朧月夜
タイタンは基本的にまっすぐで我慢強い男だ。
セレナに頼まれれば大概の力仕事は文句を言わずにこなすし、必要であれば一晩中だって走り回る。タイタンが文句を言うときは大概セレナが悪い時だ。
そう、タイタンは我慢強く、一本芯が通った、頭が回る、それはそれは出来た男だ。
その、素晴らしく出来た男タイタンは今、真昼間から働きもせず、シャツも脱ぎ捨て、自室の床にだらしなく寝そべり、ぶつぶつと恨み言を吐き出していた。
「・・・・・・・・・暑い。」
負けた。タイタンの胸にあるのは敗北感。
洒落ていると気に入っていた長く伸ばした前髪が、今は本当に煩わしくて仕方がない。
何度シャワーを浴びても腕がべたつく。木陰にあるこの家は比較的涼しいはずだが、それでも全身に張り付くような湿った熱気が耐え難い。
「タイタン、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。」
まだ夏本番ではないのにこんなことでは、2ヶ月後にはタイタンは溶けてしまっているかもしれない。無敵の男だとばかり思っていたが、意外な弱点だ。
タイタンが朝の鍛錬で音を上げたのは初めてのこと。タイタンがセレナにおはようを言わなかったのも、きっと初めてだ。
セレナは冷やした濡れタオルをタイタンの額に置いてやった。そんなことはあり得ないが、タオルから湯気が見える様な気さえする。
「あんなに激しい鍛錬をするからよ。ええと、気温も随分上がってきたものね。もう少しセーブした方がいいわよ、きっと。」
日陰にいればまだ空気は冷たいし、そもそもここは周囲に比べて標高が高い北部の入り口だ。
でも、あれだけ一心不乱に、水も飲まずに何時間も外で剣を振り続けたら、そりゃ具合が悪くなるに決まっている。
絶対にこれはタイタンの不注意による熱中症だとは思う。そういう自己管理はできる人間だと思っていたのだが、一体どうしたのだろう。
しかしそれを聞いたら普段の数倍不機嫌なタイタンの怒りのスイッチを踏むに違いない。
運命共同体を誓っておいて喧嘩別れしたら間抜けなことこの上ないのだから。
「無理だ。無理。俺は夏が終わるまで採掘場に住む・・・。」
「出来るわけないでしょうそんなこと!・・・ほら、いい加減起きなさいな。食欲が無くても、きちんと食べないと体を壊すわ。」
いつもと逆だ。うーうー唸って一切言うことを聞かないタイタンを放置し、セレナは台所へ向かう。
なるほど、普段タイタンはこんな気持ちでセレナの世話を焼いているのか。
確かに面倒だし怒りたくもなるけれど、同時に愉快で、なんだかちょっと心地よい。
ああ、今日の昼ごはんは何にしよう。
ぽこぽこ、鍋の湯が音を立てる。
ますます部屋の温度が上がってしまうが、それくらいは我慢してもらうしかない。
今日の昼食は麺にすることにした。細かく挽いた小麦を水と塩で捏ねあげ、それを細く切ったものを、沸き立った湯の中にじゃぼんと落とす。
当然跳ねた熱湯が腕に当たった。あつい。
小さく上がったセレナの悲鳴を聞いて、のそのそと部屋からタイタンが出てきた。
「・・・・・大丈夫か。」
「貴方よりはね。」
のしのし、のしのし。冷やした水を汲み、コップを取り、水を注いで一気に煽る。
狼というより、熊みたいだ。のろのろと台所を動き回るむさ苦しい巨体は正直邪魔だ。
食事ができるまで部屋で大人しくしていればよかったのに。追い返してやりたい。
「起きるなら服を着なさいな。貴方の上裸は見ていて暑苦しいのよ・・・。」
「ええい黙れ黙れ。分かっている。」
どかん。椅子が悲鳴を上げた。ぎょっとして後ろを振り返れば、もうそれはそれは苛ついたタイタンが机に突っ伏している。
セレナがタイタンの食事を羽根でひっくり返した時も、気に入った本に間違えて水をかけた時も、こんなに苛立っていなかった。
これ以上絶対に余計なことは言うまい。
そっと目を逸らし、セレナは麺のスープの用意を始めた。
「ええと・・・鶏のスープに・・・タイタンはお塩とトマト味、どちらが食べたい?」
「・・・・・塩。」
「ふふ、畏まりました。」
なんだかんだお腹は空いていたらしい。
