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タカマガハラの神務官 〜神の力を使うのに必要なのは祈りではなく決裁です〜  作者: ひらまさ


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12/22

第12話 地方では、神様より人にお供えします

第12話です。


今回は、旧水路跡の案件を追って、波多野たちが地方の駐在所へ向かいます。


神務庁の仕事は、端末や報告書だけで完結するものではなく、神社、自治会、地主、工事業者、そして土地の記憶とも関わっていきます。


少し地味な回ですが、この世界の足元を描く話になっています。

営業マンは辛いよ

第12話 地方では、神様より人にお供えします



榊礼司さかきれいじは、地方支部から送られてきた追加資料を、しばらく黙って見ていた。


INARIイナリネットワーク運用課の端末には、昨日から開きっぱなしになっている地域表示があった。


関東北部支部管内。

茨城県北寄りの町。

旧水路跡を含む道路拡幅予定地。


申請書上の時系列は、もう頭に入っている。


午前九時二十分、ほこら状構造物を確認。

午前九時四十五分、祠内部より札状物件を確認。

午前十時十五分、作業員一名が足場より転落。

午前十時四十分、重機接触事故。

午前十一時二十分、現場監督より自治体経由で地方支部へ連絡。

午後一時十五分、地方支部職員到着。

午後二時十分、札状物件を簡易封緘。


書類だけを読めば、工事現場で祠が見つかり、札が出て、その後に事故が起きたように見える。


だが、INARIの地域表示は違っていた。


負の神気反応は、午前八時台後半からすでに上昇している。祠が確認されたとされる午前九時二十分より、明らかに早い。


さらに、札状物件を簡易封緘(ふうかん)した後、移送経路側の反応は低下していた。だが現地側の反応は、下がりきっていない。


札だけでは終わらない。


榊は画面を閉じずに、視線だけを横へ動かした。


「波多野さん」

「はい」


波多野承平は、反射的に背筋を伸ばした。


昨日、倉橋が札を見て言った言葉が、まだ耳に残っている。


これは、祟る側ではない。

封じる側です。


榊は、いつものように静かな声で言った。


「現地確認を行います」

「現地、ですか」

「はい。札状物件単独では、本件は終わりません。現地側に何が残っているのかを確認する必要があります」


榊は端末の画面を回し、波多野にも見えるようにした。


「あなたには、INARI照合担当として同行してもらいます」

「僕が、ですか」

「今回、申請書上の時系列と地域表示のずれに気づいたのは、あなたです。現地で追加の照合が必要になる可能性があります」


榊の言葉は、説明としては筋が通っていた。


ただ、波多野はもう、それだけではないことも分かり始めていた。


榊は、波多野が何を拾うのかを見ようとしている。


現地で、通常ログに出ないものを拾うのか。


それが再現性のあるものなのか。

危険なのか。

本人に負荷があるのか。


そういうものを、たぶん、見ようとしている。


「呪具呪物管理課には、すでに共有しています」


榊がそう言った時、運用課の入口で控えめなノックがあった。


「失礼します」


入ってきたのは、細いフレームの眼鏡をかけた女性職員だった。白衣ではなく、濃紺の庁内用ジャケットを着ている。


呪具呪物管理課じゅぐじゅぶつかんりかの倉橋です」


榊は頷いた。


「本件の物件側担当です。祠の構造、札の位置、封緘の残存を見てもらいます」


倉橋は波多野に視線を向けた。


「波多野さんですね」

「はい。よろしくお願いします」

「こちらこそ」


倉橋は、すぐに続けた。


「現地では、気づいたことがあれば、まず私に共有してください。工事側や自治体側には直接言わないでください」

「なぜですか」

「証言が寄ります。あと、揉めます」


淡々としていた。


だが、言っていることはかなり実務的だった。


榊が続ける。


「単独行動はしないこと。神威使用は許可が出るまで行わないこと。通常ログにない所見は、事実と切り分けて報告すること」

「はい」

「それと」


榊は一拍置いた。


「体調に変化があれば、すぐに報告してください」

