絶望の地平線
ばたばた、がたこん。
木陰で昼寝をしていたタイタンの耳に入った異音はセレナの居る作業場から。
数秒後、案の定酷く焦った様子のセレナが、家の外に転がり出てきた。
「・・・・・どうした。」
「いえっ、いえ!なんでもないの!少し南の方へ出かけてくるわ!」
「分かった。剣を取ってくるから少しそこで待て。」
また厄介ごとか。ため息をつき、逃げ出そうとするセレナの首根っこを掴み、玄関をまたぎ、部屋の壁に立てかけておいた剣を背負う。
この間およそ10秒。悲しいことに一連の動きが手慣れ始めていた。
じたばた暴れていたセレナも玄関を過ぎたあたりで諦めて動きを止めた。こちらももう慣れてきている。
「・・・で?今度は何をやらかした。」
「私じゃないわよ!中央部の魔道罠が作動したから、様子を見に行こうと思って・・・。」
「・・・侵入者か。全く、油断すればすぐこれか。」
下水が壊れたか、山羊が暴れたか、はたまた人食い魚の氾濫か。
などと色々と予想はしたが、今回はかなり最悪の部類に入る事態だ。
いや、この森で起きる異常事態なら何が起きても最悪であることに間違いはないが、感応装置が反応するのは基本的に人間だけ。
最近は大人しかったが、またハンターどもが森にやってきたのだ。
敵ならば気を引き締めなくてはならない。気を張り出したタイタンに、申し訳なさそうにセレナが一言。
「・・・剣を取ってきてもらったのに、言いにくいのだけれど。多分・・・武器はいらないわよ。」
意味がわからず疑問符を浮かべるタイタンだが、数分後、その疑問は解消されることになる。
「僕は敵ではないと、前に再三伝えたはずなんだけれどね。」
「許せディアン。この阿呆は5ヶ月この森に住んでいる俺の生体登録すら最近まで忘れていた馬鹿野郎だ。」
「馬鹿か阿呆かせめてどっちかにしなさいな!それに責められるのは私ではないでしょう!?ディアンがあの日そそくさと帰ってしまったんだから仕方ないじゃない!」
ディアンの首の側面には紫色の鬱血痕が残っている。とっさの判断でロープと首の間に指を差し込まなければ、ディアンは悶え苦しみ絶命していたに違いない。
「あんたが森の監督責任者だろ。せめて一言伝えておけばよかっただろう。開き直るな。」
若干私怨が入っているじゃないの。
セレナはそれを無視してディアンの肘の皮をつまみ、器用にハサミを入れた。
神経に触れないので痛みはない。薄く剥ぎ取られた皮膚は金色の粉が沈殿した水の中に入れられるとぼろぼろと崩れ落ち、すぐに水に溶け込む。
セレナはそれを自室へと運び、そして数分も経たずに戻ってきた。
「・・・はい、これで生体登録はできたから、魔道罠は避けられるわ。植物とか動物は相変わらず襲ってくるからそれだけは気をつけて頂戴。」
「・・・全く。作戦の時のように警戒してくればよかった。地面を踏めばトラバサミ、木に登れば槍が飛んでくる。水に落ちれば魚が目玉を齧ろうとするし、挙げ句の果てに銃撃してくる食人植物ときた。どう考えても客人に対する態度じゃないだろ。」
「植物が・・・銃撃?なんだそれ、俺も知らないんだが?」
ディアンは目を逸らしたセレナを睨み、マドレーヌを齧った。
ひどい目にあった、ひどい目にあった、と怨念のように繰り返され、セレナは流石に申し訳なさそうに小さくなっている。目つきの悪い黒曜に睨まれ続けると、本当に呪われるのではないかという気持ちになる。
しかし、実は言葉ほどディアンの機嫌は悪くなかったりする。
なぜならディアンは、ハーブティーもマドレーヌも、口に入れるのは随分久しぶりだったから。
まさかこの森の住人がこれほど豊かな生活をしているとは到底思っていなかった。内心かなり驚きながら、ディアンは遠慮なくもぐもぐと甘い菓子を口に詰め込んだ。バターの香りはなく、その代わりスパイスで軽く味付けされたマドレーヌ。独特な味だが、スパイスの香りが良くて、いくらでも食べられてしまいそうだ。
ディアンは素直に一言、美味い、と言った。瞬間セレナの表情がぱっと花開く。
「ふふ!でも。お客様なんてタイタン以来だわ。昨日焼いたクッキーも食べて頂戴?焦がした蜂蜜を混ぜて作ったのよ!」
「あっ、食べる食べる。配給食以外のものを食べるの久しぶりだよ。」
・・・なんだか知らない間に打ち解けている。
ディアンはその細身の通り少食だ。そんなディアンが小動物のように、一心不乱にもぐもぐと菓子を食べる姿が、彼女の目には可愛らしく映るらしかった。
なるほど、さながら孫が遊びにきたお婆さんだ。人に何かを振る舞うのが、セレナは楽しくて仕方がないのだ。
・・・それはいいが、セレナ、って。
タイタンだって呼び捨てにしたことなどないのに、馴れ馴れしくはないだろうか。
俺だってこんなに早く打ち解けなかった。
なんでセレナさんは2回会っただけの男にこんなに心を開いているんだろうか。
というかタイタンと2人のお茶会より楽しそうなのも腹立たしいし。
「・・・さてさて、そろそろ本題に入ろうか。まずセレナに渡すものがこれ。タイタンに渡すのが・・・こっちか。はい。」
そう言ってディアンがそれぞれに渡したのは、同じ色の封筒。タイタンのものにだけ目印の丸いマークがされていた。
「互いに見せ合うかは自由にしていいけど・・・まあ、セレナは特にタイタンに見せたくないんじゃないかと思って。とりあえず別個に渡すから、僕が帰った後にでもゆっくり中身を読んでくれ。」
「・・・・・」
空気の読める男だ。この家の2人の距離感というものを、彼はもう掴んでいる。
タイタンにそう言っておけば、間違ってもセレナの封筒の中身を暴くことはないと、彼は分かってやっている。
有難いが、抜け目のない男だ。思ったことはセレナも同じだったらしい。
2人が無言で目線を合わせるのを見て、ディアンは得意げに笑っている。
「僕を仲間にしておいてよかっただろ?その分約束はきっちり守ってくれよ。」
「・・・それなんだけれど。ディアン、魔道授業は今度でもいいかしら?それより先に、私とタイタンに教えて欲しいことが・・・今の保護区が一体どんなことになっているのか、教えて欲しいの。」
「・・ん。そうだね。まず僕らに必要なのは情報共有だ。・・・そしてセレナ、できればお前のことも。憶測だけれど、もしかして、セレナは特区の出身じゃないのか?」
瞬間、セレナの表情が、凍った。
