化け物たちの休日
視界にあるのは青、緑、白。
森は日に日に彩度を高めてゆく。白一色に慣れすぎたタイタンにとっては刺激的すぎて、目眩がするほどだ。
澄み渡った春の青空。大樹の枝に干された真っ白なシーツが、若葉と共にばさばさと眩しくはためく。
終わりがないのではないかと錯覚するほどの厳しい冬を乗り越え、怪異の森にも春が訪れた。
眠っていた命が大地に吹き出す、新たな一年の始まり。
過去を無くしたタイタンでさえそう思ってしまう、晴れやかな季節の到来である。
日課の鍛錬の終わりに川に足を浸して、火照った体が冷えてゆく心地よさに鼻歌を歌ってしまう。
彼は歌など教わったことは勿論ない。思いつきでそれらしい音を並べているだけだ。
突拍子もない箇所で上がり下がりする不恰好なメロディーを、タイタンは歌えと言われてもきっともう二度と歌えない。
鬼。小姑。怒りん坊。無愛想。などと憎まれ口を叩かれることはしょっちゅうであるし、それを否定する気はあまりない。しかし、そんな怒り以外の感情が表に出にくい彼も、春の陽気の前にはひとたまりもなかった。
彼でさえそうなのだ。セレナの浮かれようときたら想像に難くない・・・とタイタンは思っていた。
それが。
「・・・うう、もう嫌よ。一生冬がいいわ。ええ、一年が全て冬になる魔道を今からでも開発して・・・!」
セレナはどんよりとした表情で、食卓のテーブルの下でうずくまっている。
「人間を本当に滅ぼす気か?くだらんことを言っていないで箒を取ってこい。」
川で黄昏れるタイタンの耳に飛び込んできたのは、朝食を準備していたセレナの絶叫。
暖かな陽気を切り裂くような悲鳴にタイタンが青ざめたのもまた、想像に難くないであろう。
怪我か、火事か。まさかここまで敵に侵入されたか。
神経を張り巡らせ、剣を構えて扉を開いたタイタンの目に入ったのは。
「・・・まさかあんたが羽虫を怖がって大騒ぎしているとは思わなかった。」
「羽虫!?あれのどこがただの羽虫に見えるのよ!?お母様が作り出した発明で最低最悪のものよ、あれは!!」
確かに蝿にしてはかなり大きかったし、出目金のようなぶるぶるとした大きな目玉が大変グロテスクな虫であったが。
驚いて飛び出した羽根が朝食の並んだ食卓に激突し、暖められたスープも、パンも、クマモモのジャム瓶も全て床に叩き落とし、陶器と硝子が大量に割れ・・・朝から余計な労働が増えたことにタイタンは辟易していた。
セレナが怯えて号泣していなかったら、きっと怒りを飲み込めなかったであろう。
いや、怒りを通り越して呆れただけか。とにかく、いつも小煩い小姑も、今回だけは何故か鳴りを潜めている。
「いい?分かっていないようだからもう一度言うけれど!カジリバエは肉食で、しかも生きた肉を食べる恐ろしい虫なのよ!麻酔もなにもなしに皮膚を齧りとられる痛みを想像してみなさいな!!」
「ああ、分かっている。繁殖力が皆無だと言うことも、噛まれてもたかが虫の食事量だから針が刺さった程度の傷口しか残らないことも、感染症に気をつけて消毒をすれば恐ろしくないことも、そもそも肉を食らうのは繁殖期の一週間だけであとは普通の蝿と変わらないこともさっき全部聞いた。大きな破片は俺が拾うからそこを退いてくれ。」
割れたクマモモのジャム瓶を拾い集める。
まだ数瓶あるとはいえ、貴重なジャムを失ったのは大変惜しい。
ジャムもそうだが硝子なんてこのご時世ではかなりの貴重品だ。
確かに食器棚には数瓶割れても問題ないほどの大量の硝子瓶がずらりと並んでいるが。勿体無い、という気持ちはそれでも湧いて出て来る。
「噛まれたことがないからそんなことが言えるのよ!あの気持ち悪い大きな目玉虫が迫ってくるのを想像するだけで・・・あああもう、嫌!虫なんてみんないなくなってしまえばいいのよ!」
「・・・本当に、今までどうやって生活していたんだあんたは・・・」
大自然の生活に適性がなさすぎる。まだ気分の悪そうなセレナの頰は、白を通り越して青ざめていた。
「・・・全く。これから崩落を止めようというのに。気が抜けるよ、あんたを見ていると・・・」
嫌味ったらしく吐き出した言葉が、セレナの羽根を震わせ、窓の外へと抜けていった。
あの戦いの翌日、仕事も落ち着いたセレナを夜に呼び出し、自らに起きたことを話した。
話すにしても、お茶を淹れましょうかと。セレナは背を向け水を沸かしながら、話しかける。
「その狼は・・・何者だったのかしら。そんな凄い力を持った狼なんて、私、知らないわ。」
「・・・・・」
きっとあんたが知っている狼だ。とはセレナには伝えられないのが悔しい。
タイタンが見たもの、セレナへの渡しもの。
おそらくそれは、崩落以前の世界の記録だ。以前読んだ歴史書と、いくつか似通う部分があった。
それが崩落を止める鍵になるとは、タイタンには到底思えなかった。わからなかった。どうしてそれが鍵になる?