 波多野は、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。

「分かりました」


そう答えながら、足元に置いたリュックの重みを意識する。


リュックの中で、あぶさんは何も言わなかった。




***




常磐線じょうばんせんの車窓から見える景色は、少しずつ東京ではなくなっていった。


最初は、まだ建物が連なっていた。


ビル、マンション、看板、線路沿いの駐輪場。


やがて建物の背が低くなり、空が広くなった。


国道沿いには、東京にもある看板が並んでいる。


ドラッグストア、回転寿司、家電量販店、広い駐車場のコンビニ。


けれど、一本奥へ入ると景色は急に薄くなる。


家と家の間に畑があり、畑の向こうに田んぼがあり、その先に低い山が見えた。


東京では、建物の隙間に空がある。


ここでは、空の下に家があった。


波多野は、窓の外を見ながら、膝の上のリュックを押さえた。


「現地では、私物を不用意に出さないでください」


向かいの席で、倉橋が言った。


「私物、ですか」

「はい。封緘前後の現場では、持ち込んだものに反応が移ることがあります。特に布、紙、木製品、古いもの。あと、由来の分からないもの」


波多野は、膝の上のリュックを見た。


「……分かりました」

 リュックの底で、あぶさんが不満そうに身じろぎした。

「由来が分からぬとは失礼な」


波多野は、聞こえなかったふりをした。


倉橋は、当然、聞こえていなかった。




***




神務庁関東北部支部茨城駐在所は、思っていたより小さかった。


駅から車で少し走った、県道沿いの古い合同庁舎。


その二階の一角。


入口には小さなプレートがあり、そこに神務庁の文字があった。


中に入ると、机は八つほどあった。


だが、人は三人しかいない。


一人は電話を受けている。

一人はファイルを抱えて出ていくところだった。

もう一人は、古い測定器のケースを閉じている。


壁のホワイトボードには、手書きの予定が詰まっていた。


現場確認。

自治会説明。

神社総代会。

祭礼警備協力。

河川敷小祠照会。

市道路課打合せ。

地域巡回聞取。


本庁なら、それぞれ別の部署が持つ仕事だった。


ここでは、同じ作業服の職員が、同じ庁用車で回るらしい。


「いやぁ、本庁からわざわざ、ありがとうございます」

 奥から、大柄な男が出てきた。


四十代半ばくらいだろうか。


紺色の神務庁作業服を着ている。


肩幅が広く、胸ポケットには庁用スマホと古い測定器が入っていた。安全靴の先には、乾いた泥が少し残っている。


顔には笑みがあった。


ただし、歓迎の笑みというより、怒鳴られる前に先に出しておく種類の笑みだった。


「関東北部支部茨城駐在所の小田倉です」

「INARI運用課の波多野です」

「呪具呪物管理課、倉橋です」

「いやぁ、助かります。助かるんですが、正直、胃も痛いですねぇ。本庁が来るってだけで、現場はだいたい“何かまずいことになった”って顔しますんで」


小田倉所長は、そう言って笑った。


笑っているのに、軽くは聞こえなかった。


「すみません」

「いえいえ。来ていただけるだけありがたいです。うちは何せ、人が足りませんから」


小田倉は、波多野たちを小さな打合せ机へ案内した。


机の上には、現場写真、申請書の写し、工事日報の抜粋、地域巡回メモらしき紙が重ねられている。


「本庁みたいに、祟りは祟り、界門かいもんは界門、呪物は呪物、とはいきませんでねぇ。地方はまず、空いてる人間が行きます」

「全部、ですか」

「全部、とは言いません。言いませんが、初動はだいたい何でも見ます。祠、札、井戸、界門、古札、人形、狐火、迷子の狛犬。あと、自治会長の怒鳴り声」


最後だけ、少し声の調子が変わった。


「怒鳴り声も案件なんですか」

「地方では、かなり重要な反応値ですねぇ」


小田倉は、にこにこと笑っている。


倉橋が資料をめくりながら言った。


「大型の緊急案件は少ないんですか」

「少ないです。人が少ないと、負の神気も薄いんですよ。まあ、怪異ですら人口減少には敵わないんですねぇ」


小田倉は、そこで少し肩をすくめた。


「ただ、楽かと言うと、そうでもありません。静かだから調査が後回しになる。後回しになるから、古いものが古いまま残る。井戸、水路、塚、祠、封じの石。で、たまに道路工事や造成で掘り当てるんです」