急展開した会話に、タイタンは全く着いていけない。しかし「特区」という言葉を聞いた途端にセレナが剣呑な空気を纏ったことだけははっきりと分かった。
先ほどまでにこやかに菓子を勧めていた相手を思い切り睨みつけ、セレナは冷え切った声でディアンを威圧した。
「・・・なんで、ハンター協会がそれを知っているの。」
「ハンター協会が把握しているのは、過去に一度、たった1人だけ、特別指定区域の強固な警備を無理やり破ってこちら側に侵入してきた、銀髪の少女がいたことだけ。人などいるはずもない特区から、何故か、こちら側に。今でも協会はその少女の行方を血眼で追っているよ。まさかこの森の結界の主人と同一人物だとは思っていないみたいだけれど。」
そしてディアンは、セレナを心配そうに見ているタイタンの方に、急に顔を向け。
「蚊帳の外、って顔をするなよタイタン。お前にも関係ある話だよ。お前はハンターの中でも数少ない、特区への遠征任務を請け負っていたハンターなんだ。」
「俺が?」
やはり、ディアンは記憶を失う前のタイタンに詳しいらしかった。
正直、そこまで聞きたいとは思っていないが、必要なことなら嫌でも聞く必要もあるかもしれない。
背筋を伸ばし、姿勢を改めてディアンに向きあう。ディアンはそれを見て今一度2人との契約を取り付ける。
「・・・交換条件だよ。僕はハンター協会の情報をお前に渡す。その代わり、特区の情報・・・タイタンとセレナのことを、教えてくれ。」
交換条件。そう言う割に、ディアンは切羽詰まっているように見える。
「・・・大体俺に起きたことはこの程度だ。怪我をして記憶をなくし、セレナさんに拾われた。その後俺に起きたことは・・・お前も見ていただろ。俺はあの狼によって怒れば尾が飛び出す体質になり、セレナさんは・・・その。」
「ディアンはあの時もう見てしまったもの、隠さなくて・・・いいわ。その、羽根が生えているの、私。不気味かも、しれないけど。」
そう言ってセレナは身を縮こめた。自分から言い出しただけ彼女も成長した。・・・タイタンと接しても、自ら羽根を晒すことはまだできない様だったが。
「こんな美味しいお菓子を作る人を、不気味だとか化け物だとか、そんな風に思ったりしないよ。・・・セレナは特区で生まれた、そのことに間違いはないんだね?」
「・・・まあ、そうよ。でも、特区のことなんか覚えていないわ。いろいろあってここに流れ着いて、お母様にお世話になっていたの、私。」
いろいろ。セレナはそうはぐらかした。
ただその時、僅かにタイタンの表情が曇った。その「いろいろ」に何が詰まっているのか、少なくとも良い出来事でないことだけはディアンも察することができた。
「タイタン。特区というのは、ここより更に西方にある、簡易結界が通じない崩落の頻発地域だ。理由はわからないけど、特区に立ち入ると簡易結界が全く作動しなくなる。一歩踏み込めば崩落が起きる、生還するのはほぼ不可能と言われる地域に一体何があるのか、それを調査していたのがお前だった。・・・そんな地域で、セレナは生まれたと、そう言っているんだ。」
生まれるって。つまりはそんな場所に父親と母親、少なくとももう2人、人間が生活をしていたということだ。怪訝そうな顔をするタイタンに、セレナは当然よね、と言わんばかりのため息をついた。
「だから、覚えていないの。本当に。・・・都合よくそこだけ覚えていないなんて、思わないで頂戴?本当のお母様は歩けるようになった私を放ってどこかへ行ってしまって、その頃にはもう魔道が使えたから、ご飯の匂いがする方に一生懸命歩いていたらいつのまにか特区を出てしまっていたの。・・・覚えているのは、それだけ。」
セレナは嘘をついている様子は全くなく、むしろ、これほど疑わしいことを言っている自分をどう信用してもらおうかと困っているような様子だった。
タイタンは隣にある小さな肩に、そっと手を添える。
「あんたが嘘をついているとは思わないよ。・・・ディアンはどうして特区のことを知りたがるんだ?こちらばかり話すのはフェアじゃない。」
困り果てたセレナを庇うように切り返すタイタンを見て、ディアンはため息をつく。
嘘ではないことぐらい僕だって分かっているから、その敵意に満ちた目を止めろ、と。
さながら獣の眼光だ。狼に近づいているのか、元からそうだったのかは知らないが、立ち振る舞いは縄張りを守ろうとする獣のそれだ。
「・・・そうだな、今の保護区の現状から順番に話して行こう。」
ディアンは一口、ハーブティを啜った。
「一言で言えば、酷い有様だ。保護区に、明確に住民の身分に格差が生まれ始めたのは僕が生まれたころから。原因は、保護区の急激な人口増加。もうこれ以上、保護区に人が住める住居などほとんどない。人が増えて物資が足りない。家を建てる物資もないし土地だってない。18年ぐらい前から保護区はずっとそんな調子だよ。」
「人が増えたきっかけは・・・結界の外に住む人たちをハンター協会が見つけたから?」
「ご明察。元々保護区の崩壊の兆候はあったけどね。結界の外の人たちを闇雲に保護したのがよくなかった。あんなに外に人が居るとは協会も思っていなかったし。とにかく、結界の外からの移民の流入で、保護区が長年掲げてきた完全なる平等は崩れ去った。きっかけは主に2つ、移民差別と貨幣の誕生だ。」
「差別・・・。」
セレナはディディの言っていた、タイタンの過去を思い出した。確か彼女とタイタンは、元々結界の外の人間だったと言っていた。そして彼らが保護区の住人でありながら酷く困窮していたことも聞いた。
「人が増えたことで、協会は慌てて新しい住居を大量に作った。物資不足の中で作られた簡易住居は・・・まあ酷いものだ。路上に、雨風もろくに凌げない布を張っただけのテント。テントの移民たちは、もともと反協会を掲げて結界の外に住み始めた人間たちの子孫だから冷たい目で見られる。」
「・・・くそ。追い詰められた人は、全く・・・どこまでも醜いな。移民たちには何の非もないだろうに・・・」
何の非もない、とは一概に言えないんだよ。と。
嗜めるようなディアンの声色に苛立ったタイタンの目は鋭い。
「・・・保護区に行くのを嫌がる移民も多いとセレナさんから聞いた。無理やり保護区に収容したのは協会じゃないのか?」
「まあね。でも結界の外の生活に限界を感じて、望んで収容された移民も多かったらしいよ。お前が殺した隊長なんかもそのクチさ。・・・僕が責めているのは、完全平等を掲げる保護区に、貨幣制度を持ち込んだ一部の移民だよ。」
