第14話 昔は見ていました
今回は「水上様」後編です。
祠がなぜそこにあったのか、なぜなくなったのか。
神様そのものより、人の側の事情が少し多めの回になります。
第14話 昔は見ていました
小田倉所長は、石組みの前で庁用スマホを取り出した。
土の中から出てきた、祠のようなもの。
外された札状の木片。
旧水路跡とされる、細い窪み。
さっき倉橋を狙うように走った、土の下の水。
現場は静かだった。
作業員はいない。重機もない。今日の工事はすでに中断され、仮囲いの内側には掘削途中の土と、ブルーシートだけが残っている。
「方針を変えましょう」
小田倉が言った。
「封緘強化も、直接接触を伴う鑑定も、いったん止めます」
「反応固定もですか」
倉橋が聞いた。
「はい。水上様側から見ると、こちらの鑑定動作も、また塞がれるように感じている可能性があります」
「反応の型は見えています。ただ、意味はまだ分かりません」
「ええ。だから、人の方から聞きます」
小田倉は、電話をかけ始めた。
自治会長。近くの神社。市役所の道路課。
旧水路。水上様。小祠状構造物。水路埋設。支障物処理。
小田倉は、そういう言葉を一つずつ置きながら、柔らかい声で話をつないでいく。
しばらくして、スマホを胸ポケットにしまった。
「自治会館へ行きましょう」
「現場はいいんですか」
波多野が聞いた。
「今、ここで塞ぐ方が危ないです」
小田倉は、石組みに軽く頭を下げた。
「水上様。少し、人の話を聞いてきます」
土の奥で、水が一度だけ細く鳴った気がした。
***
自治会館は、現場から歩いて十分ほどのところにあった。
古い平屋の建物だった。
中は畳敷きで、壁際には長机が重ねられている。
波多野たちが入ると、自治会長がすでに待っていた。
「小田倉さん、また厄介なことになってるんですか」
神務庁さん、ではない。
小田倉さん。
この人にとって、小田倉は役所の看板より、地域で面倒ごとが起きた時に顔を出す人なのだろう。
「すみませんねぇ」
小田倉は、深く頭を下げた。
「工事、止まるんですか」
「止めたいわけではありません。止めずに済ませるために、今のうちに話を聞いています」
「今さら昔の祠がどうとか言われても、住民説明は終わってますからね」
「分かっています」
自治会長は、少し目を伏せた。
「水上様、でしたか」
「ご存じですか」
波多野が聞いた。
自治会長は、すぐには答えなかった。
「名前は、聞いたことがある気がします。ただ、正直、はっきりしません」
「はっきりしない」
「子どもの頃、あの辺に小さい祠があったような気はします。でも、それが水上様だったのかどうかまでは。田んぼも水路も、子どもには遊び場の一つでしたから」
自治会長は、苦い顔で笑った。
「古いことを聞くなら、金田さんの方が分かると思います。もう呼んであります」
そう言ったところで、入口が開いた。
八十代くらいの老人が、白い帽子を脱いで入ってきた。
「水上様の話だって?」
金田さんは、畳に腰を下ろすなり言った。
自治会長が、少しだけ姿勢を正した。
「すみません、金田さん。昔のことを教えてもらいたくて」
「昔も何も」
金田さんは、ゆっくりとうなずいた。
「見ていましたよ」
その一言で、倉橋のペンが止まった。
小田倉は、静かに聞いた。
「見ていた、というのは」
「通る時に頭を下げていたんです。見ていたというより、見られていたという方が近いかもしれませんな」
金田さんは、窓の外を見た。
そこには今、住宅と道路しかない。
でも、この人の目には、たぶん別の風景が見えている。
「あの辺は、昔は田んぼでした。水路があってね。田んぼに水を入れる前に、みんなで泥を掻いて、草を取って。水の取り合いで揉めることもあった」
「水上様は、その水路沿いに」
「ええ。祠というほど立派じゃない。石を組んで、木の屋根が乗っていたようなものです」
「正式な神様の名前は」
「知りません」
金田さんは、あっさりと言った。
「水の上の方にあるから水上様だとか、水を上げてくれるから水上様だとか、そんなものでした。正式な名前なんか、誰も気にしていなかった」
正式ではない。
でも、呼ばれていた。
記録ではない。
