悔恨の洞窟:前編
魔道具作りに主に使われるのは、グリムメタルという特殊な金属である。
見た目は金に似て美しいが、固すぎる故、折れやすい。急激な温度変化にも弱い。少し温度調整を誤ればすぐにヒビが入ってしまう。
金属製品として加工するにはあまりに向いていないその金属が、何故ここまで重宝されるのか。その理由はこの金属の持つ、世界で唯一と言って良い特性だ。
「・・・よく見ていて?グリムメタルに、一定量の魔道を向けると・・・ほら。」
小さなグリムメタルの鉱石に、セレナが指を押し当てる。
鉱石はまるで粘土のように、ぐにゃりと歪んだ。指はグリムメタルを貫通し、ドーナツ状に形を変えた。
「小麦粉をお水で練るように。グリムメタルに魔道を少しずつ注いで、柔らかくするの。しかもこの金属は一度通した魔道を記憶するわ。魔道を発動する最適な形に練り上げて、最後は魔道で殻を作って・・・ここまでが魔道具作りよ。」
どろり。過剰な魔力が注がれたグリムメタルは液体化し、セレナの指からこぼれ落ちた。
硬い岩場に、ダチダチダチ、液体が叩きつけられる音が、洞窟に反響して響いて消えた。
グリムメタルの採掘場を探索してはどうかと、言い出したのはセレナだ。
最北部の手前、崖にかけられた頼りない梯子を登った先に、その洞窟は黒々と口を開けていた。
「採掘には来るけれど、暗いし、最深部まで行ったことはないの。お母様の掘った場所だし、もし近場で何かが隠されているなら、真っ先に疑うべき場所だと思うわ。・・・それに、地図が出来るなら有難いもの。」
後者が本音だろう。セレナの思いやりであることは間違いないだろうが。
「北部の整備も大方終わったからな。分かった。明日から準備をしよう。」
採掘場は大きいからきっと明日1日では終わらない、とは事前に言われていた。
なので数回に分けて行う探索の目的は主に3つ。
1つは採掘場全域の地図作成。おおよそ一本道の採掘場だが、鉱脈に向かって細く枝分かれした道が何本かある。
大方鉱脈に目星をつけたお母様が適当に掘った道だろうが・・・その行き先に残った鉱石があるかもしれない。把握できれば採掘もより効率化できるだろう。
2つ目。今後安全に採掘を進めるための明かりの設置だ。
今回の探索に向けて、セレナは遠隔式の魔道ランプを大量に作成した。洞窟のグリムメタルを壊さないように飛ばす魔道量を調節したそれはセレナ曰く「傑作」。
これを洞窟の各所に設置できれば、入り口でスイッチの魔道を発動するだけで洞窟全域を明るく照らすことが可能になる。
3つ目は勿論、お母様の研究資料の発見だ。勿論ここにある可能性は限りなく低い。
結局いつも通りセレナの手伝いに駆り出されているだけだが、それでも、1が無ければ0は0のままだ。
装備が整った翌日、2人は日が登ってすぐに家を出発した。
「一体こんな洞窟どうやって掘ったんだ・・・?」
壁のグリムメタルはほとんど取り尽くされていた。宝探しを期待していたタイタンは既にがっくりとしながらハンマーを振り下ろしていた。
人工といっても、洞窟は洞窟。内部は非常に冷える。
森はだんだんと蒸し暑くなる季節。カランコロンと揺れる氷水のようだと、冷えた洞窟の空気を飲み込んで、美味しく思っていたのは最初だけだ。
次第に指先が冷え始め、洞窟に入って一時間も経つ頃には、タイタンはその巨体を縮こめて震えていた。
指先の冷えが特に辛い。ランプの設置がまさかこれほど重労働だとは思わなかったのだ。
まずキャンプに使うペグのような部品を地面に打ち込み、そこに魔道を組み込んだビー玉のような部品を接着する。接着作業はセレナにしかできないので、必然的にタイタンが打ち込み作業を担当することになった。
地面の柔らかい箇所や、岩場の切れ目を狙ってハンマーを打ってはいるが、それでも洞窟の地面は硬い。冷えた手に思いハンマーを振る作業は正直拷問だ。打った部品の数が二桁になった時点でタイタンの右腕は悲鳴をあげていた。
体良く肉体労働を押し付けたな、とセレナを睨むが、そのセレナも精密作業の連続で大汗をかいているのに気づき、慌てて目を逸らす。辛いのは自分だけでは無いのだ。
今日のセレナは白い厚手のストールを纏っている。動きやすい長ズボンと厚底のブーツは、普段スカートやショートパンツを好むセレナにしては珍しい服装だった。
かくいうタイタンも今日はかなり珍しいファッションだ。背負った大剣は相変わらずだが、頭にタオルを巻き、長袖シャツ。今は後悔しているが、指の感覚が鈍ることを嫌って手袋は指ぬきのものを選んだ。緩くて動きやすい大きめのズボンをベルトで締め上げている。
工事現場の若者を参考にして選んだ今日のファッションはなかなか決まっている。
服装に興味がないと言っていたのは随分最近だったはずだが。タイタンも若者らしく、かっこいい服を着ると気持ちが浮かれる人間なのだ。
久しぶりのちょっとした冒険だと心が踊っていたのだ、タイタンだって。
こんなことなら、と昨晩の浮かれた自分を思い出し、ため息をつき、ハンマーを振り、左手に激痛。
余りの痛みに声も出ず、無言で左手を抱えてタイタンはうずくまった。
「・・・っ、手を、打った・・・」
小さく呟いた恨めしい声は、玉に魔道を込める為に集中するセレナに届かない。
俺も集中しろということか。畜生め。
無言で作業を再開する。やれば終わるんだ、やれば。
胸の中で言い聞かせるように念じ、タイタンは再びハンマーを振る。
「・・・ええ。来たことのある範囲の明かりの設置は終わったわ。」
「と言っても・・・かなり奥まで進んだぞ。メインの一本道はそろそろ突き当たりなんじゃないか?」
暗くて時間感覚が無くなるが、そろそろ夕方なのだろう。
何時間も灰色の無骨な壁と苔ばかりを眺めていると、そろそろ気が狂いそうになる。こんなところで方向を見失ったら・・・想像するだけでも背筋が寒くなる。
セレナのポケットに入っている小さな方位計だけが命綱だ。これが壊れたが最後、同じ風景で代わり映えしない洞窟を無事に脱出できる気はしなかった。
いざという時のために簡単な寝具は用意しているが、食事を3回摂っても終わらなかったら一度帰ろうと、洞窟に入る前から2人で決めていた。