食欲があるなら大丈夫だろう。お腹がいっぱいになればきっとタイタンも元気になるはずだ。
ますます手塩にかけて作らなくては。
作りおきの冷やした鶏のスープを椀に注ぎ、シャキシャキの水菜と茹でた鶏肉を割いて落とす。
「野菜はそんなに沢山要らない。」
「我儘を言わないの。」
ほら、もう出来る。茹でた麺を木のザルに入れて、水で冷やして。
よーく水を切った麺を、スープに入れれば、完成。
冷えてぎゅっと締まった麺が美味しい、冷やし鶏麺の完成だ。
「麺なら食べやすいでしょう。ちゃんと食べてしゃっきりして頂戴?」
「・・・・・いただきます。」
こういうときも挨拶を忘れないのが彼らしい。
タイタンはフォークで麺を掬い、無言でずるずると麺を啜り始めた。
相変わらず顰めっ面のままだが、その深い眉間の皺が少しだけ緩んだのを見届け、セレナも麺を啜った。
冷たい麺が喉に嬉しい。さっぱりした鶏の出汁と採れたての水菜が夏らしい。
実はこれは、お母様がよく冬に作る暖かい麺のレシピを、夏用に改造したセレナのオリジナル料理だ。これなら食欲がなくなりがちな夏場でもつるつる食べられる。
本当はもっと真夏になってからタイタンに作ってあげようと思っていたのだが、予想外に早いお披露目となってしまった。
「ふふ、美味しい。もっと夏になって野菜が沢山採れたらもっと美味しいし、トマト味にしても・・・タイタン?た、タイタン・・・。」
ずずずずずずずずずずずずずず。
「あの、タイタン。喉が詰まるわ、もっとゆっくり。」
ずずずずずずずずずずずずずず。
「おかわりもあるし、別に誰も取ったりしないわよ。」
ぷは。
ほとんど椀に顔を突っ込んで止まらず麺を啜っていたタイタンの動きがようやく止まり。
片手に椀を持って、思い切りスープを飲み干し。
「おかわり。食べる。」
立ち上がったタイタンの口の端に、水菜の葉が付いている。
「・・・どれだけお腹が空いていたのよ。」
「燃費が悪い体なんだ、仕方ないだろ。」
ちょっと引くぐらいの食いっぷりだ。見ているだけで満腹になりそうだ。
そんなに食べるなら、一言ぐらい美味しいって言いなさいよ。
思わず喉に麺が痞えむせ返るセレナを横目に、タイタンは椀にスープを注いだ。
「ねえピピ。信じられる?あの後追加で麺を打たされたのよ!それで食べ終わったら今度は部屋でぐうすか寝始めて!・・・おかげで今日も貴方に会えたのだけれど。」
「ぴぴ。ぴぴ。くまやろう。」
「でしょう!?本当に熊みたいだわ、夏のうちにでぶっちょになって泣けばいいのよタイタンなんて!」
この、不思議な逢瀬にももう慣れた。
今日もまた綺麗な星空だ。崩落の淵に腰掛けたセレナの脳天の上、悠然と輝くアークトゥルス。
「きっともうすぐ起きてくるから、もうそろそろ帰らないといけないけれど。ちょっとだけでも会えて嬉しかったわ。」
「ぴぴ。ぴぴ。せれな。もうかえる。の。」
抑揚のない少女の声に明確に感じ取れる不満げな感情。
「だって勝手に出かけるとタイタンが怒るんだもの。危ないから1人で出歩くな、って。」
「ぴぴ。たいたん。ひどいやつ。こらしめ。ぴぴ。ぼこぼこ。」
「怒ってくれるの?でもタイタンは優しいから心配してくれているの。私はタイタンが好きよ。」
「どなるのに。」
「怒鳴っても、優しいわ。」
「ぴぴ。ぴぴ。ぴぴ。ぴぴ。わかんない。」
まあ、確かに不満はある。
本当は好きに夜道を散歩していた頃が恋しい。怒鳴り声は怖いし本当は苦手だ。
でもタイタンはセレナを心から思ってくれている大切な人なんだから。絆されているのは分かっているが、本気の不満を正面からぶつける気にはあまりなれない。洗濯物を畳まないことを叱るのとは訳が違うのだ。
それに、どうせ言ってもどうせ口喧嘩で勝てないもの。
「・・・また来るわ、ピピ。」
セレナは胸に篭ったもやもやを振り切り、ピピの返事を待たずに自宅へと駆け出した。
夜になって涼しくなって、調子が戻ったらしい。
平素を装って家に戻ると、自宅前で元気に素振りをするタイタンと目が合った。
朝だって鍛錬していたのに。
タイタンはこれ以上ムキムキになって一体どうするのだ。地面でも割る気なのだろうか?
