悔恨の洞窟:後編
女神様。
セレナだって自宅にある書籍の類はほとんど読み尽くした本の虫だ。
勿論その女神の名を知っている。
だがその女神の写真すら見たことのないセレナは、タイタンの言うことがにわかには信じられなかった。
その女神の崩壊は旧世界の終焉の象徴、そして史上最悪の災害として今も語り継がれる。
正式名称は「世界を照らす自由」。
アメリカ合衆国の独立100周年を記念して、フランス人の募金によって作られた93mの巨大な銅像。その手には純金の松明を掲げ、足元には引きちぎられた鎖。
弾圧、抑圧からの解放、そして人は皆自由で平等であることを表現したその彫刻は自由の国アメリカの象徴。アメリカ合衆国が世界一の多民族、多文化国家として語られる際に、人々は必ずその女神の名を讃えるのだ。
いくら女神様と言っても、ここから脱出するための助力になるわけではない。
そもそも服を洗うために水場を探していたはずだったが、この湖が海水で満ちていた以上、それすら達成できていないのだ。絶望的な事実は2人の活力を奪うには十分すぎた。
「それはそうよね。塩水を乾かしたら・・・塩になるわね・・・。」
風邪を引くよりはいいと服を乾かしたが、髪も服もごわごわして気持ちが悪い。
焚き火を消してきて良かったとタイタンは心底思う。火災になったら目も当てられない惨事になっていたに違いない。
もう日付が変わるような時間だろうと、仕方なく眠ろうとするタイタンを横目に、今度はセレナが活動を開始した。
「・・・あんた。流石に寝たほうが。」
「少しだけ」
そう言ったセレナがポケットから取り出したのは。
「どうやって拾ったんだ!?」
タイタンが削ったあのグリムメタル。金色の大きな鉱石がセレナの手の中で煌々と輝いていた。
「鎖で巻き取ってやったの。・・・せっかくタイタンが採ってくれたものを無駄にはしないわ。」
ふふん、得意げなセレナの笑みがこれほど頼もしかったことはない。
足を引っ張ったのは自分だが、それでも目的の1つくらいは達成できていたのはせめてもの慰めになる。
「どうせ水量が落ち着くまで出られないもの。ちょっと調べて・・・って。これ・・・。」
気合い十分で鉱石に向き合ったセレナの表情はすぐに固まる。
何度かグリムメタルを握り、離し。そして床に置いた。
「・・・グリムメタルに一度覚えさせた魔道は、消すことはできない。・・・ああ、そういうこと。目的はわからないけど、お母様がやったことは分かったわ。」
セレナは自分の脛の、まだ固まりかけのかさぶたをべろりと剥がした。
「・・・痕になるぞ。」
「手近な水分がないんだから仕方ないでしょう。それにこのほうがわかりやすいわ。」
たらたらと再び流れ出した血。それをセレナはグリムメタルの表面にべとりと塗りつけた。
すると、セレナの血液はみるみる透明になる。
透明になった血液を、セレナが小指につけて舐めてみると。
「やっぱり、海水になったわ。・・・このグリムメタル自体にそういった魔道が込められているんでしょう。さっき生き延びたのは奇跡だったわよ、タイタン。」
どういう意味か分からない。
セレナの口から奇跡という言葉が出たことに怯えながら、タイタンは先を促す。
「・・・いい?これはどんな水分でも問答無用で海水に変化させるのよ?人より体の小さい魚ならぶつかって出血しただけで血液を失って死んでしまうでしょう。もしさっきの濁流で、グリムメタルの砂つぶを大量に飲み込んでいたらどうなっていたか・・・分かるわよね?」
「・・・ッ!魚が居ないのはそれが理由か!」
ぞっとする。胃液、唾液、人体に必要な液体は様々。
グリムメタルを飲み込んだり、グリムメタルの破片が体に刺さったら、タイタンの体液が海水に変化させられる。生命維持に必要な体液がまるごと海水に変化させられたら。医療に詳しくないタイタンでも恐ろしい事態になることぐらいは想像がついた。
まさに死の海。数多の命を奪った死の鉱石だ。
「効果範囲はそうでもないわ。水が循環するのを想定しているのね。ぶつかって出血するくらいじゃ体躯の大きい人間は死なないでしょうけど、砂を大量に飲み込んだら手遅れよ。」