「小さい時にね、最北部の崖から落ちたことがあるのだけれど。」
絶体絶命だ。そんなにあっさりと言うものではないだろう。
セレナは小さな岩に腰掛け、設置前の小さな丸いランプを手で弄び始めた。
「あの時落ちたのは・・・たぶんこの採掘場のどこかなの。この辺りに他に掘られた場所なんかないはずだもの。だから、採掘場のどこかに、天井に穴が空いた場所があるはずなの。」
「・・・場所の目星はつくのか?」
ちらちら。セレナの頰を照らす暖色の灯りが瞬きをした。
「この辺り・・・だとは思うのだけれど。一本道の突き当たりはもうすぐかもしれないけれど、枝分かれの道はまだまだ沢山あるもの、そのどこかから繋がっているかもしれないわ。」
なかなか落ち込む情報が手に入った。ここからまだまだ作業の続きがあるのか。勿論今日一日で終わるとは思っていないが、今自分の全身にのし掛かる倦怠感が序の口であると言われては、落ち込むのも仕方ないだろう。
「というかよく帰れたなそんな場所から。・・・ああ、翼で飛んだりしたのか?」
「・・・飛べないわよ。え、タイタンはこの羽根で飛べると思っていたの?」
ばさり。この美しい羽根も随分久しぶりに見た気がする。
「まあ、それはそうか。鳥とは体の構造が違う。・・・悪い。想像だけで喋ってしまったな。」
「謝ることではないけれど。」
セレナは気にもしていないようで、ばさりと再び羽根が仕舞われた。
光の粒子のように羽根が霧散し、空気に搔き消える。
・・・仕舞われた?
「・・・ちょっと待ってくれ。あんた、それ、どうやってるんだ?」
「それって?何のことかしら?」
「何って。そんな自由自在に羽根を出し入れできるのか?俺はそんな風にコントロールできないぞ。」
タイタンの尾は意思に関係なく、タイタンが怒ったときに尾てい骨から飛び出す。
全くコントロールできないそれに手を焼いて、ズボンを全て股引のようなものに作り直してもらったのは記憶に新しいし、常に背中の開いた服を着ているセレナも同じだと思っていた。
しかし今、セレナは自分の意思で羽根を出し入れしたではないか。
「この特異な体質も、慣れればコントロールできるようになるということか?」
「それは分からないわ。貴方のそれと私の羽根は別物だもの。」
専門外のことを聞かないで。そう言って会話を切り上げようとするセレナを慌てて止める。何か自分は勘違いをしている気がする。
「あんたの羽根と俺の尾の違い・・・というのが、俺には分からない。何が違うんだ?」
正直全く同じものだと思っていた。
「私の羽根はね、常に生えているのを魔道で隠して・・・というか背中に押し込めているのよ。だから驚いてその繊細な魔道をうっかり切ってしまうと、羽根が飛び出してしまうの。でもあなたのそれは真逆じゃない。」
「真逆・・・?」
「自分の体のことをあまり分かっていないのね、貴方も。・・・私もざっと見ただけだから、間違っているかもしれないけれど、貴方は通常の人間の体に狼の力を後付けして、必要な時に・・・貴方が怒らなくてはいけないような時にだけその力が得られるようになっているのね。隠している私と違って、通常の貴方には本当に尾が『無い』のよ。元からあるものを隠している私と、元からないものを必要な時にだけ引き出す貴方。真逆でしょう?」
難しい。言いたいことは分かるが、自分の体の状態が余りに難解で理解に苦しむ。
「怒りんぼのタイタンには難しいでしょうけど、もし起動と停止のキーになる感情を意図的に操作できたら・・・貴方はあの絶大な人狼の力をコントロールできるかもしれないわね。私の予想に過ぎないけれど。」
こつ。小石をつま先でつついて、ぼそりとセレナが言葉を零した。
「・・・まるで私を研究し尽くして作った次世代型みたい。」
そう言い、口をつぐんだ。その先にセレナがどんな言葉を続けようとしたのか、もう察しがついてしまった。
「苛立たせてるのは分かっている。でもそんな風に言わないでくれ。・・・俺がどうなろうと、あんたが何だろうと、あんたは俺にとって世界で一番頼もしい大魔導士様だ。」
思わず言ってしまった一言を、聞き逃してくれたらいいものを。
たった一言、余計なことを言っただけでこの通り。タイタンは本当によくできた男だ。こちらが逆に申し訳なくなるくらいに。
「機嫌取りはいいわよ。・・・少し拗ねただけ、悪かったわ。貴方はなにも悪くないもの。・・・だけど、でも。」
「いい、言わなくても。・・・誰だって過ぎたことを悔やむし、どうしようもないものを望んでしまう。俺だって同じだ。自己嫌悪する必要はない。」
もう考えるな、と大きな手がセレナの背中を優しく叩き、カバンを握った。
・・・嘘つき、と。
再び毒づきそうになった口を、セレナは必死で縫いつけた。
ああ、あと少し作業しようと、欲を出さなければ。
2人の胸に全く同じ言葉が浮かんでいた。
「・・・確かに、今は雨季よ。・・・ああもう、忘れていたわ。この時期はなんの予兆もなく天気が変わってしまうけれど、でもよりによって今日こんなことになるなんて!」
「地面が乾かない限り、あの断崖絶壁の梯子を降りるのは無理だ。・・・動物たちの餌を多めに出しておいたし、確かに数日家に戻らなくても問題はないが・・・でも、なあ。」
せっかくこんなに奥まで進んだのだ、戻るのも勿体無いし、もう少し進んだら何かあるかもしれない。
約束していた「3度めの食事まで」を破り作業した2人が聞いたのは、入り口方向から響く激しい雨音。
慌てて外まで様子を見に行けば、視界が白くなるほどの激しい雨が大地に叩きつけられ、時々空が轟音を立てながら黄色く光っていた。
「・・・仕方ない。この時間では暗闇で梯子を降りる羽目になるし、どの道一泊は確定だった。時間を忘れ過ぎた俺たちが悪い。腹を括ろう、セレナさん。」
勿論数日野宿できる準備はしてある。荷物を抱え直し、すたすたと洞窟の奥に戻っていくタイタンを、がっくりと肩を落としたセレナがとぼとぼついていく。
「・・・どうしてすぐそんなに割り切れるのよ。」
「諦めが早いだけだ。切り替えは大事だろ、何事も。」
諦めが早いなんてどの口が言うのだ。私を追いかけて罠だらけの森を縦断したくせに!