でも、残っていた。
「誰が管理していたんですか」
倉橋が聞いた。
金田さんは、少し笑った。
「管理者なんて言い方は、しませんでしたな。水を使う人。近くを通る人。気づいた人が掃除していました」
「所有者は」
「誰のものでもなかった」
金田さんは、静かに言った。
「だから、みんな少しずつ見ていたんです」
誰のものでもない。
みんなが少しずつ見ていた。
その言葉が、波多野の胸に残った。
自治会長は、黙って聞いていた。
小田倉が、そちらを見る。
「会長さんは」
自治会長は、小さく首を振った。
「私は、そこまでは覚えていません」
それから、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「覚えていない、というより、見ていなかったんでしょうね。あったのに」
その声は、思ったより低かった。
「いつ頃から、見なくなったんですか」
小田倉が聞いた。
金田さんが答える前に、自治会長が口を開いた。
「宅地開発の話が出た頃だと思います」
金田さんが、低くうなずいた。
「ああ、あの頃ですな」
自治会長は、畳の上に視線を落とした。
「私が子どもの頃には、もう親たちがその話をしていました。昭和の終わり頃です。もっと前からあったのかもしれません。多摩ニュータウンだとか、千葉ニュータウンだとか、そういう大きな話が先にあって、うちの町も遅れて夢を見たんでしょうね」
「この辺一帯を宅地にする話だったんですか」
波多野が聞いた。
「ええ。田んぼを潰して、道路を通して、住宅地にする。若い家族が来る。スーパーができる。バスの本数が増える。学校も残せる。そんな話でした」
自治会長は、小さく笑った。
「子どもの頃は、よく分かっていませんでした。ただ、大人たちが景気のいい話をしていたのは覚えています」
金田さんは、窓の外を見たまま言った。
「あの頃は、みんな浮いていましたからな」
「反対はなかったんですか」
倉橋が聞いた。
「ありましたよ」
金田さんが答えた。
「田んぼを手放したくない者もいた。水路を埋めるのを嫌がる者もいた。水上様をどうするのかと言う者もいた」
「でも、進んだ」
小田倉が言った。
「進みました」
金田さんは、少しだけ目を細めた。
「それが悪いことだと、みんな思っていたわけではありません。田んぼだけでは食べていけない家もあった。息子や娘は町へ出て、戻ってこない。なら、ここを住宅地にして、人が来てくれればいい。子や孫が戻ってくるかもしれない。そう思った者も多かったんです」
自治会長が、低く続けた。
「私の親も、そうでした。道が広くなれば便利になる。土地を売れば家も直せる。町が賑やかになる。そういう話をしていました」
そこで、少し言葉が止まった。
「でも、平成に入って、バブルが弾けた」
「すぐ全部が止まったわけじゃありません。土地はもう動いていたし、道路も一部できていた。水路も埋めた。だから、途中でやめるにも、元には戻せなかった」
「けれど、買い手は思ったほどつかない。事業者は変わる。計画は小さくなる。造成しただけの土地や、道路だけ先に通した場所が残る」
自治会長は、少しだけ笑った。
「私が高校を出る頃には、もう誰も、ニュータウンなんて言わなくなっていました」
金田さんが、静かに続けた。
「田んぼは戻らない。水路も戻らない。祠も戻らない」
そこで、少しだけ間を置いた。
「来るはずだった人だけが、来なかった」
誰も、すぐには返事をしなかった。
自治会館の外を、車が一台通り過ぎていく音がした。
「水上様は、どうなったんですか」
小田倉が聞いた。
金田さんは、膝の上の手を見つめていた。
「揉めました。移すなら、どこへ移すのか。神社さんへ頼むのか。費用は誰が出すのか。土地のものなのか、自治会のものなのか、田んぼを持っていた家のものなのか。誰も決められなかった」
「それで」
「見なくなりました」
波多野は、思わず聞き返した。
「なくなったんじゃなくて」
「なくなったんじゃない。見なくなったんです」
金田さんは、窓の外の住宅地を見た。
「便利になるなら仕方ない。人が来るなら仕方ない。町が残るなら仕方ない。そう言って、みんな少しずつ目を逸らした」