タイタンは口にざりざりした感覚と、僅かな塩味があることに気づき慌てて吐き出した。
さっき意識を取り戻した時に大量の海水を吐いた。きっと心配はないだろうが、もしもを思うと体の芯が冷え上がる気持ちになる。
「・・・久しぶりに思い出した、あんたのお母様がどんな人間だったか・・・。」
「お母様のミスさえなければ完璧な生態系がここにあったんでしょうけど。」
セレナは水面にしゃがみ、小さく手を合わせた。
楽しく泳ぎ回る魚たちがうっかり鋭い鉱石にぶつかる情景を想像する。
お母様に持ち込まれたのか、作られたのかは知らないが、魚たちはきっと苦しい死に方をしたのだろうと、そう思うだけで小さく胸が痛んだ。
思えば、お母様は不慮の事故がない限り、セレナに失敗作や試作品を見せることはなかったように思う。
勿論セレナの見ていないところでは数え切れない失敗や試行錯誤があったのだろう。
それでも、お母様はセレナの前でそれをほぼ完璧に隠し通した。完璧なものしかセレナに見せないし、食べさせないし、着せないし、使わせない。
それは母としての意地か、大魔導師のプライドだったのか、今はもう知る由もないけれど。
ここにはお母様の悔恨が確かにある。
それを目の当たりにし、なにか苦い感情がぎりぎりとセレナの頭を締め付けた。
「・・・あとはこの、ええと、女神様の像だけれど・・・あれ、1つの魔道も込められていない、ただの青銅の塊なんだもの。これは、これ自体がなにか意味を持つわけじゃなくて、ここにこれがあるという事実が意味を持つのだと思うわ。」
「意味って?」
「分からないわ。お母様の気まぐれかもしれないし。とりあえず調べるだけは調べるけれど、私は・・・これ以上なんの情報も得られないと思うわよ。」
セレナの言った通りだった。2人は像の外周を歩き、材質や魔道の痕跡を探った。
しかしこれはやはり「自由の女神を模した小さな青銅の像」に過ぎず、これが周囲に何か影響を及ぼしているとか、異常を起こしているとか、そういった事象は見られなかった。
「・・・この洞窟で他になにか異常が起きているなら真っ先に疑うべき場所だが。それを調べられない以上今はどうしようもない。」
「まあ、諦めて眠るのが賢明よ。・・・明日になってまだ水量が落ち着いていなかったら、魔道で脱出を試みましょう?」
セレナは海水でべたつく地面に寝転び、目を閉じた。彼女に促されるようにタイタンも地面に座る。
彼女は眠ろうと言ったが、全身も気持ち悪いし寒いし、今日はきっと眠れないだろう。
タイタンは無理矢理に目を閉じ、女神の青銅像にもたれかかった。巨大な像は勿論、タイタンがもたれたくらいではびくともしない。
間も無くセレナの不規則で疲れ切った寝息が聞こえてきた。いくら不測の事態とはいえ、彼女を巻き込んだのは自分。守ると言ったのにこの様か、と申し訳ない気持ちが膨れ上がる。
「・・・はあ。」
ひう、ひう。セレナの普段よりはやった寝息から逃げるように、タイタンは意識を沈めた。
記録再生。
「セレナ?どうしたの、その大きな荷物は・・・。だから、そんなに怯えた目をしなくてもいいのよ?貴方がこの森から出ようとするなら全力で止めるけれど、貴方を虐めるために魔道を使ったりはしないわ。だから、大丈夫よ。・・・安心して。その毛布の中身が何だったとしても、私は貴方を怒ったりしないわ、私は貴方のお母様だもの。」
セレナも自分に少しは慣れてきたと思っていたが、頭を撫でようと手を翳すだけで飛び退くのは変わらない。
母親とは難しいものだ。本で読んだ通りにするだけでは上手くいかない。
ため息をつく自分に、セレナはびくびくしながら、手に抱えた毛布をそっと自分に渡した。
何かあたたかいものが毛布に包まれている。そっと包みを開くと、中に柔らかい毛皮の塊が見えた。
「・・・狼?」
中に包まれていたのは今にも死んでしまいそうな子供の狼だった。自分の両手にすっぽりと収まってしまうほど小さな狼は、酸素を求めて苦しそうにひゅうひゅうと喘いでいた。
よく見れば足が本来あり得ない方向に曲がってしまっている。
きっと森の最北部からやってきたのだ。
きっとこの狼は高い崖から落とされ戻れなくなり、見放され、ここまでたどり着いたのだろう。