そして最後の記録は、セレナの母の最期のメッセージ。
どうやってセレナに渡すのかもわからない今・・・口で伝えることが渡すことになってしまう可能性があるなら、最愛の母の最期の言葉をセレナに伝えることもできない。
隠し事が多いのはセレナだけだと思っていたが、これからはタイタンもセレナを責められなくなる。
「・・・とりあえず。俺が出会った狼は何故か魔道が使えて、俺の記憶を奪った元凶だった。そいつに頼まれたんだ。世界を救え、崩落を止めてくれと。その為に人狼の力をお前にやるから、と。・・・世界を救うための方法はこの森に用意されている、セレナさんのお母様がそれを用意したとも言われた。俺にあったことはこれで全部だ。」
「世界を救う、鍵・・・?」
「覚えはないか。」
「・・・また・・・・・なの。」
ごぼごぼごぼ。湧いた湯がセレナの小さな声をかき消す。
「悪い、今なんと?」
「その、覚えがないの。お母様からそんなことは聞いていないし・・・そんな夢みたいなもの、あるわけないわ。」
かちゃん。カップが小さく音を立てた。
「前にも言ったでしょう。魔道は奇跡でもなんでもないのよ。タイタンを信じられないわけじゃないけれど・・・無理よ。いくらお母様だって・・・」
「セレナさんのお母様は、崩落の原因を知っていたんだろう」
タイタンはぴしゃりと、セレナを遮った。
「・・・っ、知っていたってできることじゃないわ。」
「なんにせよ、やることは変わらないだろう。結界の修復ができて損はないし、森の本格的な探索を始めよう。あんたは乗り気じゃなさそうだけど・・・俺は探すよ、崩落を止める方法を。俺たちはもう誰も殺さなくてよくなる。あんたも俺も危険を冒す必要はなくなる。崩落に怯える必要もなくなる。そんな世界が手に入るなら、俺はそうしたい。」
こぽこぽ。カップに注がれた茶がタイタンに差し出される。
「安眠効果があるのよ、リス草には。・・・第一目標はお母様の研究資料。それは変わらないし・・・別に反対はしてないわ?ただ、信じられないってだけで・・・」
「・・・そうだな。意地悪な言い方をして悪かったよ。」
セレナはいつも通り上品に笑う。カップを持ち上げ、息を吹いて冷ましながら。
「ふふ、尻尾が消えたわ。私はお部屋で飲むから・・・タイタンも早く寝て頂戴ね?」
「ん、あんたもな。おやすみ。」
ことこと、ばたり。
セレナはいつも通り微笑んで扉を閉め、そしてその話はそれっきりのままだ。
春は何かと忙しい。
一年の始まり、一年の準備の季節。
畑、動物の管理、冬の間できなかった魔道装置の整備。倉庫の屋根が腐食しているのを直したり、倒木で塞がれた道を片付けたり。冬の間に溜まった仕事は山のようにあった。
すぐにでも計画のために森の探索に向かおうと思っていたタイタンだが、思わぬ足止めを食らっているのが現実だった。
どれだけ歯がゆく思っていようと、生活がかかっている以上文句は言えない。
崩落の阻止以前に、生活が成り立たなければどうしようもないのだ。
しかしタイタンは忙しいかというと、そうでもない。機械化されて最低限の労力で済むようにされた家事を済ませれば、その日のタイタンの仕事はおしまいだ。
午前で大方の家事を終わらせたあとは、本を読んで1日を過ごす。
そんなタイタンを尻目に、セレナはここ数日、馬車馬のように走り回っている。手伝おうにも、指示を出す暇も惜しいとばかりに働き回られては、春の森の勝手がわからないタイタンはどうしていいかわからないのだ。
何か手伝うことはないかと聞いてみても、
「家事をやっておいてくれたら一番助かるわ・・・暇があったら、ここから好きな布を選んでおいて。薄手のお洋服も作らないといけないから。」
と。渡された木箱の中には、色とりどりに染色や刺繍の施された布が詰め込まれていた。
その多彩さはさながら宝石箱のようだ。・・・女性であれば心踊るのかもしれないが、タイタンはそういうものがよくわからない。
タイタンは自分の体躯でも服を仕立てられそうな布を適当に見繕い、作業場に運んだ。セレナの数日ぶりの頼みごとは数分で終わってしまった。
今日も結局時間を持て余してしまった。タイタンは、パンを切り、クマモモのジャムを塗る以外にすることがなくなってしまっていた。
こんなことでいいのだろうか。いいわけがない。
自分はあの狼に、とても大切なものを託されたのだ。世界を変えるためにセレナの母親が遺したものを託されたのだ。
のんびりと本を読み、甘いジャムに舌鼓を打ち、柔らかいパンを口いっぱいに頬張る暇など・・・自分にあるわけがないのだ。
そんなタイタンの気持ちも知らずに、窓の外、鉈を持って歩き去っていくセレナの背中が見えた。
「・・・人を使うのが絶望的に下手だな、あの人は。」
そう愚痴りたくなってしまうのも仕方ないだろう。窓の外の自分が睨まれていることなど、きっと彼女は気づきもしないのだから。
セレナの髪は冬の間でかなり伸びていた。邪魔そうに結わえられたポニーテールが乱れ、細いうなじに銀糸が張り付いているのが見える。
慌てて引っ張り出した薄手のタンクトップのシャツは、ぐしゃりとシワがついたまま。
袖捲りをした細い腕。布地が切り取られ無防備に晒されている肩と背中。
真っ白なシャツの下、黒い下着がうっすらと汗で透けている。
「・・・・・・」
なんだかとても見てはいけないものを見た気がして、タイタンは首をぶんぶんと振り、彼女の背中を頭から追い出すことにした。
流石に働きすぎだ、食事くらいは決まった時間に摂れ、明日1日はせめて家でおとなしくしていろ。あまりの働きぶりを見かねたタイタンがそう言ったのがその日の夜。
朝食はスープを流し込むだけ。昼は抜いて夜に大食い。いくら若いからと言ってもあんまりである。
こんな生活を続けたら絶対にガタがくるに決まっている。彼女に倒れられては困るのだ。
「・・・家でおとなしくしろというのは、休めという意味で。針仕事をしろという意味ではないんだよセレナさん。」
「まあいいじゃない。趣味みたいなものだから、これは。」
忠告をした翌日。居ないと思って作業場を覗けば、髪を結い上げ、すっかり作業モードのセレナが、大きな薄緑のシャツに銀色の刺繍を施している最中だった。
これはタイタン用のものだろうか。セレナの着ているものにデザインが似せてある。
袖、襟に草花を模った銀色の刺繍が施され、材木の余りを削って作った丸いボタンがナチュラルで素敵だ。
「そんな小洒落たものを作ろうとしなくていい。忙しいんだろ。」
「趣味だと言ったでしょう?・・・丁度いいから一度着てみて。けっこうピッタリになってしまったかもしれなくて。」
渡された布地はタイタンが選んだものではなかった。麻でも綿でもない、高級感のある柔らかな手触りのシャツ。あまりの触り心地の良さに、無意識に何度も布地に手を滑らせていた。
着てみると暖かい感触のわりに風通しが良く、涼しい。セレナは小さいかもと言ったが、布が余る煩わしさがなくてとても良い。
「伸びのある生地を見つけたから、とりあえず一枚仕立ててみたの。動きやすくていいでしょう?タイタンが選んだ布であと3着くらいは作ると思うけど、とりあえず1着ね。」
「良いなこれ。動きやすい。」
「でしょう?お母様のものだから、何の生地なのかはよく知らないけれどね。」
知りたくないからむしろ良かった。聞いたら着たくなくなるような素材でできているに違いない。とはいっても、忙しいセレナが眠る前に少しずつ、コツコツと、毎晩毎晩自分の為に服を縫ってくれていたことをタイタンは知っている。
彼女の気持ちを無下にする気は無いし、このシャツが剣士のタイタンのことを考えて作られた大変素晴らしい逸品であることは事実であった。