確かに、先ほどディアンは、保護区が崩壊した理由をもうひとつ挙げていた。
しかし、保護区は全ての物資が配給で成り立っている場所だ。貨幣など必要ないではないか。
「タイタン。保護区の外ではね、貨幣制度が当たり前に残っているのよ。配給のない社会で暮らすのに、物々交換では不便すぎるもの。・・・完全なる平等を掲げて、人々に配る物資も嗜好品も全て均等に配ることで成り立っていた保護区で、生まれてからずっとそれが当たり前だった人々が、お金を払って何かを買うことを知ってしまったら、どうなるか想像できる?」
「っ、そうだ。確かに・・・お金なんて格差を生むものの代表を、使い方も碌に知らない人間たちが何も考えずに使ったら・・・社会が崩壊するに決まってる・・・!」
保護区は情報統制がされている。特に、自由な文化があった旧人間時代のことなどご法度。
教科書に載るのは崩落以降の歴史、ハンター協会ができてからの歴史なのだと、あの歴史書に書かれていた。
そう。だからディアンの話は恐ろしいのよ。と、セレナが続きを促した。
「協会は貨幣の所持と使用を厳しく禁じているよ。でもほとんど規制できていないのが現状だ。貨幣は、配給では足りないものが出た時に、それを誰かと交換するために保護区で使われ始めた。配給が不足し始めた今では、貨幣無しで保護区で生きていくのはほとんど不可能だ。薬を買う為に誰かが貨幣を積む。薬を売ってより多くの野菜を買おうと、誰かが薬の値段を上げる。薬を買う為に多くの貨幣が必要になった誰かが、貨幣を得ようと塩の値段を上げる。その繰り返しで保護区民の生活はもうボロボロだ。・・・貨幣を得る為に、貨幣を偽造する保護区民や、移民の物資を奪う配給担当のハンターがぼろぼろ出てくるくらいには。協会は貨幣を禁ずるのではなく、協会が貨幣を完璧に管理しなくてはいけないんだ、本当は。」
そりゃ、2000年間貨幣というものが全く存在していなかった世界に、いきなり貨幣が持ち込まれたら混乱が起きる。
貨幣とは本来国家が血眼で価値を管理するものだということを、保護区民はきっと知らない。
インフレーションなどの概念を理解できているかすら怪しい。
「そもそも、結界の外で貨幣を使っていた移民の一部がゴネなければこんなことにはならなかったんだよ。自分の少ない資産を失うのが恐ろしくて仕方なくて、保護区の絶対のルールを破った。・・・全く、忌々しいったらありゃしない。」
吐き捨てられた呪詛の言葉はテーブルに落ちてごとりと音を立てた。
ここまででもかなり壮絶な話だというのに、それを普通に話していたディアンの空気が、変わった。まるでここからが本番だというような、地獄の門の入り口に立たされたような。
長話で粘った唾液を、ハーブティーでゆっくり飲み下して、ディアンは口を開いた。
「そんな中、恐ろしい事件が起こった。・・・54人の子供がある日、忽然とテントから姿を消した。そしてハンター協会に、1人の市民が泣き崩れながらやって来た。自分の子供たちを男に売り渡したと。自分の子供は今頃結界の外に捨てられて震えているに違いないってね。」
「捨て・・・!?嘘、保護区でそんな犯罪が起きるはずないでしょう!?」
セレナの横槍にタイタンも頷く。
結界の外では、言っては悪いがそれこそよくある話だ。
だが、人の出入りが厳しく管理された保護区で、何十人もの子供をバレずに連れ出すなど、絶対にできるわけがない。
連れ出したやり口は知らないよ、と前置きして、ディアンは話を続ける。
「配給不足で子供を養えないテントの住民から、金をもらって子供を処分して、稼ごうとした馬鹿がいたのさ。そうすれば親は子供のぶんの配給を不正受給できるから、きっとビジネスになるって。・・・まあ犯人は一週間と経たずに捕縛され、生き残った子供は3ヶ月後に無事保護されたけど。今でも保護区では語り草になっている大事件さ。」
今までのディアンの話で、保護区がどれほど悲惨な状態なのかを痛感していたつもりだった。しかしそれが本当に「つもり」に過ぎなかったことをタイタンは一瞬で理解した。
保護区は本当に終わりかけているのだ。
腹を痛めて産んだ子を、金のために放り出す母親。それを金にしようとする人間。
貧しさで倫理を失った数多の人々が、保護区の路上に、寒さに震えながら犇いている図が、何故だかタイタンには鮮明に想像できた。
「・・・生き残った子供は無事保護された、って言ったわね?」
「ああ。言葉通りの意味だけど。」
もう確かめる必要もない。その言葉が指す意味をこの場の全員が理解していた。
それをディアンに突きつける残酷な役目は、タイタンが請け負った。
「生き残った子供は・・・何人居たんだ。」
ディアンは僅かに喉を詰まらせ、黙った。
饒舌な口は固く閉ざされ、それが再び開いたのは、遠く、名もわからぬ鳥の声が森に響いた頃だったか。
「僕だけだ。」
ディアンの光を失った黒曜が持ち上がり、ゆっくりとタイタンを捉えた。
深い深い、硝子のような闇だけが、ただそこに存在している。
家族3人、支え合って暮らしていた、貧しいながらも優しい家族。
異常に気づいたのは、隣で眠って居たはずの妹のうめき声が聞こえた時。
ディアンは慌てて母親を起こそうする。ミーシャがいない。ミーシャがいないよ、母さん。
しかし何度揺すっても母親は起きず、決して行ってはならないと口すっぱく言われている深夜のテント街に繰り出そうか、悩みはじめたとき、後頭部に衝撃が走った。
硬いもので殴られたことだけはわかった。朦朧とする意識の中、最後に見た母親の肩が震えていたことをよく覚えている。
「凍った石を齧って、とにかく闇雲に歩いて、僕たちは後に特区と呼ばれるようになる地域に踏み込んでしまった。地平線の果てまで真っ平らの大地を、一週間飲まず食わずで、崩落の淵を必死に避けて歩いて限界だった僕たちの足元が小さく振動して、沈み込んだ。一週間一緒に過ごした10人の子供を見捨てて、妹の手を握って真っ先に走り出した僕は・・・肺が震えるような轟音と、それが止まった時に背後に突如開いていた大穴を見た。」
「・・・っ。」
崩落を世界の危機だと、きちんと捉えられている貴重な人間。
かつてタイタンはディアンをそう評価した。
その理由がこれほど残酷なものだなんて知らなかった。
彼の黒曜が淀んでいる理由も、ここまでのものだなんて知らなかったのだ。
