79- 礎
白い空間。世界の外側に堕ちた一人の白がいた。
目を覚ましたのは、白穏族の治安維持団、第三隊長、カイヴィー。視覚を持たない彼女が、それ以外の感覚が覚醒していくにつれて、この場所の異質さに戸惑い始める。彼女の獣耳の片方が、ピクリと動いた。
ここは無。どこまでも広がる白しかない。自分という存在だけが確立され、それ以外の存在はすべて無くしたような空間。巨大なキャンバスの上にいるかのよう。
カイヴィー自身の呼吸が、聴覚を打つ。立ち上がる音が妙に響いて、辺りを感覚頼りで見渡していく。が、本当に何もない。慣れ親しんだマナも、風のそよぐ音も、自然が芽吹く匂いも、肌を差す太陽すらも。生命の痕跡が脈打つ万物が、どこにも存在しないところだった。
まるで夢心地。しかし、カイヴィーは意識をしっかりと保っていた。あの装置に吸い込まれてここに来たのだと、記憶の整理が進んでいく。
ここから出なければ。
完全に眠りから覚醒した直後、一番最初に思ったことだった。どこか別の場所に飛ばされてしまったのか、それとも装置の中に閉じ込められたのか。いずれにせよ、どうにかして元の場所に戻るしか選択肢が無いカイヴィー。細い脚を動かして、歩き出す。
「誰かいるー!?」
叫んでみるが、何も反応は無い。
不可思議な空間に独りでいること。心が穏やかではなかった。何もないことが、むしろ様々な刺激になってしまう。埃被った記憶が目覚めてしまうほどに。
捨ててきたはずのそれが脳裏に浮かんでしまったとき、不意に、目の前に治安維持団の本部が現れた。
「……はっ?」
驚いて後ずさった。確かに目の前にある。荘厳で慣れ親しんだもう一つの家を、視覚が無いからといって間違えるはずがない。だが、こんなところにあるはずがないのだ。広い広い、白い空間にぽつんと佇む本部。全く同じものであっても、この空間においては不気味そのものだった。
今までに感じたことのない、まったく新しい恐怖。カイヴィーの猫のような獣耳が伏せられ、細い尻尾もだらりと垂れ下がった。
「……何よ、ここ……どういうこと……」
本部の扉を開けようとして、向こう側の誰かからこちら側へと開けてくる。その姿は大きな影。在りし日の、影だった。カイヴィーにとって、かけがえのない存在だった一人。信じられない、という様子で彼女の存在を認識した。
「……シャンペナ……第四隊長?」
「おう!カイヴィーじゃねえか!なんだ、変にかしこまって」
勝ち気で豪胆な影、第四隊長のシャンペナがいた。カイヴィーの記憶の中にいる彼女の温かな感覚が、そのまま目の前に。
おかしい。そんなはずはない。現第四隊長はヒセノイッチ。その前任だってゼドラスだ。であるならば、大昔の第四隊長がここにいるのは、おかしいのだ。
そう。そもそも、彼女は大昔に死んだ。それなのに、カイヴィーの記憶にある現役時代の彼女が、どことの相違もなく目の前に現れている。
実は、本当は夢なのではないか。意識は鮮明にありつつも、カイヴィーはそう疑い始めた。現実離れした空間に、いるはずの無い人物。夢だと確信たり得る材料だろう。顔を顰めるカイヴィー。彼女の姿など、感じたくない。
「……夢なら消えて。シャンペナ」
「……どういうことだ?」
シャンペナの、疑問と心配を含んだ声が聞こえる。しかし、カイヴィーはそれを首を振って聞こえないふりをした。
夢ならば、こんなふざけた幻など消せるだろう。頭の抱え、脳の中を空っぽにして項垂れた。感じたくない。聞きたくない。ただ一心に願って、やっと、あの声が途切れた気がした。直後、慣れ親しんだ感覚が消える。かつての同僚どころか、本部が跡形もなく消えていた。もう彼女の声は、もう聞こえない。
再び、白。何もない空間に戻った。夢のような真っ白を歩き出そうとして、聞こえてきたのはカイヴィーの名を呼ぶ声。弱々しくも、聞いたことのある男の声だった。
「……ィー隊長……カイヴィー隊長……」
「……ソウエン?」