「・・・ありがとうセレナさん。大事に着るよ。」
「ふふ、いいのいいの。貴方の面倒を見るのも嫌いじゃないわ、私。」
セレナはそう言って微笑み、返されたシャツに再び刺繍を始めた。
こうしているとセレナは、この大男の母親か姉になったかのような気持ちになる。
普段はガキだなんだとセレナに説教をかましている小姑だが、こうして興味深そうにワクワクしながら刺繍を見ている姿は子供のよう。
普段からこのくらい素直であれば可愛げもあるのに。彼に言ったら間違いなく機嫌を損ねる言葉を、大人なセレナはそっと胸にしまった。
タイタンは居間から本を持ってきて、作業場の簡易ベッドに座った。
せっかく彼女を休ませたのだ。
ここ数日あまり会話もしていないし、今日は何となく、彼女と1日ゆっくりと過ごしたい気分だった。
細い木で作られた折りたたみ式のベッドは、見た目よりも頑丈。タイタンが座っても小さく軋むだけ。
セレナはタイタンが作業場に居座ったのをちらりと見て、特に何かを言うこともなく、のんびりと作業を開始した。
時折風が窓を揺らすのと、セレナの僅かな呼吸音以外、音が存在しない部屋が心地よい。
出会った頃は、2人で食卓を囲む時、どちらかが咀嚼をしている沈黙すら気まずく感じたものだったが、今はもう、同じ部屋にいて言葉を交わさなくとも、そんなふうに感じることはなくなっていた。
出会った頃から仲は良かったが、厳しい冬、数多の危機を乗り越えた2人には、友情と呼ぶには軽々しい、不思議な関係性が芽生えていた。
最近読んでいるのは、いつかセレナに取り上げられた旧時代の歴史書だ。
この家にある他の本と比べて装丁の雑さが目立つぼろぼろの本は、タイタンが少し乱暴に扱えば壊れてしまうような脆さがある。掠れて読めない部分も、製本糸が解れてしまっている箇所さえある。
恐らくは製本技術が失われた比較的近代の本だ。情報の保存が考慮された時代に作られた本はこれほど酷く劣化しない。この本より古く、この本より美しく保管された本はこの家だけでも山ほどあるのだから。
狼に渡された「渡しもの」の整合性を探るために手に取った本だったが、その「渡しもの」のおかげでより鮮明に浮かぶ旧時代の情景は、タイタンをそれなりに楽しませている。
それでも数時間が経過したあたりで活字に疲れ、タイタンはふと顔を上げた。食事文化の章を読んでいたらなんだか口が寂しくなった。しかし茶を淹れる担当のセレナは未だ刺繍に熱中している。再び活字の世界に戻る気も起きず、タイタンはセレナの細い指が針を操るのをぼんやりと見守った。
まるで魔道のようだ。ただ針を刺して抜くのを繰り返しているだけで、布地に銀色の美しい霞草が描かれる。
雪解けの春の草原の如く、薄緑色の布地に銀色の花が咲き乱れていく。楽しそうな笑みを浮かべ、花を紡いでいくセレナに、タイタンは暫し見惚れた。
「・・・興味があるなら近くで見ればいいのに。」
「いや。なんというか、そういうことじゃないんだよな・・・」
この光景に自分が混じるのは無粋というか。遠くから見ているのがいいんだよな。
噛みしめるように目を閉じて唸ったタイタンをセレナは不思議そうに見つめる。
「・・・よくわからないけれど。暇なら何か面白いお話をして頂戴?」
なんという無茶振りだ。
自分も大概横暴だと思っているが、彼女がタイタンを責める権利などないのではないだろうか。
思わず黙り込むタイタンを見て面白がるセレナを睨み・・・ああ、と思いついたようにタイタンは口を開いた。
ここ数日の多忙さですっかり頭から抜けていたが、彼女に聞こうと思っていたことがあったのだ。
「あんたのお母様の話が聞きたい。」
「貴方に話してと頼んだのに。というか・・・お母様のこと?前にも沢山お話したでしょう?」
「いや、そりゃお母様のぶっとんだエピソードは山のように聞いたが。そうではなくて。なんという名前で、どうしてこの森に住んでいて・・・とか、そういったことは聞いていなかっただろう?」
セレナのお母様のことを知る、というのが今後の行動方針の1つだというのに、タイタンの中のお母様の人物像はいまいちはっきりとしていなかった。
お母様の残した計画を実行する。それを実行してよいのか、お母様を信用してよいのかを見定める責任がタイタンにはある。
お母様を盲信しているセレナの言葉で全てを判断することはできないが、それでも最初の手がかりとしてセレナの情報を求めたのだが・・・セレナは小さくそっぽを向いて答えた。
「・・・知らないわ、あんまり。」
「え?」
「お母様のお名前も、どうして森に住んでいたのかも、知らないわ。お母様に尋ねたことがないから。」
そんな馬鹿なことがあるか。揶揄っているのかと苛立ち、反射的にそう返しそうになる。
しかしセレナはタイタンの反応を見越していたようだ。彼女はタイタンに二の句を続けさせずに畳み掛けた。
「仕方ないでしょう?碌に言葉も話せなかったんだもの、昔は。お母様に出会ったのが多分8歳くらいで、ずっと一緒に暮らして・・・亡くなったのは数年前。恥ずかしいけれど・・・人の言葉が話せるようになったのは随分最近で・・・その頃には当たり前にお母様が隣にいたから。お母様のことを尋ねる必要なんてなかったわ。」
森の外は酷い世界で、森の中にはお母様が作ってくれた安全な場所がある。私の世界はそれだけで良かったのよ。
ぽつり。小さな唇から言葉が零れた。
「・・・じゃあ。なんでお母様は亡くなったんだ?あんたはお母様が亡くなったのを見たんだろう?年齢か?」
「そんなに年寄りではないわ。見た目は私より少し年上くらい・・・だったと思うけど。・・・お母様と喧嘩をしてしまった日の夜にね、あんまり作業場から出てこないから心配になって、ドアを開いて覗いたら、机の上で突っ伏して動かなくなっていたの。目を開けたまま。眠っているのかと思ってお布団に寝かせて・・・でも三日経っても起きないから、そこで初めてお母様の胸に耳を当てて・・・心臓が止まっているのに気づいて。それだけ。」
「・・・不可解な死だな。何か病気だったとか・・・怪我をしていたとか・・・」
銀色がふるふると横に振られた。
「前の日は元気にハンマーを振るっていたわ。それにお母様の魔道は修繕の魔道だから・・・どんな怪我でも病気でも、自分で治してしまえるもの。」
「確かに、そうだったな。どんな怪我でも治してしまう魔道の凄まじさを、俺は見ている。だったらお母様は不死身だったんじゃないのか・・・?どうして、そんな不可解な死を・・・?あとは・・・喧嘩をしたと言っていたな、どうして喧嘩を?」
「・・・・・・・・ねえ、タイタン。」
そこで。
セレナの声が冷え切っていることにタイタンは気づいた。
情報を聞き出すことに必死で、セレナの楽しげな雰囲気が消えていたことに全く気づいていなかった。背中の毛がぶわりと逆立つ。
「・・・どうしてお母様のことをそんなに聞きたがるの?いままでこれっぽっちも気にしていなかった・・・いえ。気になっていても、自分からは聞かないようにしていたわよね。どうして?何かあったの?」
いままでそっぽを向いていた銀色の瞳がまっすぐタイタンを射抜く。
怒っているわけではない、悲しんでいるわけでもない。セレナの瞳はただ真剣にタイタンを案じていた。タイタンの心を見抜こうと、真剣にタイタンを見定めようとしていた。
彼女に不審に思われた。それだけでタイタンの心臓が凍る。
彼女に計画を悟られてはならない。自分はこの先彼女を騙し続けなければならない。計画の一歩目も踏み出していないこんな序盤で全てを瓦解させてはならない。タイタンは一度小さく息を吐き、彼女に向き合った。
