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タカマガハラの神務官 〜神の力を使うのに必要なのは祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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15/20

第15話 自分の口で

水上様案件、その後です。


現場で起きたことは、現場だけでは終わりません。

神務庁なので、ちゃんと記録と報告がついてきます。


第15話 自分の口で



自治会館を出る頃には、空の色が少しだけ変わっていた。


夕方の空気は、来た時より少し冷えている。


道路はある。家もある。けれど、どこか空いている。


来るはずだった人たちの分だけ、町の隙間が残っているように見えた。


水上様、と呼ばれていたものは、もう暴れてはいない。


旧水路跡の石組みも、青いビニールシートも、ここからは見えない。


それでも波多野の耳の奥には、細い水音が残っていた。


もう一度、誰かに見つけられたもののような音だった。


「はい。自治会長さんには説明しました」


小田倉所長は、自治会館の玄関先で庁用スマホを耳に当てていた。


「道路課さんにも、工事照会記録の扱いを共有しておきます。施工者さんへは、石組み周辺だけ一度段取りを変えてもらう形で。はい、工事そのものを止める話ではありません」


電話の向こうで、誰かが何か言っているらしい。


小田倉は、困ったように笑った。


「ええ。工期への影響は分かります。分かりますけどねぇ。支障物として処理したものが、後で小祠だったと分かったわけですから。そこを記録しない方が、後で説明が大変ですよ」


倉橋は自治会館の掲示板の横で、手元のメモを見ていた。


自治会の夏祭りの案内。資源回収の日程。防犯パトロールの当番表。


そういうものの横に、水上様の話が、これから一行だけでも入るのだろうか。


旧水路跡小祠。


地域呼称、水上様。


年一回清掃。近隣神社祭祀協力。市道路課記録反映。


たったそれだけの言葉でも、何もないよりはましだと思った。


小田倉が通話を切った。


「さて」


その声で、波多野は背筋を少しだけ伸ばした。


水上様の話ではない。


たぶん、別の話だ。


「緊急時の発現は、後で報告書にしましょう、と言いましたからねぇ」


小田倉は、波多野を見た。


「後になりました」


波多野は、何も言えなかった。


白い線。


波多野の足元から、倉橋へ。


倉橋から、小田倉へ。


小田倉から、波多野へ。


三人の足元を結んだ、細い狐火のような線。


水は、倉橋の手首へ届かなかった。


届くはずだった場所を、ほんの半歩だけ外した。


自分ではない。


波多野は、あの瞬間、確かにそう思った。


自分ではない。


あぶさんだ。


だが、それを今、ここで言えるのか。


「稲荷系……ですかねぇ」


小田倉が、ぽつりと言った。


波多野は、顔を上げた。


「稲荷系、ですか」


「ええ。最初は、INARI運用課の方だからかなと思っていました」


小田倉は、自治会館の向こうに広がる住宅地を見た。


「稲荷系の神気に触れる機会は多いでしょうし。業務上、残り香みたいなものがつくこともありますから」


「残り香」


「言い方が雑ですけどねぇ」


小田倉は苦笑した。


「ただ、さっきの線は……神威の感じも、少し稲荷っぽかったんですよねぇ」


波多野は、返事に詰まった。


リュックの中は静かだった。


あぶさんは何も言わない。


「まあ、私の感覚はあまり当てになりませんが」


小田倉はそう付け足した。


冗談のような言い方だった。


けれど、その目は笑っていなかった。


「でも、僕が神威を使ったつもりはありません」


波多野は、ようやくそう言った。


使っていない、とは言えなかった。


自分ではない。


そう思っている。


でも、あの白い線は、自分の足元から走った。


自分と無関係だとは、もう言えない。


「そこなんです」


小田倉は、静かに言った。


「使ったつもりがないのに、通ってしまう。そういうことが、ないとは言えません」


「どういうことですか」


「いわゆる、適合者というやつです」


「適合者」


波多野が聞き返すと、小田倉は少し考え込むように顎へ手を当てた。


「私も詳しくはありません。ある特定の神気との相性が良い人のことです。適合が強い人は、定型化された神威ではなく、もっと荒い形で反応を出してしまうことがある、と聞いたことがあります」


「荒い形」


「カタログ化される前の神威、と言えばいいんでしょうかねぇ。もちろん、私は稲荷系の神威には詳しくありません。何が登録されていて、何が登録されていないかも、正確には分かりません」