セレナの目には、お母様なら助けられるでしょう、と縋るような色が滲んでいた。
「大丈夫、私は大魔導師だもの。きっと助けるわ。・・・そうね、セレナ。お手伝いを頼んでもいいかしら?蓬山・・・あの鹿のいる大きな丘。この間貴方が隠れていた場所。分かるわよね?あそこに生えている小さな黄色いお花を5本、摘んできてもらえないかしら?この間朝食のお茶にしたのとおんなじ、葉に産毛の生えた小さなお花よ。狼さんのご飯に混ぜたら腫れがすぐに引くと思うから。・・・できる?」
セレナは小さく頷き、家を飛び出して行った。
随分頼もしくなった小さな背中を見守り、狼をベッドに横たえた。
初めて我が子が不器用ながら信頼を向けてくれたのだ、何としてでも応えなくては。
まるで弟ができたような感覚らしい。
狼はゆっくり歩行できるまでに回復し、今日もセレナと家の前で日向ぼっこをしている。
きっと自分だけではここまでセレナの心を解くことはできなかった。
ここに来たばかりの時のセレナの、獣のような振る舞いを思い出す。
食事を床に叩き落されるなどは日常茶飯事。
食事を拒絶してどんどん弱る彼女に、眠っている隙に栄養剤を飲ませなんとか命を繋いでいたのもそれほど昔のことではなく。
傷が回復し、自由に動き回るようになると、今度は毎日のように脱走を試みるようになってしまった。
閉じ込めると今度は恐怖で泣き喚くのは目に見えていた。敢えて鍵をかけることはせずに毎晩彼女の脱走を許し、そしてなるべく優しく連れ戻すことを続けた。
「セレナ。」
差し出した手は魔道で焼かれる。
「セレナ。」
敵意に満ちた月光。
「セレナ。」
兎用の罠にかかって小さな足から血が吹き出していた。
「セレナ。ルゥを連れてこっちにいらっしゃいな。干し葡萄のパンが焼けたわ。」
声をかけた玄関の外、午後の日差しを湛えた月光が幸せそうに緩んだ。
ぶつん。
「・・・タイタン!」
切り込むような声に体が飛び上がり、タイタンは目を覚ます。結局眠ってしまったのか。
こちらを覗きこむ丸い瞳は、夢で見たのと同じで、綺麗だ。
・・・いや、夢というにはあまりに鮮明だった。
きっと自分はお母様の視点でセレナの過去を見たのだ。
だんだんと覚醒する意識。そして今の自分の状態に気づき、驚き、タイタンは体を大きく震えさせた。
「タイタン、顔をよく見せて。・・・そう、そのまま私の目を見ていて。」
「・・・っ、あんた、なにして!」
寝ていたはずのセレナが自分の足に跨って密着している!
「いいから!動かないで頂戴!」
ざり。タイタンのブーツの踵が大地を削って音を立てる。
伸ばした膝に跨るように乗ったセレナが、壁に寄りかかったタイタンの頰に手を当てている。
腿に当たる熱い感触、息を吸い込むと潮と甘い肌の香り。
呼吸すら間近に感じ取れるその距離に身を強張らせたのはタイタンだけ。
セレナは真剣にタイタンの瞳を覗き込み・・・そして諦めたように体を離した。
「・・・もう痕跡がない。どういうこと?・・・タイタンの記憶を消したのは、お母様・・・?」
ぼそりと吐き出された言葉は、これほどの近距離でなければ聞き逃していただろう。
「・・・いいから一度離れてくれないか。年頃の女の子が男に跨るものじゃない。」
我ながら震えた声が情けない。
「何よ。この間は抱きしめたじゃない。今更照れることじゃないでしょう?」
「あの姿になると距離感がおかしくなるんだよ、今更冷静に突っ込まないでくれ。」
不満げなセレナを引き剥がし、長く息を吐く。一時的にかもしれないが雨は止み、上空からは濁流の代わりに太陽の光が降り注いでいた。
「・・・で、どうした。何かあったのか。」
切り替えるようにセレナに問いかけるが、返事は要領を得ないものだ。
「何でもないわ、別に・・・」
「それはないだろ。あんなに焦っていたくせに。」
明らかに何かをはぐらかした態度に少し苛立ち、タイタンは語調を強めた。
「だって・・・その、タイタンの隠し事に踏み込むわ、多分・・・。」
彼女はびくびくとしながら、それでもはっきりと告げた。
その姿に平素の上品で落ち着いた振る舞いはない。何かに怯えるようなその態度は、彼女にしては珍しい。タイタンは自分の首を絞めることをわかりながらセレナに先を促した。