ここから先は瞳の動き1つすら致命になるやりとりだ。タイタンは必死に平素を装いセレナを見つめ返した。
「ねえ、この間の狼と出会った後のお話は・・・本当にあれだけ?貴方の体を変質させるほどの魔道の力を持った狼なんて、ねえ。・・・タイタン、貴方はお母様から何を聞いたの?」
「・・・・・っ。」
背中に嫌な汗がだらりと流れた。気づかれている。
既に下手を踏んでいたことに彼はようやく気づく。彼女の無邪気さに絆されすぎた。
もしかすると。いいや、絶対に。彼女はあのタイタンの変貌した日からずっと、自分が何かを隠していることに気づいていた。ここ数日、彼女を警戒していたかと言われると答えは否だ。彼女はあの日からじっと、タイタンを観察し続けていた。
聡い彼女相手に隠し事をする難しさなど、十分肝に命じていたというのに。
「・・・隠し事も限界だというだけだ。これからお母様の計画とやらに乗るんだ。お母様のことを何も知らずにそれを実行するのは・・・無責任だろう。」
嘘の中に真実を織り交ぜる。やっとの思いで出した言葉は、自分でも分かりやすいと思うほどには、酷い動揺の色が滲んでいる。
「・・・ふふ、貴方らしい考えね。でも・・・隠し事も限界なんて。本当にそんなことを思っている?見て見ぬ振りは貴方の得意技じゃない。」
違う。
飛び出しかけた言葉をぐっと堪えた。唯の話術だ。
敢えて苛立たせる言葉を選んで放っただけだ。こんなもの彼女の本心ではない。
ぎしり。タイタンの拳が握られ軋んだベッドの音を、セレナは揶揄するように笑った。
「ふふ。まあ、いいわ。これくらいにしてあげる。・・・隠し事を責められる立場じゃないし、見て見ぬ振りをさせたのも私だものね?別にそんな顔をさせたかったわけではないの。ただ・・・その。貴方が最近変だから、勘ぐってしまっただけなのよ。」
変というのは、隠し事をごまかそうと挙動不審になっていることを指していたのか、タイタンにはわからない。
人狼の見た目以上に自分の中身が変質してしまったことを、彼は嫌になる程理解していた。
数日が過ぎ、狼から与えられた「渡しもの」は、タイタンのからっぽだった記憶の中に完璧に馴染んでしまった。
旧時代の・・・今からおおよそ2000年前の、崩落以前の人間文明の記録、旧時代を生きた人間たちの記憶。
まるで自分が2000年前の人間であったかのように錯覚するほどだ。セレナと過ごす日々と記憶の隣に、旧時代の常識が当たり前に存在する。
数ヶ月しか生きていないこの世界より、よっぽど馴染み深いものになってしまった2000年前の記憶に、タイタンは正直怯えていた。
記憶が書き換えられるだけで、自分がこれほど揺らぐとは。記憶を失くす以前自分がセレナの敵であったように。
二度も大きく記憶を塗りつぶされ、揺らぐ自分にあるものは、漠然とした目標と、大切な人を守るのだという意思だけ。考えたくもないが、もし自分がそれさえも失ってしまったら・・・例えば彼女が死んでしまったら、自分には一体何が残るというのだろう?
そこまで思案して、タイタンは自分が随分と焦っていたこと、そして自分がかなり疲れていることに気づいた。
「・・・悪いな。心配させて。今気付いた。」
「・・・分かればいいのよ。私より余程休養が必要なくせに・・・計画、計画って、貴方最近そればかりじゃない。・・・いいかしら。貴方が言いたくないなら見て見ぬ振りをしてあげる。貴方が私の不利益になることをしないって、信用しているもの。だけど、お母様の計画で貴方が傷ついたり、破滅に向かうようなことをしなくてはいけないならそれは無しよ。私は絶対に協力しないし、貴方がどれだけ嫌がっても隠し事を暴くわ。よく考えて行動することね。」
そんな調子で仕事を手伝わせて、ミスをされたら困るのよ、と。
ぷい、と再びセレナはそっぽを向いた。
「お母様の計画のせいで貴方が傷ついたら、私はお母様すら憎んでしまうわ。私にお母様を、憎ませないで頂戴。」
無愛想な言葉と裏腹に、セレナの指は震えていた。
心配させて当たり前だった。タイタンは全て覚悟の上の行動だったが、セレナからしてみれば、突然こんな体になったタイタンが目の前に現れて、しかもそれが自分のためだというのだから。
自分の隠し事が多いせいで振り回して、その結果タイタンを巻き込んだのではないかと、セレナは自分を責めたに違いない。
反省して欲しいのは当然だが、過剰に気に病ませるのは本意ではない。
「いやに素直だな、今日は。あんたらしくもない。」
タイタンの、いつもの喉が鳴るような笑い声。やっといつも通りに笑ってくれた。張り詰めていた気持ちが、凍り付いていた作業場の空気がようやく柔らかく解けた。
「・・・悪い?」
「いや。むしろ普段からそのくらい素直でいてくれたら可愛いのにと思っている。」
「素直じゃない方が可愛いのよ。貴方は何も分かっていないのね?」
ふふ、と。いつも通り笑う彼女はいつも通りに可愛い。
ああ、だから彼女が好きなのだ。
セレナはいつも隠し事をして、バレバレの下手な嘘ばかりついて、いつも1人で無茶をして心配ばかりかける馬鹿女だ。そのくせ怖がりで、泣き虫で、下手に魔道が使えるせいで自信過剰で死地に飛び込んで、足が竦んで動けなくなって、助ける自分はいつも迷惑をかけられてばかり。
でも彼女はそれを補って余りあるほど、優しくて、人のことをよく見ている。
最初だけではない。自分はそんな彼女の優しさに何度も救われている。
子供のように無邪気で優しい彼女が、嘘をつかなくても生きられる世界が欲しい。
彼女が二度と何かに怯えなくて良い世界が欲しい。
そしてそんな幸せな世界に、自分はもう欠けてはならない存在になってしまったことを、タイタンは決して忘れてはならないのだ。
「休日を1日延長してくれ。明日は俺の休日にする。付き合ってくれるだろう?」
「甘えないの。子供じゃないんだから。」
「何を言っているか分からない。俺はあんたより年下のガキだからな。」
ばふん。思いきり布団に倒れこみ、横目でセレナをニヤニヤと見つめた。
「はいはい。調子が戻ったなら明後日からは手伝って頂戴。力仕事は全部貴方のために残しておいたんだから、感謝して?」
この女。1人で全部終わらせているかと思って心配していたのに、きっちり手伝わせる気だったのか。勿論手伝いをすること自体に文句はないが、この強かさは流石だ。
思わず悪態をついたタイタンを面白そうに見つめ、セレナは立ち上がった。
「夕飯はとびきりのご馳走よ。今朝兎が罠にかかっていたから・・・久しぶりに塩漬けじゃないお肉が食べられるわ。昨日採ってきた香草をたっぷり使ってステーキにして、スープは春のお野菜をたくさん入れて、デザートにクマモモのプディングも付けてあげるわ。・・・明日は明るいうちに帰ってくるし、不貞腐れないでいい子にして待っていなさい?」
ここ数日バンとスープばかりだったタイタンは、その魅惑的すぎる言葉に思わず唾を飲み込む。
捌きたての兎がじゅわじゅわとフライパンで音を立て、香草と獣肉の芳醇な香りがキッチンを満たすのを想像し、タイタンの腹がぐぎゅうと鳴った。
もうそろそろ夕方だ。活字で疲れた体にその言葉は狡い。想像だけでも美味いくらいだ。
急に黙り込んだタイタンを見てセレナは、想像通りとばかりにクスリと笑い部屋を出て行った。
ふふ、そんなにご飯が食べたいの?タイタンはやっぱりお子ちゃまね、と。
その明らかに人を馬鹿にした笑いに、タイタンのこめかみがブチンと音を立てた。
もさり、とタイタンの耳が獣耳に変化し、尾が飛び出し、ビダン!!!大きく逆立った尾が床を叩く。
久しぶりに腹が立った!この馬鹿に、馬鹿にされるのだけは我慢ならない!