そう叫んだが最後、この洞窟で無限に続く言い合いが始まるに違い無い。言葉をぐっとこらえ、セレナは一生懸命足を動かした。
寝具を用意したと言ってもたったの毛布二枚だ。
といっても野宿慣れしているタイタンと床で眠れるセレナにはそれで十分だった。
2人は比較的入り口に近い場所を陣取り、ここを本日のキャンプ地とすることとした。
下山するために早めに軽く夕食を摂ったが、それだけでは夜に腹が減る。
「セレナさん、食事は・・・って、もう寝るのか?」
「疲れたのよ、いっぱい魔道を使ったもの・・・。おやすみタイタン・・・。」
食料を詰めた袋を広げたタイタンを背に、セレナはさっさと毛布に丸まる。
普段ならどうということはない。毛布一枚で十分安眠できる。むしろ柔らかすぎるベッドは苦手なくらいだ。
だが先ほどタイタンに浴びせてしまった、暗い本音。どうか今からでも口に戻ってくれないか、とセレナはそればかり考えてしまう。だがそんな考えに意味はなく、ただ耐えて、自分の意識がさっさと沈んでくれることを祈るしか無い。
眠らなければ、と焦れば焦るほど睡魔は遠ざかる。落ち着かない彼女が何度めかの寝返りをした時、流石に見かねたタイタンが声をかけてきた。
「・・・眠れないなら無理に眠らなくてもいいだろう。」
やっぱり怪しまれていた。どきりとセレナの心臓が跳ね、近づいて来ていた睡魔が霧散した。
「もうちょっとで眠れそうだったの。」
「やっぱり無理して眠ろうとしていたじゃないか。いつもはまだ居間でのんびりしている時間だろう。明日が不安なのは分かるが、眠れないものは仕方ない。」
タイタンは持参していた枝を使って焚き火をするらしいが、何故か持ち歩きの簡易魔道装置は鞄の奥深くに眠らせたまま。ポケットから取り出したのは金属の小箱だ。
魔道式でない発火装置などセレナは久しぶりに見た。というかいったいどこから引っ張り出したのだ。その発火装置は確かお母様の骨董コレクションの1つで、セレナには使い方もわからない謎の機械だ。
「使い方を知っているの?」
「・・・本で読んだ。旧時代文化に興味を持って、あれから少し勉強しているんだ。」
時間がかかる本物の火を使わなくても、そもそも焚き火などしなくても。魔道装置を使えば一瞬で火が起こせるというのに。
非効率だな、と思うセレナを横目にタイタンはキャンプの準備を始めた。
タイタンの手に乗った小さな金属の四角い箱。骸骨のレリーフが掘られているその箱の蓋になった場所を開くと、細かい金属部品がむき出しになっている。
そのうちのひとつ、ホイール状になった部品を、タイタンの指がスナップを付けて勢いよく回すと。
「すごい。火が点いたわ・・・そうやって使うものなのね。」
「たまにはこういう趣も悪くないだろう。・・・暖かいものを飲んだらきっと眠くなる。いくらあんたでも、こんな寒い場所で、不安で、いつも通り眠れるわけがないんだ。落ち着け。」
ぱちぱち。苔が燃え上がり、少しずつ木材に燃え移っていく。
土砂降りの外に流れ出てゆく煙が絵を描く。焚き火の心地よい音に耳を傾け、セレナはほっと息をついた。
なるほど、焚き火というのもなかなか悪くない。
山火事を嫌ってすぐ消せる魔道の炎を使うことが多かったが、本物の炎というものは見ていると不思議と心が落ち着くものだ。見た目は同じだが、本物の炎はまるでそれ自体が1個の生き物であるかのような生命力がある。
タイタンは焚き火の下に、薄い金属の箱を投げ込んだ。中身は塩漬け肉と一口サイズの芋だ。これをパンに乗せて今日の夜食にするらしい。
セレナほど手が込んだものではないが、野宿らしい無骨な男料理。
思わずセレナは唾を飲み込んだ。
「・・・くく。あんたも腹が減っているじゃないか。用意するか?」
「だめよ。こんな時間に沢山食べたら太ってしまうもの。」
「そうか。残念だな。」
ならあんたは茶だけだな、と。鍋で水が沸かされる。
ふつふつ、湯が沸く音に混じって、じゅわじゅわと塩漬け肉が焼ける音。
だんだんと肉が焼ける良い匂いまでしてきた。
夕飯を食べたと言っても、帰るために腹だけ満たせば良いと薄切りのパンを一枚食べただけだ。
・・・夜食を食べてもバチは当たらないだろう。今日1日くらい。
「肉を入れすぎだ。あんまり詰め込むとうまく焼けない。」
「・・・このくらい?」
「そうだ。蓋をきっちり閉めて・・・ほいっと。」
カン。タイタンの金属箱とセレナの金属箱がぶつかり小気味好い音を立てた。
「あんたはもう少し太った方がいいくらいだ。・・・昼もあまり食べてなかっただろ。腹が減ってるうちに食った方がいい。」
「・・・・・・・・・・はあ。」
思わずため息が漏れる。ああすればよかった、こうすればよかったと、自分はいつも後悔ばかりだ。タイタンならきっと、考えても仕方がないと一言で切り捨てられるモヤモヤだ。
タイタンのように迷いなく生きられたらいいのに。
きっと自分がタイタンの立場だとしても・・・こんなふうに真っ直ぐは生きられないだろう。