小田倉は倉橋を見た。


倉橋が、そこで初めて口を開いた。


「荒岩課長です」


「荒岩課長?」


「荒御魂対策課の荒岩課長が、須佐男系の強適合者だと聞いたことがあります」


倉橋の声は、いつも通り平坦だった。


「私も本人と面識がないので、詳しくは知りません。ただ、強い適合者では、本人の意図より先に反応が出る場合がある、という話は聞いたことがあります」


「僕が、それかもしれないってことですか」


「断定はできません」


倉橋は即答した。


「稲荷系かどうかも、私には分かりません。水上様由来の反応とは違いました。私の封緘糸でもありません。小田倉所長の処理でもありません。水の軌道が逸れたことも、白い線が走ったことも、私は見ています」


波多野は、喉の奥が乾くのを感じた。


「ですが」


倉橋は続けた。


「発生源は分かりません」


その言葉は、助け舟のようにも聞こえた。


同時に、逃げ場を一つずつ数えられているようにも聞こえた。


小田倉は、波多野のリュックの方を一度だけ見た。


本当に、一度だけだった。


それ以上は見なかった。


「波多野さん」


小田倉が言った。


「私から、あなたを適合者だと報告するつもりはありません」


「報告しないんですか」


「しない、というより、私が先に言う話ではないと思います」


小田倉は、困ったように笑った。


「こういう話は、伝言ゲームになると厄介ですからねぇ」


「伝言ゲーム」


「私が見たものを、私の言葉で書く。倉橋さんが見たものを、倉橋さんの言葉で書く。本庁がそれを読んで、あなたの上司が読む。その時には、波多野さんが何を感じて、何を考えていたのかが、だいぶ薄まっています」