「そしてしばらく後に妹が飢えて死んだ。僕は・・・妹の死体を食べた。今思い出すだけで気が狂いそうになるけれど、あの時は、血も抜いていない生き物の肉が、本当に美味かった。」
ディアンの真っ赤な唇が視界にちらついて目眩がする。
「そうしないと生きられなかった、だからこれは懺悔でもなんでもない、後悔でもない。ただの事実。」
「タイタン、タイタン・・・ッ!」
ひゅう、ひゅうと音を立てていたのはタイタンの喉だった。
呆然としているタイタンの胸に、いつの間にか温かくて柔らかいものが乗っていた。
隣に座っていたタイタンの胸に、恐怖に震える銀色が縋り付いていた。
真っ青な顔色。凍えて細かく震える肩。自分は彼女を助けてあげなくてはいけない。
しかし安心しろと背中を撫でた手も震えていて、これではあまりに説得力がない。
「怯えさせるのはわかっていたんだけど、ごめん。」
「ちがうの、ちがうの。だって、こんなこと、あっていいわけがないじゃない!貴方達は何にも悪くないのに、なんでこんなことが起きてしまうの・・・。」
タイタンはセレナをなだめるために、指先を動かすのが精一杯だった。
体を硬直させるのは、ディアンへの恐怖と、それを抱いてしまう凄まじい自己嫌悪。
彼は芯のある人間だ。世界を救いたいと、そう願った彼のことをタイタンはそれなりに認めていたし、信頼していたのだ。
それなのに、彼の過去を聞き、タイタンとセレナはディアンを僅かに嫌悪してしまった。
かつて共に戦場を乗り越えた戦友に、そんな感情を抱いてしまう自分は、なんと薄情なのだと自分を嫌悪した。
「そんなに、僕のことを心に入れようとしなくていい。悪かった、怖がらせて。」
ディアンはそう言ってタイタンの方に目をやった。お前なら割り切って聞いてくれるだろう、という信頼がそこにあった。
悪いがその信頼には応えられそうにない。
ディアンを傷つけることを分かりながら、ディアンから目を逸らす。しばし黙った後、ディアンはなんでもないように話を続けた。
「・・・そして保護されて、気づいた。以前使えていた魔道が、全く使えなくなっていた。いつも通り魔道を使おうとすると、自分の姿が文字どおりに希薄になる。あの事件のせいで、僕の魔道は変質した。あの事件が僕の世界を塗り替えた。僕が持っていた大切なものを、塗り替えられたんだよ・・・なあ、セレナ?」
どうしてそこでセレナさんに話が向くのだ。急に矢面に立たされたといった態度ではない、まるで既に処刑台に立つ覚悟は決めていたとばかりに、セレナはタイタンの服に顔を擦り付けた後、震える体を離した。
「・・・タイタン、以前、魔道のお話はしたわよね。魔道にとって、大切なもののお話。」
彼女の赤い目には気づかない振りをして、平素を装いタイタンは会話を続ける努力をする。
「魔道の個性は・・・その人が世界をどう捉えるかによって生まれる、だろう。」
「・・・もし、その人の世界が変質するほどの何かが起きてしまったら?」
タイタンは想像する。
家族3人、貧しいながら支え合って暮らしていた。
優しかったはずの母親に裏切られた。
大切な妹は自分の胃に落ちて溶けて死んだ。
泣き叫ぶ子供を見捨てた。
たった1人、絶望的に何もない地平線だけを見つめて、長い時間、自分以外の命を犠牲にし続けて、ディアンはやっと息をすることを許された。
それはディアンにとって、世界を塗り替えるほどの絶望であったのだ。
「魔道は、変質するのか・・・!その人の世界が塗り替えられた時、同時にその人の魔道も、変質する・・・!?」
「そうだ。具体例が少なすぎるせいで、学術的に証明されているわけではないけれど・・・自分のことだ、僕にはわかる。僕の魔道は、あの事件のせいで変質した。そして多分今、セレナも同じ経験をしている。」
驚いてセレナを見れば、彼女は気まずそうにカップの淵に唇を押し当てていた。
「・・・タイタンに言わないでほしかったのだけれど。」
「必要なことだから。・・・君はもうとっくに自分で気づいていたんだよね?」
ディアンは、初めてセレナとタイタンに批判的な目を向けた。
ゆっくりと、舐めつけるように、セレナを、そしてタイタンを見回し、口を開いた。
「僕は君を利用したい。僕は以前の、事件以前の魔道を取り戻したい。魔道を振るうたびに苦い気持ちが押し寄せる、こんなのはもううんざりだ。僕は僕の過去を完璧に拭い去ってみせる。」
「魔道を、取り戻す?」
「一度やったことだ、不可能じゃないだろう。僕の世界をもう一度塗り替えればいいんだから。・・・まあ口で言うほど簡単じゃないけれど。きちんと理論を組み立てて、実験を重ねて、条件を整える必要がある。教科書もなく魔道の新しい領域に挑むんだ、簡単じゃないけれど・・・僕以外の実例を見つけた今、それはもう机上の空論じゃない。」
実例。
ディアンはまっすぐ、俯いたままのセレナを見ていた。
「この間、一時的にセレナと繋がってわかった。セレナの中には2つの魔道がある。君の振るう残虐な攻撃魔道と別の、何か得体の知れない魔道が、セレナの中に細く渦巻いている。セレナの魔道は今変化を始めている。その変化を研究できれば、僕はきっと以前の魔道を取り戻せる。その為に僕は、世界を今一度塗り替えるために過去の事件現場である特区の情報が欲しいし、初めて見つけた僕以外の成功例であるセレナを観察したい。それが僕がお前たちに協力したい理由。」
あの後、ディアンがハンター協会に帰ってタイタンを裏切る可能性はもちろんあった。
それでも、ディアンを生きてこの森から帰したのは、彼を信じたのは、彼の覚悟を知っているから。
なら、タイタンの答えなど決まっていた。世界を救うことに同意してくれた彼が、過去を拭いたいと願うなら、それに力を貸してやりたい。
「分かった。俺はそれで構わない。魔道に長けたあんたが仲間になってくれるなら、心強い。」
「セレナは?」
2つの視線に串刺しにされ、セレナもさすがに無言を貫くのが苦しい。
「というか、セレナさん。今の話を聞いた限り、なんで魔道の変質を隠したがるのか分からない。・・・あんた、今何を考えてる?」
「・・・別に、大したことじゃないわよ。私も、いいわ。よろしくね、ディアン。」
「だとさ。改めて今後ともよろしく頼む、ディアン。」
彼女はぐっと、尖った何かを飲み込んだようだった。
ディアンは先ほどの批判的な目をタイタンに向けていたが、タイタンはそれを無視してお茶のおかわりを作る為立ち上がった。