「・・・構わない。あんたはさっき何を感じ取った。」
「タイタンの体が魔道を帯びたから・・・おかしいと思って。何かに、干渉されたというか・・・貴方の記憶に働きかけるみたいな・・・もの?もし貴方がそんな風に干渉されて記憶を消されたなら・・・どうしてあの時私はそれが分からなかったの?魔道の痕跡が見えないわけがないのに・・・。」
ぶつぶつ。彼女は俯いて考え込んでしまった。その手は焦りで震え、昨晩の研究者の冷静さを失っていた。
そして、ぽつりと、唇が紡いだ言葉は「まさか」。
動揺するタイタンにセレナはもう一度掴みかかった。
「そうよ!あの時分からなかったのに、見覚えがある!ねえ!貴方は誰に何をされたの!?」
「・・・すまない。それは・・・知らないんだ。」
「だって!だって!これはお母様の魔道なんだもの!分かってしまったんだもの!貴方の消えてしまったものも。そのあとに注がれた何かも!正体が分からなくたって、それを仕掛けた誰かの匂いくらい分かるわよ!!ねえ!?貴方はお母様に会ったんじゃないの!?」
セレナは殆ど半狂乱で叫んでいた。同じ近距離でも、今度は恋心が踊り出すことはなかった。
セレナの目に、出会った頃の孤独が滲んでいた。お母様を失った埋まらない大穴が、セレナの心に黒々と口を開けていた。
ああ、俺はまだそれを埋められていなかったのか。
「・・・死んだんだろう、あんたのお母様は。あんたはそれを見たんじゃないのか。」
迷いながら絞り出した言葉は、小さく震えるセレナを傷つけた。
事実を突きつけただけだ、などと割り切ることはタイタンにはできない。
なぜなら、今見てしまったもの、セレナの過去、お母様の記憶のせいで、それを失ったセレナの悲嘆が前より一層タイタンには想像できてしまったから。
「そうよ。お母様は死んだわ。でも、そんなのこの際どうだっていい・・・。ねえ、前にも言ったでしょう。」
セレナはそのまま、タイタンの首に小さな頭を埋めた。
普段より数段高い体温が、じわじわ自分の肌に溶け込んでいく。
「もしお母様が、自分の計画のために貴方を巻き込んだなら。貴方の記憶を奪ったり、貴方が人間であることすら奪ったなら・・・私は大切なお母様すら憎んでしまうって・・・。」
背中に回された小さな手が、弱々しくタイタンのシャツに縋った。
「お母様が生きているとか死んだとか、貴方にこんなことを聞いたって答えられないだろうとか、これは聞いちゃいけないって約束したことだとか、そんなの分かっているわよ。だけど・・・だけど・・・!」
「セレナさん。」
「今まではよかったの。何が犠牲になろうと、それよりお母様の方が大切だったから。・・・だけど、今は。同じくらい貴方と、貴方と過ごす世界が大切で・・・。」
言い訳のしようもない。だってその通りだからだ。
自分はお母様の世界を救う計画のために記憶を奪われ、よく分からない血を注がれた。よく分からない記憶を注がれた。それはまぎれもない事実。
たとえタイタンが望んだことだとしても、その事実は変わらない。自分は既に、セレナと世界を救う計画のため、たくさんのものを闇に葬ってしまった。
セレナが泣いてしまうほど嫌ったことは、もうとっくに現実に起きてしまった。
きっとその予想が当たったことを知ればセレナはお母様を憎み、あの過去の屈託のない美しい笑顔は忌まわしい思い出に変わってしまう。
だからタイタンは嘘を重ねることにした。
「・・・お母様は関係ない。あと・・・これだけは本当のことを言っておく。記憶をなくすことを選んだのも、人であることを捨てたのも俺の選択だ。あんたの見たものが何かは分からないが、きっと勘違いだ。心配しなくていい。」
「・・・勘違い!?」
声を荒げたセレナをなだめるように背中を撫でる。
「あんたが感じたものを否定するわけじゃない。だけど、お母様が関わっていないのは事実なんだよ。・・・考えすぎだ。こんな慣れない場所に流されて不安なのは分かる。家に帰ってゆっくり眠って、それから改めて考え直せば、見えるものも違ってくるかもしれない。」
「・・・タイタン、貴方。」
セレナは、傷ついたような顔をしたように思う。