閉じられたドアを震わせた怒鳴り声は、蓬山で眠っていた鹿すら叩き起こす音量だった。
「・・・2200年。アメリカ、ニューヨーク。500万人が飲み込まれたその崩落は、最初の崩落であると同時に、最大の崩落である・・・。」
力仕事は明日からで構わない、今日は本当に1日休んでいて良い。その代わり、今日1日計画のことは考えないこと。・・・今まで休んでいたというけれど、どうせ頭の中はこれっぽっちも休まっていなかったに決まっているんだから。
セレナにそう言われ、今日一日は大人しく本を読むことにした。
この星の成り立ちから始まり、人間の誕生、都市の誕生。火の発見。時間や数の概念の誕生。哲学、文学、食事文化の発展。芸術。戦争。電気の誕生。原子の爆弾、銃火器。
何日もかけて様々な時代の文化を辿り、歴史書のページはついに残り10分の1ほどになっていた。
「崩落は本が書かれた今現在まで原因不明。・・・1500年前くらいの本か。今はもう本の出版なんかできる世界じゃないからな。」
この本の著者は500年前に保護区に住んでいた人間で、ハンター協会が定期的に残す歴史記録データがかなり美化されたものであることに反感を覚え、製紙、製本、全てを手作業でこの本を作成し、秘密裏に流通させたと、この章の冒頭に記されていた。
「崩落が起きたのは年末。多くの人間が年の終わりの祭事に浮かれ・・・観光地には多くの観光客が。アメリカの独立を、自由を謳ったその女神像が突如水に沈み始めた。女神像を飲み込んだ大穴は不気味なほどに正確な正円。ゆっくりだが、しかし大穴の拡大は止まらず、5時間もの間拡大し続けた大穴は500万人を飲み込んだ。」
タイタンが持つのは崩落以前の記憶だけだ。崩落の混乱、悲鳴、追い詰められた人間たちの悪意は想像することしかできない。
しかし本には、ヘリコプターでニューヨークから命からがら逃げ延びた人間の記録が記されていた。
「ハンター協会に残っている記録を閲覧し、その内容を要約する。読者へ配慮し、記録をそのまま記述するのではなく、ここにはなるべく実際に起きた出来事だけを簡単に記述することにする。・・・しかし、実際の記録はより凄惨で、壮絶なものであったことは、読者諸君も記憶しておいてもらいたい。」
地面がどんどんと沈んでいる。止まらない地震が起きた、と。
現地の人々は高層ビルが崩れる轟音を巨大な地震だと誤解したらしい。
たまたま高台にいた男はそれが間違いだということにすぐに気づいた。
巨大な黒い穴がじわじわと、男の居た高層ビルに迫ってきていた。
男はすぐにヘリポートに走った。仕事柄利用することが多かったヘリコプター。自分なら馴染みの人間に乗せてもらえると分かっていた。
非常階段でビルを降りる。道路は当然大混乱で、乗り捨てられた車で渋滞が起き、車に轢かれて腕が外側に曲がった女の遺体を踏み越えながら人々は逃げ惑っていた。
人の流れもぐちゃぐちゃだ。大穴の方向へと逃げていく者もいた。
白杖を持った老婆が頭を打ち呻いている。
母親を見失った子供の声が耳を劈く。
黒人のドライバーに車を動かせと怒鳴る白人の男。
男は善良な人間だった。田舎から夢を追い大都会にやってきて、苦労をかける両親に、少ない収入から必死に仕送りをしていた。
都会にいる苦しむ人々を写真記録に残して人々に訴えたいのだと、そう思い買った一眼レフカメラを、男は重いからと道に投げ捨てて走った。
救いたいと思った苦しむ人々を無視して、男は自分が助かるためにヘリポートへ走った。
ヘリポートにいた馴染みの職員と共に、男は一台だけ残っていたヘリコプターで飛び立った。
男たちは大穴から遠く離れることに成功した。ほっと一息をつき、後ろを振り返り驚愕する。
男のヘリコプターからは豆粒程度にしか見えない遠くにいたもう一台のヘリコプターの尾が折れ、墜落していくのが見えたからだ。
後からわかったことだが、初期の大穴の付近は酷い強風が吹き荒れることが多かったそうだ。
その時ようやく男たちの耳は、上空まで届く酷いビープ音を聞き取った。
高音、低音。掠れた音。老若男女、様々な人種。500万の断末魔の合唱が、ヘリコプターの騒音と共に男の鼓膜を揺らした。
泣き喚き半狂乱になりながら脱出に成功した男たちは、半年後に精神病棟で自殺したことが確認されている。
死んだ500万人の中には友人も、同僚もいた。あの凄まじいビープ音が、寝ても覚めても耳から離れず、男は記録を残す数週前に自らの鼓膜をペンで突き刺したそうだ。
筆談で行われたこのインタビューは、音声記録と文献記録でハンター協会に残されている。
「・・・音声記録の閲覧は、開始10分で止めた。聞いていたらこちらの気が狂ってしまいそうで・・・っ。ああ、クソ。」
思わず本を閉じそうになる自分を必死で堪えた。
自分でもあの大穴と腐臭がトラウマになっているのがよくわかる。
それでもこれは知らなければならないことだ。自分が戦う敵の正体を、学ばなければならないのだ。
「ニューヨークの大崩落で経済は崩壊。世界的な経済混乱で各地で暴動が発生し、多くの死者が出る中、一ヶ月後に再び大穴が発生する。しかも今度は三箇所同時に。エジプト、イギリス、中国。特にイギリスは酷く、島がまるごと地図から消滅する事態に。そこから一ヶ月に一度、一週間に一度とどんどん頻度は増し。2201年3月、この謎の大災害に崩落と名前がつけられ、世界崩落対策本部・・・後のハンター協会が立ち上げられる。」
地図はどんどんと黒く染まり、世界を腐臭が満たしていく。
一年後には1日数回の崩落の発生すら珍しいものではなくなった。
安全領域の存在しない世界に怯え、人々は半狂乱になりながら家に引きこもっていたという。
「2201年10月24日、結界の誕生の日であり、世界に魔道が生まれた日である。・・・って、ん・・・?」
順序がおかしくないか?とタイタンは首を傾げた。
