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タカマガハラの神務官 〜神の力を使うのに必要なのは祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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13/22

第13話 水上様

第13話です。


旧水路跡の現場確認回です。

今回は、祠でも呪物でもなく、土地に残った「呼び名」の話です。

あなたの地元にも、あるかもしれませんね。


第13話 水上様



倉橋が「次に間違えたら、破れます」と言ったあと、しばらく誰も動かなかった。


風はない。


それなのに、青いビニールシートの端だけが細かく震えている。


仮囲い。カラーコーン。停止した重機。黄色い立入制限テープ。神務庁の仮封緘票。

どこにでもある工事現場のはずだった。


けれど、そこだけは、役所の手で止められている。


波多野承平は、耳の奥に残る水音を押さえるように、ゆっくり息を吐いた。


あぶさんが結んだ声は、まだ効いている。


直接頭蓋を叩いていた水音は、布一枚越しになっていた。だが、消えたわけではない。


流れない。

通らない。

塞いだ。

抜いた。

戻せ。

声ではない。


だが、意味だけが、冷たい水のように耳の奥へ染み込んでくる。


「まず、周囲を固めます」


小田倉所長が言った。


いつもの営業用の笑みはなかった。


彼は庁用スマホを胸ポケットへしまい、仮囲いの外側へ歩き出した。


「すでに立入制限はかけていますが、生活道路が近いですからねぇ。念のため、人払いをかけます」


「人払い、ですか」


波多野が聞くと、小田倉は軽くうなずいた。


「大したものじゃありません。近所の方が、なんとなく別の道を通ってくれる程度です」


小田倉は庁用スマホで簡易ログを立ち上げると、封緘線の外側をゆっくり歩いた。


神職の所作というより、町内会の祭りでロープを張る人の歩き方に近かった。


「神務庁関東北部支部茨城駐在所。現場確認中につき、しばらく御遠慮願います」


それから、聞こえるか聞こえないかの声で、もう一言だけ添えた。


「この道の方々、今日は少し、よけてお通りください」


声は低く、よく通った。

何かが光ったわけではない。

札が舞ったわけでもない。

空気が派手に震えたわけでもない。


ただ、仮囲いの外側が、少しだけ遠くなった。


道路の向こうを歩いていた犬連れの老人が、ふと足を止めた。


何かを思い出したように首をかしげ、それから一本向こうの道へ曲がっていく。


「効いてるんですか」


「効いてる、というほどではありません」


小田倉は、困ったように笑った。


「お願いしてるだけです」


「そういう神威も使うんですか」


「地方はですねぇ、本庁みたいに専門家がすぐ来るとは限りませんから。人払い、簡易測定、初期封緘、聞き取り。薄く広く、少しずつやります」


倉橋が、封緘票を見ながら言った。


「十分です。強制性が弱い方が、こういう現場では扱いやすい」


「そう言っていただけると助かります」


小田倉はそう言うと、胸ポケットから古い測定器を取り出した。


本庁の端末ほど洗練されたものではない。角は擦れ、液晶の端には細かな傷がある。けれど、小田倉の手にはよく馴染んでいた。


「神気を見ます」


測定器の先端を封緘線の内側へ向ける。


ピ、ピ、と短い音が鳴った。


小田倉は、祠状構造物を覆う青いシート、簡易結界杭、掘削された土の境目を順に測っていく。


「高いですねぇ。ですが、跳ね方が少し妙です」


「どう妙なんですか」


「祠の上で一番高いわけじゃありません。下です。旧水路跡側に芯がある」


倉橋がうなずいた。


「私もそう見ます」


彼女は黒い手袋をはめ、青いシートの端へ近づいた。触れる前に一度、手を止める。


「開けます。小田倉所長、現状記録を」

「はい」


小田倉が庁用スマホで写真を撮る。


青いシートを少しめくると、土に半分埋もれた石組みが見えた。


祠、と言うには小さい。


支障物、と言うには、どこか人の手が入りすぎている。


石の一部には、黒ずんだ木片の跡のようなものが残っていた。


札状物件が挟まっていた場所だろう。


小田倉は、その石組みを見下ろしたまま、少しだけ黙った。


「……水上様、だったかもしれませんねぇ」


「水上様」


波多野が繰り返す。


「ええ。ただ、正式な祭神名ではありません。地元の古い人が、そう呼んでいた、という程度です」


小田倉は、青いシートの向こうを見た。


「この辺りは昔、水路と田んぼが多かったんです。水をください、荒れないでください。そういう意味で、小さな水神さんを祀っていたとしても、不思議ではありません」


「記録には」


倉橋が聞く。


「ありません。少なくとも、駐在所の台帳には」


「では、確定ではないんですね」


「ええ。地方の“あったらしい”は、厄介でしてねぇ。嘘とも言えないし、事実とも書けない」


小田倉は、困ったように笑った。


「昔、工事の時に何か揉めた、という話を聞いたことはあります。ただ、それがこの祠のことなのか、別の小祠のことなのか、そこまでは分かりません。聞いた時点でも、話した方の記憶がだいぶ曖昧でした」