無くした記憶を切り捨てる覚悟。この森で生きたいという強い意思。
自分がもしタイタンだったら、きっとセレナを選べない。
真っ直ぐに自分めがけて走って来てくれるタイタンを頼もしく思う反面、羨ましい。
もしタイタンなら、きっと最期にお母様を笑顔にしてあげられたかしら。などと。
生産性のない妄想をしてしまうくらいには。
「・・・セレナさん、何か悩んでいるのか?今日はずっと元気がない。昨日はあんなに今日を楽しみにしていたじゃないか。」
「・・・別に、なんでもないの。ただ・・・そうね。貴方みたいなひとになりたいと・・・・貴方みたいに真っ直ぐで優しいひとになれたら、って。」
「褒めてくれるのは嬉しいが。あんたが思うほど俺は出来た人間じゃない。よく怒鳴り散らされてるあんたなら分かるだろ?」
すぐ怒るし、感情的になれば余計なことばかり口走る。強引で雑だし。
そう言って茶化してくれるタイタンの優しさが嬉しい反面、今は少し胸に痛い。
ぱこん。金属箱が膨張した音。タイタンは自分の箱を焚き火から引き摺り出し、無言でセレナに渡した。
「わかってるわよ、でも。」
蓋を開ければ美味しく焼けた肉と、肉汁の染み込んだほくほくの芋が現れる。
わかっていても、タイタンの譲ってくれたそれになかなか手を伸ばす気になれなかった。
「・・・きっと俺を真っ直ぐで優しいと言うのはあんただけだ。俺はあんた以外の全てに優しくないからな。真っ直ぐというのは、セレナさん、あんたのことを言うんだよ。」
「違うわ。・・・きっと、違うわ。私は、セレナのためにここまで走れないから。」
私ならきっと諦めてしまうわ。
そう言って口を結んだ。焚き火の音だけが、洞窟に響く。
ぱちぱち。ぱちぱち。ぱち。じゅわり。
セレナの金属箱が音を立て始めたその時。なあ、とタイタンが口を開いた。
「・・・俺の弱音も聞いてくれるか、セレナさん。」
驚いて見上げる。そういえば、焚き火を始めてから初めてタイタンの顔を見たかもしれない。
焚き火が瞬くたび影が落ちるいつも通りの無表情。でも最近は僅かな表情の違いも分かるようになった。今は・・・僅かに口角が上がっている気がしなくもない。
「タイタンの、弱音?」
「諦めが早いって言った時。嘘だろう、って顔をしてただろ。・・・諦めが早いのは本当だよ。ただ、諦めて切り替える次がもうどこにもないだけだ。」
セレナさん。普段なら心地よいその声が、何故か今日は。
「・・・俺には、もうあんた以外なんにも無くなってしまったんだよ、セレナさん。」
どくん。
違う。タイタンは確かに今笑っている。いつも通り笑っている。
なのに、この胸のざわめきは何だ。どうして今、私は彼を見て泣きそうな気持ちになってしまったのだろう?
「記憶も、故郷の人間もこの手で殺した。着ていた服も荷物も燃やして、人であることさえ捨てた。あんたを追いかけると俺がどんどん無くなっていくんだ。なあ俺は一体誰なんだ?最期に残ったあんたを守ることさえ失ってしまったら俺は本当に何にも無くなってしまう。それが不安で苦しくて怖くてしかたなくてだから時々あんたのせいだと責めたくなる。ただありのまま優しく振る舞っただけの、何も悪くないあんたを。」
聞いたことがないほどのタイタンの早口。念仏のように吐き出された感情は重く濁り、ずしりとセレナの足元に落ちていく。
息を呑む音がする。
なあ、セレナさん。
問いかける声は、焚き火の音の中、はっきりとセレナに届く。
「これほど押し付けがましいものを、あんたは優しいと呼べるのか?」
セレナは今、自分が天秤を握っていることを理解した。
この天秤が傾いたその瞬間。それがこの男の運命、たった数ヶ月の人生をすべて壊すのだと。
それを理解しながら、それでもセレナは、一瞬も迷うことなく、間髪入れずに。
ただ、即答した。
「呼べるわ。だって、貴方は私を選んだから。」
タイタンの目が僅かに開かれた。
何を驚くのだろう。タイタンがセレナを選んだように、セレナだってタイタンを選んだのだ。
「無くした記憶より、私を選んでくれたじゃないの。それが・・・どれだけ嬉しいことだったかなんて・・・」
セレナは胸に手を当てた。とくとく、喜びで心臓が跳ねる。
「・・・ふふ、押し付けがましいなんて。私は喜んでそれを受け取るわ、タイタン。」
焚き火は美しいが、向こう側に座るタイタンの震える手を握ってあげられないことだけは惜しく思う。
「貴方に幸せに生きて欲しい気持ちだけは出会った時からずっと変わらないけれど。・・・今は、それができれば私の隣であってほしいって、祈ってるわ。我儘かしら?」
「我儘?俺はあんたの隣でしか、幸せになれないよ。」
洞窟に響く雨音は一層激しさを増している。この調子では明日も家に帰れるか怪しい。
先ほどまで憎かった雨を、タイタンは少しだけ愛おしく思った。
ああ、この時間が永劫であればいい。このまま彼女をここに閉じ込めておけたら。