「多くの人間が誤解しているが、魔道が生まれてそれから結界が作られたわけではない。結界を作ろうと研究をしていた研究者が、偶然に魔道を発動させ結界を作ったことで結界が生まれた。魔道を学問と定義するなら、魔道の方が結界より後に誕生したのだ。魔道の発生の原因は諸説あるが、私はその原因は崩落であると考える・・・」
崩落から吹き出す腐臭の成分を解析したところ、主成分は人体が腐ったことで発生した硫化水素やアンモニアだが、それと同量の未知の成分が含まれていた。人間の粘膜に触れると急速に人体に取り込まれるその成分は人間の遺伝子に干渉する。
遺伝子に干渉された人間は自分の意思で何故か物理法則に干渉できるようになる。人間以外の生き物にこれは発現しない。崩落発生以来シェルターに篭っていた政府要人たちは、魔道を使うことができなかったことからこの説は有力となった。
「・・・崩落の研究を続け、常人の数倍の腐臭を吸い続け、結果誰よりも早く遺伝子を変質させてしまったその研究者が後の原初の大魔導師、アレクサンドラである。・・・驚いた。魔道の成り立ちが、ここまで崩落に紐づいたものだったなんて。保護区に篭っていたって、祖先は絶対に腐臭を吸っているはずだ。遺伝子が子孫に継がれて、その結果地球上の全人類が魔道を使用可能になった結果生まれたのがこの魔道社会なのか!」
連綿と注がれた魔道を使うための遺伝子。細々と生き延びてきた人類だが、結果的に危機に対抗しうる力を手に入れ、進化を遂げた。
「しかし、保護区の現状は酷い。魔道という無限の可能性を秘めた力を手に入れた人類の、最後の砦の見る影はない。争いを起こさないことにとにかく特化した社会であると、私は評する・・・」
少ない資源を巡った争いが起きぬよう、食料は全て配給。
食料だけではない。娯楽、衣類、生活必需品。生活の全てが一律に人々に与えられる配給のみで成り立つ。外出すら完璧に管理され、外出の日も、外出の日にどこへ出かけるのかさえスケジュールで決まっている。
一律の同じ真っ白な衣服を着た人間が、ある日は庭園へ、ある日は映画館へ。協会から割り当てられた単純労働を日替わりでこなす。
唯一、戦闘で命を危険に晒すハンター達にだけ、ある程度の自由や食料の優遇が行われているが・・・一般的な保護区民の生活は家畜に近しいものであるのが現状だった。
「・・・っ、なんだこれ。保護区とはそんな場所なのか・・・?こんなの、人間が生きているなんて呼べるものか。こんなことをする必要が、どうして。」
「・・・タイタン。本を読みながら独り言を言うのが癖なの?外まで聞こえているのだけれど。」
「うわああ!?」
熱中していて完璧に気づいていなかった。外から窓を開けたセレナが上半身を乗り出し家を覗いていた。
「・・・計画のことを考えるなと言ったのに。その本を読んだら意味がないじゃないの。やっぱりタイタンは意外とお馬鹿さんね。」
驚いてまだ心臓がどくどくしているタイタンを睨み、よいしょ、と、窓を乗り越え淵に腰掛けたセレナがシャツで汗をぬぐった。もうそこまできたならドアから入ればいいのに、と思わなくもない。
水浴びでもしていたのか。腿まで惜しげも無く晒された真っ白な裸足がぷらぷらと所在無さげに揺られた。
「保護区のお話?残酷だけれど・・・仕方ないことじゃないかしら。あの狭い保護区で格差や差別が生まれたら・・・もしも争いが生まれて保護区民が自滅したら、本当に人類は滅ぶんだもの。」
「・・・っ、だからって、ここまでする必要があると思えないし・・・正直逆効果だ。こんなことをしたらハンター協会と保護区民の対立が生まれる。抑圧されている自分と優遇されているハンター達を比べてしまうに決まっている。」
「ええ、そうね。協会が潰れた先、結界を保護する方法を知る人間がいなくなって、困るのは保護区の民だけれど。」
そこでタイタンはいつかセレナが声を荒げたことを思い出した。
結界を作ることを知る人間が、崩落の原因を知らないわけがないと。
崩落の理由を誰も未だ解析できていないなんて嘘に決まっている、と。
「・・・っ、まさか。その為に崩落の原因を秘匿しているのか!?」
「噂よ。鵜呑みにしては駄目。ハンター達だってそれほど裕福な暮らしをしているわけではないし・・・結界内の情勢もかなり変化してきているもの。反感を覚えた人間がいるからこそ結界の外に逃亡する人間も続出しているし、結界内もだんだん格差が生まれて完璧な平等社会とは呼べなくなっているみたいなの。その辺りは1500年前の本を鵜呑みにするより、あのディアンという人に聞いた方が早いのではないかしら?」
セレナは淡々と答え、そのまま浴室へ入って行った。
自分がどう思っていようと、こういった時に感傷的にならずに公平な目線をくれるのは彼女の美徳だ。一度深呼吸をし、頭を冷やし、再び本に目を下ろした。
大方セレナの言った通りの事実が書かれていた。・・・著者が酷く感傷的なのを除いては。
ハンター達は優遇されている。一般市民より遥かに豪華な食事を摂り、柔らかな寝具で眠り、我々を嘲り笑っている。
彼らのために、我々罪のない一般市民が抑圧されるのはおかしい。
我々は人間の生活をハンターどもに奪われている。こうして歴史を辿り、人が人らしく、文化の中で生きる素晴らしさを我々は知ったはずだ。
呼吸をしていることだけが生きていることではないはずだ。食事と水と酸素だけで生きられるのが人間ではないはずだ。
ハンターと戦うべきだ、ハンターは敵だ、そうこの歴史書は締めくくられていた。
「・・・歴史書なんて名ばかりだ。これは保護区民がデモを起こす為に書かれた啓発本じゃないか。」
なんだか裏切られたような気持ちになり、タイタンは椅子にもたれた。
「いい。目的は達成した。崩落以後の歴史は把握したし・・・俺の記憶と、過去の記録はほとんど完璧に一致しているのもわかった。大体2000年代初めあたりの記録が、記憶として俺の頭に入っている・・・」
ニューヨークの風景。エジプトのピラミッド。イギリスの時計台。
数日前は名前すら知らなかった都市の情景が、まるで故郷であるかのように鮮明に浮かぶ。
