72- 貰い火に入る
場面は森の中。グラス、マルキス、オリヴィオが車へと戻ってきた。運転はマルキス。助手席にはグラス、運転席の後ろにオリヴィオ。黄色の大きな獣耳を伏せていた。デコボコで泥濘の地面を歩き続けて、脚が痛いのだ。
「も、もう歩けないぃ……!」
呆れる様子のマルキス。ツェルから貰ったシルクハットを脇に置くと、ボタンを押して車を発進させようとする。
「休んでおけオリヴィオ。お前は誘拐されて疲れてるだろうし──あぁ?」
眉を顰める。鳴り響いた警告音。ハンドルの前のパネルに表示されていたのは、マナが不足しているという表示。つまり、車を動かすエネルギーが少ない状態である。思えば、ホワイトガーデンから遠い、レベルシティから東の森まで車を走らせていたのだ。ため息の兎。
「そりゃ無くなるか……待ってろ二人とも。マナを補給してくる」
運転席から出るマルキス。車の後方のトランクに補給用のマナ液がある。取り出すために、離席した。それを、心配そうな目つきのオリヴィオが目で追いかける。
一方でグラス。こちらはオリヴィオとは違い、疲労はしていない。ただ、連れていかれてしまったサヤカがずっと気がかりで、心休む暇が全く無かった。常に緊張状態。尻尾も動かずに静かに待っていたが、ふと、森の奥から小さく何かが聞こえた。
三角の獣耳がピクリと立てた。ハンドルで窓を開け、森の奥を見る。
「そんなわけ……ないよね……」
グラスは、とあることを考えていた。杞憂であればいいのだが。
補給用のマナ液を取り出したマルキスが、車の前方に回る。ボンネット近くの補給用口に大きいボトルを宛がうと、艶やかな白紫が流れ込む。
無風。冷たい空気が吹かれることなく、マルキスを包み込む。白い溜息。そしてどこかからの、草を掻き分ける音。
顔を上げる。見回すが、こんなところに人などいるわけがない。それとも、あのいけ好かない影達磨が言っていた、誘拐を逃れた被害者を連れ戻す監視役、とでもいうのだろうか。ボトルの中のマナ液は、まだ半分以上ある。
長い耳を立てる。何かしらの気配は感じない。あるいはマナの気配か。しかし、マナを扱い保有できることと、マナの気配を感じ取れることは別物だ。そういったものは、マルキスはあまり得意ではない。純粋に聞き耳を立て、辺りの様子を窺う。
そしてそれはグラスも同じ。嫌な胸騒ぎ。あの、破壊の象徴のアイツでないことを祈りつつ、窓から覗いて聞き耳を立てている。
この状況を一番わかっていないのはオリヴィオ。やけに静かな状況が、心と体の疲労を癒してくれていた。思えば朝食を食べていない。助けられた安心と寛げる車内ということで、空腹を自覚し始める。ふと、隣の席の、締められた紙袋が目に入った。
掴んで寄せると、ふわ、と微かな甘い香り。解いてみると、色とりどりのドーナツが姿を現した。同時に、微かだった香りが、ふわりと、オリヴィオの嗅覚をくすぐった。
「グ、グラスさん、こ、これ、食べていいですか??」
「んん?あ、それはぁ……」
名前を呼ばれて振り返るグラス。辺りに対する警戒が解ける。
紙袋の持ち主は、あの影族、リーロのものだ。食べるのを許可するのは良くないだろうかと考えていると、大柄の黄色い彼が、申し訳なさそうに体を縮こませる。
「き、昨日の夜から何も食べてなくて……お、お腹が空いてきたんです……」
食は生命の営みの一つ。その大切さを、幼い頃から知っている。
「そっか!誘拐されてたもんね……そういうことなら食べちゃおうっ!もし何か言われたら、僕が取り持つからっ!」
「あ、ありがとうございますっ……!」
十数個あるうちの一つを手に取って、チョココーティングの輪っかにかぶりつく。広がる甘味。綻ぶ顔。疲労と安心感で、普段より幸福を感じられた。
「うまぁ……」
大きな黄色の獣耳がピコピコと動く。ここのあるものすべて食べられそうな気概だった。
もちもち食べるオリヴィオをよそに、グラスは再び警戒する。外にいるマルキスと目が合った。彼との間にある共通の、辺りの警戒心。手に持っているボトルのマナ液は、あと三分の一。
いや、全部、入れる必要はない。そう思い立ったマルキス。嫌な予感が背筋を這ったのだ。ボトルを締め、補給口を閉じる。速やかに運転席へ座ると、ボトルを助手席のグラスに預けた。
「なあ。嫌な音がするよな」
「うん。もしかしたら、山壊かも……?」
「……前に言ってたヤツか」
家で三人、雑談をしたときにグラスが話ていた謎のマナ生命体。マルキスも、ここがグラスの故郷の近くである東の森に位置していることを思い出す。もし本当に、その山壊とやらだったら。