「旧水路沿いに、小祠が複数あった可能性もありますね」


「あります」


小田倉はうなずいた。


「そういうものは、台帳に載る前に消えていることもありますから」


波多野は、石組みを見た。


水上様。

水をください。

荒れないでください。


そう願われていたかもしれない、小さな水神。


だが、それはまだ、確かな話ではない。


ただの断片だ。


誰かが昔、そう呼んでいたかもしれない。

誰かが昔、そんな祠を覚えていたかもしれない。


その程度の話だ。


けれど、耳の奥の水音は、その名前に反応したように思えた。


倉橋は、細い探針を取り出した。


「神威は使いません。鑑定です」


誰に説明するでもなく、そう言った。


「鑑定にも、記録が要ります」


「しっかりしてますねぇ」


「後で聞かれますから」


倉橋は探針の先を石組みに近づけた。


ちり、と小さく鳴る。


彼女の目が、わずかに細くなった。


「札は、祟りの発生源ではありません」


「封じていた側ですか」


波多野が聞くと、倉橋は短くうなずいた。


「はい。ただし、形式が妙です」


「妙?」


「正式な遷座、鎮座、あるいは神務庁登録の封緘手順とは一致しません」


倉橋は探針を石組みの下へ近づけた。


「祀り直した、というより、反応を外へ出さないように押さえた跡があります」


「誰がやったんですか」


「分かりません。そこは鑑定では出ません」


倉橋は即答した。


「分かるのは、反応の型です。意味ではありません。誰が、何のためにやったかは、別途確認が必要です」


その言い方に、波多野は少しだけ市松人形、『みよ』の件を思い出した。


倉橋は、測る。

記録する。

分類する。


でも、意味までは言わない。


言えないのではない。


言ってはいけないところを、きちんと線引きしている。


「簡易鑑定空間を作ります」


倉橋が言った。


「ここで分かるんですか」


「鑑定室ほど精度は出ません。ですが、封緘残存、神気の向き、物件の役割はある程度読めます」


倉橋は黒いケースを開いた。


薄い白布。測定札。封緘糸。朱の印が入った小瓶。折り畳み式の小さな結界枠。


道具は整然と並んでいる。


怖いというより、仕事道具だった。


「封じるんですか」


波多野が聞くと、倉橋は首を横に振った。


「いいえ。鑑定です。外部神気を切って、物件本来の反応を読むための空間です」


倉橋は、石組みを囲むように結界枠を置いた。


それは道上主任が張るような、空間を切る結界ではない。


祠の周りを実験台に載せるような、静かな区切りだった。


「封緘残存を読みます」


倉橋は、白布を石組みのそばへ敷いた。


「現時点で分かることを言います。祠は単なる石組みではありません。札は封じ側。反応の芯は旧水路跡側。水神系、または水脈由来の可能性があります。危険度は上昇中。このまま放置すれば、仮封緘線を越える可能性があります」