そしてタイタンはもう1つ。この「渡しもの」が相当に悪辣なものであることを今理解した。
この記憶は知識記憶ではない、思い出記憶に類するものだ。
ニューヨークの大通りの記憶。
日本の女子高の記憶だったり、サラリーマン働く会社の記憶だとか。
過去の記憶を手繰って思い出すのはデータというよりは、世界各国様々な場所で生きた様々な人間の思い出に近いものだ。
あの夜タイタンの空っぽの記憶にぶち込まれたものは、どうやら「2000年前の人間の複数の人間の思い出記憶を継ぎ接ぎして作られた歪な旧時代のデータ」であるらしい。
客観性が欠けているかと思いきやそうでもない。
むしろ、歴史書の間違っている箇所を指摘できるほどだ。この本は話を盛りすぎだと、本能的に分かってしまうのだ。自分の記憶の方がこの本より正確であるという自信が、何故だかタイタンの胸に湧いてくる。
「・・・これが、崩落を止めるヒントだって?さっぱり訳が分からん。素敵な文化だとは思うが、滅んだ街の記憶なんか持っていたってどうしようもないだろう・・・」
どっと疲れたような気持ちになる。開いた本を目に被せてタイタンは唸る。
セレナには計画のことを考えずに1日過ごせと言われたが、暇な時間を与えられたら嫌でも考えてしまうし、いっそセレナの手伝いのことで頭をいっぱいにしたほうが気持ちは休まるのかもしれない。
夕飯にはまだ早い。本当に明るいうちに帰ってきてくれたセレナをねぎらおうと、タイタンは氷茶の用意を始めた。
台所の床には重い木の蓋がはめ込まれている。中には台所の床を掘って作られた冷凍庫が備えられていて、夜のうちに水を平らな器に入れておけば翌朝には氷ができている。板状になった氷を砕いて小さくしてグラスに入れ、そこに熱い茶を注げばすぐに冷えた茶が飲める。セレナはこうして淹れた茶のことを氷茶と呼んでいた。
ただ冷ました茶よりも香りが立って美味い。爽やかなハーブの茶を氷茶にして風呂上がりに飲むのが好きで、セレナに淹れ方を教わって以来、毎晩氷を作ることを欠かさないタイタンだった。
氷を器を叩いて剥がし、小ぶりなナイフを懐から取り出しダンダンと氷を叩く。
小気味好い音を立てて氷が割れるのが心地よい。
「・・・あ、氷を使いたいの?」
風呂を終えたセレナが戻ってきた。ぽたぽたと水滴が床に垂れている。
「ああ。氷茶を淹れようと・・・飲むだろう?」
「んん・・・トトからミルクが採れたのよ。蜂蜜を入れて冷やせば美味しいシャーベットが作れるわ。だからその氷、使ってもいいかしら?」
トトとは、畑の側で飼っているヤギだ。冬場にタイタンも何度か世話をしているが、数匹いるヤギの中で最も温厚で、一番最初にタイタンに懐いた雌ヤギがトトだった。
「ちゃんと髪を拭いて乾かしてからならいくらでも。・・・冷凍庫を使うのでは駄目なのか?」
「ふふん。いいから見ていて?きっとびっくりするわ。」
セレナはそう言い、大きなボウルに溶いた卵とミルクを注ぎ、これでもかとばかりに蜂蜜を入れた。
「・・・入れすぎじゃないか。」
「冷たいものはこのくらい甘くしないと甘さを感じないのよ。っ、わ、わかったから。ちゃんと髪を拭くから、作業している時に頭をタオルでかき回さないで!タイタンが頭を拭くと痛いのよ!」
分かればいい。ぶつくさ言いながら髪を拭くセレナを睨み、氷を冷凍庫に戻した。
「どうしたらいい。」
とりあえず1人で作業を進めることにする。セレナは大人しく頭を拭きながら指示をする。
「ミルクに蜂蜜を溶かして。そうそう。きっちり混ぜて頂戴。」
ぐるぐると、匙でひたすらミルクを混ぜる。菓子作りというものは、女性らしい趣味のように見せかけて、とても筋力を使うし、疲れる。軽い気持ちでクッキー作りの手伝いを申し出た時にとても驚いた記憶がある。
大体混ざったかと思う頃には既に手首が疲労を訴えていた。少し湿った髪を結い上げたセレナがとことこと台所に戻ってきた。
「ありがとうタイタン。それをこれに入れて。」
「・・・・・水筒?」
それは遠方に行く時にセレナが水を淹れてくれる金属の水筒だった。ますます訳がわからないタイタンはとりあえず言われるがまま水筒にボウルの中身を注いだ。
「それでね。この洗濯タライに氷を入れてね、ここにお塩をどばっと・・・」
「も、勿体無い・・・。ミルクも蜂蜜もそうだが、岩塩だって貴重品だろうに。」
「細かくするのが面倒なだけ、予備はまだあるもの。」
まさかこの塩をぶちまけた氷を食べるわけではないだろうな。戦々恐々とした気持ちでタイタンはセレナをみやる。
そんな気持ちをつゆ知らず、ぐるぐると塩と氷を大きな匙でかき混ぜるセレナは心底楽しそうだ。
「そこに水筒を入れて、氷を混ぜて・・・ああ、素手はダメよ。きちんと匙を使って。霜焼けになってしまうから。」
訳もわからぬままぐるぐると氷を混ぜさせられ、流石にタイタンも疑心暗鬼になってきた。
いったい自分は何をさせられているんだ。セレナさんに揶揄われているんじゃないだろうな。
しかし当のセレナはそんなタイタンの百面相を見てにやにやしている。この表情は見覚えがある。タイタンを初めてワープ装置に乗せた時と全く同じ顔をしている。
これは、嘘をついている反応じゃないな。多少安心したタイタンは氷を混ぜることに集中することにした。
まだか。まだよ。・・・まだなのか。まだよ。
やりとりが続くこと数十分。セレナがふと声を上げた。
「・・・ん。そろそろできたかしら。ほら見て。」
ぱか、水筒の蓋が開けられると、中身は。
「・・・凍ってる!」
「ふふ、冷凍庫を使うより早いでしょう?氷を触ってみれば分かるわ。」
おそるおそる氷に触れると、塩がかけられた氷は先ほどタイタンが砕いた時よりよっぽど冷たく、なるほど、確かにこれを素手で混ぜたら霜焼けになってしまうだろう。
水筒から匙で取り出されたシャーベットを皿に盛りつければ、暖かくなってきた春の午後にふさわしい立派なデザートの完成だ。
セレナは待ちきれないとばかりにばくりとシャーベットを口に含み、既に目を輝かせている。