「掘り当てる」

「ええ。大昔の爆弾を」


波多野は、机の上の現場写真を見た。


ブルーシート。

土。

石組みらしいもの。

祠と呼ぶには小さく、支障物と呼ぶにはどこか引っかかるもの。


「昔は、この辺ももう少し賑やかだったんです」


小田倉は、壁の管内図を見た。


「祭りもありましたし、講も残っていました。祠を掃除する人もいた。今は、誰が鍵を持っているかも分からない祠が増えました」

「過疎、ですか」

「過疎と言うほどではありません。これでも、まだ首都圏ですからねぇ。国道沿いには店もありますし、新しい家も建つ。人が消えたわけじゃないんです」


小田倉は、笑った。


けれど、その笑みは少しだけ薄くなった。


「ただ、土地のことを覚えてる人から、先にいなくなるんですよ」


その言葉は、波多野の中に静かに落ちた。


東京の声は、いつも重なっている。


怒りも、祈りも、欲も、寂しさも、どこかで濁っている。


ここは違った。


声は少ない。


けれど、少ない声が遠くまで残る。


「地方では、神様より人にお供えします」


小田倉が、不意に言った。


「人に、お供え」


波多野が聞き返すと、小田倉は営業用の笑顔に戻った。


「ええ。自治会長さん、氏子総代、地主さん、宮司さん、市役所、工事業者。神様に届く前に、人間を通らないといけませんからねぇ」

「お供えって、具体的には」

「まあ、高いものは駄目です。そこは公務員ですから」


小田倉は、両手を軽く上げた。


「ただ、覚えておくんです。あの総代さんは神前には辛口の酒、あそこの奥さんは駅前の菓子屋の最中、あの地主さんは酒が駄目で煎餅。そういうのを外すと、神様より先に人間が荒れます」

「え、それってガイドライン上大丈夫なんですか」


思わず波多野が言うと、小田倉はにこにこしたまま肩をすくめた。


「よくはないですねぇ」

「よくはない」

「でも、そうしなきゃ回りません」

「賄賂では」

「賄賂じゃありません。お供物です」

「人にですか」

「地方では、神様より人にお供えしますからねぇ」


小田倉は、そこで少しだけ声を落とした。


「もちろん、僕たちだって限度は知っています。便宜を買うためじゃありません。話を聞いてもらうためです。誰に先に話を通すか。どの祭礼には顔を出すか。どこの家は酒を出さない方がいいか。そういうのを間違えないための、お供物です」


