第59話 絞首金剛
常人が呼吸を止めて活動できる限界は約三分。それ以上は脳や臓器に負担が伴い、重い障害や脳死状態を招く可能性があった。常人ならざる意思能力者であることを加味しても五分が限界であり、自ら頸部を圧迫しているため、途中で気絶して無意識的に呼吸ができるようになることはない。この常軌を逸した状態……己を縛りつける鞭から解放される条件はただ一つ。
あの女を倒す。
ロザリアはそのためだけに肉体的にも精神的にも限界を超越する。遅れた青春を取り戻すために文字通り命をかけていた。
「――――ッッ!!!!」
地面を蹴りつけ、急速に接近し、繰り出すのは両の手刀。小指の側面をナイフに見立て、起爆しない程度に薄っすら白いセンスを纏い、幾度も執拗に斬り続ける。
「――――」
対する銀髪女性は驚くほど軽快な身のこなしで、迫り来る手刀を躱し続ける。身に触れることなかったものの、当たり判定の大きいウールコートに接触したことはあり、実体のない幽霊という性質のせいか霧を掴むようにすり抜けていた。
それが唯一の考察材料であり、未だ敵の能力は未知数。秒数を正確にカウントできるほどの余裕はないが、一分は経過したと思っていいだろう。敵の実力もさることながら、自分自身の潜在能力をいまいち引き出し切れていないのを感じる。縛りの重さを考えれば、相手がいくら同格以上だったとしても、圧倒できるほどのパフォーマンスを秘めたオーバースペックのはず。
「いくら性能が高くとも、使い手がそれでは、ねぇ……」
心を読まれたかのように、彼女は手刀を避けた直後に耳元で言い放つ。挑発しているのか、それとも事実を言っただけか。少なくとも、命をかけた身体能力の向上だけでは差を埋められそうにない。であれば――。
「――――」
ロザリアが彼女の周囲に展開するのは多重結界。身の丈と同等程度の立方体の結界をミルフィーユ状に張り、中に閉じ込めることに成功する。生半可な攻撃では脱出されないほどの強度を誇っているが、もちろんそれだけでは意味がなく、決定力に欠ける。
「……で?」
当然、構造の欠陥に気付いた彼女は、肩をすくめながら言った。身動きが取れない状態に追い込んだのは間違いないが、能力の性質上、放置するわけにはいかず、時間を経過すればするほど自らの首を絞めることになる。種を明かせるほどの余裕はなく、いちいち目くじらを立ててあげられるほどの余力もない。
「――――」
ロザリアは無言で右手刀を放ち、展開した結界を斬りかかる。本来なら自分の攻撃ですら弾く強度を誇っているが、自身で張った結界にはある程度の融通が利く。
「……!!!」
銀髪女性の表情は歪み、外から内に向けた攻撃は透過する。霧のようにすり抜ける彼女からヒントを得て、手刀を素通りさせた。一方で内から外への攻撃は遮断し、いくら抵抗しようと無駄。ミルフィーユ状に張った結界が彼女のあがきを無に帰す。
「なんてのは冗談」
しかし、銀髪女性は余裕の振る舞いを見せ、手に残るのはぬるりとした感触。明らかに手応えはなく、またもや直撃を与えられることはなかった。
「…………」
ロザリアは限られた時間を浪費し、彼女に触れたと思われる右手を確認する。スーツを着ている都合上、肌で感じ取ることはできないが、表面は妙にテカっており、通常とは異なる成分が含まれていることが一目で分かった。いくつか候補はあるものの、手応えから考えて候補は一気に絞られる。
粘度の低い潤滑油。
身に纏うセンスを油に変え、コーティングすることで滑りをよくした。閉じ込められた状態と言っても、身体の向きを適切に変えることで手刀はいなせる。切り口が鋭利な本物の刀なら油を突破できるかもしれないが、手と腕は接触面積が広く、面と面の衝突となり、摩擦を妨げる油膜の影響を受けやすい。
ただ……。
「結界を狭め、可動域を削れば、あるいは?」
またもや、思っていたことを先読みしたように彼女は告げる。実際、その予想は当たっていて、身動きが取れる程度のスペースを残していたことから凌がれたと考え、結界をさらに縮小すれば到達すると見込んだ。
果たして、それを行うのは正しいのか。
すでに見抜かれているなら通用しない可能性は極めて高い。結界は据え置くにしても、別の手を考えて実行に移す方が勝率が高いように思える。一方でブラフの可能性も十分に考えられ、手刀を止めさせるための口実のようにも聞こえた。
「残り三分♪」
稼働時間を的確に読んでいるのか、彼女は声を弾ませ、不安と焦燥感を駆り立てる。手刀を止めさせるための行動に思えるが、正直、深読みする時間がない。これ以上は正常な判断ができなくなる恐れがあり、今この瞬間がロザリア・アッカルドとしての理性を保てる最後の選択肢のような気がしてならない。後は本能のままに動く獣と化し、暴走に近い状態に陥ると思われる。
それらを考慮して、選ぶべきは。
「――――」
魔獣化状態3。全身を白い体毛が覆われる犬型獣人の姿に変え、身の丈に合わない胃酸用スーツは破損。魔獣用に調整された伸縮自在の白い上下肌着のみが身に着用されている。両手から鋭利な爪を露わにし、身体の向きを変える余地すら与えない左右からの爪撃を放った。
「残念。酸素が脳に届かなかったかな? 実に短絡的」
銀髪女性は、さらに手狭になった結界の中で強気な台詞を述べている。もう思いを巡らせる余裕がない。正気だったのか、狂気だったのか、その境界は曖昧だ。なんにしても振るった両爪は見る見ると迫り、彼女の衣服に触れた。
「――――ッッ!!!!?」
瞬間、目の前は爆ぜ、ミルフィーユ状の結界は見るも無残に砕け散った。