しかしその傷は、一度瞬きをする間に隠れてしまった。後に残ったのは少しだけ冷たくなったセレナの手の温度だけ。
タイタンは淀みを吐き出すために、上を見上げて大きく息を吐いた。
遥か高み、女神像は真正面を見据え、足元に座り込むタイタンの目を見ない。
そのほっそりとした指が、遠い記憶の中、狼を抱きしめたお母様の指に重なった。
濁流さえなくなれば、凪いだ湖面を泳いで渡るのは容易なこと。
太陽の光を存分に浴びて光り輝く金紅の湖面。
セレナは何もなかったかのように明るく振る舞い、水中を何度か回転して笑って見せた。
少しくらい遊んだっていいでしょう。どうせ梯子が乾くまでここから出られないのだから。
荷物を運び、細かい傷を魔道具で治療し、その上で絶対にグリムメタルに触れないという約束でタイタンは彼女の水遊びを許可した。
「・・・疲れてないのかあんたは。」
それでも、先ほどの辛そうな顔が鳴りを潜めてくれるだけでタイタンは安心する。
タイタンは金色の砂浜で、昨日から必死に記入した地図を眺める。
セレナが過去に作った南方の地図、そして近隣の探索、今回の洞窟探検で、北方と南方の地図はほぼ完成に近づいていた。
あとはこの洞窟の奥を調べ、南方と北方を繋ぐ森の中央部の獣道を記入すれば、おしまい。・・・ついに危険な未踏地への冒険に出る必要が出てくるのだ。
「・・・西方、か。」
お母様の仕掛けた罠が大量にある危険地域。お母様の研究資料が隠されている可能性が最も高い場所。きっと今回のように楽しい冒険にはならないだろう。
だが、それでも、自分はセレナが止めようとも西方へ向かうのだ。
それがセレナが嫌った現実を浮き彫りにすることになろうとも。彼女を生かすために。
ほの暗い覚悟がタイタンの胸に湧き出した。
「海水って浮きやすいのね、昨晩はちっとも気づかなかった・・・。」
水面に体を浮かべ、死体のように脱力して両手両足を広げる。
「潮の香りも、良い匂い。嗅いだことがない匂いなんて、久しぶり。」
指を大きく広げ、指先だけでぱちゃぱちゃと冷たい水を弄ぶ。
遠い亀裂から覗く空。朝の薄緑色の日差しがセレナの頰を温めてくれる。
頭皮をじんわり冷やしていく感触が酷く心地よい。これが、その昔、世界がめちゃくちゃになる前にこの星を満たしていた恵みだとタイタンは教えてくれた。
「人間も、鳥も、狼も、全ての生き物は海から生まれたんだ。海から生まれた生き物が進化して、陸にやって来たのが全ての生き物の祖先。どんな生き物も遥か昔は等しく海の微生物だった。母なる海、なんて昔はよく言ったものだそうだ。」
足の指先から海に溶けていくよう。
私はお母様の胎から生まれたわけではないけれど、お母様の胎の中はきっとこんな風に心地よくて優しい場所だったに違いないわ。
少しずつ輝きを増して来た日差しにセレナは目を細めた。
案の定泳ぎ疲れて動けなくなったセレナをタイタンは睨んでいた。
「・・・何のためにここに来たのか忘れたな?」
「忘れるに決まっているじゃない、あんな刺激的な体験をしたんだもの。」
この鳥頭め。タイタンは人肌程度に温めた湯でタオルを絞ってセレナに渡した。
「・・・まだ余分はあるにしたって、貴重な真水を使ったんだからな。もう海に入るなよ。」
「ふふ。」
流石に海で好き放題泳いで2日も体を洗えないのは辛い。タイタンだってそうなのだからセレナはもっとだろう。
もうどうせ明日帰るのだからと、服も真水を贅沢に使って洗ってしまった。
それでもストックは十分すぎるほどあるのだから、これを担いで来たタイタンには頭が上がらない。
ようやく体表の不快感が消えたことに安心したセレナは毛布に体を横たえ、目を細めた。
自分のすべすべした肌の感触が幸せだ。
昨晩はゆっくり眠ったし、久しぶりにたくさん運動をした倦怠感が心地よい。
「寝るにしても少しだぞ。まだ昼なんだから・・・夕方には起きて作業を始めないと明日もここに閉じ込めてやるからな。」
「寝ないわよ。お昼を食べてちょっと休んだら頑張るわ。ふふ、お昼はベリーを混ぜて焼いたパンにしましょう?いっぱい遊んだんだもの、糖分を摂らないと、ね?」
まるで猫だな。力なくふにゃふにゃと、芯が抜けたような彼女を見て、タイタンはとっくの昔に絶滅した愛玩動物の名を思い出した。