今晩は泊めてほしいというディアンをどこに寝かせるのか、決めるだけで随分と時間がかかってしまった。
自分は作業場の床でいいから自分の部屋で寝ろと、大変なことを言い出したセレナをタイタンが全力で止め、客人なのだからと簡易ベッドをディアンが希望すると今度はセレナがゴネる。
「作業場は散らかっているのだから駄目よ!プライバシーというものがあるでしょう!?」
何かが根本的に間違っている。
結局、作業場を使わなければ良いのだろうと、比較的広いタイタンの部屋に簡易ベッドを運ぶということで決着がついた。
この時点ですでに1時間ほど経過していたというのに、少々大変なことになってしまった夕飯のせいで、風呂上がりのタイタンはかなりぐったりとしている。
「・・・土産は有難いが、この家にもう酒は持ち込むなよ、頼む。」
「セレナは喜んでただろ?いいじゃないか、あのくらい。」
夕飯の席でディアンがカバンから持ち出したのは、ウイスキーの瓶。
保護区では嗜好品としてこっそり流通しているらしいそれは、ウイスキーというにはアルコール臭がきつく、雑味も多い、ただ酔うためだけの酒。
過去の時代のウイスキーの旨さを知っているタイタンにとってはあまり美味しいものではなかったが、なかなかアルコールなど飲めないこの森への土産のチョイスとしては最高と言っていい。
お酒なんて久しぶりだと目を輝かせたセレナは、そこそこ酒に強いタイタンですらぎょっとするほどのハイペースでウイスキーをかっ食らい、酔いつぶれて今は自室で爆睡している。
「そこまで強くないなら自制して飲めばいいのに、まったく。平素でも面倒なのに酒に酔うと本当にタチが悪い・・・。」
「今度尻尾触らせてあげなよ。・・・っ、ふふ。タイタンが可愛い、可愛い、って。保護区の英雄も惚れた女の前では形無しだ。」
ディアンを本気で睨みつける。今なら視線だけで人を殺せそうだ。
「酒飲んでるときくらい顰めっ面はやめなよタイタン。男には僕みたいな可愛さも必要だよ。」
きっかけはディアンのいつも通りの軽口。しかしそれに全力で反論をし始めたのはすっかり酔っ払って出来上がったセレナ。
「何を言っているの!?タイタンの可愛さが貴方には分からないの!?」
なんと酔っ払ったセレナは、ディアンに年下のタイタンがどれだけ可愛いかを力説し始めたのだ。
素直じゃないのが可愛いだの、セレナを怒鳴った後にちょっと気にしているのが可愛いだの、好きなものが夕食に出ると口角が上がっているだの、ふわふわの尾が可愛いだの、今もちょっと照れているだろう可愛いだろうと指を指され。
セレナの聡明さを恨んだのは人生で二度目だ。
挙げ句の果てに尻尾を触らせろ今すぐ怒って尾を出せと無理難題を押し付けられ、爆笑するディアンを窓から放り投げて鍵を閉めるなどの一悶着があり。
正直、地獄だった。明日素面に戻った時にディアンの顔を見られる気がしない。
「黙れ。忘れろ。とにかく二度と酒は持ち込むな。味を占めて自分で作るとか言い出しかねないんだよ、あの人は!」
毎晩のように泥酔したセレナに絡まれて揶揄われ続けたら、タイタンでも流石に引越しを考えるかも知れない。倦怠感の残る体をベッドに横たえると、どっと眠気が押し寄せた。
気持ちは辛いが、疲れと酔いでこのまま気持ちよく眠れそうだ。
明かりを落とすようにディアンに頼むと、ディアンは何を言っているのだと、タイタンにクッションを投げつけた。
「痛い。」
「起きろ。やっとセレナが居ない場所で話せるんだから。・・・計画はどうなってる?あの夜のことをセレナにはどこまで伝えた?」
「・・・渡しもののことと、狼の正体、セレナさんが計画の重要人物であること以外は全て伝えた。下手に隠して勘ぐられる方が面倒だ、あの人を相手に隠し事をするのは骨が折れる。」
「狼の正体?」
そういえばあれはタイタンの記憶に流れ込んできた情報だったか。ディアンは狼が念で話した情報以外は知らないのだ。
「セレナさんが、昔子狼を助けたと言っていた。その狼に、セレナさんのお母様が改造を施して魔道の力を与えたのがあの狼だと見て間違いないと思う。・・・大切な狼を改造したと知ったらセレナさんは間違いなく怒るから、隠しておくように言われた。」
「言われたって、誰に。」
「誰にって・・・ああ、そうか。狼に渡された、渡しものというのは、おそらく過去の記憶だ。崩落以前の世界の人間の記憶をいくつか渡されて・・・その中に例外的に狼自身の記憶が混ざっていた。セレナさんが怒ると言うのは、狼の記憶の中でお母様が言っていたことなんだ。・・・共有していない情報はこれくらいだと思う。」
ディアンはそれには返事をせず、考え込んだ。
まるで自分の事のように言うのだな、と。
そんなことは露知らず。タイタンは無音の空間だと流石に眠くなるな、などと呑気に考えていた。
タイタンは枕元の水差しからカップに温い水を注ぎ、一気に飲み下す。
そこでようやく体を起こし、ディアンに正面から向き合った。
「・・・難しい顔だな。」
「・・・セレナに来たるべき時が来たら、渡しものを渡す。僕はその来たるべき時というのが、彼女の魔道の変質の時だと考えている。」
「そんなにはっきりしたものなのか?セレナさんのお母様は、セレナさんが立派な魔道使いになったら、と言っていた。単純に彼女の魔道の実力が上がったら、ということじゃないのか?」
水を寄越せ、と。ディアンは渡された水差しから直接水を煽った。
正直衛生的に許したくない暴挙だが、彼もまだ酔っているということで許してやることにする。
いつもより据わった目がじっとタイタンを見つめ、小さな唇からぽつりと言葉が零れた。
「・・・あの悲痛な魔道が、世界を救うもんか。」
明るいところで見ると、整った顔立ちだ。いつも隈があって疲れた顔をしているが、それがなければ大層女性にモテるであろうな、とタイタンはぼんやり思った。
彼の暗い瞳は、きっと今、セレナを哀れんでいる。
「自分にとって嫌な思い出で構成された魔道を振るうのは、存外苦痛なものなんだよ。きっとあの子もそうだと思う。セレナの魔道が変わり始めたのがお前のおかげなら、これほど素晴らしいことはない。・・・お前の片思いかと思っていたけど、随分彼女に懐かれているみたいじゃないか。」
ディアンはセレナの過去のことなど1つも知らない。それでも彼女の魔道を見て何かを感じ取ってしまった。