「・・・だらけていたのは俺だから怒らないが。・・・またか。」
出かけるときは必ずタイタンに言ってから。寝ていても起こして構わないし、せめて書き置きはしていけ。
タイタンは最近特に深夜徘徊には厳しくなった。
今日は自分がダウンしていた手前強く言えないが、それでもセレナを咎めようと口が開く。
「いいじゃない、遅くなる前に帰ってきたもの。早くお風呂に入りたいわ。」
深追いされる前にさっさと家に引っ込んでしまえば、それ以上の追求はなかったのは幸運だった。
流石に昼間のことを申し訳ないと思っているらしい。
好都合だと、ドアを開いた小さな背中に、ああ、と呼び止める声。
「風呂から上がったら居間で待っていてくれ。話がある。」
首を傾げるセレナに、タイタンはニヤリと笑いかけ。
「・・・そろそろ冒険に出かけても良い頃だろ。楽しい作戦会議といこうじゃないか。」
昼間の寝起きの熊のような気だるさは何処へやら。それだけを伝えて再びタイタンは剣を振り始めた。
風呂上がりで緩んだ身体に酒を入れようとしたら、タイタンに取り上げられた。
「作戦会議だと言ってるだろうが。」
「せっかくのお土産なんだもの。美味しく飲まないと勿体ないわよ。」
タイタンは瓶を窓の外に放り投げたくなる衝動を全力で押さえ込んだ。
そっと瓶を盛り上げ、棚にしまい、何も見なかったことにして無理矢理に話を開始することにした。説教を始めたらせっかく彼女を呼び止めたのが無駄になる。
「探索しないと計画は何も進まない。これから更に暑くなることを思えば、もう出発を待っていられない。・・・西方に向かおうセレナさん。今年の前半、大きな行動ができる時間はもう少ない。」
「・・・秋を待つのでは駄目なの?」
死地でへばられたらたまったものでは無い。セレナの顔に書いてある。
それを言われるとタイタンは弱いが、それでも、彼女を説得しなくてはいけない理由がある。
「駄目だ。」
ころり、氷茶の氷が溶け落ちて涼やかに音を立てる。
そろそろ腹の中を明かさないといけない。関門だ。
タイタンはふう、と息をついてセレナに向き合った。
「・・・あんたは反対すると分かっている。でも、俺は一度、保護区へ行く必要があると思っている。ハンター協会と、和解する必要があると思っている。」
「ッ!?」
椅子から転げ落ちかけたセレナを、隣から伸びた大きな手が支えた。
「貴方、正気なの!?」
「セレナさん、俺はあの襲撃で狼と会ったと伝えたな。狼は俺に力を与えて死んだことも、伝えたな。」
それは聞いた。タイタンの記憶を奪った、正体不明の魔道を使う狼。
正直未だ半信半疑だ。タイタンが何かを隠すためのハッタリだとさえ疑っている。
「・・・あの狼は強かった。俺を半殺しにするほど強かった。そんな狼が、セレナさんが森を防衛する影で暗躍し、あんたが取り逃がした敵を秘密裏に処理していたんだ。」
「・・・嘘。」
「・・・狼の体には戦傷が山ほど付いていた。あの後見に言ったら遺体が無くなっていたから、証明はできないが。とにかく、そんな強大な狼の加護を失った状態なんだよ、今の俺たちは。これ以上協会と事を荒立てて、前回以上の規模の襲撃に遭ったら・・・計画と同時進行でこの森を防衛しきるなんて無理だ。分かるな?」
本当にセレナが1人で完璧に森を防衛できていたならもう少し余裕があった。
だが現実はそうではなかった、セレナは1人で広大な森を守ることなどできていなかった。
10人未満の小隊の襲撃さえ乗り切れないセレナを、狼は影で守り続けていた。
・・・そしてその後を継いだのは狼と違って魔道が振るえないタイタンだ。
この森を守り続けた狼の魔道は失われた。こんな状態で協会が本気でこちらを攻めたら大変なことになる。時間の問題なのだ。もう。
こちらが協会に反抗するスタンスを貫く限り、攻撃は止まない。
ならば必要なのは、和解の交渉だ。