採掘場の奥に進むにつれて、未採掘のグリムメタルが少しずつ表出し始めた。
がんがんとハンマーを振り下ろす単純作業が再び始まるが、以前ほど気持ちは重くない。
セレナの機嫌1つでここまで自分の気分が左右されるのかと、我ながら恐ろしくなる。
「たーいたんのおみみはふわふわおみみ、たーいたんのしっぽはふわふわしっぽ〜♪」
「・・・変な歌を作らないでくれないか。」
「ふふ、こんど尻尾を触らせて頂戴?いつも怒って触らせてくれないんだもの。」
「怒っている俺の尾を触る勇気があるなら構わないがな。」
タイタンが怒る原因は大体セレナなのだから、セレナが尾を触れないのは当たり前なのだ。
あのふわふわの尾はセレナにとってかなり魅力的なものだが、見るたび不機嫌に揺れているので、不用意に触ればどんな報復があるかわかったものではない。いつか思う存分ふわふわを満喫したいものだが。
セレナの柔らかい声がタイタンの耳を擽ぐる。あまりに上機嫌で不安になるほどに。
「・・・なあ、無理に明るく振舞っているなら、そんな無理は要らないからな。」
タイタンが朝のセレナを思い出し、そっと声を掛けても。
「別に、そんなのじゃないわ。貴方が言ったんじゃない、後からゆっくり考えろって。今落ち込んでも仕方ないもの。」
セレナの答えはこれだけ。悲しませたに違いないと、絶賛気にしている最中のタイタンは、セレナの上機嫌を勘ぐって恐ろしい気持ちになっているというのに。
「・・・それはそうかもしれないが。」
セレナはそんなにすぐに割り切れる性格ではないのをタイタンはよく知っている。
俺はあんなに酷い対応をしたのに、どうしてあんたはそんな風に無邪気に俺に笑いかけるのだ。
俺はあんたより嘘が得意だが、嘘を見抜くのはあんたの方が得意じゃないか。
などと、そんな風に思いの丈をぶちまけてしまいたくなる。
そんなタイタンに近寄り。
「それにね、タイタン。貴方が素敵な贈り物をくれたから。・・・だから、いいの。ふふ。」
セレナはにやにやと笑い、頰をつついた。
「・・・贈り物?」
「内緒!」
ふふん。
そう言ってセレナはくるりと背を向けた。ここがスポットライトの当たる舞台であったなら、彼女はバレリーナだ。
スポットライトの代わりにセレナの手の中で輝くのは魔道コア。
ころん、と無作為に杭の上に据えられたコアはぴたりと接着し、いっそう輝きを増す。
つまらない単純作業も、彼女がいるだけでまるで舞台のように華やかになる。
「何でもいいが。調子に乗って爆発とか・・・そういう事故はやめてくれ。もう終点も近そうなんだから・・・。」
「しないわよ!・・・あ。声の反響が、近いわ。」
セレナはそう言って暗闇にコアを投げた。振りかぶって投げられたそれは、思い切り跳ね返ってタイタンの足元に転がって来た。
2人は顔を見合わせる。
「・・・とりあえず奥に何かあるか確かめてから・・・こら、1人で走り出すな。足元に気をつけて、ゆっくり行こう。」
「前々から思っていたけれど!人の首根っこを掴むのは止めなさいな!レディーに失礼だと思わないの!?」
喚くセレナを無視し、タイタンは歩き出す。セレナ以上に気持ちがはやっていたのはタイタンだ。
もしかしたら、自分の求めるものが、この先に。
崩落の秘密。お母様の秘密。この森に隠されたもの。計画の全貌。
知りたいことは山ほどある。この数週間焦らされ続けたタイタンはもう限界だったのだ。
そして冷たい採掘場の奥の奥。
グリムメタルで作られた金色の扉が2人の目の前に姿を現した。
「・・・・・!」
「研究室・・・かもしれないわ。こんなところにあったの・・・?」
研究室。これは間違いなくビンゴだろう!
タイタンははやる気持ちを抑えて入り口の扉を開こうとする。ドアノブ式の扉はノブを捻ってもビクともしない。
「・・・流石に老朽化しているのか、鍵がかかっているのか。」
「魔道鍵かしらね。・・・まあ、このくらいなら、任せて。」
セレナがドアに触れる。しばらくそうして考え込んでいたが、天下の大魔導師が作り出した回路のあまりのまどろっこしさに、セレナの額に皺が寄る。
瞬間、どろりとドアが溶け落ちた!