彼女の魔道は痛烈で、悲痛だ。彼女の悲鳴のような魔道の中に差し込む、光明のような魔道が彼女を満たしたら・・・きっとセレナはもっと幸せになれるのではないかとディアンは思う。それなのに。
「・・・どうだかな。あの人は隠し事ばかりだ。今日だって・・・魔道の変質のことを分かっていて、それは決してセレナさんにとって悪いことには思えないのに、伏せたがった理由は、なんなんだ・・・?」
思うことはタイタンだって同じだ。彼女は自分の魔道を嫌っているのではなかったか。
自分を牢に繋いだ鎖、自分を拷問した槍。
それだけが世界の全てだった故に形作られた魔道が失われつつあるということは、きっとお母様やタイタンとの暖かい思い出が彼女を満たしつつある証拠であるに違いないのに。
それをまるで、悍ましいことのように彼女が隠したがる理由がわからない。
「僕が帰った後にうまく聞き出せ。」
「無理だ。」
まただ。またディアンの瞳が批判的な色を帯びた。
「仲がいいのか悪いのかよく分からないよ、お前ら。」
「何でもかんでも、心の全てを打ち明けることが信頼であると俺は思わないよ。」
「ただ仲良しをやるならそれでもいいだろうけど。お前はこれから計画のためにセレナを利用するんだから。やり方が生温すぎじゃないのか。彼女からありとあらゆる情報を引き出す覚悟がなければ、きっと世界は救えないよ、タイタン。」
ディアンもとうとう怠そうにベッドに横たわった。
タイタンの目に、ぼさぼさの柔らかそうな黒髪がゆったり流れて枕に落ちるのが、まるでスローモーションのように緩慢に映る。
「・・・今のところはこれでいい。こっちも隠し事がある以上、尻尾を掴まれたら逆にこっちがボロを出すことになる。この間も勘ぐられて・・・正直既にかなり怪しまれているが、俺がセレナさんの事情に踏み込まないという暗黙の了解で向こうも目を逸らしてくれているんだ。こっちがそれを破棄した瞬間計画が崩れ去る。・・・ディアンも慎重に頼む。感情的になってセレナさんを焚きつけたら終わりだ。あの人は何かと面倒臭いが馬鹿じゃないし、ああ見えて聡明だ。」
「分かった、今はそれでいいよ、今は。」
面倒臭いのはタイタンもだろ、という言葉は欠伸になって部屋へと溶けた。
「とにかく今後は森の探索を進めて・・・ひとまずの目標は危険な森の西方の探索だ。お母様の作った罠が山ほどある場所らしいが、だからこそ計画について何かが掴めるかも知れない。あんたは来るか?」
「・・・いい。次に来られるのがいつになるか分からないし、必要なら呼べなんて無責任なことも言えない。明後日からは南にできた新しい崩落の調査に行くし、そこから仕事も立て込んでてさ。全く、結界外調査隊にもっと人員を回せっての、内地でぬくぬくしやがって・・・」
ディアンの声がもにゃもにゃし始めた。こう眠そうなのを見ていると、本当に子供のようだ。
いや。小柄なだけでなく、まじまじと顔を見れば結構幼い印象を受ける。
結局彼は何歳なのだろう?酒は当たり前に飲んでいたが。
まあ、年齢不詳は自分も同じか、と。
諦めてタイタンは部屋の明かりを落とし、布団に身を沈めた。
「ハンター協会失踪者リスト。ルーヴ。20歳・・・本当に年下だったのね。ハンター協会結界外調査隊第4小隊の副隊長とハンター協会特務班班員を兼任。家族構成は、両親と兄が1人。祖父母は既に他界。彼は協会に多大な貢献をした偉大なハンターである。以下に彼の受賞した賞と経歴について記していく・・・。」
一度眠って酔いが抜けたセレナは机に向かっていた。
ランプをつけると「消し忘れか」と言って、馬鹿でかいノックと同時にタイタンがずかずか踏み込んでくる。あの人はノックの意味を分かっていないのだ。せめてセレナの返事を待つべきだと思うがそれは今度きちんと説教をする。
とにかく、そういった事情故に、セレナは小型の携帯ランプの明かりをさらに最小に絞ってディアンの封筒の中身を読んでいた。
「・・・世界崩壊時の・・・ええと、ワルシャワ?の大崩落から当時のコンピューターを持ち帰る。コンピューターを解析した結果当時のソーシャル・・・えっと。SNS?・・・何のことかしら。えっと、とにかく過去の時代のデータが沢山見つかったのね。」
読み進めて行く。そこに記された情報はセレナにとっては理解不能なものばかりだったが、ずらりと並ぶ難しい名前の賞たちから、ルーヴが偉大なハンターであったことは見て取れた。
「崩落内部の、調査。他任務中の事故で崩落に落下したが自力で壁をよじ登り帰還・・・?彼が落下した距離は不明だが、持ち帰られた崩落内部の情報は協会に多大な貢献をもたらした。」
やっぱり筋力お化けだ、あの人の肉体は一体どうなっているのだ。
セレナは冗談みたいな彼のぶっ飛んだ逸話に思わず口を押さえる。笑い声で本人を起こしたら笑えなくなる。
ある時は生身で逃げる牛を追いかけ捕まえ農家から感謝状を贈られ。
ある時はたった1人で反ハンターの武装組織を鎮圧し。
またある時は犬一匹を助けるために断崖絶壁の氷山を踏破し。
見知らぬ子供が失くしたおもちゃを追いかけて保護区を走り回り、始末書を書かされたこともあるという。
まるで物語の主人公のよう。まさに英雄。彼のエピソードはどれもが痛快で、豪胆だ。
ハンターになったきっかけは幸せなものではなかったかもしれないし、危険を体良く押し付けられていた事実は変わらない。それでもタイタンはその顰めっ面を引っさげて、たくさんの人を助けて、たくさんの人に感謝されていたのだ。
それは、素直に嬉しいし、ちょっと羨ましい。
「ふふ、タイタンは意外と家庭的なのよ、誰も知らないと思うけれど!ふふ・・・。」
あの口うるさい小姑の、知らない一面を知るのが楽しい。
夜がどんどん更けて行くのも気づかず、セレナは細かい字のならんだ紙束をうきうきとして読み進めた。
「特務班の任務中に失踪。5ヶ月以内に彼の生存が確認できなかった場合、死亡扱いとなり正式にハンター協会から除名される。任務の内容については・・・ええと。人類保護区域から1500km西方に位置する未調査区域の調査、その内部に遺棄されたと思われる魔道機械H-003の回収。H-003というのは分からないけど、協会が狙うんだもの・・・きっと結界装置のことね。」
そして最後に、ディアンの直筆らしい紙が挟まれ、自分の権限ではこんな簡単な情報くらいが閲覧する限界であったこと、隊長から断片的にルーヴのことを聞いて気になっていただろうからこれを渡したこと、タイタンは知りたくなさそうだったからセレナにだけ情報を渡した旨が書かれていた。