自治会長が、低く言った。
「私は、目を逸らしたことも覚えていません」
その声は小さかった。
「それが一番、悪いのかもしれませんね」
金田さんは、責めるでもなく、ただうなずいた。
「で、結局、人は来なかった」
自治会長が言った。
金田さんは、静かに続けた。
「だから余計に、誰も見に行けなくなったんでしょうな」
「どうしてですか」
波多野が聞いた。
金田さんは、少し寂しそうに笑った。
「謝らないといけなくなるからです」
その言葉を聞いた瞬間、耳の奥で水音がした。
細い水が、石の間を通る音。
――見ていた。
波多野は息を止めた。
――流した。
――塞いだ。
リュックの中で、あぶさんが低く言った。
「水は忘れんぞ」
倉橋の視線が、波多野の方へ動いた。
でも、何も言わない。
今は、金田さんの話を聞く時間だった。
「正式な遷座は」
小田倉が聞いた。
金田さんは、首を横に振った。
「神社さんではなかったと思います」
倉橋のペンが止まった。
「神社ではなく?」
「ええ」
自治会長が、低く言った。
「それは、私も聞いたことがあります。業者がどこかから拝み屋を呼んで、なんとかしたって」
「拝み屋、ですか」
小田倉が聞き返す。
「神社に頼むと、正式な話になりますからね。移す場所を決める。費用を決める。誰の責任か決める。工事も止まる。だから、現場で早く済ませたかったんでしょう」
自治会長は、少し苦い顔をした。
「時間と金の節約です。そんな時代だったんですよ」
金田さんは、畳の上に置いた手を見ていた。
「鎮めた、と聞きました」
「移した、ではなく」
倉橋が確認する。
「移したとは聞いていません」
金田さんは、はっきりと言った。
「鎮めた、と聞きました」
自治会長が、小さく息を吐いた。
「祠をどうするか、誰が見るのか、そういう面倒なことを決めないまま、済んだことにしたんです」
倉橋は、現場で回収した札状物件の写真を見た。
「札の形式とも合います。祀り直しではありません。外へ出る反応を抑える処理です」
波多野は、何も言わなかった。
昨日、現場で聞こえた水音を思い出していた。
倉橋は、少しだけ言葉を選んだ。
「水上様からすれば、移されたのではなく、黙らされた、ということになります」
リュックの中で、あぶさんが小さく鼻を鳴らした。
「名を移さず、責任も移さず、声だけ塞ぐ」
そこで言葉を切る。
「人間の仕事じゃな」
その声には、笑いよりも棘があった。
***
その後、市道路課から折り返しがあった。
小田倉は、自治会館の隅でしばらく話を聞いていた。
電話を切ると、戻ってきて言った。
「道路課の古い資料にも、祠の名前は残っていないそうです」
「記録上は」
倉橋が聞いた。
「支障物。管理者不明。一時保全。撤去済み。施工支障なし」
その言葉だけで、十分だった。
自治会館の空気が、少し冷えた気がした。
「今回の工事は市道拡幅です。ただ、あの辺りは旧水路筋なので、側溝と雨水排水の改修も一体でやっているそうです。大雨の時に、水が残ると」
旧水路。
水が残る。
耳の奥で、また水音がした。
――言わせろ。
――流れない。
――通らない。
――塞いだ。
――抜いた。
――戻せ。
「波多野さん」
倉橋が言った。
「今、聞こえていますか」
波多野はうなずいた。
「断片です。流れない、通らない、塞いだ、抜いた、戻せ。あと、言わせろ」
倉橋は、手元のメモに短く書いた。
けれど、端末には入力しなかった。
「これは正式記録には入れません」
「え」
「波多野さんの主観聴取を、現時点で公文書に載せるのは危険です。あなたが先に処理されます」
「処理」
「比喩です」
「比喩に聞こえませんでした」
「半分は比喩です」
半分は違うらしい。
倉橋は、ペン先で紙を軽く叩いた。
「ただし、私の個人メモには残します。確認できた事実と、聞こえたことは分けます」
小田倉は、静かにうなずいた。
「では、ここからは処理の話にします」
自治会長が、少し身構えた。
「処理って、また工事を止める話ですか」
「いいえ。封じ直す話でもありません」
小田倉は、長机の上に並んだ資料を見た。
「正式な管理者は、今はいません。ですが、関係者はいます」