倉橋が、静かに言った。


「規程上は、推奨されません」

「でしょうねぇ」

「記録には残していますか」

「残せるものは」

「残せないものは」

「覚えています」


小田倉は、悪びれずに言った。


波多野は、少しだけ分かった気がした。


神様への供物も、人間への手土産も、こちらの都合だけで場所に入らないための手続きなのだ。


「休日もですか」

「ありますねぇ。マラソン大会、商工会のゴルフ、消防団の慰労会、祭礼の設営。全部は出られませんよ。こっちも人がいませんから。でも、行ける時は行きます」

「それも神務庁の仕事ですか」

「地方では、仕事になる前の仕事です」


小田倉は、ホワイトボードを見た。


「正式な相談になる前の話は、会議室じゃなくて、だいたい片付けの時に出るんです。“そういえば、あそこの祠なんだけど”って」


波多野は、INARIの画面を思い出した。


地域表示。

中継点。

神気反応。


そこには、マラソン大会も、ゴルフも、祭礼のテントも出てこない。


小田倉所長の名前も出てこない。


けれど、その表示の下に、この人たちはいる。


神社に頭を下げる駐在所長がいて、祭りを続ける氏子がいて、古い祠のことを覚えている誰かがいる。


神気は、自動で神務庁に供給されるわけではない。


それは、人がまだ覚えていて、人がまだ面倒を見ていることの引き換えに残っているものだった。


「強い神社さんには言われますよ」


小田倉は、資料をめくりながら言った。


「うちの神気を使ってるんだろ、うちがなきゃ困るんだろ、って」

「実際は」

「困ります」


即答だった。


「だから頭を下げます。神様にではなく、神様の周りにいる人間に」

 そう言ったあと、小田倉は少し照れたように笑った。

「まあ、若い人にもね、知ってもらいたいんです」

「何をですか」

「私らのようなのが、地方にいるのを」


笑顔の下の声には、営業用の丸みがなかった。


「本庁の画面には出ません。報告書にも、あまり出ません。出るとしても、何月何日、誰それが現地確認、くらいです。でも、いるんです。神社に頭を下げて、自治会で怒られて、地主さんの昔話を聞いて、祭りのテントを運んで。そうやって、まだ切れていないものを、切れないようにしている人間が」


波多野は、何も言えなかった。


波多野に声は、勝手に聞こえてくる。


祠から。人形から。水の跡から。


こちらの都合など関係なく、耳の奥へ入り込んでくる。


けれど小田倉所長は、聞こえない声を拾うために、出向いている。


神社に顔を出し、自治会で怒られ、地主の昔話を聞き、祭りの片付けに残る。


聞こえてしまう波多野とは違う。


小田倉所長は、聞くために頭を下げている。


「それで、本件ですが」


小田倉が資料を一枚引き寄せた。


空気が、少しだけ仕事のものに戻る。


「申請書上は、午前九時二十分に祠状構造物を確認、九時四十五分に札状物件を確認となっています」

「はい」

「ただし、九時二十分は“祠として確認された時刻”です。“最初に何かがあった時刻”ではありません」


波多野は顔を上げた。


「どういうことですか」

「工事日報上は、午前八時四十分に“支障物確認”があります」

「支障物」


その言葉を口にした瞬間、波多野の耳の奥で、ほんの小さく水が詰まる音がした。


「現場からすれば、最初は祠ではなかったんでしょう。古い石組みか、残置物か、工事の邪魔になる何か。全部を祠として止めていたら、仕事にならない。それは分かります」


小田倉は、そこで笑わなかった。


「でも、札が出た時点で止めるべきでした」


倉橋が口を開いた。


「札は、誰が外しましたか」

「現場作業員です。祠内部に挟まっていたものを、木片だと思って取り除いた、と」

「取り除いた」

「記録上は、一時保全です」


倉橋の眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなった。


「取り除いたものを、一時保全と呼んでいるわけですね」


小田倉は否定しなかった。


「報告書は嘘じゃありません。ただ、現場そのものでもないんです」

 彼は申請書の写しを指で押さえた。

「うちに届く頃には、現場の言葉が、報告できる言葉に変わっていることがあります」


波多野は、書類を見た。


祠状構造物を確認。

札状物件を確認。

一時保全。

作業中断。

安全確認。


きれいな言葉だった。


だが、その前には別の言葉があったはずだ。

 

古い石組み。

邪魔なもの。

木片。

動かした。

外した。

まだ大丈夫。


「業者さんにも事情があります。工程がありますし、元請け下請けの関係もありますし、発注者にどう言うかもあります」


小田倉は、少しだけ苦く笑った。


「神様より人間の方が、言葉を変えますねぇ」

 倉橋が淡々と言った。

「事実と記載事実は違います」

「違うんですか」

「一致するよう努力はします。ですが、一致しているとは限りません」

 波多野は、INARIの地域表示を思い出した。


八時台後半から上がっていた負の神気反応。


九時二十分より前。


支障物確認と重なる時間帯。


報告書、工事日報、INARIログ、小田倉の巡回メモ。


それぞれが、少しずつ違うことを言っている。


だからこそ、重なる場所を探す必要がある。


「二年前の地域巡回メモに、この周辺の記載があります」


小田倉が、薄い紙を一枚出した。


「この祠が、ですか」


倉橋が聞く。


「いえ。“旧水路跡の近くに、小さい水神さんのようなものがあったはずだ”という口頭情報です。位置も曖昧で、現地確認時の神気反応は平常値。工事計画も、その時点では未確定でした」