彼の声から、その存在を認識する。同時に、弱々しい呼び声がはっきりと聞こえるようになってきた。不意に、湖。風と、草の香りがした。振り返る。
汀の岩に、背を預けているソウエン。クサカミに吹っ飛ばされ、壁に打ち付けられた衝撃が、いまだ体に残っている。背骨が折れ、満足に動くことが出来ない状況だった。
「此方だ……第三隊長……」
「ソウエン!……今行く」
彼の聞こえた場所まで移動する。向かう途中、辺りを感覚で把握していく。白の空間だったところが、いつの間にか湖の畔へと変わっている。
冷たい風、波の打ち寄せる音、草木が寄せ合う声が、まるで元の世界に戻ってきたかと錯覚させられる。湖畔の外側は、相変わらず白いことには変わりないが。
カイヴィーはソウエンの元まで近づき、その痛々しい呼吸に歯を食いしばる。
「待ってて。治療魔法を施すよ。……だいぶやられてるね」
鋭い感覚で彼の怪我の状況を把握すると、治療魔法を発現させる。感覚頼りで魔法の発現をするカイヴィー。彼女は、治療魔法はあまり得意ではない。
感覚が鋭いとはいえ、視界に依存するような魔法は難しい。細かい怪我の観察などの視覚を扱うところは、彼女にとって鞭を扱うより厳しいものだった。あとは、種族ごとの血や骨格についての基本的な知識を少し知っている程度。本職よりは劣ってしまいつつも、やらない選択肢は無かった。
「……恩に着る」
治療を施され、呼吸を整えているソウエン。ほんの少し、痛みが和らいでいるのが分かった。だがこれだけでは、骨折が直るのはかなりの時間が掛かるだろうことも窺えた。
焼け石に水でしかないことを、二人は痛感していた。波打ち際が、やけに大きく聞こえる。そこに、ソウエンが辺りを見回しつつ、この空間についての共有をカイヴィーと交わす。
「ここは奇怪な場所だ……。まるで、心の奥底を覗いてくるかのような場所……。第三隊長、すぐ近くに湖があるだろう……」
「あるね。それがどうかした?」
振り返って、静かな湖を見る。木々に囲まれた、広い湖だった。しかしソウエンは、そこではなく別の所へと視線を向けた。少し遠くにあった、小屋に。
「かの装置に吸い込まれた後、数分して湖が浮かび上がった……。奇妙なのは、ここは俺の因縁の場所であることだ……。流浪したきっかけとなる、な……」
「ああ。ソウエンは、治安維持団に入る前は、テンヨウっていう国で彷徨ってたんだっけ。ちょっとだけ聞いたことがあるけど」
しっかりと頷いた彼。しかし視線は小屋の方のまま。そこに、母が見えた。同じ、頭が提灯の遇物族。身なりは平凡でありつつも、確かな芯がある、たおやかな女性。母に対し、懐かしいという感覚よりかは、寂しさと怒りの方を覚える。
この空間の正体を、今の現状から推測してみることに。ソウエンは、とある仮説を立てていた。
「……思うにこの場所は、その人の記憶の写し鏡ではないだろうか……。あの小屋から母が出てきてくれるか。そう思った時に、姿を現した。……もっとも、俺が第三隊長を呼んだ時に、本当にここへ来たことが、その仮説の一番の証左だと感じるが」
「……それ、今のあたしが、あんたの記憶から出てきたみたいな言い方じゃないの。あたしはここにちゃんと存在してるよ。装置に吸い込まれた最後の瞬間までちゃんと覚えてんだから」
むっとして反発するカイヴィーに、彼女が本物であることに安堵したソウエン。杞憂のようで笑みを零した。
ここで、ソウエンの言っていた仮説について振り返るカイヴィー。この奇妙な空間は、その人の記憶の写し鏡だと。妙に納得できた。なぜなら、先ほどの治安維持団の本部、そして過去にカイヴィーの理解者として、彼女を良い意味で圧倒していた影族のかつての第四隊長、シャンペナという存在。
彼の立てた仮説は、あながち間違いではないのかもしれない。この空間自体がおかしいのだ。常識で測れる場所ではないのだと、カイヴィーは思った。
「……あたしもさっき、知ってる人と会った。随分前の、仲間にね。……ソウエンの言った記憶の写し鏡っての、本当かもしれない」
