第15話 自分の口で
水上様案件、その後です。
現場で起きたことは、現場だけでは終わりません。
神務庁なので、ちゃんと記録と報告がついてきます。
第15話 自分の口で
自治会館を出る頃には、空の色が少しだけ変わっていた。
夕方の空気は、来た時より少し冷えている。
道路はある。家もある。けれど、どこか空いている。
来るはずだった人たちの分だけ、町の隙間が残っているように見えた。
水上様、と呼ばれていたものは、もう暴れてはいない。
旧水路跡の石組みも、青いビニールシートも、ここからは見えない。
それでも波多野の耳の奥には、細い水音が残っていた。
もう一度、誰かに見つけられたもののような音だった。
「はい。自治会長さんには説明しました」
小田倉所長は、自治会館の玄関先で庁用スマホを耳に当てていた。
「道路課さんにも、工事照会記録の扱いを共有しておきます。施工者さんへは、石組み周辺だけ一度段取りを変えてもらう形で。はい、工事そのものを止める話ではありません」
電話の向こうで、誰かが何か言っているらしい。
小田倉は、困ったように笑った。
「ええ。工期への影響は分かります。分かりますけどねぇ。支障物として処理したものが、後で小祠だったと分かったわけですから。そこを記録しない方が、後で説明が大変ですよ」
倉橋は自治会館の掲示板の横で、手元のメモを見ていた。
自治会の夏祭りの案内。資源回収の日程。防犯パトロールの当番表。
そういうものの横に、水上様の話が、これから一行だけでも入るのだろうか。
旧水路跡小祠。
地域呼称、水上様。
年一回清掃。近隣神社祭祀協力。市道路課記録反映。
たったそれだけの言葉でも、何もないよりはましだと思った。
小田倉が通話を切った。
「さて」
その声で、波多野は背筋を少しだけ伸ばした。
水上様の話ではない。
たぶん、別の話だ。
「緊急時の発現は、後で報告書にしましょう、と言いましたからねぇ」
小田倉は、波多野を見た。
「後になりました」
波多野は、何も言えなかった。
白い線。
波多野の足元から、倉橋へ。
倉橋から、小田倉へ。
小田倉から、波多野へ。
三人の足元を結んだ、細い狐火のような線。
水は、倉橋の手首へ届かなかった。
届くはずだった場所を、ほんの半歩だけ外した。
自分ではない。
波多野は、あの瞬間、確かにそう思った。
自分ではない。
あぶさんだ。
だが、それを今、ここで言えるのか。
「稲荷系……ですかねぇ」
小田倉が、ぽつりと言った。
波多野は、顔を上げた。
「稲荷系、ですか」
「ええ。最初は、INARI運用課の方だからかなと思っていました」
小田倉は、自治会館の向こうに広がる住宅地を見た。
「稲荷系の神気に触れる機会は多いでしょうし。業務上、残り香みたいなものがつくこともありますから」
「残り香」
「言い方が雑ですけどねぇ」
小田倉は苦笑した。
「ただ、さっきの線は……神威の感じも、少し稲荷っぽかったんですよねぇ」
波多野は、返事に詰まった。
リュックの中は静かだった。
あぶさんは何も言わない。
「まあ、私の感覚はあまり当てになりませんが」
小田倉はそう付け足した。
冗談のような言い方だった。
けれど、その目は笑っていなかった。
「でも、僕が神威を使ったつもりはありません」
波多野は、ようやくそう言った。
使っていない、とは言えなかった。
自分ではない。
そう思っている。
でも、あの白い線は、自分の足元から走った。
自分と無関係だとは、もう言えない。
「そこなんです」
小田倉は、静かに言った。
「使ったつもりがないのに、通ってしまう。そういうことが、ないとは言えません」
「どういうことですか」
「いわゆる、適合者というやつです」
「適合者」
波多野が聞き返すと、小田倉は少し考え込むように顎へ手を当てた。
「私も詳しくはありません。ある特定の神気との相性が良い人のことです。適合が強い人は、定型化された神威ではなく、もっと荒い形で反応を出してしまうことがある、と聞いたことがあります」
「荒い形」
「カタログ化される前の神威、と言えばいいんでしょうかねぇ。もちろん、私は稲荷系の神威には詳しくありません。何が登録されていて、何が登録されていないかも、正確には分かりません」
小田倉は倉橋を見た。
倉橋が、そこで初めて口を開いた。
「荒岩課長です」
「荒岩課長?」
「荒御魂対策課の荒岩課長が、須佐男系の強適合者だと聞いたことがあります」
倉橋の声は、いつも通り平坦だった。