「いやいやいや!面倒になって壊したな!?」
「違うわよ!これは・・・その、回路が、回路が壊れていたから!溶かすしかなかったのよ!」
気持ちがはやるのは彼女も同じだったらしい。セレナがうかうかしていたら自分だって背中の大剣を振り下ろしていただろうという事実からは目を逸らし、それらしい説教を口から並べる。
「下手な嘘を吐くな!!部屋の中のものまで壊したらどうす・・・って、これは。」
部屋の中は青い明かりがついていた。お母様が亡くなってからの何年、明かりが壊れず機能していたこと自体が驚きだが、それ以上の異様な光景に2人は目を丸くした。
部屋の中にはセレナの背丈ほどのガラス製の箱が3つあった。その内部は水で満たされ、中で窮屈そうに泳いでいるのは、見たことのない鮮やかな色の魚たち。
セレナが知る魚というのはどれも土色やくすんだ苔色の魚ばかり。
しかしその部屋にいたのは鮮やかな赤、青、黄色に紫。
まるで花畑かと錯覚するような色とりどりの魚たちが、レースのような鰭をなびかせ泳いでいる。
「ああ・・・これは。なるほど、そういうことか。」
「・・・タイタン?」
タイタンは既に自分の期待していたものがここにはないであろうことを理解していた。
きっとここにあるのは、水槽と結界とは1つも関係のない研究資料だけ。
だって、これは。
「海に住む生き物たちだ。・・・海に住む生き物は、こんな風に色鮮やかだと聞いたことがある。」
タイタンは水槽の匂いを嗅ぐ。先ほど同じ、潮の香りが水槽から漂った。
恐らくは水槽の横に据えられた、管の生えた魔道機械で水を浄化しているのだろう。水に入った2本の管から水が出たり入ったりを繰り返している。
「・・・!これ、お母様が作った生き物でしょう!?こんなに色鮮やかな魚が実際の海では泳いでいるの!?」
セレナは水槽に顔を貼り付けるようにして魚たちを凝視した。
驚いた魚たちが逃げていく。黄色い尾の魚が小さく水面から跳ねた。
「魚だけじゃない。海底にへばりついている吸盤の生き物も、貝類も。海に住む生き物たちだ。あの海に生き物を投入していなかったのか、予備を残していたのかわからないが・・・ここで海を再現する実験をしていたんだな。」
セレナは足元に落ちていた紙束を拾った。
「・・・生体実験ファイル。なるほど、川の魚を海水に適応させるために、少しずつ慣らして、海水を排出できる生体器官を与えて。見た目も・・・図鑑を見ながら寄せたのね。」
壁に据えられた本棚には、大量の図鑑が埃をかぶって眠っていた。
「でも、可哀想よ。多分幼体のままここに放置されて、なんとか苔を食べながら生きていたんでしょうね、この子たち。大きくなって、窮屈になって・・・辛そうだわ。」
セレナの言う通りだ。魚のサイズに、水槽のサイズが見合っていない。
おそらくはこの水槽だけで生態系が循環するように作られている。しかし増えすぎた小魚は泳ぎまわることを諦めたように元気なく右往左往しているし、比較的大きな魚が数匹入った左の水槽はもっと酷い。大きな赤い魚が水槽の中で反転することもできずに藻を貪っている。
「・・・あの湖に放流してやれたらいいんだが。あの中に入ったってグリムメタルで死ぬだけだからな。どうしようもない。」
「でも、でも・・・。海はあんなに素敵な場所なのに。こんな狭い場所で、広い海を知らずに死ぬなんて・・・そんなの。砂つぶになってもあのグリムメタルは機能するんでしょう?なら、あの鋭い結晶の角を取って砕いてしまったらどう?あとは多少飲み込んでも平気なように・・・例えば胃液には反応を弱めるようにコーティングを加えたりとか。そうしたら・・・魚たちが安全に生きられるようにならないかしら・・・?」
セレナは水槽を見つめる。
海底にいる魚たちは口から砂つぶ混じりの水を飲み込む。しかしそれはきちんと口からぺっ、と吐き出されている。魚だって砂を吐き出す程度の知能はあるのだ。
作業するにあたって、結晶の下の空気だまりが一番危険だが、少しずつ魔道で砕いてやればいい。何かを壊すのはセレナが一番得意なことなのだから。
次々にアイディアが湧いてくる。セレナはそれを整理整頓もせず、ただタイタンに思いつくままぶつけていく。よくこれほどすぐに色々な事を思いつくものだ。数々の奇天烈なアイディアに、タイタンも目を輝かせていた。