小田倉は、まっすぐ波多野を見た。


「だから、上の人には、自分の口で話した方がいいと思います」


「何を、ですか」


「聞こえたこと。使ったつもりがないこと。それでも何かが起きたこと。分からないなら、分からないと」


波多野は答えられなかった。


分からない。


その言葉は便利だった。


実際、分からない。


あぶさんが何なのか。


自分が何をしているのか。


あの白い線が、神務庁の手続のどこに置かれるものなのか。


何も分からない。


でも、分からないという言葉だけで、いつまで済むのだろう。


「分からないことを、分かったふりで報告されるのが、一番危ないです」


小田倉は言った。


「見たものは、見たものとして残ります。けれど、報告書にすると、どうしても事実関係が先に立ちます」


「事実関係」


「ええ。何が起きたか。誰がいたか。何が見えたか。そこは残ります。でも、波多野さんが何を怖がって、何を分からないと思ったのかまでは、残りにくいんですよ」


小田倉は、自治会館の方を一度振り返った。


「だから、先に自分で言った方がいいです。後から見つかるより、その方が、まだあなたの言葉が残ります」


その言い方が妙に現実的で、波多野は少しだけ息を吐いた。


「分かりました」


言ってから、自分が何を分かったのか、分からなかった。


小田倉はうなずいた。


「今日は帰りましょう」


その一言で、空気が少しだけほどけた。


水上様の話は、ひとまず自治会と道路課と近隣神社の間に置かれた。


忘れられていたものに、関係者が置かれた。


それでも、波多野自身の話は、まだどこにも置かれていない。


波多野たちは、茨城駐在所の庁用車で最寄り駅まで送られた。


車内では、誰もあまり話さなかった。


小田倉は運転席で道路課からの折り返しに対応し、倉橋は助手席で手元のメモを確認していた。


波多野は後部座席で、リュックを膝に抱えていた。


あぶさんは、相変わらず黙っている。


駅に着く頃には、夕方のホームに学生と会社員が混じり始めていた。


地方都市の駅前には、小さなロータリーと、古いビジネスホテルと、閉店したままの喫茶店があった。


どこにでもある景色だった。


ついさっきまで、忘れられた小祠と、旧水路の水音のそばにいたとは思えないくらい、普通だった。


「では、私は駐在所に戻ります」


小田倉が言った。


「今日はありがとうございました」


波多野が頭を下げると、小田倉は首を横に振った。


「こちらこそ、助かりました」


倉橋も軽く頭を下げた。


「報告書の下書きは、今日中にこちらで作ります。倉橋さん、じゅじゅ課側の所見は別途お願いします」


「承知しました」


「波多野さん」


呼ばれて、波多野は顔を上げた。


小田倉は、改札の向こうではなく、波多野を見ていた。


「自分の口で、ですよ」


「はい」


「あなたの上司に、です。伝言ゲームにしない方がいい」


もう一度そう言って、小田倉は困ったように笑った。


その笑い方には、本庁の職員とは違う距離の取り方があった。


近すぎず、突き放しもしない、地方の年長者の顔だった。


波多野は、また頭を下げた。


列車は、すぐには来なかった。


ホームのベンチに、倉橋と二人で並んで座る。


間に一人分ほどの空きがある。


倉橋は膝の上で端末を開いていた。


波多野は、何度か口を開きかけて、やめた。


先に口を開いたのは、倉橋だった。


「榊課長には、報告します」


波多野は、思わず倉橋を見た。


「どこまで、ですか」


「水上様の声を聞いたことです」


倉橋は、画面を見たまま言った。


「聞こえた内容が、現場反応と整合していたこと。私が封緘糸による固定を行おうとした際、波多野さんの発言で中止したこと。その判断が、結果として妥当だったこと」


「白い線は」


倉橋の指が止まった。


ホームの向こう側を、回送列車がゆっくり通過していく。


窓に、波多野の顔が一瞬だけ映った。


疲れた顔だった。


「見たものは書きます」


倉橋は言った。


「波多野さん、私、小田倉所長の足元を結ぶように白い線が走ったこと。水の軌道が逸れたこと。私の封緘糸ではなかったこと」


「それは」


「ただし、発生源は不明とします」


倉橋は端末を閉じた。


「波多野さんが神威を使ったとは書きません」


「いいんですか」


「よくはありません」


即答だった。


「ですが、断定できないことを、断定したようには書けません」


波多野は、何も言えなかった。


倉橋は前を向いたまま続けた。


「私は、榊課長から言われています。波多野さんについて、何かあれば報告するようにと」


「そうなんですね」


「はい」


それは、驚くほど当然のことに思えた。


榊が何も気づいていないはずがない。


木曽谷の時も、波多野は通常画面には出ないものを「声が迷子になっている」と感じた。


榊は深く問い詰めなかった。


けれど、何も気づいていなかったわけではないはずだ。


今回も、水上様の声を、波多野は聞いた。


波多野が自分を普通の出向職員だと思っていたとしても、周りがそう見てくれるとは限らない。


「ですから、本来は迷う話ではありません」


倉橋は言った。


「でも、迷ってるんですか」


「迷っています」


倉橋は、少しだけ間を置いた。


「報告すれば、波多野さんは調べられるかもしれません」


「調べられる」


「はい。稲荷系への適合、神気反応、現場での聴取内容、持ち物、過去案件との関連。必要だと判断されれば、配置や現場同行にも制限がかかる可能性があります」


波多野は、リュックを抱く手に少し力を入れた。


中で、何かが動いた気がした。


本当に動いたのか、自分がそう思っただけなのかは分からない。


「それは、安全のためなら正しい処置です」


倉橋は淡々と言った。


「でも、それが本当に波多野さんにとっていいことなのか、私には分かりません」


波多野は、倉橋を見た。


倉橋は、こちらを見ていなかった。


まっすぐ線路の先を見ている。


「どうして、そこまで考えてくれるんですか」


倉橋はすぐには答えなかった。


ホームの放送が、次の列車の到着を告げる。


遠くで踏切の音が鳴っていた。


「助けられましたから」


倉橋は言った。


それから、少しだけ視線を落とした。


「それと、悪い人には見えません」


波多野は、返す言葉に困った。


「それは、ありがとうございます」


「褒めているわけではありません」


「はい」


「助けられたことも、人柄が悪くないと思ったことも、記録を曲げる理由にはなりません」


倉橋は、いつもの声で言った。


「でも、断定できないことで、あなたの生活を変える理由にもできません」


生活。


その言葉が、波多野の胸の奥に引っかかった。


朝、いつもの電車に乗って、庁舎に入り、端末を立ち上げる。机の横にはリュックがあって、帰れば本棚の上のみよにただいまと言う。あぶさんは、いつものように油揚げの話をする。


