末の低い駆動音だけが残っている。
榊は眼鏡を外し、机の上に置いた。
手元に残ったファイルが、紙の量以上に重かった。
お読みいただきありがとうございます。
これまで榊課長が波多野のことをどう見ていたか、種明かしの回でした。
管理職は大変です。
次回は、水上様案件について波多野本人への確認が入ります。
ブックマーク・評価・感想などいただけると、とても励みになります。ぜひよろしくお願いします。