車を発進させるために、急いでボタンを押す。低い音が響く。補給したてのマナ液は、車を動かすためのエネルギーに変換されるのに少し時間が掛かる。早くて数分ほど。長い耳を立てた兎は、窓から森の中を見渡した。
聞こえてくるのは、少し吹いてきた風。枯草の触れ合う音。先ほどまで聞こえていた、草を踏むような音はどこかへと消えている。杞憂だったのだろうか。
気が緩むと同時に、後方からの甘い香り。振り返ると、噛み締めるような蕩けた顔つきでドーナツを食べているオリヴィオ。人の車で飲食をするという無礼を働く様子に呆れてしまうが、久しぶりの再会ということで一旦は許すことに。
一方で黄色い彼。四つ目を食べ終えた後、ふとマナに近しい何かの気配を感じた。甘味が入っている紙袋を横に避けたとき、ちょうど後ろを振り向いていたマルキスと目が合った。
「マ、マルキスさん、どうかしましたか……?」
彼はグラスから、山壊はマナ生命体だということを知っている。彼なら何か、気配を感じ取れているだろうかと推測していた。
「オリヴィオ。なんかの、マナの気配とか感じないか?」
「……んん?……た、確かにさっき、ちょっと……」
隣を向いて、窓の先。マナのような何かを感じ取れる、森の奥を注視した。
枯れ木の隙間。何かが動く。よく見えなかった。紫色だったような。何かしらが動いたその場所から、やや左。視界の隅で、また隙間の紫。視線を追いかけ、何かがいたそこに意識を集中するオリヴィオ。
「……え……マ、マナ?マナだけど、な、なんか違う……」
違和感。マナに似た、初めての、別の感覚。まるで、今まで合っていた歯車が、急に噛みあわなくなったような。
先ほどの、動いた紫をまた注視する。食い入るように見つめる木の隙間。木陰から徐に、黒、紫、赤。長い手足。二足で立つ、黒交じりの紫。すべてを破壊するような憎悪を纏った大きな化け物。顔の無い頭部はひび割れて、唯一、真っ赤の右目が、怯えるオリヴィオを映した。
「や、やや、やや、ななんかいます……!!!」
黄色い指をさして二人に声をかけた。誘われてそこを見て、マルキスは驚愕と困惑、グラスは毛が逆立ってひどく青ざめた。
「サ、山壊だよっ、アイツがっ!!マルキス、車ぁっ!!!」
「あ、ああ」
慌ててハンドルを握って、急発進。大きな音を立てた車は、紫のひび割れ化け物から背を向けて逃げる。急発進の轟音、マナの急激エネルギー変換。聴覚と感覚が刺激され、山壊が車へ直行。骨ばった長い手足を使って四足歩行に。獣のように向かってきた。
何の雄叫びや鳴き声を発することなく追いかけてくる様子に、マルキスは恐怖と焦燥で思わず顔が歪む。
「んだあいつ、キモ!」
後ろを向くオリヴィオ。後方から、赤い目を光らせている不気味な化け物。話し合いなど一切通じなさそうなことが一目でわかる。冷や汗。悪寒。狼狽の極みに陥る。
「お、おおお、お、追いかけてきてますぅ!!!」
「わかってる!これでも飛ばしてんだよ!」
あまり舗装されていない地面に、泥濘、引っ掛かりそうな枝。かなりのスピードを出しているが、いつ、何かに引っ掛かって道から逸れてしまってもおかしくない。もう、サヤカ救出作戦を考える暇などどこにもなかった。
「なんなんだあれ……化け物じゃねえか!」
遂には、道なき道へと。枯れ草を踏み、枯れ木の間隙を縫い走っても、後ろのそれは同じ速さで追いかけてきている。慌てふためいてうるさい後部座席の大柄黄色で、逆に冷静になっていく兎。助手席の犬が蹲って尻尾を丸め、顔を伏せているのを横目で見る。
そうだった。グラスは、山壊というヤツがトラウマだった。運転の最中、慰める。
「絶対に撒いてやるよ、グラス」
「うん…………」
震え声の返事だった。
マルキスはしっかりハンドルを握り、自身の運転技術を遺憾なく発揮する。一度でも木にぶつかって止まってしまったら、それだけでお終いだ。あんな様相だ。何をされるかなど、分かったものではない。絶対に、後ろの化け物に追いつかれないようにしなければ。
スピードの塩梅を見極めても、車体を何度も木に擦りつけてしまう。しかし、関係なく進んでいく。
「クソがよッ……ぜってえ逃げてやる……!」
暴言を吐き捨て、自身を鼓舞する。
傾き始めた太陽の下。山壊という化け物から逃げる、森の中のカーチェイス。絶対に撒かなければ。潜入していった彼ら二人とサヤカを、無事に迎え入れるために。