「なにもこの森を協会に譲り渡せと言っているわけじゃない、そうなったら全力で阻止する。だが、どれほど協会が卑劣でも、腐敗していても、崩落を止めたいという意思だけは同じはずなんだ。協会へのパイプ役を務められるディアンも味方につけた、あと必要なのは協会を納得させる説得材料だけだ。」
「貴方、そこまで考えてディアンを引き込んだの・・・?」
まあな、という顔をしておく。
本当は偶然だが、セレナを説き伏せるためなら嘘でもなんでも使ってやる。
「計画を進めるにも、襲撃を警戒していては首が回らない。それに、協会が握っている情報を引き出せたら有利に計画を進められるだろ。・・・ただ今突撃したって与太話だと思われるのがオチだろ。だから必要なのは、計画を信じさせるだけの、情報。」
とにかく、断片でも良い、計画に繋がる具体的な情報が必要だ。
とにかく早く、次回の大きな襲撃が来る前に、早くそれを掴み、一刻も早く協会と和解する。
2人が生き残り、この森を守るにはそれしかないのだ。
「・・・そもそも、私が数多のハンターを殺した犯罪者だというのが頭から抜け落ちているわね。計画があろうとなんだろうと、私たちが協会の敵なのは変わらないわ。」
「協会がそれにこだわるほど余裕があると思っているのか?保護区は早急に人口増加の問題を解決しないと崩壊する。具体的な解決策があると言えば絶対に飛びついて来る。」
賭けじゃないか、そんなもの。
セレナは不快感を丸出しにして、タイタンに冷たい声をかける。
「・・・嫌。絶対に、嫌。捕まったらおしまいなのよ。お母様の大切な森は保護区で家の柱になるでしょうね。私は保護区で標本にでもされるのかしら?そんな危険を踏むくらいなら、たとえジリ貧でもハンターを迎撃し続ける方が絶対に良いわ。そんな危ない橋は渡れない。そんなことは許可できないわ。」
「・・・そんな本当かもわからない計画の為になんて、か?」
セレナは一度床を見た。しばし迷い、そして、椅子を跳ね飛ばしてタイタンに掴みかかった。
「ええそうよ!そんな夢見たいなお話に縋って、毎日のように計画、計画って!タイタンはお馬鹿さんよ!貴方は雨を止ませられるの!?貴方は風を止められるの!?貴方の夢物語に付き合うのは、お母様の研究資料が見つかるかもしれないからよ!こちらに害が及ぶなら絶対に協力なんかしないんだから!」
・・・それはそうだ。セレナは元々そういったスタンスだ。
元々崩落を止めることができるなど思っていないし、最近は計画のことで何かと心配をかけていた。
計画のことを話すたびにあまり良い顔をしないのは分かっていたが・・・予想通り真正面から反対された。
やはり、協会より先に説得しなくてはいけないのはセレナだった。
タイタンは頭を掻く。仕方ない。
ディアンに知られたらぶっ飛ばされるに違いないが、背に腹は変えられない。
「・・・分かった。西方探索でもし1つも成果が出なかったら、協会の説得は諦める。あんたのいう通り、計画のことは忘れて、侵入者の迎撃に集中する。その代わり、今回は俺の作戦に乗ってくれないか。いいだろ、どの道あんたも西方に行く気だったんだから。」
「・・・約束するのね。成果が出なかったら、計画のことは忘れると。」
「約束する。」
ああもう後に引けなくなった。
駄目で元々。西方で何も見つからなかったら計画が進まないのは変わらないのだ。前向きに、考えよう。
「・・・やるからには徹底的にだ。セレナさんの知る限りの西方の情報が欲しい。」
「と言っても・・・あの時は神経毒にやられて目が見えないまま2週間西方を彷徨ったの。碌な情報なんて無いわよ。」
いきなり衝撃の事実が明かされた。
「よく無事だったなそれ。」
「偶然に南方に抜け出せなかったら死んでいたわ。でも・・・そうね。罠があるなら、きっと罠を避ける生体反応装置がある。それがなければお母様が頻繁に西方に出入りしていた説明がつかないもの。それさえ探し当てれば、安全に西方を探索できる。今回の探索はそれを目標にするべきだとは・・・思うわ。」