自治会長は黙った。
「自治会。旧土地関係者。近くの神社。市道路課。施工者。そして、神務庁関東北部支部茨城駐在所」
ひとつずつ、名前を置いていく。
「誰のものでもないから、誰も見なかった。なら、今度は関係者で見る形にします」
「そんなこと、できるんですか」
自治会長が聞いた。
「正式な末社化や遷座は、今日ここではできません。所有権も祭祀上の管理も、すぐには整理できません」
小田倉は、柔らかく言った。
「でも、暫定の扱いなら、こちらで置けます」
「ざんてい、ですか」
「ええ。正式な管理者が決まるまで、誰が見るのかを記録しておくための、仮の関係です」
倉橋は、口を挟まなかった。
これは鑑定の話ではない。
誰を関係者として扱い、どこまでをその場で決めるか。
それは、小田倉の仕事だった。
小田倉は、いつもの困ったような笑みを浮かべた。
「細かい話は、あとで私が怒られます」
自治会長が、目を瞬いた。
「怒られるんですか」
「たぶん」
小田倉は、あっさりと言った。
「でも、今やらないと、また塞ぐことになりますからねぇ」
リュックの中で、あぶさんが低く笑った。
「ようやく、人間が頭を下げるか」
***
一般の関係者には、自治会館で待ってもらうことになった。
神威を伴う処理を、全員の前で行うわけにはいかない。
現場へ戻ったのは、小田倉、倉橋、波多野の三人だけだった。
自治会館を出る前に、自治会長は言った。
「年に一回くらいの掃除なら、まあ、できますよ。うちの負担になりすぎないなら」
氏子総代は、正式な末社として受けるには手続が必要だが、祭祀協力ならできると言った。
市道路課は、工事照会の記録に旧水路跡小祠注意として残すことになった。
小田倉は、それをひとつずつメモした。
そして、三人は現場へ戻った。
戻る頃には、空が少し赤くなり始めていた。
仮囲いの内側に入ると、旧水路跡のあたりだけ、空気がひんやりしていた。
小田倉は、庁用スマホを取り出し、簡易ログを立ち上げた。
「神務庁関東北部支部茨城駐在所。旧水路跡小祠状構造物に関する暫定管理縁設定を開始します」
いつもの柔らかい声ではある。
けれど、言葉は明確だった。
「対象。茨城県内旧宅地開発区域内、旧水路跡小祠状構造物。地域呼称、水上様」
倉橋が、記録用端末に入力していく。
「確認事項。旧水路沿いに小祠が存在したとの地域証言あり。正式な神社台帳記録なし。市道路課資料上は支障物として処理。過去工事時、神社ではなく拝み屋を呼んで鎮めたとの伝聞あり。現場には封じ側と推定される札跡あり」
水音がした。
土の下から、細い水が動くような音。
小田倉は、石組みに向かってゆっくり頭を下げた。
「水上様。遅くなりました」
反応はなかった。
ただ、土の表面が少しだけ濃くなった。
「正式な管理者は、今はいません。ですが、関係者はいます」
小田倉は続けた。
「自治会。近隣神社氏子総代。旧土地関係者。市道路課。施工者。神務庁関東北部支部茨城駐在所」
ひとつずつ、言葉が置かれるたび、土の下の水音が少しずつ変わっていく。
怒りの音ではない。
でも、静まった音でもない。
聞いている音だった。
「以上をもって、旧水路跡小祠の暫定管理縁を結びます」
小田倉は、片手を胸の前で軽く合わせた。
神主の祝詞ではない。
派手な神威でもない。
ただ、地方の役所の人が、責任の置き場を作るような所作だった。
「水上様。もう一度、見る者を置きます」
その瞬間、足元の土が、かすかに湿った。
倉橋が測定器を見た。
「反応、上昇。ただし攻撃性なし」
小田倉は続けた。
「封じるのではありません。流れを戻します」
声は静かだった。
「自治会は、年一回の清掃を行います。近隣神社は、祭祀協力を行います。市道路課は、旧水路跡小祠注意として工事照会記録へ追記します。施工者には、石組み周辺の保全協力を求めます。神務庁関東北部支部茨城駐在所は、暫定管理縁の記録と反応監視を行います」
波多野は、石組みの前に立った。
耳の奥で、水音がする。
――見ているか。
そう聞こえた気がした。
波多野は、喉が詰まるのを感じながら、答えた。
「聞いています」
水音が、少し近づいた。
「見ています」
言葉にすると、胸の奥が重くなった。