「ありがとうディアン、明日こっそりお礼を言わなきゃ。」
資料をそっと封筒にしまい、ベッドのマットレスの下に挟んだ。あと今日しなくてはならないことはない。あとはゆっくり眠って、明日はディアンを見送るだけ。だというのに。
「・・・すっかり目が冴えてしまったわ。どうしたらいいかしら。」
暖かいお茶を飲もうか、それとも少しだけ本を読もうか。
思案しながらちらりと見上げた窓の外。まるで写真のような、穏やかで静かな夜が窓の外に広がっている。
「・・・少しお散歩するくらいなら、そんなに怒られないわよね。たぶん・・・」
過保護な小姑がつきまとうせいで、最近は1人で過ごす時間もめっきりなくなっていた。
窓の外、大きな満月が煌々と夜道を照らしてそんなセレナを誘っている。
ああ、あまりに魅惑的。冷たい夜風を飲み干して、小鹿のように爪先を夜露で濡らしてスキップしたら、どれほど楽しいだろう。
「大人の女には、1人になりたい時があるものなのよ。」
賑やかなのは好きだが、大人の女というのはそういうものなのだ。
これから、いけないことをする。
とくとくと胸を鳴らし、セレナは寝間着の薄いワンピース一枚で窓から飛び出す。
散歩は気まぐれな方が好みだが、今日のセレナには明確な行きたい場所があった。
裸足で歩いた転移装置の先、森の南方。土で足を汚すのは嫌だと、右手で持って来た赤い靴をそっと履いた。
絶対に1人で行くなと言われているが、今回ばかりは仕方ないのだ。
「だって、タイタンは崩落を見ると具合が悪くなるものね。」
セレナはゆっくり森の出口へ向かって行く。
安全に森の外までたどり着けるのは、この南方地域しかない。あとは囲い込むように、西方、東方は未知の区域、家より北は断崖絶壁だ。
そう、彼女が見たかったのは。
「・・・森の外なんて久しぶりに出たわ。」
彼女の足は止まらない、止められない。
好奇心に踊る胸を止められる唯一の男は、今は遠く、夢の中だ。
ぐわりと圧を増した腐臭に表情ひとつ変えず、セレナは死の大地へ踏み込む。
勿論彼女の持ち物に結界装置などない。しかし彼女の顔に恐怖はない。
森の中にはない、圧倒的な地平線。平らな大地。その「絶景」に彼女の心はただ躍っていた。
当然だが、森の外にも世界は広がっている。
立ち入り禁止の特区の先にも、保護区の先にも、当たり前に世界は広がっている。
想像もつかない。この世界はどれほど広いのだろう?
この広大すぎる世界をかつて、人間の文明が覆い尽くしていたのだなんて。
「ふふ、きっと私なら忙しなくて目が回ってしまうわ。」
タイタンは過去の文明が好きなようだが、自分はやっぱりこの静かな世界が好きだ。
自分と大地と満月しかない。誰もセレナの心を揺り動かそうとしない。
自分以外の命が存在しない穏やかな空間が好きだ。
崩落は嫌いだが、もし過去の文明時代に自分が生まれたら、きっとおかしくなってしまっていたと思うのだ。それを壊してくれたことだけは、少しだけ有難いとセレナは思ってしまう。
セレナは大地に開いた大穴を、ぺたりと座って覗き込んだ。
正確に切り取られた正円。それは内部もほとんど同じで、僅かに樹木の根や岩が出っ張っている以外はほぼ凹凸のない滑らかな壁面が果てしなく奥まで続いていた。
「・・・やっぱり。タイタンはどうやってよじ登ったのかしら?見てみればわかるかと思ったけれど、魔道もなしにここをよじ登るなんて、タイタンはやっぱりおかしいわよ。」
なんとなく崩落跡を見てみたくなった。理由はそれだけだった。
一体崩落の中とはどうなっているのだろう、この先はどこに続いているのだろう。
今までセレナは、地球の内核まで続いているという言葉を鵜呑みにしていた。
しかし、先ほど読んだあの紙束には確かに、崩落内部の情報がタイタンによって持ち帰られ、それが協会に何か貢献したと書いてあったではないか。
この世界に住むほとんどの人が知らない真実が、ひょっとしてこの中にはあるのではないだろうか?などと、散歩の途中に思い立ってしまい、とりあえず崩落を見に来てしまったのだ。
目で見ても、しかしそれはただの深い穴。
「魔道的に解析してみればわかるかしら。」
セレナはじっと、自分の目に魔道を込めてみた。
くるくる、セレナの目に光が映る。グリムメタルのような金色の、ラベンダーの香りがする涼やかな光が、セレナの目から、神経を通って、耳に、鼻に、脳に、口に流れ込んだ。
「ごはごはん。」
「え?」
耳を疑った。ここには誰もいないはずだ。周囲には相当注意してここまで歩いてきた。
今の声はどこから?はっとして槍を背後に向けるが、そこには誰もいない。
「え、何・・・?」
セレナの感覚器に引っかかる魔道の痕跡はない。
「ごはごはん、あなた、ごはん。」
「違うわよ!私はご飯じゃないわよ!」
あまりに不思議すぎる発言に反射的にそう返事をした。一体何なのだ、全く。
声の主人はしばらく考え込んだようだった。
「ごはんじゃない。」
あまりに間の抜けた、幼い少女の声に、セレナはすっかり毒気を抜かれてしまった。
攻撃する意思はないらしい。
セレナはどっと背中にのしかかった重みを吐き出すように、その声に応えてやった。
「私、セレナ。貴方はどこにいるの?」
「せれ、な。」
初めて聞いた言葉を、声の主人は機械的に繰り返した。
「ぴぴ。せれな、せれな。あなたはせれな。ぴぴ。ぴぴ。」
セレナは気づく。声は崩落の奥から聞こえる。
「・・・ひょっとして、崩落の中に落ちてしまったの?」
「あなぼこのなか。ぴぴ。」
ピピ、というのがこの声の主人の名なのだろうか。
最近はめっきり来なくなったが、この辺りには結界外集落がいくつかあり、時々人が迷い込んでくることがある。きっと集落の子供が崩落に足を滑らせたのだろう。
そこら中穴だらけなのでそういった事件は珍しいものではない。大概は諦められてしまうが、奇跡的に生き延びた命を見逃すなど、セレナにはできない。
「ど、どうしようかしら。鎖を落として引き上げて・・・いえ、そんなのは無理。きっと横穴に引っかかったのよね。タイタン、タイタンを呼んできて・・・」
「ひきあげなくて。ぴぴ。いいよ。ぴぴ。きらわれもの。ぴぴ。よこあな。あなぼこ。だいじょうぶ。」
抑揚のない口調。感情の読めないその声の発した言葉に、セレナの胸がぎゅっと詰まった。