生体反応装置に自分の細胞さえ登録できれば魔道罠は一切反応しなくなる。そのシステムは本来お母様が考え出したものだ。その鉄則はきっと西方でも変わらない。
問題は、その装置までの道のり。
南方の生体反応装置なら遠く離れた北方の自宅に、いつでも監視できる状態で置いてあるが。
「お母様も自由に行き来できない東部や最北部に装置があることは絶対ないし、行き慣れた地域を見落としているのも流石にないと思うの。あの装置は匂いがわかりやすいけど、そういったものはこの辺りで見つけたことがないから・・・装置は間違いなく西方にあるわ。」
「わかりやすい?」
「貴方だって魔道の匂いがわかるんでしょう?南部の魔道罠を避けて歩いてきたんだもの。」
セレナはお母様の元で魔道具作りを学んでからそれが分かる様になった。
それまで魔道を振るっていた時は全くわからなかったそれが、研ぎ澄まされたというべきか。
魔道は、匂う。
それを注意深く観察すれば、なんとなくその魔道の構造が見えてくる。
あの魔道の線を言い当てたのだ、タイタンだってその感覚は身につけているのではないか。
セレナがそう問いかけると、タイタンは困った様に頰を掻いた。
「いや・・・。魔道罠が分かったのは、地面が細かく振動しているとか、自然の中に金属の気配がするとか、そういったものを注意深く観察して進んでいたからだ。魔道の線、っていうのも同じ様な感覚で。細く空気が歪んでいるのが、肌で感じ取れたから分かっただけだ。あれは単純に五感が鋭くなっただけで、セレナさんが言う匂いというのとは違う気がする。」
ディアンもそういえば、初対面の時にタイタンの魔道具を感じ取ったような発言をしていた。
なるほど、魔道の匂いというのは、魔道に長けた者にとっては共通認識のようなものらしい。
「そうなの?まあそうよね。貴方は魔道はからっきしのはずだもの・・・ええと。だって、生体反応装置ひとつで、どれだけの広範囲の魔道装置のセンサーに干渉していると思う?広い範囲に干渉する為に、装置から中継装置へ、そして次の中継装置へ、音波のように常に魔道を放ち続けてるのよ。魔道の匂いさえ感じ取れるなら、見つけ出すのは難しくないと思わない?」
例えるならネットワークだ。
子機から子機へ、ホストコンピュータから網目状に魔道のネットワークが繋がっている。
「つまり。その中継の装置をひとつ見つけて、それを順番に辿っていけば・・・いつかは大元の生体反応装置に辿り着ける、ってことか?」
「ふふ、そうそう。辿る道筋が簡単ではないけれど、広大な西方を彷徨い歩いて1つの装置を探す・・・なんて、途方のない話ではないから安心して頂戴?」
確かに、そう言われると、少しは安心できる気がする。
こちらには魔道の匂いとやらを感じ取れるセレナがいるし、罠避けならタイタンも得意だ。
「勝算の無い冒険では、決して無い。それが分かっただけ、十分だ。」
「出発までに覚えている限りの魔道罠は書き出すわ。・・・でも今日は、もう遅いわ。」
確かに、気づけばそろそろ日付が変わる時間。話し込みすぎた。
「そうだな。じゃあ今日は解散だな。さっさと寝ろよ。」
「ふふ、おやすみタイタン。」
眠そうなセレナを見送り、タイタンも自室に戻った。
音がする。
タイタンがゆっくりと目を開けると、洗ったばかりの真っ白なカーテン越しに登りはじめた朝日が差し込んでいる。
恐らくはセレナの部屋から。ごそごそと何かを漁る音。
何をしているんだ、こんな早朝から。
物音に起こされたことによる不快感に眉を寄せ、文句のひとつでも言ってやろうと、セレナの部屋をノックし、間もおかずにドアを開けた。
「・・・うるさいぞ朝っぱらから。」
「え、ええ?ご、ごめんなさい・・・?」
タイタンを起こしては申し訳ないと、木の葉が擦れる程度の音しか出していなかったのだが。
