第85話 関係性
「舐められる人と舐められない人の違いってどこにあると思う? オレグ少尉」
ナロト中咽頭におけるテント内でターニャは三角座りの状態で唐突に話しかけてくる。同席する者はおらず、上官と一対一の状況。物理的にも精神的にも逃げ道はなく、階級制度に縛られる身としては無視するわけにいかなかった。
「ありきたりかもしれませんが、NOと言えない人でしょうか」
「ふーん、理由は?」
「頼み事を断らない優しい人がいたとして、最初は軽いお願いで済んでいたものが、徐々に重たいお願いへと変わっていき、それでもNOと言えない人が舐められるのだと思っていますね」
「言ってることは分からんでもないし、なんとなく想像はつく。……ただ、軍隊の場合はどうなるの? 下士官は上官の命令に逆らえないよね?」
「場合によるかと。命令を忠実にこなす下士官は前線だと重宝されますが、上官と意思疎通が取れなくなった瞬間に使い物にならなくなるケースも往々にしてあります。その場合、同じ階級かそれ以下の者同士で連携を取る必要があり、軍隊の一貫した命令系統を頑なに守ろうとするよりも、立場や肩書きを無視した柔軟なコミュニケーションが必要不可欠と考えます。そこで間違った意見にNOと言えない者は、舐められる。他人の意見に自分の命を預ける愚か者だと判断しています」
聞かれたから答えただけであって、正直、話していて気持ちのいい内容じゃなかった。質問の中身がそもそもとして好みじゃない。人を上か下かで判断する前提であり、フラットな関係性が構築できる可能性を端から否定しているからだ。とはいえ、それをそのまま口にできるほどの関係性は構築できておらず、『やっていること』と『思っていること』の間で大きな矛盾を抱えていた。
「場合による、か。一応の筋は通ってるね。最悪の想定をして、それでも判断軸を持たない人は確かに舐められてもおかしくない。……でも、人を舐めるか舐められないかでフィルターをかける精神構造そのものが歪じゃない? 誰かを舐めるのは相手を見下す差別意識の塊だし、舐められないように振る舞うのは誰かの目や誰かの期待に踊らされている感じがして嫌だな」
こいつは……失敗したな。恐らく、先の質問は中尉なりに腹を割ろうとした意図が込められた発言。無礼講で素直に回答していれば話が弾んだだろうに、立場や肩書きを意識し過ぎて本心とは正反対の答えを口走ってしまった。ここから軌道修正をかけることも可能なんだが、一度口にした言葉を訂正するのは気が引ける。
中尉との間に生じた心の壁そのものなんだろうな。軍隊としての上下関係で繋がっているだけの間柄であり、気心の知れた仲とは言えない。歩み寄ろうとしてきても、本心を話せないのだから一向に関係は深まらない。
致命的な欠陥を認識した上で重要なのは、なんと答えるべきか。
「意地悪だね。それなら最初からひっかけ問題だと教えてくれればよかったのに」
この日を境に、ターニャとの敬語を交えないフラットな関係は始まった。
◇◇◇
現場は混乱していた。蜥蜴型の魔獣と対敵したおかげで、コサック部隊は全滅の危機に直面していた。上咽頭側からの予期せぬ襲来によって、中咽頭の最後尾付近にいるセルゲイ大尉の指示を仰ぐことはできず、各々で判断しなければならない状況が続いている。軍の指揮系統から考えれば、大尉の代わりに現場を指揮できる人間は二名ほどおり、今はどちらも中尉に相当している。
「徹底抗戦するよぉ! コサック部隊なら腹くくってねぇ!!」
高らかな声音で指示を飛ばしたのは、ターニャ中尉だった。背中に装備されていた黒い熊のぬいぐるみを巨大化させ、自ら率先して戦闘に参加しようとしている。周りの反応はまちまちで、半分は好戦的、半分は悲観的といった印象。彼女に合わせるのが無難だろうが、あの頃とは違って立場も肩書きも変わった。
「NOだ。ターニャ中尉。ここは撤退して大尉の指示を仰いだ方がいい」
オレグは背負っていた銀の大盾を装備しながらも、正反対の反応を示す。皮肉にも過去に交わした会話の延長線上にある状況であり、意見は真っ二つに割れていた。
「それは『中尉』としての判断? それとも、『オレグ』として?」
視線を蜥蜴型の魔獣に向けながら、ターニャは本質的な質問をぶつける。返答次第で意見を曲げるか貫くかを決めるつもりだろう。周りにいる面々も聞き耳を立てており、蜥蜴型の魔獣は黒いセンスを纏いつつ、睨み合いを続けている。
「両方だ。舐めてもらっても構わないけど、そんな場合じゃないだろ?」
二人の間でしか通じない会話を交わし、ターニャの反応を待つ。良くも悪くも場の判断は彼女に委ねられている。どちらに転ぼうともそれに従うしかなさそうだった。
「あーもう、分かったよぉ!! 総員撤退!! あたしが殿!!」
聞く耳をもったターニャは素直に意見を曲げ、総員は指示に従う。過去のエピソードを踏まえれば口角が上がりそうな展開。
だが、彼女はこの後、コサック部隊を裏切り、敵に回った。
◇◇◇
正直、ターニャの裏切りは『善』か『悪』かを計りかねていた。蜥蜴型の魔獣に付いたようにも見えたし、コサック部隊を煉獄界に逃がしたようにも見えた。どちらかを状況だけで判断することは難しく、盾に備わる透明化の能力を使い、彼女の動向を観察し続けていた。
答えはまだ出ない。
『善』か『悪』かの二元論的なものでなく、その中間の可能性もあり得るし、蜥蜴型の魔獣についた疑念は拭いきれていない。ターニャの隣にいる少女の正体も分からず、目の前にいる相手が何者かも分かってない。
それでも……。
「……………げほっっ」
オレグの口から零れ落ちたのは、大量の血液。致命的な吐血。大盾は槍によって貫かれ、腹部には大穴が開いていた。たぶん、答えを知ることはできない。残り時間から考えて、話せる言葉は限られている。恐らく、会話のラリーをすることすらできず、一方的にこちらの言葉を伝えることになるだろう。透明化されているコサック部隊も露見し、指揮官を失った状態で現場は混乱するはずだ。言いたいことは山ほどあるけど、一言か二言が限界。発言はグッと凝縮しないといけない。
問題は、『中尉』か『オレグ』か。
「僕の仇は……取ってくれよ」
「……YES」
悪意を取り戻したターニャは、誰かの期待に応えようとしていた。