波多野は紙を見た。


旧水路跡周辺。

小祠または石組みありとの口頭情報。

地元呼称不明。

管理者不明。

神気反応、平常値。

次回道路課協議時に再確認。


「正式案件化しなかった理由は」


倉橋の声は、少し硬かった。


「当時は工事計画が未確定。神気反応は平常値。管理者不明。現地は安定」


小田倉は、一度言葉を切った。


「そして、こちらの人手不足です」


言い訳はしなかった。


「現地を見ます」


倉橋が言った。


「はい。車を出します。現場まで二十分ほどです」




***




庁用車の後部座席で、波多野は窓の外を見ていた。


国道を外れると、道は少しずつ細くなる。


畑の間を抜け、古い家の前を通り、低い山が近づいてくる。


助手席の小田倉は、駐在所へ連絡していた。


「ええ、これから本庁確認に入ります。封緘線はそのまま。関係者の立入は解除まで不可でお願いします。はい。現場内は無人で。……いえ、僕も怒られたくありませんからねぇ」


いつもの笑顔で、いつもの声だった。


電話を切ったあと、リュックの中であぶさんが小さく言った。


「あの男、悪くないな」

「小田倉所長ですか」

「泥の匂いがする」

「悪口ですか」

「褒めている」


あぶさんは鼻を鳴らした。


「画面だけを見ている連中より、よほど網に近い」

「網?」

「人の家を回り、神社に頭を下げ、爺婆の話を聞く。そういうところに、稲荷の道は残る」


波多野は、小田倉の作業服の背中を見た。


神務庁の職員だった。


けれど、庁舎の中の人間とは少し違って見えた。

     

現場は、思っていたほど禍々しくはなかった。

仮囲い。


カラーコーン。

停止した重機。

青いビニールシート。

作業員の姿はない。


仮囲いの入口には、神務庁の仮封緘票が貼られていた。黄色い立入制限テープの内側に、簡易結界杭が四本打たれている。


どこにでもある工事現場が、そこだけ役所の手で止められていた。


だからこそ、波多野は一歩目で息を止めた。


耳の奥で、水が詰まっていた。

流れない。

通らない。

塞いだ。

抜いた。

戻せ。


足首に、冷たい輪がかかった。


手首にも、同じものが巻く。


見ても、何もない。


乾いた土と、安全靴の先があるだけだ。


それなのに、皮膚の下を細い水が這っていた。

「承平」


リュックの奥で、あぶさんが低く言った。


「声を結ぶ」

「それで、止まるんですか」

「止まらん。人形とは格が違う。これは土地の水だ」


あぶさんの声は、いつもの軽さを失っていた。


「気休めにしかならん。お前の感受性を、少し鈍くするだけだ」


次の瞬間、耳の奥で暴れていた水音が、細く縛られた。


消えたわけではない。


遠のいたわけでもない。


ただ、直接頭蓋を叩いていたものが、布一枚越しになった。


波多野は、ようやく息を吸った。


「波多野さん」


倉橋の声が、横から入った。


「顔色が悪いです。何を拾いましたか」

「……水です」


それだけ言うのがやっとだった。


倉橋は、青いビニールシートを見た。


「小田倉所長。封緘線を一段外へ。現場入口も閉じてください」

「了解です」

 小田倉は理由を聞かなかった。


営業用ではない顔で、庁用スマホを取り出す。


「茨城駐在、小田倉です。旧水路跡、仮封緘線を拡張します。関係者立入は解除まで不可でお願いします」


倉橋は、簡易結界杭の位置を見て、わずかに眉を寄せた。


「まだ、持っています」

「何がですか」

「封じです。完全には破れていません」


風はなかった。


それなのに、青いビニールシートの端だけが細かく震えている。


倉橋は、静かに続けた。


「ただし、次に間違えたら、破れます」


波多野の耳の奥で、布一枚越しの水音が、また低く鳴った。

お読みいただきありがとうございます。


今回は、地方の神務庁職員がどんな仕事をしているのか、という回でした。


本庁の端末に表示される神気反応の裏側にも、神社に頭を下げたり、自治会に顔を出したり、昔の話を聞いて回ったりする人たちがいます。


次回は、いよいよ旧水路跡の現場確認に入ります。波多野や倉橋は無事任務を終えられるのか。


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