空の色に目を輝かせるのも、美味しい食事に頰を緩めるのも、子鹿を愛おしげに撫でるその手も、本当はすべてが自分のものであったら良いのにと思ってしまう。そんなものが彼女の幸せではないとわかりながらも。
「・・・セレナさん、俺がセレナさんを選び続けられたのは。あんたが俺に初めて優しくしてくれた人だったからだ。俺も、それ以外の全てが、どうでもよかったんだよ。」
ばこん。焚き火の中、金属箱が膨らんで音を立てた。
蒸し焼きにされた塩漬け肉は絶品だ。普段カリカリに焼き上げるのとは違い、ふっくらと焼けた塩漬け肉は肉本来の食感を取り戻している。
その脂が染み込んだベイクドポテトに僅かに塩を振り、軽く潰せば立派な副菜だ。
そちらも勿論気になるが、まずはメインデッシュから。柔らかいパンに肉を乗せ、がふりと噛み付く。肉の旨みが口の中でとろける至福の味に、二人は同時に歓声をあげた。
「うまーーーい!!」
疲れた体に旨みが沁みる。
食欲がなかったはずのセレナさえ、唇を油まみれにして夢中にかぶりついてしまうほど。
「美味しい・・・野外炊飯も悪くないわね。焚き火で焼いたお肉って特別美味しいのね!」
「良かった、思いつきで試したが大成功だ。・・・ああ、茶が湧いた。セレナさん、ドロップを貸してくれ。」
ドロップ?セレナは首を傾げた。
確かに、荷物をなくして遭難しても困らないように、遠出するときには必ず蜂蜜を煮詰めて固めたドロップをポケットに忍ばせている。・・・甘いものに飢えているわけではない、決して。
ドロップを入れた缶詰をタイタンに渡すと、タイタンはドロップを茶を沸かした鍋に投入した。
「な、何をしているの!?」
「紅茶には砂糖を入れて甘くするのが昔の文化だったそうだ。砂糖が高級品になってからは廃れた風習だが。蜂蜜が採れるこの森なら再現できるだろう?」
本当だろうか?セレナにとって茶とは食後に口をさっぱりとさせるためのもので、決して甘味ではない。甘いものに香り立つ茶を合わせるのが良いのである。
いやそれ以前に、茶を甘くしてしまってよいのだろうか?とんでもないタブーである気がする。
おろおろとしているセレナを尻目に、タイタンは鍋を二、三度くるくる回す。
沸かしたての熱い茶の中に、ドロップはみるみる溶け込んでしまった。
「・・・ほら。好きだろう甘いもの。」
カップに注がれたそれをおそるおそる受け取る。見た目ではわからないが、甘いハーブの香りの中に僅かに蜂蜜のとろりとした甘い香りが感じられた。
「・・・変なの、と思ったけれど。いい、匂い・・・?」
「早く飲んでみろって。一回試したことがあるんだが、絶対にセレナさんが好きな味だと思うから。」
早く驚くセレナが見たいと、タイタンの顔にわかりやすく書かれている。
タイタンが試したなら、と。渋々口に含んだセレナ。
その日をセレナは後にこう言う。あの日は間違いなく私の人生の転機だわ、と。
「!!!」
「おい!?」
ガチャーーーン!!!!
洞窟にタイタンの叫びとカップが割れる音が響く。
「っ、おい、カップを落とすな・・・っていうか、火傷!火傷しただろ!!大丈夫か!!」
「おいしい・・・・」
「・・・・・・はあ?」
膝に熱々の茶を零し、絶対に熱いだろうに、しかしセレナは微動だにせず、手を震わせていた。
というか今気付いたが、セレナの背中に羽根が出ている。驚いた?・・・ということはまさか。
「おいしい!!おいしいわ!!なにこれ!!どうして今まで思いつかなかったのかしら!!お茶も蜂蜜も全部全部今まで身近にあったものなのに!!」
感動で手を震わせてカップを落としたらしい。
二個しか持ってきていない貴重なカップを思い切り割り、その感動のお茶は全て洞窟の床に零してしまっているが、しかしセレナはまだそのことに気づいていない。
「こ、この馬鹿!!!零したら意味がないだろうが!!水だって貴重なのに、人がせっかく元気付けようとした気遣いを・・・!!!」
「あ、た、確かにそうだわ!!タイタンの分を頂戴!ねえ、私の為に作ってくれたのでしょう!?」
「ふざけるな!!俺だってやっと水以外のものが飲めると楽しみにしていたんだ!!いいから着替えてこい。替えの服は?」
「むう。持ってきてないわ。どうしようかしら。蜂蜜がべたべたしちゃうわよね・・・」
セレナは困った顔をする。流石にあと数日ここにいるかもしれないのに、砂糖でべたつく服で過ごすのは嫌だ。
どうしたものか。考え込んだとき、タイタンは気づく。
ずっと雨音だと思っていた水音。何故か洞窟の入口と反対方向から水音がする。
「・・・水場があるかもしれない。あっちの・・・夕方に作業をやめた辺りの、細い小道の先だ。雨音と違う・・・滝のような水音がする。」
「・・・え、本当に?」
「行ってみようか。服ごと飛び込んで魔道で乾かせば、この寒い洞窟でわざわざ服を脱がなくて済むだろ。」
何か考え込んだセレナを促し、タイタンは先導して歩き出す。
「あ、聞こえたわ、水音・・・やっぱり」
