第60話 狂犬
ロザリアとリーザが接触した時、周囲には霧状の油が充満していた。絞首金剛を開始した最初の二分間で、リーザが回避を装って散布したものだ。ナロト体内のガスに頼らずともセンスで起爆し得る性能だったが、ロザリアの1μm以下のセンスコントロールによって起爆を回避していた。だが、火花を生みやすい状態3による爪撃、絞首金剛の有り余る出力性能が相まって、ついに1μmの境界を越えた。
結果として生じたのが、オイルミスト爆発である。
爪撃を起点に、周囲に散布された霧状の油が次々と気化し、可燃性のガスと同等の状態となり、連鎖的な爆発を生む。ロザリアとリーザは否応なく巻き込まれ、煙に包まれていった。
ロザリアの計らいによって、あらかじめミーラから距離を取っていたことで、救出すべき攻略者をロストする最悪の事態は免れた。かといって、最高な状況とは程遠く、最大の脅威は煙の中から現れた。
「ふぅ。いい汗かいた。まぁ私、幽霊なのだけれど」
リーザはその性質上、物理攻撃に対して耐性を持っている。センスが込められていた攻撃であれば有効打になり得るが、物理的衝撃が引き算される分、威力はおおよそ半減される。とはいえ、リーザが生じた油が起因となったオイルミスト爆発は、センスによる攻撃とカウントされ、彼女自身も少なくないダメージを受けた。その程度を示唆するのは服装であり、ウールコートの一部は焼け焦げており、帽子は吹き飛んでいる。
ただ彼女は、ロザリアの強固な結界から脱出を果たした。オイルミスト爆発の火力を利用し、不自由だった場所から解放された。あわよくば爆発で倒れてくれればと願うものの、この戦闘に命をかけた女の名は安くない。
「…………フゥゥゥゥ」
白い体毛を纏った犬型獣人の姿でロザリアは煙の中から現れる。限られた酸素を肺から押し出し、自らをさらに追い込んでいる。鞭による絞首の酸素欠乏状態によって意識レベルは低下し、正気を保ってはおらず、彼女は自らの奇行を認識できるほどの判断能力はなかった。
絶命まで残り二分三十秒。
限りある命を凝縮し、意思能力に転換したエネルギーの総量は、オイルミスト爆発に決して劣らない。爆発を耐え切った理由そのものであり、魔獣化で向上した肉体強度に加え、身に纏えるセンスも強固なものとなっていた。
本来、覚醒や暴走を伴う場合、有り余るセンスは体外に放出される。類まれな顕在センス量を身に纏うことで、他の追随を許さない暴力の化身となる。意識的にしろ無意識的にしろ、人間の本能はそうなるようにできている。爆発的に増加したセンスが鎮まるまで出し惜しむことなく放出を続ける。
しかし、ロザリア・アッカルドの場合、話は別だった。
「………………………………」
彼女のセンスは驚くほど静かだった。視認するのが不可能といっていいほど、自然と同化しており、人間の闘争本能に真っ向から逆行する。可能な限り、体表面に纏うセンスを縮小し続け、ある意味で意思能力者の常識を超越する。
オングストロームという単位がある。100億分の1メートルを表す場合に扱われる用語だ。先ほどまで常時展開していたマイクロメートルは100万分の1程度であり、そこから一万倍ほど細かくした精度を誇っている。一つの原子と同等のサイズであり、ここまで細分化したセンスは前例がなかった。
「それ……なに?」
目を細めたリーザは、本来見えないはずの原子レベルのセンスを本能で感じ取る。返答できる状態じゃないと分かっていながらも、生じた疑問を抑えきれず、口にする。
「――ガゥゥゥ」
正気を失っているロザリアは獣らしい鳴き声で応答し、四足歩行の状態を作り、後ろ脚に力を込めていた。意思能力の通説ならセンスによる身体能力向上は望めない。質はともかくとして、量が常時に比べて圧倒的に少ないからだ。その状態から繰り出される現象は何かを予想するのは困難であり、それはリーザも同じだった。
「――ッッ!!!!」
言葉なき叫び声と共に、ロザリアは獣の如く疾駆する。後ろ脚に溜めた力を解放し、有り余る勢いをもってして、右足による飛び蹴りを放っていた。
「躱せないと……思って?」
尋常ならざる加速を伴うものの、あまりにも直線的な動きにリーザは余裕をもって対応する。十分に引き付けた上で地面を蹴りつけ、避ければいいだけの話であり、魔獣化を伴おうが、オングストローム並みのセンスを纏おうが、当たらなければ意味をなさなかった。
だが、ロザリアは彼女の予想の上をいく。
「……っ!?!!?」
突如としてリーザの身体は反発し、回避した方向とは真逆の位置に吹き飛ばされた。幽霊にも通用するほどの斥力が生じており、元いた場所に引き戻されている。そこに待ち受けるは、ロザリア・アッカルド。なんの捻りもない飛び蹴りを放っており、結果的に最小効率で成果を最大化する。
「――ウゥゥッゥゥアアアアア!!!!!!」
肺に残る酸素を焼き尽くさんとばかりに、ロザリアは吠える。同時に飛び蹴りはリーザの腹部に食い込み、爆発を伴うことなく、100万の軍勢に二人は突っ込んだ。火の粉を払うように薙ぎ倒し、見る見ると幽霊の数は目減りする。第三者の接触によってロザリアの勢いが衰えることはなく、リーザを含めた亡霊軍の戦力を着実に削っていた。
「くっ!!!!」
飛び蹴りによって奥へ奥へと押し込まれるリーザは抗った。霧状の油を後方に展開し、飛び蹴りに纏われるセンスを利用し、オイルミスト爆発を起こし、脱出を試みようとした。
「…………」
ロザリアは動じない。何事もなかったように、飛び蹴りを維持し、霧状の油を通過する。オングストロームの精度に至ったセンスは、起爆を伴うことなく、厳しい環境に適応していた。
「小癪な……っっ」
それならばと、リーザは不安定な姿勢から右足を蹴りつけ、ロザリアの側頭部を狙う。並々ならない銀光伴うセンスが込められており、どう対処しようとナロト体内に充満したガスを起爆させようとしていた。
「――?」
何を思ったのか、ロザリアは小首をひねる。その動作に呼応するように、リーザの蹴りが到達することなく、空中で停止する。身に纏っていた銀光は見る見ると勢いが弱まり、ナロト体内のガスを起爆させるほどの基準に満たなくなっていた。
「あり、得ない……。そんなこと、あってはならない」
リーザは思い当たる節があるも、すぐにそれを否定する。意思能力の常識と照らし合わせ、そこからかけ離れた目の前の現象を脳が拒んでいた。
前例があるかどうか。
それだけで物事を判断するなら、ロザリアが起こしたものは超常現象に該当する。理屈を通すことなく、奇跡で片付ければ精神的には楽だ。格下だと思っていた相手が、自分より優れた能力を持っていたことを偶然で処理できるのだから簡単だ。ただリーザは、並みの意思能力者ではなく、規格外の現象を理解できるほどの客観的な物差しを持っていた。認めたくないという主観的な感情を無視して、ロザリアの身に起こったことを冷静に分析できる知能を有していた。至った答えを胸の内に秘めておくことはできず、リーザは思いの丈を口にした。
「原子レベルのセンスのコントロール……っっっ!!!」
結論に至ったと同時に二人は胃壁に衝突する。
ロザリアが『狂犬』と化してから、わずか一分の出来事だった。