「危ないんですね」


「はい。ただし」


倉橋は探針を止めた。


「放置されて怒っているのか、起こされて怒っているのか。そこまでは分かりません」


波多野の耳の奥で、水音が鳴った。


布一枚越しだった音が、少しだけ近づく。



やめろ。



声ではない。

でも、そう聞こえた。


「反応を固定します」


倉橋が言った。


「固定?」


「鑑定中に揺れると、何を読んでいるのか分からなくなります。封緘残存を一時的に固定するだけです」


倉橋は封緘糸を取り出した。


細く、白い糸だった。


石組みから少し離れた位置へ、測定札を置く。


波多野の耳の奥で、水音が急に濁った。


まただ。

塞ぐな。

言わせろ。


「待ってください」


自分でも驚くほど、強い声が出た。


倉橋の手が止まる。


「何か聞こえましたか」


「それ、たぶん駄目です」


「理由は」


「また塞ぐな、って」


倉橋は、封緘糸を持ったまま波多野を見た。


「これは封じではありません。鑑定です」


「たぶん、向こうには同じに聞こえてます」


言った瞬間、土の下で水が鳴った。


雨は降っていない。


水道管も、ここでは切っていないはずだった。


それなのに、乾いた掘削溝の底が、じわりと濡れた。


青いシートが、内側から持ち上がる。


水が入っているのではない。


水が、体を持とうとしていた。


「あ」


波多野が息を吸った時には、もう遅かった。


水が跳ねた。


細い蛇のような水筋が、石組みの下から立ち上がる。倉橋の手首へ向かって、まっすぐ伸びた。


「まずいな」


リュックの奥で、あぶさんの声が低く沈んだ。


「承平、伏せろ」


波多野が動くより早く、白い線が走った。

波多野の足元から、倉橋へ。

倉橋から、小田倉へ。

小田倉から、波多野へ。


三人の足元を、細い狐火のような線が結んだ。


水が、届く。


そう思った瞬間、届かなかった。


届くはずだった場所を、ほんの半歩だけ外して、泥の上へ落ちた。


ばしゃり、と音がした。


倉橋は封緘糸を握ったまま、動きを止めていた。


小田倉は一歩下がり、測定器を構えたまま、波多野の方を見ている。


波多野自身も、自分が何をしたのか分からなかった。


いや、分かっていた。


自分ではない。


あぶさんだ。


倉橋が、ゆっくりと波多野を見た。


「今の反応は、あなたの神威ですか」


「……分かりません」


嘘ではなかった。


自分の神威ではない。


だが、自分と無関係でもない。


小田倉も、波多野のリュックを一度だけ見た。


見た。


しかし、何も言わなかった。


「緊急時の発現は、後で報告書にしましょう」


小田倉は、濡れた地面を見た。


「今は水上様です」


倉橋も、それ以上は聞かなかった。


ただ、封緘糸をケースへ戻した。


「鑑定手順を中止します。直接接触は危険です」


「触らぬ神に祟りなし、とは言いますが」


小田倉が、青いシートの下を見た。


「もう触ってしまった後ですねぇ」


波多野は、耳を押さえた。


水音はまだ鳴っている。


だが、さっきとは違う。


怒っている。


それは分かる。


でも、ただ起こされたからではない。


もっと古い。

もっと長い。

塞いだ。

閉じた。

言わせなかった。

動かしたのではない。

移したのではない。

黙らせた。


「怒ってます」


「それは見れば分かります」


倉橋が言った。


「何に怒っているんですか」


波多野は、濡れた土を見た。


「起こされたから、だけじゃないと思います」


「では」


「黙らされたから」


青いシートの端が、また震えた。


「この神様、たぶん、最初から封じられていたんじゃないです」


「封じられていたのではない?」


「いや、封じられてはいた。でも、悪いものを閉じ込める封じじゃない」

波多野は、うまく言葉にできないまま、それでも続けた。


「文句を言わせないための、口封じです」


小田倉の顔から、笑みが消えた。


倉橋も黙っている。


リュックの中で、あぶさんが低く言った。


「封じるな。まず、聞け」


波多野は、それをそのまま口にすることはできなかった。


けれど、意味は分かった。


「たぶん、閉じると怒ります」


「では、どうします」


倉橋が聞く。


波多野は答えられなかった。


その答えを持っているのは、自分ではない気がした。


小田倉が、濡れた地面の前で膝を折った。


完全に座り込むわけではない。だが、頭の位置を、いつもより少しだけ下げる。


「方針を変えます」


声は静かだった。


「封緘強化はしません。倉橋さん、直接接触を伴う鑑定も一時中止でお願いします」


「妥当です」


倉橋が答える。


「古い話を拾います。自治会、近くの神社、市道路課。あと、昔からこの辺を知っている方に当たります」


「工事の記録もですか」


「もちろんです。ただ、こういう話は、記録より先に人の口に残っていることがありますからねぇ」


小田倉は庁用スマホを取り出した。


「これは、閉じる案件ではありませんねぇ」


小田倉は、濡れた土と、青いシートと、震える石組みを見た。


「たぶん、誰が見るのかを決める案件です」


「誰が見るのか」


「ええ。祀るにしても、移すにしても、管理するにしても、誰かが見ないとまた同じことになります」


小田倉は、いつものように少しだけ笑った。


ただ、その笑顔には疲れがあった。


「まずは、人の方から聞きます」


「今からですか」


「今からです」


小田倉はスマホの画面を開いた。


「地方では、神様より人に頭をさげるものですから」


波多野は、もう一度、石組みを見た。


水上様。


そう呼ばれていたかもしれないもの。


豊作を願い、水害から守ってもらうために祀られたかもしれないもの。


開発の中で、移されたのではなく、黙らされたかもしれないもの。


そのどれも、まだ確定していない。


だが、その神は今、土の下で水音を鳴らしている。


流れない。

通らない。

塞いだ。

言わせろ。


波多野は、まだその声に返事をする言葉を持っていなかった。


けれど、小田倉は電話をかけ始めている。


倉橋は道具をしまい、鑑定記録を残している。


あぶさんはリュックの中で、静かに息を潜めている。


閉じるのではない。


まず、聞く。


それが、この現場の次の仕事になった。



第13話「水上様」でした。


「水神」ではなく「水上様」。

正式な名前でも、台帳上の分類でもなく、誰かが昔そう呼んでいたかもしれない名前です。


そして、あぶさんがまた少し余計なことをしました。


本人としては助けただけのつもりですが、神務庁的にはたぶん、そう簡単には済まないやつです。

ただ、小田倉所長がその場で深追いしなかったのは、今はそれどころではなかったからです。


神務庁は測り、記録し、分類します。

でも、それだけでは届かないものもあります。


次回は、その「人の方」の話を聞きに行きます。


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