きらわれもの。彼女は確かにそう言った。
「・・・大丈夫って。大丈夫なわけないじゃない。」
「だいじょうぶ。ぴぴ。ぴぴ。おそと。ぴぴ。きらわれもの。ころされる。ころされる。」
ころされる。ころされる。
冗談のような巫山戯た口調だが、きっとそれは、冗談でも何でもない。
セレナは集落のような閉鎖された人間関係の中で嫌われた人間がどんな目に遭うのか、よく知っている。吐きそうになる程、知っている。
そして、そこから引き上げようと無理強いをされる煩わしさも知っている。煩わしいのだ、信じてもいない人を信じることを強要される、押し付けの善意など。
ピピがそれでいいなら、とあっさりと納得することができるのは、そういう世界で生きてきたセレナだから。
「ぴぴ。ここ。すき。ひきあげなくて。いいよ。」
「分かったわ。私に、何かできることはある?」
ピピは間髪入れずに答えた。
「ごはん。ずっとたべてない。おなかすいた。おなかすいた。ごはごはん。ぴぴ。」
それはそうだ。穴の中に、食べるものがあるわけがない。
セレナは慌ててポケットを探る。持っているのは非常食の蜂蜜飴。金属缶にぱんぱんに詰まった薄茶色の塊が、この場にある唯一の食べられるものである。
「飴玉でいいなら、あるわ。・・・でも、どうやってピピに渡したらいいかしら。」
「なげて。ぴぴ。ぴぴ。ひろう。まどうつかえる。ぴぴ。」
確かにセレナは物心ついた頃から魔道を手足のように振るっていたが。
それは私が魔道の天才だからであって。誰でも幼い頃から魔道を振るえるというものではないのだけれど。
セレナは半信半疑で缶を崩落の中に放り込んだ。かん、かん、という小気味良い音はすぐに聴こえなくなり、返事もなく、セレナが不安になったころ。
「ぴぴ。ぴぴ。ぴぴ。ぴぴ。なにこれ。」
抑揚のない声でもわかる。お前騙しやがったな、と言わんばかりの態度。
顔も見えないピピに睨まれている。気がする。
確かに飴玉など集落にはないものだが、いや、それ以前にピピは缶のこともわかっていないのではないか。あの金属を食べ物だと誤解して丸齧りしたらたまったものではない。
「違うわよ!その銀色の蓋を開けて、中身の茶色いのを口で転がして溶かして食べるの。」
再び無音。
さすがにそろそろ帰らないとまずいのだが。
でも人命が関わっているのだし、と焦る気持ちを押さえつけ、そしてちょうど、セレナが飴玉を食べ終わるぐらいの時間が過ぎた頃。
「おいし。ぴぴ。」
ちょっと声が満足げで可愛い。ピピの気持ちはよくわかる。お腹が空き切ったころに食べる飴玉は染み渡るように美味しいのだ。
「おなかいっぱ。ぴぴ。ねるねる。」
飴玉一個で。そんなわけがあるかと呆れるが、ピピの声が本当に眠そうになってきた。
「ぴぴ。せれな。せれな。またきて。またあめだまちょうだい。ぴぴ。」
「明日の夜、いっぱいご飯を持ってくるわ。毎日は来られないけれど・・・。時々保存のきくご飯を持ってくるわね。」
「せれな。せれな。やくそく。ぴぴ。ないしょ。ぴぴ。ごはん。あめだま。やくそく。やくそく。」
面倒を見る生き物が1つ増えたと思えばこのくらい大したことではない。ピピは飴玉ひとつで満腹になる少食らしいし、ポーラに比べれば大したことではない。精々タイタンに内緒にするのが大変なくらいだ。
「わかったわ。内緒、ご飯、飴玉、ね。ふふ。・・・じゃあね、ピピ。おやすみなさい。」
「せれな。ぴぴ。おやす。」
それ以降セレナの耳に音は届かなくなった。
セレナは穴の奥を見つめ、そのどこかにいるピピのことを思う。
彼女も、自分と同じような経験をしたのだろうか。今度会ったら聞いてみたい。
彼女と話すのは、楽しい。
思えば最近、腹の読み合いのような会話ばかりで、こんなに純粋に、ただ楽しく誰かとお話をしたのが、本当に久しぶりだったのだ。
「また明日の夜も会えるのだから、これっぽっちも寂しくない!ピピと約束したもの、お友達だもの!ふふ!」
もうすぐきっと、夜が明ける。
月は自分の役目を太陽に譲り渡そうとしている。きらきら、間も無く群青に隠れようとする一等星が、最後の仕事だとばかりに頑張って輝いている。
地平の向こう、紫色と砂色の切れ間を、眩しくて目を閉じてしまうまで見つめていたい。
ずっとここに座っていたい。
起きてきたピピとまた話したい。
タイタンはここには連れてこられないけれど、それは少し勿体なく思う。
・・・そして次の瞬間頭に浮かんだのは家の玄関で仁王立ちする小姑の怒り顔。
さーっと背筋に冷たい汗が伝う。感動している場合ではなかった。
「ああもう!走らないと間に合わないじゃない!お家が遠いのよお馬鹿ーーー!!!」
セレナは飛び上がるように引き返し、兎の如く自宅に向けて全力疾走する。
悠々自適にひとり森で暮らしていたはずが、本当にどうしていつの間に門限が設定されてしまったのか!怒るだけならまだしも年甲斐もなく泣きまでするのが余計に厄介なのだ、あの男は!
結局、朝日が顔を覗かせる前に何とかベッドに滑り込んだセレナは、ディアンがとっくに帰った後、キレ気味のタイタンに叩き起こされた。
「客人の見送りくらいしろ!酔って昼過ぎまで眠りこけて!あんたはこの家の主人だろうが!」
「・・・うう、もうタイタンが主人でいいから、眠らせて頂戴・・・」
この調子では昨晩の醜態のことはすっかり忘れている。
俺はあれほど恥をかかされたのに。
元凶の馬鹿野郎はだらしなく二度寝しようとしているこの理不尽が許されていいものか。
もそもそとベッドに戻るセレナの布団をひっぺがし、着替えを顔面に叩きつけ、ふさふさの尾を生やした小姑は今日も叫ぶ。
「今日からこの家は禁酒だ!」
そうしてその日から、セレナの夜の不思議な逢瀬は始まった。
数日に一度、タイタンが寝静まったのを見計らい、セレナは鞄いっぱいにパンを詰めて森の外に出かけ、内緒の友達と他愛ないお喋りをする。
それはセレナにとっておそらく初めての女の子のお友達。
穴の淵に腰掛けて、タイタンにはとても話せないような赤裸々な悩みを語る。
今日のお星様は何という名前なのかを教えてあげる。
タイタンに怒られたこと。タイタンが褒めてくれたこと。
今日着ている服がお気に入りであること。他にもいろいろ素敵なお話を沢山。
一緒に飴玉を頬張って、顔も見えないお友達と語り合う。
穏やかで不思議な時間は、誰にも言えないセレナの宝物になったのだった。