「・・・やっぱり?」
「多分ここよ、私が落ちた場所。水場に落ちたから怪我ひとつなかったのよ。・・・あの時は暗くてよくわからないままお母様に助け出されたけれど・・・今なら。」
タイタンを追い抜き、セレナは駆け出す。
空気の質が変わった。疑念が確信に変わる。
「・・・雨!!見つけたわ、タイタン!ここよ、私が落ちた場所!」
滝のような音は、上に溜まった雨水が勢い良く洞窟に流れ込んでくる音だったらしい。
セレナを追い走って来たタイタンは驚く。
ここは太陽が差し込むのだ。セレナの言った通り、高い天井に大きな亀裂がある。そこから雨と溜まった雨水が滝のように降り注いでおり、地面に生い茂っているのは苔ではなくふわふわとした草と白い花。
一本だけ大きな針葉樹も生えている。晴れた日に陽光が差し込めば、まさにオアシス、楽園と呼べる美しさであっただろう。
中心には大きな湖がある。雨水が流れ込んでいるはずだが何故か湖には濁りがない。
奥は滝の水流が激しく危険だが、手前側で水浴びをするくらいなら問題なさそうだ。
「まあ・・・とっても綺麗!こんなに綺麗な場所だったなんて!お水が水晶みたいに透明だわ!しかも、ここ、まだ採掘されていないグリムメタルが沢山・・・!」
確かに、壁のところどころが金色だ。採掘され尽くした場所ばかり歩いていたが、本来この洞窟の壁は美しく金色に煌めいていたのだろう。
「・・・凄いな。まさか切り立った崖の内部にこんな場所があるなんて。本当に手付かずの自然じゃないか。」
セレナすらよく知らない場所に来たのは初めてではないだろうか。
まるで天から落ちてくるような巨大な滝は荘厳の一言に尽きる。
ただ大量の水が流れているだけとはとても言えない。不可思議な神秘さと皇帝のような偉大さがその滝には在った。
東洋には山や滝、自然そのものを神として信仰する文化があったという。信仰などというものはとっくに廃れ果てた世界で生まれ育った2人だが、この湧き上がる純白の喜びと、恐怖で膝が竦む感情こそが信仰というものだと理解させられた。
洞窟の土の匂いはここにたどり着いた瞬間掻き消えた。水と水がぶつかり生まれた、柔らかく湿った空気が、タイタンの肺からカビ臭い空気を追い出し、浄化してゆく。
視覚、聴覚、嗅覚、その全てが滝に洗われて浄化されていくかのようだ。
先ほどまで煩悩全開だった頭がすっと冷え、タイタンは冷静さを取り戻していた。
「ふふ、森が作った箱庭ね。ふふ、タイタンも水浴びする?」
「こら。きちんと安全を確認してから・・・・」
「分かっているわ。その為にこれを持って来たの」
セレナはポケットにいくつか、魔道ランプのビー玉のような部分・・・コアを詰めて来ていた。
これは魔道を込めればそれだけで一定時間灯りとして機能する。
「えいっ」
セレナが上空に放り投げたコアは花火のように燃え、打ち上がり、そして停止する。
ぼんやりとした薄オレンジがふわふわと宙に浮く。
頼りない灯だが、しかし行動に必要な最低限の明るさは確保された。
「・・・こんな使い方もできたのか。」
「雨に当たると消耗も早いわ。水浴びするならさっさと済ませましょう。風景に見惚れるなら昼間の方がいいもの、きっと!」
そう言い、セレナは服ごと水に飛び込んだ。バシャン!と激しい音と同時にタイタンの顔面に思い切り水がかかる。
「おい!何も飛び込む必要はないだろう!?」
「ふふふ!タイタンもびしょ濡れ!ほら、諦めて早く水に入りなさいな!汗を流してしまった方が気持ちよく寝られるわ!」
ため息をつき、袖で顔を拭い、気づく。
「・・・・・しょっぱい?」
「・・・本当だわ、しょっぱい。確か前は違ったと思うけれど。不思議な湖ね。」
セレナは当たり前に受け入れているが、いや、タイタンには思い当たる節がある。
「海水・・・?」
海など、こんな場所に存在するわけがない。海上に開いた崩落の影響で、この世界の海は少しずつ、確実に枯れ始めており、保護区もこの森も、内陸部だ。セレナは勿論、タイタンだってきっと行ったことなどないに決まっている。
しかし、タイタンの記憶が叫んでいる。この磯臭い苦味のある塩味は間違いなく海水の味だ。
こんな高い崖の上、洞窟の中に、海水。タイタンの背筋に警戒が走る。
「・・・っ、セレナさん、上がれ!やっぱりおかしい、この湖は!」
「おかしい、って?」
「変だろうが!あれだけ絶え間なく雨水が降り注いでいるのに水量が全く変化していないし、第一雨水が注いでできた湖が塩分を帯びるわけがないだろう!」
セレナはそう言われ、湖の淵に近寄る。確かに、湖の淵は、あれだけの水が降り注いでいるにも関わらず、全く拡大していない。セレナの動きに合わせて僅かに揺れただけだ。
「・・・これは・・・どういう原理?お母様がなにか仕掛けているのかしら?・・・。」
「待て待て待て!何潜ろうとしてるんだあんたは!馬鹿か!?」
大きく息を吸ったセレナの首根っこを慌てて掴む。危険だと止めているのに!