「もう、支障物だけでは終わらせません」
倉橋が、端末には入力せず、紙のメモにだけ短く何かを書いた。
「波多野さんの応答は、私の手元メモに留めます」
「正式記録には」
「入れません」
倉橋は、測定器から目を離さずに言った。
「でも、なかったことにはしません」
その言葉で、波多野の胸が少しだけ軽くなった。
あぶさんが、リュックの中で低く笑った。
「ようやく、声を声として扱ったか」
その時、土の下で水が動いた。
石組みの間から、細い湿り気が浮かぶ。
水は噴き上がらなかった。
誰かを狙うこともなかった。
ただ、旧水路の跡に沿って、細く、薄く、線を引くように滲んだ。
倉橋が測定器を見た。
「反応、低下。攻撃性、消失」
小田倉は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
誰も、すぐには話さなかった。
夕方の風が、仮囲いの隙間を抜けていく。
田んぼはもうない。
宅地開発も、計画通りには進まなかった。
水路は埋められ、祠はなくなり、書類には支障物と書かれた。
でも、そこに誰かが見ていたものは、完全には消えていなかった。
小田倉は、庁用スマホのログを保存した。
「暫定管理縁、成立。詳細は追って報告」
それから、石組みを見下ろした。
「水上様」
柔らかい声だった。
「遅くなりましたが、もう一度、見ます」
土の下で、水が静かに鳴った。
それは怒りの音ではなかった。
許しの音とも違った。
ただ、細い水が、ようやく通る場所を見つけたような音だった。
***
自治会館へ戻ると、小田倉は関係者へ簡単に説明した。
難しい神威の話はしなかった。
旧水路跡小祠として暫定的に扱うこと。
工事は止めないが、石組み周辺の扱いを変更すること。
年一回の清掃と、近隣神社の祭祀協力を検討すること。
市道路課の工事照会記録に残すこと。
それだけを、丁寧に説明した。
自治会長は、疲れたように息を吐いた。
「小田倉さん、結局、工事は進むんですね」
「進めます」
「また面倒なことを」
「ええ」
小田倉は、いつものように笑った。
「でも、地方では、面倒を少しずつ分けないと、神様も人も詰まりますから」
自治会長は、何か言いかけて、やめた。
「まあ、掃除くらいならしますよ」
金田さんが、満足そうにうなずいた。
「昔は、みんなそうしていました」
外へ出ると、夕方の空気が少し冷えていた。
波多野は自治会館の前で、遠くの住宅地を見た。
道路はある。
家もある。
でも、どこか空いている。
来るはずだった人たちの分だけ、町の隙間が残っているように見えた。
リュックの中で、あぶさんが小さく鼻を鳴らした。
「……あれが、本来の祀りじゃ」
「本来の?」
「人が見て、名を呼んで、少しだけ手をかける。水が通れば水に礼を言い、詰まれば泥を掻く」
あぶさんは、土の下を流れる細い水音を聞くように、耳を動かした。
「祈りとは、もともとそのくらい近いものじゃ」
波多野は、自治会館の中で話し合う人たちを見た。
書類には、きっといろいろな名前がつく。
暫定管理縁。
旧水路跡小祠。
地域祭祀協力。
工事照会記録。
でも、その時だけは、そういう名前より先に、人が水に頭を下げているように見えた。
あぶさんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、遠くで水が鳴った。
細く、静かに。
もう一度、誰かに見つけられたもののように。
お読みいただきありがとうございます。
今回の話は、誰かが強い悪意で壊したというより、便利になるはずだった、町がよくなるはずだった、という空気の中で、少しずつ見えなくなっていったものの話でした。
神務庁の仕事は、荒ぶるものを封じるだけではなく、誰が見て、誰が手をかけるのかを決め直すことでもあるのかもしれません。
これからも、「なろう」のメインストリームとはかけ離れた、人間臭い話を書いていきたいと思います。
次回もよろしくお願いします。
ブックマークや評価、感想をいただけると、本当に本当に励みになります。このシリーズはまだまだ序盤、是非とも完結させたいので応援よろしくお願いします。