「私も本人と面識がないので、詳しくは知りません。ただ、強い適合者では、本人の意図より先に反応が出る場合がある、という話は聞いたことがあります」
「僕が、それかもしれないってことですか」
「断定はできません」
倉橋は即答した。
「稲荷系かどうかも、私には分かりません。水上様由来の反応とは違いました。私の封緘糸でもありません。小田倉所長の処理でもありません。水の軌道が逸れたことも、白い線が走ったことも、私は見ています」
波多野は、喉の奥が乾くのを感じた。
「ですが」
倉橋は続けた。
「発生源は分かりません」
その言葉は、助け舟のようにも聞こえた。
同時に、逃げ場を一つずつ数えられているようにも聞こえた。
小田倉は、波多野のリュックの方を一度だけ見た。
本当に、一度だけだった。
それ以上は見なかった。
「波多野さん」
小田倉が言った。
「私から、あなたを適合者だと報告するつもりはありません」
「報告しないんですか」
「しない、というより、私が先に言う話ではないと思います」
小田倉は、困ったように笑った。
「こういう話は、伝言ゲームになると厄介ですからねぇ」
「伝言ゲーム」
「私が見たものを、私の言葉で書く。倉橋さんが見たものを、倉橋さんの言葉で書く。本庁がそれを読んで、あなたの上司が読む。その時には、波多野さんが何を感じて、何を考えていたのかが、だいぶ薄まっています」
小田倉は、まっすぐ波多野を見た。
「だから、上の人には、自分の口で話した方がいいと思います」
「何を、ですか」
「聞こえたこと。使ったつもりがないこと。それでも何かが起きたこと。分からないなら、分からないと」
波多野は答えられなかった。
分からない。
その言葉は便利だった。
実際、分からない。
あぶさんが何なのか。
自分が何をしているのか。
あの白い線が、神務庁の手続のどこに置かれるものなのか。
何も分からない。
でも、分からないという言葉だけで、いつまで済むのだろう。
「分からないことを、分かったふりで報告されるのが、一番危ないです」
小田倉は言った。
「見たものは、見たものとして残ります。けれど、報告書にすると、どうしても事実関係が先に立ちます」
「事実関係」
「ええ。何が起きたか。誰がいたか。何が見えたか。そこは残ります。でも、波多野さんが何を怖がって、何を分からないと思ったのかまでは、残りにくいんですよ」
小田倉は、自治会館の方を一度振り返った。
「だから、先に自分で言った方がいいです。後から見つかるより、その方が、まだあなたの言葉が残ります」
その言い方が妙に現実的で、波多野は少しだけ息を吐いた。
「分かりました」
言ってから、自分が何を分かったのか、分からなかった。
小田倉はうなずいた。
「今日は帰りましょう」
その一言で、空気が少しだけほどけた。
水上様の話は、ひとまず自治会と道路課と近隣神社の間に置かれた。
忘れられていたものに、関係者が置かれた。
それでも、波多野自身の話は、まだどこにも置かれていない。
波多野たちは、茨城駐在所の庁用車で最寄り駅まで送られた。
車内では、誰もあまり話さなかった。
小田倉は運転席で道路課からの折り返しに対応し、倉橋は助手席で手元のメモを確認していた。
波多野は後部座席で、リュックを膝に抱えていた。
あぶさんは、相変わらず黙っている。
駅に着く頃には、夕方のホームに学生と会社員が混じり始めていた。
地方都市の駅前には、小さなロータリーと、古いビジネスホテルと、閉店したままの喫茶店があった。
どこにでもある景色だった。
ついさっきまで、忘れられた小祠と、旧水路の水音のそばにいたとは思えないくらい、普通だった。
「では、私は駐在所に戻ります」
小田倉が言った。
「今日はありがとうございました」
波多野が頭を下げると、小田倉は首を横に振った。
「こちらこそ、助かりました」
倉橋も軽く頭を下げた。
「報告書の下書きは、今日中にこちらで作ります。倉橋さん、じゅじゅ課側の所見は別途お願いします」
「承知しました」
「波多野さん」
呼ばれて、波多野は顔を上げた。
小田倉は、改札の向こうではなく、波多野を見ていた。
「自分の口で、ですよ」
「はい」
「あなたの上司に、です。伝言ゲームにしない方がいい」
もう一度そう言って、小田倉は困ったように笑った。
その笑い方には、本庁の職員とは違う距離の取り方があった。
近すぎず、突き放しもしない、地方の年長者の顔だった。
波多野は、また頭を下げた。
列車は、すぐには来なかった。
ホームのベンチに、倉橋と二人で並んで座る。
間に一人分ほどの空きがある。