「まずは1匹だけ、グリムメタルの砂を底に入れて・・・確認して。できるだけ小さな子がいいかしら・・・。砂を弄って駄目なら、研究資料を読み込んで生体を弄れるようにならなくちゃ。時間はかかるかもしれないけれど、絶対・・・。」
「ッ・・・。」
当たり前だ。実験をするならば、被験体が必ず必要になる。
そうだ、忘れかけていた。
お母様は、森の生き物を改造し尽くした人間なのだ。
ポーラ。狼。カジリバエ。・・・そして、自分もその毒牙にかけられた1人。
期待にときめいていた気持ちが急速に縮む。そして、ふつふつと胸の奥に沸騰した感情が。
「俺は反対だ。寿命まで生かすだけならこの水槽のなかでも十分できるだろう。」
「そんなの、お母様が望んでると思えないわ。お母様は本物の海を作りたかったのよ?その遺志を継ぐことは、私に課せられた使命でもあるのよ。」
タイタンの指先が小さく震えた。一緒に洞窟を探検して、焚き火を囲んで、水遊びをして。
先ほどまで近くにいた彼女が急に遠くに行ってしまったような、そんな気がした。
置いていかれる。
それは彼にとって崩落よりも、ずっとずっと恐ろしいことだった。
「違う!!」
タイタンはセレナの肩を掴んだ。
「あんたの気持ちは!?あんたは、どうしたい!?」
「え?」
「命を弄ぶような真似をするのに、お母様を盾にするな!そんなみっともないあんたなんか、俺は見たくない!」
きっと自分はたくさんの命を殺してきた。セレナだって同じだ。だけれど、今の彼女だけは許し難い。いつの間に飛び出した尾が不機嫌に揺れていた。
セレナは目を丸くした。いつの間に現れた翼が気まずそうに揺れる。だが、頼りなさげにぷらぷら揺れていた掌が、ぎゅっと握られ・・・セレナは楔色を真っ直ぐに見つめ返した。
「ありがとう。かっこ悪かったわね、私。」
「分かればいい。もう一度聞く。あんたは、どうしたい?」
「この魚たちを、助けてあげたいの。その過程で、ええ、命を犠牲にするようなことが起きるかもしれないわ。それでも、成功させたいの。」
タイタンはそれを聞き、ほっとしたように笑い・・・すぐにそれを隠すように、ぶっきらぼうに背を向けた。
それから少しだけ時が流れた後のお話。
タイタンが汗水垂らして運んだ3つの水槽が、あのグリムメタルの海のほとりに並んでいた。
金色だった海底は透き通った砂色に変化してしまった。
ルチルクオーツの海は失われたが、本来の海により近づいたとタイタンが言うのを嬉しく思ったことを、セレナはよく覚えている。
今日は快晴。洞窟の切れ間からは入道雲が覗き、初夏の訪れを告げている。
「いくぞ、せーーーの!!!」
ゆっくりと傾けられた水槽から、色とりどりの魚たちが飛び出し、湖面へと飛び込んでいった。
そうして3つの水槽の魚を海へと放流し、汗をぬぐった2人は、顔を見合わせ、ニヤリと笑い、待ちわびたとばかりに海へと飛び込んだ。
今日は勿論、海水を流すための真水と、着替えも何着か用意して。
北方の森だって夏は暑い。水浴びでもしないとやっていられないのだ。
飛び込んだ勢いで沸き立った泡に思わず目を瞑る。そしておそるおそる開かれたセレナの瞳に。
鮮やかな花畑が映った。
まるで赤子の毛髪のような柔らかな海藻の隙間を赤、青、黄、紫の小魚たちが悠々と泳ぎまわり、小石にへばりついた藻をつつき食らっている。
大きな赤い魚は大きく伸びをするように尾を広げ、セレナの視界からすぐに遠く消えていった。
足元の岩に張り付いた蛸は、まだ少し苦手だけれど。
これが海というもの。以前の金色の海も美しかったが、生命に溢れまぶしくきらめくこの海のほうが、セレナは好きだ。
思わず込み上げた熱いものをぐっと飲み込み、隣で同様に目を輝かせるタイタンに笑みを向けた。タイタンの楔色が、海が、魚が虹色に輝く。真っ白なセレナをプリズムが包んだ。
ざばりと一度海面に顔を出し、同じく上がってきたタイタンに、セレナは興奮した声をかける。
「貴方の言った通りだったわ!海って、本当に素敵な場所ね!」
これからこの海がどうなるのか、誰にもわからない。
セレナの計算上は完璧だが、自然に不測の事態はつきもの。
タイタンの恐れた事態が起きる可能性はゼロではない。
だが、今この瞬間、尊き大魔導師の悔恨がゆっくりと天に昇ったことは間違いない。