「なら、第一隊長を呼び出してみるのは如何か……。下半身が動かなければ本物、それ以外は偽物だろう……」
「あたしがやる。あんたは怪我で傷を広くしちまうからね」
変わらずソウエンに治療魔法を施しながら、大声で第一隊長の名を呼ぶ。
「アデランド隊長!……アディー!……いる!?」
波打ち際の水の音。かき消す大声で、辺りに名を響かせる。正式な名前と、彼の愛称。作戦中の今なら、愛称で呼ぶなと飛び出すのではないかと密かに期待していた。
が、何もない。もう一度名を呼ぶも、木陰からも、白の向こう側からも彼の姿は一向に現れなかった。
確かに、記憶の中にいる人物である。間違いない。先ほどの仮説に、一部誤りがあるかもしれないらしい。カイヴィーは苦い顔をする。
「ぜんっぜん出てこないわね、あの液晶頭。……ソウエンは私を呼んで、ここに来た。でも、私がアデランドを呼んでもここに来ない……なにか差があるっていうことなの?」
考えるが、あまりそれらしい情報を推測できないでいるカイヴィー。しかし、ソウエンは違った。
「或いは、装置に吸い込まれていないか……。そういえば遠目で見ていたが、隊員に連れられ部屋の外へと向かわれた……。であるなら、吸い込まれていない輩はここに姿を現さないとも考えられそうだ。しかしそうなると、なぜ母が出てきたか……」
「……ソウエンって状況を明確にしていくの上手よね。さすが」
彼はアデランドと並んで、情報を組み立てていく速さは抜群。それは、周囲の状況を把握することに長けているからである。辺りが敵だらけの時の、流浪人の身に培った技術。
情報を整理するスピードは、さすがに第一隊長の演算には及ばない。今の状況の整理や、それが明確になった直後に、最善の行動を取れるよう判断を下す素早さは、第一隊長に匹敵する。
「まあ、状況を分かっているつもりでも、こうなってしまったが……」
ソウエンは、自身の折れた真剣をこれ見よがしに胸の前へ。あの時、体に異常をきたす魔法のようなものを発動するクサカミを止めようとして、惨敗。刀は砕け、背骨は折れる体たらくとなった。
ただ、カイヴィーは称賛する。皆の状態を案じ、その気概を発露した結果に刃を突き立てられたのは、あの場では彼だけだったからだ。
「アデランドが動かなかったことをわかってたんでしょ?だからその代わりに……。隊長の誇りよ。だから生きてもらわないと。有望なあんたをここで死なせるわけにはいかない」
「威勢の良いことを言う……。俺はこの程度では死なん……」
が、動けない。治療魔法を受け続け、少しばかりは治っただろうと高を括ったが、全くもってそんなことはなかった。立ち上がろうと体を身じろいだソウエンに、カイヴィーは怒りの牙を覗かせる。
「体の状況を知ることは苦手みたいだね。骨がイかれてるのよ。確か、遇物族の骨はぁ……マナ生命体と同じくマナで構成されててぇ……マナを補給しつつ、骨折の場合は骨を正しく戻して固定させるぅ……だっけ。とにかく、治療魔法を施さないと治りは遅いままだし、こうしてる間は安静にしててよ。絶対」
釘を刺され、仕方なくソウエンは腰を据える。行動出来ないことが、どうしてももどかしく思ってしまう。が、カイヴィーの言っていることはもっとも。骨が折れた状態でろくに歩けるわけがないのだ。ため息のような、深呼吸。
二人の間に沈黙が漂う。白は魔法に集中するために。提灯はそれを受け入れつつ、この空間について思案するために。
不意に、ひとつ、確信を得たいことを思いつくソウエン。カイヴィーに、それとなく聞いてみることに。
「第三隊長。体に、何かしらの……変化などは感じるか?」
「……いいえ?特に……」
困惑して肩をすくめる彼女に、俯いて再び思案する提灯。思い違いではないはずだ。体が治った後に細かく知る必要がありそうだ、と考えた。
湖畔の波が、土に染み込む。風に揺れる湖面が、二人を写している。特に、ソウエンが写る水面は、彼の和装を激しく惑わせていた。
湖の、その先。この広い白から脱出する手立ては、あるのだろうか。