倉橋は膝の上で端末を開いていた。
波多野は、何度か口を開きかけて、やめた。
先に口を開いたのは、倉橋だった。
「榊課長には、報告します」
波多野は、思わず倉橋を見た。
「どこまで、ですか」
「水上様の声を聞いたことです」
倉橋は、画面を見たまま言った。
「聞こえた内容が、現場反応と整合していたこと。私が封緘糸による固定を行おうとした際、波多野さんの発言で中止したこと。その判断が、結果として妥当だったこと」
「白い線は」
倉橋の指が止まった。
ホームの向こう側を、回送列車がゆっくり通過していく。
窓に、波多野の顔が一瞬だけ映った。
疲れた顔だった。
「見たものは書きます」
倉橋は言った。
「波多野さん、私、小田倉所長の足元を結ぶように白い線が走ったこと。水の軌道が逸れたこと。私の封緘糸ではなかったこと」
「それは」
「ただし、発生源は不明とします」
倉橋は端末を閉じた。
「波多野さんが神威を使ったとは書きません」
「いいんですか」
「よくはありません」
即答だった。
「ですが、断定できないことを、断定したようには書けません」
波多野は、何も言えなかった。
倉橋は前を向いたまま続けた。
「私は、榊課長から言われています。波多野さんについて、何かあれば報告するようにと」
「そうなんですね」
「はい」
それは、驚くほど当然のことに思えた。
榊が何も気づいていないはずがない。
木曽谷の時も、波多野は通常画面には出ないものを「声が迷子になっている」と感じた。
榊は深く問い詰めなかった。
けれど、何も気づいていなかったわけではないはずだ。
今回も、水上様の声を、波多野は聞いた。
波多野が自分を普通の出向職員だと思っていたとしても、周りがそう見てくれるとは限らない。
「ですから、本来は迷う話ではありません」
倉橋は言った。
「でも、迷ってるんですか」
「迷っています」
倉橋は、少しだけ間を置いた。
「報告すれば、波多野さんは調べられるかもしれません」
「調べられる」
「はい。稲荷系への適合、神気反応、現場での聴取内容、持ち物、過去案件との関連。必要だと判断されれば、配置や現場同行にも制限がかかる可能性があります」
波多野は、リュックを抱く手に少し力を入れた。
中で、何かが動いた気がした。
本当に動いたのか、自分がそう思っただけなのかは分からない。
「それは、安全のためなら正しい処置です」
倉橋は淡々と言った。
「でも、それが本当に波多野さんにとっていいことなのか、私には分かりません」
波多野は、倉橋を見た。
倉橋は、こちらを見ていなかった。
まっすぐ線路の先を見ている。
「どうして、そこまで考えてくれるんですか」
倉橋はすぐには答えなかった。
ホームの放送が、次の列車の到着を告げる。
遠くで踏切の音が鳴っていた。
「助けられましたから」
倉橋は言った。
それから、少しだけ視線を落とした。
「それと、悪い人には見えません」
波多野は、返す言葉に困った。
「それは、ありがとうございます」
「褒めているわけではありません」
「はい」
「助けられたことも、人柄が悪くないと思ったことも、記録を曲げる理由にはなりません」
倉橋は、いつもの声で言った。
「でも、断定できないことで、あなたの生活を変える理由にもできません」
生活。
その言葉が、波多野の胸の奥に引っかかった。
朝、いつもの電車に乗って、庁舎に入り、端末を立ち上げる。机の横にはリュックがあって、帰れば本棚の上のみよにただいまと言う。あぶさんは、いつものように油揚げの話をする。
そういう、まだ名前のついていない日常が、報告書の一行で変わるかもしれない。
「だから」
倉橋は続けた。
「水上様の声を聞いたことは報告します。白い線については、私が見た事実だけを書きます。波多野さんが使用者であるとは書きません」
「それが、妥協案ですか」
「はい」
倉橋は短く答えた。
「妥協案です」
列車が入ってきた。
短い車両は、夕方の光を窓に乗せて、ゆっくりホームへ滑り込んだ。
扉が開く。
車内は空いていた。
二人は向かい合わせの座席ではなく、進行方向に並ぶ席へ座った。
リュックを膝に乗せたまま、波多野は窓の外を見た。
住宅地が流れていく。
道路があり、空き地があり、工場があり、どこかで一度、何かになるはずだった場所がある。
旧水路跡は、もう見えない。
石組みも、青いビニールシートも、窓の外にはない。
けれど、見えないものが消えたわけではないことを、波多野はもう知っていた。
「波多野さん」
倉橋が言った。