耳が良すぎるだろう、と少々怯えたセレナの首元、ふわふわのレースが揺れた。
「なんだその格好。パーティにでも出かけるのか?」
タイタンが不思議そうにしたのも不思議ではなく。
セレナはこの素朴な森には似つかわしくない、真っ白なロングワンピースを着ていた。
いつものワンピースよりも装飾のフリルが多い。
胸元、肩、腰。縫い付けられた柔らかいドレープが豊かに彼女の細い体を飾っている。
裾から覗く細い足首には銀色のアンクレット。いつも雑に結われている銀糸は丁寧に編み込んでハーフアップにされている。
決して豪奢なわけでは無く、厭らしさは無い上品で慎ましい華やかな格好だ。
「・・・お墓詣りは綺麗な格好で、って決めているの。今日はお母様の命日だから。」
顔を出した朝日がセレナの頰に一筋垂れた銀糸を照らす。
「分かっているわよ。死者を悼む時は黒い服を着るものだと、本で読んだことがあるから。でも、お母様に、立派になった私を見せたくて・・・」
「別にいいんじゃないか。悼む気持ちがあれば、なんだって。」
ここは世間のルールなんてクソ喰らえの森の中。
そして普段の彼女よりどこか大人びて見えるその服装は、彼女が大切な母親を悼むためだけの服だ。
ならばそれだけでいい。死者を悼む時に必要なのは儀礼ではなく気持ちだとタイタンは思う。
タイタンは初めて彼女をお姉さんと呼べる様な気持ちになった。
透き通って美しい懐古と、深い悲嘆を胸に秘めた彼女は、昨日までのセレナと別人の様で、タイタンは胸が詰まる様な感覚を覚えたのだった。
「1人のほうがいいか?」
「・・・いえ。お母様にきちんと教えてあげたいもの。素敵なお友達ができたわ、って。」
流石に少し遠慮したタイタンを連れ出したのはセレナだ。
確かに、タイタンはこの森の新たな住人となったのだ。かつての主人に挨拶をするには良い機会である。
「墓はどこに?」
「蓬山の裏手に。ムラサキナノハが咲く小さな広場があるのよ。」
セレナは空色のリボンで束ねた霞草を片手に持ち、普段より数段質素な焼き菓子を袋に詰め、綺麗に磨いた革靴を履いた。
こうして着飾ると本当にお人形の様だ。生き物であることを疑ってしまうほど、現実のものとは思えない女が、夏の日差しに眉を寄せ、一筋汗を流している。
タイタンも仕立ててもらったばかりの真っ白なシャツ姿だ。
厳つい男が着飾ったところで目の保養になるわけでもなし。それでもできるだけ綺麗な服を、と選んだのがそれだ。
朝から気合を入れて着飾っていたセレナの隣に立つのはなんとなく気が引ける。
タイタンはいつもより少し後ろを歩く。出会った頃に、こんな風に彼女の背中を見つめて歩いたのを思い出す。
・・・彼女に恋をして随分時間が経った様な気がする。
後ろを歩くのが、いつの間にか隣になり、食事も自然と隣の席に座って摂るようになった。
それでもまだ、彼女のことを、恋をすることを気後れするほどに美しい女性だと思う。
自分の厳つい肉体、傷だらけの浅黒い肌。ごつごつとした鼻。骨ばった太い指。彼女とはあまりに違う無骨な体。
自分でも女々しいと鼻で笑ってしまいそうになるが、本当に自分とは不釣り合いなほど彼女は美しい。
タイタンは、恋のライバルがいない場所で彼女に出会えたことを、本当に幸運に思う。
小さい男だと笑われても構わない。自分はこの恋情以外、なにも持ち合わせていないのだから。
「タイタン、どうしてそう怖い顔をするの?」
突然飛んできた声に意識が覚醒する。まるで今まで夢の中を歩いていたかの様だ。
振り返りもしていないくせに、タイタンの眉間に寄った皺が見えるらしい。
「悪い。なんだか緊張しているみたいだ。別に怒ってはいない。」
「まあ・・・深くは聞かないわ。」
本当に油断も隙もありはしない人だ。
自分のわかりやすい恋情など、きっととっくに彼女にはお見通しなのだろう。
きっとセレナより、タイタンの方がタイタンのことをよく分かっていない。