「何の為にこの洞窟に来たのか忘れたの?・・・明らかにお母様の作ったものよ、これ。この森にある自然の摂理に反したものは大体全部お母様の作ったものなんだから。・・・これこそ貴方の欲しているものでしょう?」
「っ、だから一度上がれと言っている!得体の知れない湖なんだぞ!?何もこんな雨の中・・・しかも夜に潜ることはないだろう!?」
「戦士の素養はあるようだけど、学者の覚悟は貴方には無いわね。それでは駄目。鷹の目で観察し、狼の嗅覚で嗅ぎ、兎の耳で聞き、人の頭で考えるのよ。・・・貴方が異常だというこの塩水の発生条件は何?雨天だから?夜だから?もし今日の夜にしか発動しないたった一度きりの魔道だったら?・・・今この瞬間、一生ものの情報を逃すことだってあり得るの。観察者になりたいなら、それ相応の覚悟を身につけなさい。」
「・・・っ、俺は、危ない真似はするなと言っているだけだ!」
「下手は踏まないわよ。そこで見ていて。」
セレナは厚手のストールを投げ捨て、シャツ一枚でタイタンに背を向けた。
「ここは魔道の専門家のお姉さんに任せておきなさいな。私の本職は料理人でも医者でもなく魔道学者なのよ?」
ふふん。得意げに笑ったセレナの小さな体が水に沈んだ。
タイタンは、海水、と漏らしていたかしら。
成る程、この嗅いだことのない香りのする水、これが海水というもの。そしてタイタンには何故かそれが分かるらしい。
湖の底は暗い。泳ぎには慣れているセレナの足が竦んでしまうくらいには。
ゆらゆら、細い銀糸が柔らかく、頼りなく揺れる。
それでも、この胸に渦巻く果てしない欲求には勝てまい。ここに何がある?どんな大魔道がここには潜んでいる?
その正体を、見たい。知りたい。解剖して、自分のものにしてしまいたい。
一度目を瞑り、恐怖を胸の奥に押し込めた。その時、横からどぼんと何かが落ちる音。
「・・・・!」
タイタンだ。迷いなくセレナを追ったタイタンは、やっぱりビビってるじゃないか、とばかりにこちらを一度睨み、セレナの手を握った。ひんやりした水の中でただひとつ、タイタンの手だけが暖かい。
彼の迷いない真っ直ぐさは、弱いセレナにいつだって勇気をくれる。
不安にどくどくと脈打っていた心臓が、ゆっくりと落ち着きを取り戻した。
自分が焦っているとき、人は自分が焦っていることに気づけないものだ。教えてくれる誰かが隣にいることが、どれだけ心強いか。
ゆっくりと、辺りを見渡す。特に不審なものは見当たらない。レースのような不思議な形の水草が底面に生えているぐらい。海中には1匹の生き物も見当たらなかった。
塩水だもの、それはそうだ。川と違って、海には魚のような生き物はいないらしい。塩水の中で生き物が生きられるわけがない。
・・・ここまで思案して、セレナは気づく。
一度上がろう。タイタンの手を引きセレナは水面に浮上した。
「・・・ぷは。セレナさん、どうした?何か気づいたか?」
「駄目だわ、私では。・・・何も気づけない。」
どう言う意味だ。聞き返してもセレナは返答に困っているようで。
考えた末、セレナは真正面からはっきりと言うことに決めた。
「・・・タイタンは、海とはどういうものなのか、知っているのよね?」
「・・・。」
無言の肯定と受け取っていいだろう。記憶を失う以前に知る機会があったのか、それとも何か他の理由があるのか、それはこの際どうでもいい。
「私は正しい海がどういうものなのか知らないわ。だから全てが異常にしか見えないし、なにが不審なのかもわからない。ねえ、教えて。本物の海には生き物がいるの?生えている植物は?水の色はこれで合っている?本物の海にはこれほど濃い魔力が溶け込んでいるものなの?」
これは、多分「渡しものを渡す」ことに抵触する。なるほど、狼がタイタンにやらせたいことを少し掴んだ気がする。
そして分かる。今はきっと、狼のいう「然るべき時」ではない。
しかしこう聞かれては仕方がないし、何よりタイタンは、セレナが海の美しさを想像できないこと、その美を共有できないことをただ惜しいと思った。
少しくらいなら。タイタンは狼の言いつけを破ることを決めた。
「・・・海藻も、水も、本物の海そのものだ。これが、この内陸部の果てに、地平線まで続いているのが、海というものだ。ただ・・・魚がいない。本物の海には魚がいるし、蟹や海老とか、甲殻類だっている。深さだって足りない。」
「魔力は?本物の海に魔道の匂いはある?」
「分からん。あんたのいう魔道の匂いというものが俺には分からない。ただ、その魔道の匂いというものが・・・もし、この海を魔道で人工的に作った結果残ったものなら、それは本物の海にはきっとないものだ。海は人工物ではないんだから。」
「・・・うーーん。でもこれは、魔道の残滓というにはあまりに濃すぎるわ。もっとこう、この匂いは、家の工房みたいな・・・あ。」
ひょっとして。セレナが再び潜る。慌ててタイタンが後を追うが、セレナは彼が潜るまでもなくすぐに浮上してきた。
「驚いた。ここの底面、全てグリムメタルでできているの。少しずつグリムメタルが水に溶け込んで、これだけ濃い魔力を秘めた水ができているのね。」
そう言ってセレナはコアを水底へ投げ込む。底面にたどり着き、オレンジ色の明かりがゆっくりと湖の底へ転がり落ちていく。
タイタンも横のセレナを真似して水面に顔をつける。
停止した明かりの周り、金色のきらめきが湖の底面をびっしりと覆い尽くしている。
「・・・・・綺麗だな。」
「・・・・・ええ。」
本物の海の底は砂だ。この美しさはこの湖だけのもの。透き通った水晶の水の中、底面が金色に輝く。
グリムメタルから時々虹色の泡が立ち上っている。ただの泡すら宝石のように思える。
まるでルチルクオーツだ。巨大な金紅水晶の中に潜った二人はその刻一刻と姿を変えるその神秘に閉じ込められてしまう。
自分もこの無数の泡の1つになって溶けてしまいたい。そんな風に思ってしまうくらいには、魅力的。