「はい」
「榊課長には、自分から話した方がいいと思います」
小田倉と同じことを言われた。
小田倉は、伝言ゲームにしないためだと言った。
それは、たぶん本当だった。
でも、それだけではない。
小田倉は、報告書の一行で人の扱いが変わることを知っている。
だから、あえて踏み込まなかった。
私が先に言う話ではない。
その言い方は、逃げではなく、距離の取り方だったのだと思う。
倉橋も、たぶん同じことを言っている。
けれど、少し違う。
小田倉は、踏み込まないことで守ろうとしている。
倉橋は、踏み込まなければならない側にいる。
年長の実務者と、記録を書く当事者。
その違いが、波多野にも少しだけ分かった。
「私の報告が先に行けば、榊課長は私の言葉で状況を把握します」
倉橋は言った。
「それが悪いとは思いません。でも、波多野さんが何を聞いて、何を分からないと思っているのかは、私には書けません」
「分からないと思っていること」
「はい」
倉橋は、窓の外から目を離さなかった。
「分からないことは、本人が分からないと言うしかありません」
波多野は、膝の上のリュックを見た。
あぶさんは、まだ黙っている。
黙っているということは、聞いているということでもある。
「僕が、何も言わなかったら」
「私は報告します」
倉橋は言った。
「榊課長も、何かあったことには気づくと思います」
「ログで、ですか」
「INARI運用課長ですから、現場の神気推移は確認できると思います。ただ、細部までは分からないはずです。水上様の反応が強すぎました」
倉橋は、少し考えてから付け足した。
「それでも、何かがあったことくらいは、分かると思います」
逃げ道が、一つ減った音がした。
波多野は、窓に映る自分の顔を見た。
「分かりました」
今度は、さっきより少しだけ意味を持って言えた気がした。
列車は、いくつかの駅を過ぎた。
途中で倉橋が端末を開いた。
波多野は横目で見ないようにした。
見るべきではないと思った。
けれど、倉橋の指が止まるたび、何を書いているのか気になった。
報告書。
所見。
榊課長宛ての共有。
そこに自分の名前がある。
波多野承平。
水上様の声を聴取。
現場反応と整合。
封緘糸固定を中止。
白色線状反応を目視。
発生源不明。
そのどの言葉も、完全な嘘ではない。
でも、全部でもない。
全部ではないものが、記録になっていく。
波多野は、それが怖かった。
「送ります」
倉橋が言った。
波多野は、思わず彼女を見た。
「今、ですか」
「はい。水上様の件は、今日中に一次報告を上げる必要があります」
「そうですよね」
「榊課長宛てには、別に短く共有します」
倉橋は画面を見たまま、ゆっくりと言った。
「水上様案件で、波多野さんが声を聞いたこと。現場判断に影響したこと。線状反応については、現時点では発生源不明として扱うこと」
「それだけですか」
「それだけです」
倉橋はそこで、初めて波多野を見た。
「少なくとも、私からは」
その一言は、重かった。
波多野は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
「感謝されることではありません」
倉橋は、送信ボタンを押した。
端末の画面が、一瞬だけ明るくなって、それから通常表示へ戻った。
たったそれだけだった。
でも波多野には、何かが一つ、霞ヶ関へ向かって流れていったように感じられた。
倉橋は端末を閉じた。
「波多野さん」
「はい」
「次に同じことがあったら、私はもう少し踏み込んで書くと思います」
波多野は、息を止めた。
「それは、あなたを追い詰めるためではありません」
倉橋は言った。
「放置すると危ないからです」
列車の窓の外で、夕方の町が流れていく。
旧水路跡は、もう見えない。
祠も、石組みも、青いビニールシートも見えない。
けれど、見えないものが消えたわけではないことを、波多野はもう知っていた。
「はい」
そう答えるしかなかった。
その時、膝の上のリュックが、ほんの少しだけ重くなった気がした。
あぶさんは、まだ何も言わなかった。
水上様の話はひとまず落ち着きました。
ただ、波多野の周りで起きたことは、少しずつ記録に残り始めています。
見たものを書く人、踏み込まない人、踏み込まざるを得ない人。
それぞれの立場が出てきた回でした。
次回は、波多野が「自分の口で」話すことになります。
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