どうしてこんなに胸がざわめくのだ。黒い感情が胸に込み上げるのだ。
だんだんと気分が悪くなってきた。もう帰ってしまいたい。
運動をしたわけでも無いのに切れ始めた呼吸の音を、セレナの歓喜の声が塗りつぶした。
「・・・おかあ、さま!」
機嫌の悪いタイタンなどもう目に入っていない。あれほど聡い彼女が気づきもしない。
走り出した彼女を、何故か捕まえようとした右手は宙を掻き、行き場をなくして気まずそうにポケットに入れられた。
「ふふ。あんまり来ると逆に心配をかけてしまうのは分かっているわ・・・だから今日くらいはいいでしょう?おかあさま、お母様・・・。」
紫色の菜の花が咲き誇る、辺りでも一際日当たりの良い美しい丘のてっぺんに、なめらかな楕円に削られた墓石が据えてあった。
土埃を被って、その灰色の艶を失った墓石に、セレナはせっかく時間をかけた化粧が崩れるのも気にせず、そっと頰を寄せた。まるでキスのように見えたそれを直視できず、タイタンは目を伏せる。
「会いたかったわ、お母様。今日だけ、今日だけよ。本当は毎日だって会いたいけど、セレナはお母様の言う通りに立派になったから、言いつけ通りに我慢しているわ。」
あれほど朝早くから準備していた、美しいワンピースが朝露で泥に汚れる。
・・・まるで婚礼衣装の様な真っ白なワンピースを、引き裂いて投げ捨ててしまいたい。
「大好きよお母様。死んでしまってもお母様はここにいるもの。大好き、大好きよ。」
「・・・セレナ、さん。墓石を、綺麗にしないと。」
やっとの思いで吐き出された言葉も、セレナの耳に届かない。
吐き気がする。生きてここにいるのも、この数ヶ月彼女を守ってきたのも自分なのに、まるで裏切られたかのような気持ちになる。
「セレナさん!」
「タイタン?」
「・・・服が汚れる。大人になったのを見せたいんだろ。」
「ふふ、そうね。お花を持ってきたの。あとお母様に教わったお菓子も、上手に作れる様になったのよ。」
とうとう帰るまで一度も振り返らなかった彼女は、タイタンの腰にふさふさと尾が生えていたことに、最後まで気づかなかった。
ああ、親しくなればなるほど、本音で話せなくなるのは何故だろう?
出会った頃の方が本心で話ができていた。
それは彼女の胸を占める大きな重くて暖かいものの存在を、より強く理解したからか。
それとも、世界を救うため、セレナとの腹の探り合いが始まったからか。
彼女がいつの日からか以前ほどタイタンへの不満を口に出さなくなったからか。
あれほど本気で腹立たしかった怒鳴り合いが、最近めっきり無くなっていたことに、そしてそれが妙に寂しく、更にそれが酷く不安なことに、ようやくタイタンは、気づいた。
夏の鍛錬は夜、風呂に入る前にすることにした。
狼の姿の時ほどではないが夜目は利く方だし、蓬山への道はもう目を閉じたって走ることができるくらいに脳に刻み込まれている。
「・・・前なら、正面から聞いてきただろ。怒鳴ったら、それ以上の大声で反論してきたくせに。」
苛立ちのまま振る剣に、鋭さは無い。
「世界を救わなきゃ、あんたを幸せにできないからそうしているのに。」
ふつふつ、再び湧き出してきた苛立ちに、尾の重量が増し。
「隠し事が増えたせいで、こんどはあんたとの間に蟠りが出来る。」
未だ慣れない、狼の腕力。
馴染みの重量感が消える喪失感に慣れなければと、あの日から鍛錬は激しさを増していた。
「ああ腹が立つ!ああディアンに言われなくても分かっている、これではいけないということくらい!」
だったらどうしろと言うのだ。下手に出て彼女に渡しもののことを悟られたらどうする。
「なにが、聞かれたことだけに返事をしろ、だ!説明不足にも程があるだろうがクソ狼!」
力任せに振られた剣は、およそ風が鳴らす音ではない軋みを鳴らし。
「後を託す人間に、対する!態度じゃない!だろう!が!!!」
がきん!!