そういう、まだ名前のついていない日常が、報告書の一行で変わるかもしれない。


「だから」


倉橋は続けた。


「水上様の声を聞いたことは報告します。白い線については、私が見た事実だけを書きます。波多野さんが使用者であるとは書きません」


「それが、妥協案ですか」


「はい」


倉橋は短く答えた。


「妥協案です」


列車が入ってきた。


短い車両は、夕方の光を窓に乗せて、ゆっくりホームへ滑り込んだ。


扉が開く。


車内は空いていた。


二人は向かい合わせの座席ではなく、進行方向に並ぶ席へ座った。


リュックを膝に乗せたまま、波多野は窓の外を見た。


住宅地が流れていく。


道路があり、空き地があり、工場があり、どこかで一度、何かになるはずだった場所がある。


旧水路跡は、もう見えない。


石組みも、青いビニールシートも、窓の外にはない。


けれど、見えないものが消えたわけではないことを、波多野はもう知っていた。


「波多野さん」


倉橋が言った。


「はい」


「榊課長には、自分から話した方がいいと思います」


小田倉と同じことを言われた。


小田倉は、伝言ゲームにしないためだと言った。


それは、たぶん本当だった。


でも、それだけではない。


小田倉は、報告書の一行で人の扱いが変わることを知っている。


だから、あえて踏み込まなかった。


私が先に言う話ではない。


その言い方は、逃げではなく、距離の取り方だったのだと思う。


倉橋も、たぶん同じことを言っている。


けれど、少し違う。


小田倉は、踏み込まないことで守ろうとしている。


倉橋は、踏み込まなければならない側にいる。


年長の実務者と、記録を書く当事者。


その違いが、波多野にも少しだけ分かった。


「私の報告が先に行けば、榊課長は私の言葉で状況を把握します」


倉橋は言った。


「それが悪いとは思いません。でも、波多野さんが何を聞いて、何を分からないと思っているのかは、私には書けません」


「分からないと思っていること」


「はい」


倉橋は、窓の外から目を離さなかった。


「分からないことは、本人が分からないと言うしかありません」


波多野は、膝の上のリュックを見た。


あぶさんは、まだ黙っている。


黙っているということは、聞いているということでもある。


「僕が、何も言わなかったら」


「私は報告します」


倉橋は言った。


「榊課長も、何かあったことには気づくと思います」


「ログで、ですか」


「INARI運用課長ですから、現場の神気推移は確認できると思います。ただ、細部までは分からないはずです。水上様の反応が強すぎました」


倉橋は、少し考えてから付け足した。


「それでも、何かがあったことくらいは、分かると思います」


逃げ道が、一つ減った音がした。


波多野は、窓に映る自分の顔を見た。


「分かりました」


今度は、さっきより少しだけ意味を持って言えた気がした。


列車は、いくつかの駅を過ぎた。


途中で倉橋が端末を開いた。


波多野は横目で見ないようにした。


見るべきではないと思った。


けれど、倉橋の指が止まるたび、何を書いているのか気になった。


報告書。


所見。


榊課長宛ての共有。


そこに自分の名前がある。


波多野承平。


水上様の声を聴取。


現場反応と整合。


封緘糸固定を中止。


白色線状反応を目視。


発生源不明。


そのどの言葉も、完全な嘘ではない。


でも、全部でもない。


全部ではないものが、記録になっていく。


波多野は、それが怖かった。


「送ります」


倉橋が言った。


波多野は、思わず彼女を見た。


「今、ですか」


「はい。水上様の件は、今日中に一次報告を上げる必要があります」


「そうですよね」


「榊課長宛てには、別に短く共有します」


倉橋は画面を見たまま、ゆっくりと言った。


「水上様案件で、波多野さんが声を聞いたこと。現場判断に影響したこと。線状反応については、現時点では発生源不明として扱うこと」


「それだけですか」


「それだけです」


倉橋はそこで、初めて波多野を見た。


「少なくとも、私からは」


その一言は、重かった。


波多野は小さくうなずいた。


「ありがとうございます」


「感謝されることではありません」


倉橋は、送信ボタンを押した。


端末の画面が、一瞬だけ明るくなって、それから通常表示へ戻った。


たったそれだけだった。


でも波多野には、何かが一つ、霞ヶ関へ向かって流れていったように感じられた。


倉橋は端末を閉じた。


「波多野さん」


「はい」


「次に同じことがあったら、私はもう少し踏み込んで書くと思います」


波多野は、息を止めた。


「それは、あなたを追い詰めるためではありません」


倉橋は言った。


「放置すると危ないからです」


列車の窓の外で、夕方の町が流れていく。


旧水路跡は、もう見えない。


祠も、石組みも、青いビニールシートも見えない。


けれど、見えないものが消えたわけではないことを、波多野はもう知っていた。


「はい」


そう答えるしかなかった。


その時、膝の上のリュックが、ほんの少しだけ重くなった気がした。


あぶさんは、まだ何も言わなかった。


水上様の話はひとまず落ち着きました。


ただ、波多野の周りで起きたことは、少しずつ記録に残り始めています。

見たものを書く人、踏み込まない人、踏み込まざるを得ない人。

それぞれの立場が出てきた回でした。


次回は、波多野が「自分の口で」話すことになります。


感想、評価、ブックマークは本当に励みになります。

厚かましいお願いですが、よろしくお願いします

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