「・・・泡?どうして泡が?」
「・・・本物の海に泡はない?」
「普通はそうだ。底からこんなにぼこぼこ空気が湧くはずがない。グリムメタルにそういう性質があるのだろうか。」
「そんな性質はないはずよ。グリムメタルは魔道を帯びやすいだけのただの鉱石で・・・そう。そうよ!!誰かが魔道を浴びせない限り、グリムメタルが魔力を帯びるはずがないじゃない!!魔力はヒトにしか生み出せないエネルギーなんだから!!」
グリムメタルは魔道を帯びやすく、また魔道によって強烈に形を変える鉱物。だが、それだけだ。グリムメタル自体が元からこれほど強烈な魔力を帯びていることはない。誰かが・・・お母様が、この大鉱脈に魔道を浴びせなければ、グリムメタルはからっぽのままのはずなのだ。
「なら採取してこようか。小さいピッケルを持ってきている。・・・俺が潜ってくるから待っていてくれ。」
流石にこれ以上彼女に体を冷やさせるのはよくない。
それに、調査を言い出したのは自分だというのに、今日はセレナに頼りきりだ。
体力作業ならタイタンの出番。探索者の覚悟ならあるのだ、自分にだって。
・・・などと、格好つけたい一心で水に潜ってしまったが、実はタイタンはあまり水に慣れていない。最低限の泳ぎはできるが、セレナほど長時間は潜れないし、水中でピッケルを振るのなんか初めてだ。
「・・・大丈夫?」
「大丈夫だ。あんたのほうが潜りっぱなしだろ、そろそろ水から出た方がいい。交代だ。」
わずかな心の軋みが命取りになる。戦場では肝に命じていることが、すっかり頭から抜け落ちていた。
なるべく大きな鉱石を持っていった方が良いだろう。
浅瀬にあるのは滝で削れたグリムメタルの砂つぶばかり。鉱石の形で残っているものを採取するには多少深くまで潜らないといけないようだ。
先ほどセレナが投げたオレンジの灯目掛け、タイタンはゆっくり潜っていく。
ちょうど灯の隣、この辺りでは一番大きな鉱石が地面から生えていた。
「・・・・。」
グリムメタルの採掘自体はそれほど難しくない。非力なセレナだって一人でこなせる仕事だ。
中途半端に硬い鉱石が一番割れやすい。さらにグリムメタルは強い劈開性のある鉱物だ。母岩が割れなくても最悪グリムメタルの根元を砕いてしまえばいい。
オレンジのコアが、グリムメタルの正方形の結晶の隙間に挟まっている。その根元にタイタンは早速ピッケルを振り下ろした。
水中で腕を振るのは、当然ながら辛い。早く呼吸がしたい。
一発。腕に乳酸がずしりと溜まった感覚を感じた。
二発。グリムメタルがわずかに振動した気がする。
三発。
根元から折れたグリムメタルがタイタンの顔面めがけて思いきり吹き飛んだ。
「!!?」
そうだ、泡。この鉱石の下には、何故か空気が溜まっていたはずだった。
今まで誰も穴を開けることがなかったパンパンの空気だまりに、タイタンはピッケルで穴を開けてしまった。
ごぼばばば。
炸裂音の後、息を全て吐き出してしまったタイタンの音にならない悲鳴があがる。
不運なことにグリムメタルが飛んだのはタイタンの目。
この湖の深く。慣れない水中。視界と酸素を奪われたタイタンに起きることは最早必然。
異常に気づいたセレナが慌ててタイタンに鎖を巻きつけてももう遅く。
とにかく浮上しようと闇雲に泳いだ彼は、最悪の場所に移動してしまった。
「ちょっと!?滝の真下・・・!」
セレナの腕から直接伸びた鎖が、凄まじい力で水中にセレナを引きずり込んだ。
「・・・・っ、んむ、たいた、タイタン!!!!」
ばちり。急速浮上した意識。
薄暗い視界に映ったのは、びしょ濡れの満月。
そして喉元に吹き出す猛烈な不快感。
「・・・がはっ、げほ、げほっ!!!」
慌てて塩水を吐き出すタイタンを見て、ようやく安心したようにセレナは崩れ落ちた。
「よ、よかった・・・。どうなるかと、思ったわ・・・・」
「・・・っ、はあ、はあ・・・一体、何が。」
後頭部を酷く打ったらしい。左目はまだうまく開かないが失明はしていない。
呼吸の度全身が酷く痛むが、とりあえず自分が生きていたことにタイタンは安堵した。
「って、あんた、その足・・・!」
「貴方を引っ張り上げようとして逆に引きずり込まれてしまったの。転んでちょっと擦りむいただけ。」
ちょっとではないだろう。ズボンを捲ると、セレナのスネは皮膚が抉れて血だらけだ。
それはそうだ、あの尖ったグリムメタルの塊に叩きつけられ続けたのだ。
「・・・っ、悪い。俺の不注意だ。」
「不測の事態なんか当たり前よ。切り替えが早いのが貴方の良いところなんでしょう?」
ふふ、といつも通りのセレナの笑顔が心に沁みる。
「・・・というか、ここは、どこだ・・・?」
「多分滝の反対側よ。こっち側にも陸地があったのね。」
陸地というか、島だ。
滝の奥側にも湖は続いていたようだ。どうやら天井の亀裂は巨大な湖のちょうど中心部にあるらしい。
湖の真ん中に丸い島があり、そこにセレナがタイタンを引き上げたのだった。
「・・・ねえタイタン。これもお母様が作ったものかしら?女の人の・・・建物?」
そう言われ、セレナが指差す方を見上げ、タイタンは絶句する。
二人がいたのは島のかなり外側。島の中心部には巨大な青銅の建築物が据えられていた。
巨大な釣鐘状の下部。その上に女性の上半身のモチーフが据えられている。
セレナが建物と誤解するのも当たり前だ。これほど巨大な彫刻など、タイタンだって見たことがないのだから。
いや。
タイタンはこれが何なのかを知っている。
松明を掲げたその女性の姿は、旧世界なら知らないものはいない。
立派な台座は存在しない。サイズも実物に比べれば随分と小さい。
でもその凜とした佇まいは健在。
それは、2000年前、ニューヨークで崩落に飲み込まれたはずの。
「自由の女神像!?」
大国、アメリカ合衆国の自由と民主主義を象徴する女神の像。
そして2000年前に、絶望の象徴へと貶められた悲劇の女神像が、そこに立っていた。