いただきます。タイタンも食卓につき、柔らかく凍ったシャーベットを口に含んだ。
「・・・ん、美味い。」
ひんやりと喉が冷えるのが疲れた体に嬉しい。とれたてのミルクの新鮮で濃厚な味わいと、蜂蜜のとろりとした甘さが舌の上で溶けて喉の奥に流れてゆく。
「ふふ、お疲れのタイタンを喜ばせようと思って考えたんだから。」
「ああ、ありがとうセレナさん。これ美味い。」
セレナほどの甘いもの好きではないタイタンだが、それでもあっという間に無くなってしまったと少ししょんぼりしてしまうくらいには、そのシャーベットは絶品だった。
「ふふ、昨日約束したもの。・・・1日が終わるまで時間はまだいっぱいあるわ。何をする?一緒に本を読むのもいいし、のんびりお話しをするのも素敵ね?それとも蓬山までお散歩する?」
きらきらと、セレナの銀色が今日これからの楽しい時間に煌めく。
彼女は嬉しかったのだ。タイタンが休日を自分と過ごしたいと言ってくれたことが、本当に嬉しかった。
彼に大事に思われていることはわかっていた。
でも、好意が明け透けな割に、いつも怒ってばかりで素直ではないタイタンが、はっきりと一緒に遊びたいと言ってくれたのが、セレナには堪らなく嬉しかったのだ。
あの時、命からがら2人で家に帰ってきたあの日、なんと答えていいかわからなかった。
タイタンが、人間でも化け物でもなんでもいいと言ってくれたのが、泣いてしまいたくなるほど嬉しかった。
お前は化け物だと言われるたびに悲しくなった。
お前は人間だと言われるたびに罪悪感を感じた。
でもタイタンが、自分が好きなのは人間でも化け物でもなく、セレナなのだと言ってくれた。
あの日以来、タイタンがセレナを案じてくれたり、優しくしてくれたり、揶揄われたり、その度になんだか目が潤んでしまいそうになるのだ。
いつかこのありがとうをうまく伝えられたらいい。上手に言葉にするのが難しいけれど、ゆっくり時間をかけて、それをタイタンに伝えられたらいいと思う。
今日が、その一歩になりますように、と彼女は祈っていたのだ。
予想外にはしゃいでいるセレナに、タイタンは少し驚いたようだった。
ちらり、と目を逸らし、頭をがしがしと掻き毟り、小さく息を吐いて。それからニヤリと笑ってセレナを見た。
「・・・ん、そうだな。とりあえずさっき冷凍庫にこっそり仕舞った、あんたが夜に1人で食べようとしている残りのシャーベットを出してくれ。」
「・・・!!」
ピシリ、と固まったセレナを放置し、冷凍庫を開くと見覚えのある水筒が。
やっぱり。さっき全部皿に出さなかったな。量が少ないと思った。
「俺のために作ったんだったら貰ってもいいだろう?」
かぱり、水筒を開いたタイタンを見て、慌てたセレナが椅子から立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待って頂戴!また、また作るから!ねえ!」
夜の楽しみが奪われてしまう!!
「また作るなら俺が食べてもいいよな。夜にこんなに甘いものを食べたら太るぞ。」
「今度は違う味のも作るわ!ジャムを入れたらフルーツの味になるの!だから、だからーー!ああああ!」
立ったまま水筒に直接匙を突っ込んで食べ始めたタイタンを阻止しようと、セレナはウサギのように飛び跳ねる。
背が高く育って良かった、とのんびり考えるタイタンと正反対に、セレナの目はどんどん潤んでいく。
流石にいじめすぎた。このままだと本当に泣かせかねない。
シャーベットひとつで泣くな、などという冷静なツッコミは甘党に通用しない。
「冗談だ。残りは食べていい。」
「意地悪タイタンなんかやっぱり大嫌いよ!お馬鹿!こんどベリーのシャーベットを作った時は絶対分けてあげないんだから!」
渡した水筒を奪い取ったセレナが叫ぶ。このまま拗ねられたら今日の予定はなかったことになりそうだ。
「フルーツ味も美味そうだな。あとはチョコレート味とか。女の子は好きだろう?」
タイタンは何気なく言った言葉のつもりだった。
しかしその瞬間。きょとんとした表情のセレナが、ぴたりと動きを止めた。
「タイタン。チョコレートってなに?」
タイタンの心臓がどくんと跳ね、背筋が冷え上がる。
チョコレートなんて、自分は見たことも食べたこともない。
冷え切った血液が、全身を巡る。浮かれていた気分が一撃で叩き落とされた。
自分のものではない知識、記憶が、まるで自分のものであるかのように口をついて出た。
食べたこともないサーティワンアイスクリームのチョコレートアイスの味を、セレナは好きそうだと判断できた。
チョコレートどころか、カカオ豆だってあるのか怪しいこの世界で、自分は確かに生まれ育って生きているはずなのに。
「・・・何でもない。この森にあるはずがなかった。あんまり便利な生活をしていると、ここに何でもあるとつい思ってしまうな・・・。」
「・・・タイタン?」
「セレナさん、シャーベットが溶ける。水筒を手で温めすぎだ。」
セレナは賢い。だからそれ以上チョコレートについて聞いてくることはなかった。蓬山で2人で昼寝をしている間も、夕飯の時も、眠る前に2人で植物図鑑を読んでいる間も、彼女はそれを尋ねなかった。
きっとそれが何なのか調べることすらしないでくれるだろう。
彼女は今日一日、甘いシャーベットに夢中な女の子をうまく演じきった。彼女はそういう人だ。
だから何の心配もいらない。彼女はその言葉を、二度と口には出さない。
だが、その時、タイタンは狼の言っていた言葉を思い出した。
お前は異形に成り果て、記憶を取り戻す機会も永遠に失くす。
決して元の道に戻ることはないし、もう戻れない。
継ぎ接ぎの歪な「誰か」は間違いなくタイタンを蝕んでいる。気を抜いたら旧時代の数多の人間達に「タイタン」を奪われてしまうような、漠然とした、しかし末恐ろしい恐怖がタイタンの胸を支配する。
自分は、成り果ててしまった。
自分はもう人狼になる以前の自分とは違うものに成り果てたことを、今、タイタンは真に理解したのだ。