力任せに蓬山の地面に叩きつけられた大剣が、小石を砕き悲鳴をあげた。
はあ、はあ。怒りの叫びが反響し、森に吸い込まれて消えた。
「・・・・・悪かった、お前は何も悪くない。」
冷静さを取り戻した頭には、怒りに任せた稚拙な行為が急に恥ずかしく感じられ、タイタンは1人気まずくなりながら剣を拾い上げた。
鍛え上げられた鋼の、重い劔。血を吸って黒ずんだ傷だらけの肌が、まるで自分のように思えて頼もしい。
「・・・お前は、記憶を失う前の俺を、知っているんだもんな。」
着ていた服も鞄も燃やしてしまった今、もう数少ない、記憶を失う前から持っていたもの。
「俺は一体どんな人間だったんだ?何を見て、何を思って生きていたんだろうか。・・・今と、一体どっちが幸せだったんだろうな。」
ディアンが自分を英雄と呼ぶたびに、その意味を問いたい気持ちを、それを恐れる気持ちがせめぎ合う。
知り合いではなかったと言っていた。それでも、今はもう自分ではなくなってしまった保護区の英雄ルーヴのことを、僅かでも知っている彼に縋りたくなる。
「・・・諦めろ。知ったってもうどうしようもないものだ。もう死んだんだよ、英雄は。」
疲労感に耐えきれず、タイタンは蓬山に寝そべった。
遠い遠い空、朧に瞬く月が、頼りなくタイタンの頰を照らす。
「あれだけ遠くに居たら、崩落も怖くないだろうな。全く、羨ましい限りだ。」
その夜、居間で寝そべっていたセレナはこう告げた。
「明日からしばらく雨になるわ。それが止んだら、西方に出かけましょう。・・・きっと数日は家に戻れなくなるから、雨の間にきっちり準備をして、備えるわよ。」
気持ちを切り替えなくてはならない。部屋でベッドに寝そべるが眠れない。
寝返りを打ち、自分の後方が視界に入り・・・タイタンはふと違和感を感じる。
タイタンの部屋に置かれた、机。
そして机に据えられている、引き出し。数日は触れて居ないはずのそこが、少しだけ開いている。
「・・・・・」
まるで何かに覗かれているようだ。
なんだか妙に気に障って、そこを一度開いてみる。
中に入っているのは、ディアンから貰った封筒と、簡易結界装置と、地図を描くのに使う炭。
中身がそのままであることをきちんと確認し、今度はきっちりと引き出しを閉じた。
「・・・幽霊を怖がる歳でもないだろうが。いや、自分の年齢は知らないが・・・、はあ。」
再び顔を覗かせそうになった不安を押し込め、タイタンは窓の外をじっと見つめる。
その手にはこっそりと棚から持ち出したウイスキー。酒は1人で飲む方が好きだ。
グラスに落とした丸い月を飲み込んで、酩酊した視界には、もやもやとした気持ちをそのまま写しとったようにその姿を滲ませる朧月。
狼は月に向かって吠えるものだと相場が決まっているが。
タイタンも、月を見ていると喉の奥、声帯が疼くような気持ちになる。
あの狼も、そうだったのだろうか。
記憶の隅にある、小学校の音楽室。音楽の教科書に載っていた歌を、タイタンは唇だけを動かし辿り始めた。
「田中の小道も、蛙もないし。ここでは菜の花だって紫色だ。・・・そもそも春の歌だしな、これ。」
風情もあったものではない。だが、それでも構わない。
輪郭の滲んだ月を眺め、狼は窓辺で小さく歌う。
蛙の鳴く音も、鐘の音も、さながら霞める、朧月夜。
この月を眺めるうち、自分の胸に燻ったものも、霞んでくれないだろうか。
そう小さく祈りながら、狼はずっと、窓辺で歌っていた。




